「脳科学と深層心理学のコラボレーション」~「人間性」の根幹に関わる「脳」と「心」のヒミツ~



(1)脳科学から見た「頭の良さ」とは何か?

①認知心理学が明らかにした「8~9つの知性」

②「多重知性」を統合する「超知性」の存在

③「頭の良さ」と「人間性」は不可分の関係にある



(2)「人間性」で問題になるのは「前頭連合野」

①原猿類と真猿類を分かつ「前頭連合野」の「46野」

②「前頭連合野」がつかさどる「人間らしさ」とは何か

③「人間性」が目指すのは「幸福」である



(3)「私」は「脳」のどこにあるのか?

①コンピュータ的機能を持つ「左脳の心」

②動物的直観を持つ「右脳の心」

③実は「私の心」は左脳にも右脳にもない



(4)「無意識の発見」と複数の「私」の存在

①「私」ではない「私」が「私」を動かす

②旧皮質・古皮質・新皮質に対応する「心」の多層性

③深層意識・潜在意識・表層意識からなる「私」の多層性



(5)「脳の活用」と「心の活用」は別物なのだ

①「心」は「脳の産物」「脳の機能」か?

②高度な宗教修行者は「脳」と「心」が別物であることを知っている

③「脳の活用」は脳科学で、「心の活用」は深層心理学で



(6)「心」の3つの扉を開けてみよう

①「第一の扉」は誰でも出入り自由

②「第二の扉」はごく親しい人にのみ開かれる

③「第三の扉」は自分ですら開けたくない




(1)脳科学から見た「頭の良さ」とは何か?

認知心理学が明らかにした「8~9つの知性」

 認知心理学によれば、「知性」は8~9種類に分類され(言語的知性、論理・数学的知性、音楽的知性、空間的知性、運動感覚的知性、対人的知性、内省的知性、博物学的知性、霊的知性など)、これを「多重知性」(Multiple Intelligences)と呼びます。そして、脳科学の成果をふまえると、こうした「多重知性」の特徴・性質を科学的根拠に基づいて説明することが出来ます。さらに哲学的知見をふまえれば、認知心理学と脳科学の知見を統合的に整理することが出来るのです

「認知心理学」「心」を漠然としたものではなく、科学的に探求可能な「機能」と見なすため、「心の科学」と呼ばれます。「心」=認知機能と見なすので、「認知心理学」と言うわけです。


「多重知性」~アメリカの認知心理学者ハワード・ガードナーが1980年代に提唱しました。今では「8~9つの知性」が互いにある程度独立し、並列的に働くことが分かっています。


「言語的知性」(Linguistic Intelligence)~会話や読書、文章を書く時などに用いられる知性で、言葉を見聞きして記憶したり、それを操る役割を果たします。


「論理数学的知性」(Logical-Mathematical Intelligence)~計算や暗算、論理的な思考をする時に使われる知性で、様々な数学的論理記号を記憶し、理解して、それを操作する時に用いられます。


「絵画的知性」~絵や図形を見て理解したり、描く時に用いられる知性で、目で見た対象の形やパターンを捉え、記憶し、新しい絵を描く時などに用いられます。


「音楽的知性」(Musical Intelligence)~歌を歌ったり、楽器を演奏したり、音楽を鑑賞したりする時などに使われる知性で、音の並びからメロディーを聴き取り、記憶し、その知識を元に歌ったり、演奏したりする時に働いています。


「空間的知性」(Spatial Intelligence)~物体がどの位置に、どれくらいの速度で、どういう関係で存在しているかを知覚し、記憶して、空間の中でどう行動したらいいかを組み立てる時に働く知性です。


「運動感覚的知性」(Bodily-Kinesthetic Intelligence)~歩いたり、座ったり、ご飯を食べたり、スポーツをしたりというような、全ての身体動作を行う時に働く知性で、身体の姿勢や運動の様子を知覚し、記憶して、それらに基づいて運動をうまくコントロールする働きをします。


「対人的知性」(Interpersonal Intelligence)~「人間関係的知性」とも言います。他の人を理解する知性です。「社会的知性」や、「自分の感情を制御する働き」を持つ「知性」で、いわゆる「EQ」のことである「感情的知性」などと、さらに細かく分類することも出来ますが、これらをより上位の「知性」たる「超知性」「統合知性」に入れる考えもあります。


「内省的知性」(Intra-personal Intelligence)~「内的知性」とも言います。自己理解の知性であり、自分が誰か、何ができるか、何をしたいか、物事にどう反応するか、何を避けようとするか、何に惹かれるかといった自分自身を理解する知性です。


「博物学的知性」(Naturalist Intelligence)~「自然主義的知性」とも言います。自然の中でどう生き延びていくかといった知性であり、博物学者は自分の環境の多数の種、動植物を見分けて分類する優れた能力を持っていることから、この名前がついたようです。


「霊的知性」(Spiritual Intelligence)~例えば、チェロの名手カザルスの演奏に「神の声」を聴いて涙する、あるいはマザー・テレサの背後に「神を観る」ような知性です。ガードナーはこれに重きを置きながら、「多重知性」の中に入れることには若干躊躇があるようです。

「多重知性には少なくとも八つの知性と一つの超知性がある。すなわち、言語的知性、絵画的知性、空間的知性、論理数学的知性、音楽的知性、身体運動的知性、社会的知性、そして感情的知性が八大知性で、自我(スーパーバイザー)がそれら多重知性を統合しコントロールする超知性である。」(澤口俊之『幼児教育と脳』)

「私たちの知性とその脳内システム―多重知性フレーム―の性質から見れば、知性をいかに育てるべきかは、はっきりしている。各々の知性をまんべんなく、そして幼少期から育てるべき、ということになる。」(澤口俊之『幼児教育と脳』)


「IQ」(Intelligent Quotient、知能指数)~1905年にアルフレッド・ビネーが「知性」インテレクト)の能力としての「知能」インテリジェンス)を測定する検査方法を開発し、その方法によって数値化されたものを「知能指数」インテリジェンス・クォーシェント)と呼びます。「多重知性」論に基づけば、これは記憶力や「空間的知性」「論理学的知性」などの一部の「知性」を計数化したものに過ぎないことになります。


「二重知性」~ヨーロッパでは伝統的に、「知性」にも「インテリジェンス」(Intelligence)と「インテレクト」(Intellect)という2種類があることが知られていました。インテリジェンスは知能指数で比較的正確に表わせるような知能因子の関わる面で、日常的な実務をてきぱきと処理する有能さや学校の成績などに反映され、受験的知性なども含みます。インテレクトは知能検査における開放因子と言われるもので、未知のものを探ってみようとか、非常にかけ離れた連想をするというような能力を指します。前者は地に足の着いた「実務的有能な知」「実学の知」「外から学び取る能動的知性」「単なる知」であり、後者は「空想的自由な知」「虚学の知」「内発的な受動的知性」「智=真知」であると言えるでしょう。

「我々のインテレクト、すなわち知性は全体として見れば、受動的なる能力である。人間というものは、その人が受動的であるに応じて、知的には強いことになる。我々はものを考える人に、ある種の受動的な態度を勧めたい。というのは、この受動性こそが、精神と霊感の本質に応ずるものなのであるからである。我々は人間の精神というものが、どのように働くかは非常によくは知っておらないのであるけれども、確実に知っている所では、受動的であることこそがその第一法則である。我々はどのようにして霊感というものがやって来るのかについては、さらに知る所が少ないのである。しかし、霊感すなわちインスピレーションというものは、我々の積極的な働きかけによるよりは、むしろ我々の無意識を利用しているということが観察されるのである。」(サルティラーンジェ『知的生活』(インテレクチュアル・ライフ))


「知性の三段階」~哲学的には「知性」は「感性」「悟性」「理性」の三段階構造で捉えることが出来ます。

  「感性」の働きは「先天的原型」による「知覚」などであり、個別的観念(イメージ)を形成します。例えば、カエルの目は動くものしか認識しませんが、これはそういった「原型」を生得的に持っているということです。

  「悟性」の働きは「感性」からもたらされた情報をふまえた、「記憶」による「照合」「先天的形式」に基づく「認識」であり、普遍的概念(言語)を形成します。例えば「因果律」などは客観世界に存在するのではなく、我々の悟性の中に「先天的形式」として存在するのです。「パブロフの犬」のケースでも、犬はベルの音という知覚からエサのイメージを連想することが出来ますが、それはその2つのイメージが近接して記憶されているために過ぎず、その2つが因果関係にあると知っているわけではありません。つまり、犬はベルが鳴った時にしか、この連想が出来ず、概念として両者の関係を知っているわけではないのですが、人間はベルを原因、エサを結果という概念に抽象化できます。これは人間の「悟性」が「因果律」という形式を先天的に知っているからです。ちなみにこうした「因果律」が自然界に客観的に存在する法則ではないことが、量子力学によって証明されています。カントは「悟性」を「理論理性」「純粋理性」とも呼び、内在的認識能力と捉えましたが、これは「論理的能力」と言ってもよいでしょう。

 そして、「理性」の働きは「悟性」からもたらされた情報をふまえた、自由な「推理」や抽象的「思考」などにその本質があり、あるいは「価値」「目的」の追求から「直観」(天啓)などもその働きに含めることが出来ます。これらはまさに「人間固有の能力」です。カントは「理性」を「実践理性」と呼び、超越的認識能力として捉えました。

 したがって、「多重知性」インテリジェンス)は「認知能力=知能」で、「感性」から「悟性」に至るプロセスに属し、大脳の「感覚野」から「頭頂連合野」に至る情報処理、あるいは「右脳」の機能と言ってもいいかもしれません。「統合知性」インテレクト)は「悟性」から「理性」に至るプロセスに属すると考えられ、「頭頂連合野」から「前頭連合野」に至る情報処理、あるいは「左脳」の機能と言ってもいいかもしれません。

 ガードナーが躊躇を感じた「霊的知性」「霊性」に属すると思われ、「霊性」「知性」の統合的説明は中世スコラ神学の主要テーマの1つでしたが、近世哲学・近代哲学に至って「霊性」の探求はスッポリと抜け、「知性」のみの探求が進められ、演繹的「理性」論がフランスで、経験的「感性」論がイギリスで発達し、両者を統合的「悟性」論で一つの枠組みに組み込む作業がドイツで行われていったのです。すなわち、極論すれば全ての「概念」生得的であると考えたデカルトから始まる「大陸合理論」と、全ての「概念」は帰納的に得られるとしたベーコンから始まる「イギリス経験論」に対して、カントは人間が先天的に知っているのは「概念」の基本的「形式」だけであり、後天的な「概念」の「内容」は経験から得られると考えて、合理論と経験論を統合し、「ドイツ観念論」の出発点となるのです。

 ところが、「霊性」は「感性」「悟性」「理性」の全ての段階に並行して存在していると考えられているので、「霊的感性」「霊的悟性」「霊的理性」があるわけです。このうち「霊的感性」「霊感」「霊的理性」「さとり」「啓示」「霊的直観」などと言ってもいいと思われるので、「霊的悟性」「霊的認識」「霊的論理」のことを指しているのでしょう。ついでに言えば、「意志」と並行して存在している「霊的意志」「信仰」あるいは「霊能」で、「情念」と並行して存在している「霊的情念」「聖霊体験」に見られるような「悔い改め」や神秘主義に見られるような「没我」「神との一体感」を表しているのかもしれません。

 いずれにせよ、ヨーロッパの伝統的な「二重知性」論から、認知心理学と脳科学による「多重知性」論「超知性」論に至る議論は、哲学的にはカント以来の新しい「感性」「悟性」「理性」論の提出と言ってもいいかもしれないのです。


【参考文献】

『幸せになる成功知能HQ』(澤口俊之、講談社)

『幼児教育と脳』(澤口俊之著、文春新書)

『MI:個性を活かす多重知能の理論』(ハワード・ガードナー、新曜社)

『クォリティ・ライフの発想 ダチョウ型人間からワシ型人間へ』(渡部昇一、講談社)



「多重知性」を統合する「超知性」の存在

 個々の「知性」(「多重知性」、ソフトウェア、選手)を束ねる「超(ハイパー)知性」(「統合知性」「人間性(ヒューマニティ)知性」、オペレーティング・システム、監督)こそが問題です

「超(ハイパー)知性」「多重知性」を統括してコントロールする「統合知性」「ヒューマニティ(人間性)知性」「自我」(スーパーバイザー)です。「脳」が巨大になって、アプリケーション・ソフトとしての「多重知性」や記憶などが豊富かつ非常に複雑になったために発達したオペレーティング・システム(OS)です。

 脳科学者の澤口俊之氏は最初、これを「IQ」(Intelligence Quotient、知能指数)、「EQ」(Emotional Quotient、情動指数、「心の知能指数」)などに対して、「PQ」(Prefrontal Quotient、前頭知性)、後には「HQ」(Humanity/Hyper-Intelligence Quotient)と名づけましたが、「心の知能」(EI=Emotional Intelligence)に対して「心の知能指数」(EQ=Emotional Quotient)があるように、「知性」(Intellect)と「知能」(Intelligence)と「(知能)指数」(Quotient)の3つははっきり区別するべきでしょう。

 したがって、「超知性」(HI=Hyper Intellect)、「統合知性」(II=Integrating Intellect、OI=Operating Intellect)、「人間性知性」(HI=Humanity Intellect)などと捉えた方がすっきりします。


「サヴァン症」~発達障害ないし精神疾患による重度の精神障害を持つ人が、IQは40~70と低いものの、特定分野に関して驚異的な脳力、特殊な異才を示す、極めてまれな症状を指します。芸術に関する卓越した能力を示す子供の場合、何千曲もの音楽を覚え、楽譜なしで演奏出来たり、音楽を習ったことがないのに、10歳の時にチャイコフスキーのピアノ協奏曲を初めて聴いて、すぐにその曲をピアノで演奏したケースもあります。映画「レインマン」の主人公や山下清画伯、大江健三郎氏(ノーベル文学賞受賞者)の息子大江光氏なども「サヴァン症」と言われ、「多重知性」と「統合知性」の存在を示す症例と考えられます。


「大脳皮質」~前頭葉、側頭葉、頭頂葉、後頭葉といった「脳葉」から成り、それぞれの「脳葉」は「領野」というさらに小さい区画に分けられます。「領野」によって機能は異なるため、「大脳皮質」は「異なった働きをする単位構造の集まり」であることが分かります。
 「脳」に役割分担があるということは、「心」「小さな心」に区分され、「小さな心」が脳の異なった単位構造に対応していると予想されます。機能面から「視覚野」「言語野」といった区分けがされることが多いのですが、こういった「領野」が協働し合って、ある「知性」に固有の情報ネットワークを作り、このネットワークが独立して並列的に働いているので、表に出て来る「知性」もお互いに影響を受けないで機能していると考えられています。例えば、「脳」の一部にダメージを受けても、「言語野」が正常ならば話すことは出来るのです。


「ブロードマンの脳地図」~20世紀初頭にドイツの神経解剖学者コルビニアン・ブロードマンによって大脳皮質が48の「領野」に分類され、この「脳地図」が現在でも標準的なものとして使われています。ただし、現在では100以上の「領野」があるらしいことが分かっています。


「モジュール性」~認知科学では心がたくさんの機能単位に区分できることを明らかにし、この単位を「モジュール」と呼び、「モジュール」が集まっている性質を「モジュール性」と言います。「心」は「モジュール」の集合体であり、多くの「モジュール」によって、認識、判断、言語、記憶といった「心」の働きが生まれるのであり、これは「脳」の「モジュール性」と対応していると考えられます。「多重知性」もそれぞれの「知性」は「脳」のどの領域で担うのかという役割分担が出来上がっており、これも「心」と「脳」の「モジュール性」で説明されます。

 例えば、大脳皮質の側頭葉にある「MT野」(第五次視覚野)を損傷した患者は、対象の動きに関する知覚・意識「運動視」を失ってしまい、「対象の動き」が全く分からなくなってしまったといいます。向こう側に見える自動車を自動車として認識出来、色も形も知覚出来て、その位置関係に分かるのですが、その自動車が停車しているのか、こちらに向かって動いているのか分からないというのです。この患者の世界は、静止画が断続的に現われる世界であるといいます。他にも、顔の表情だけ認識出来なくなったり、動物の名前だけ分からなくなったりする症例があり、「脳」の「モジュール性」は多くの証拠によってはっきりと実証されているのです。


「階層性」~「知性」は「多重性」並列性)のみならず、「階層性」を備えていますが、これは「脳」が光や音といったエネルギーを神経回路の「ニューロン」(神経細胞、「神経単位」)の活動に変えて情報処理する際、光や音などのエネルギーの集合体をまず様々な要素に分解し、その後、再構築して最後に対象が認識されることに対応しているとされます。つまり、「再構築して最後に対象が認識されるプロセス」が階層的であり、そのため、「知性」は「階層性」を備えているというのです。「脳」は情報を再構成するので、ヒトは「脳」の仕組みに応じてしか世界を認識できません。いわゆる「物自体」を認識することは不可能であり、「脳」の階層的処理を経て、ヒトは世界を再構成しつつ認識することになるわけです。

 例えば、愛する人の微笑みであっても、光エネルギーとしての視覚世界は「第一次視覚野」(ブロードマンの17野)のニューロンで「色」「線」「微小空間」などに一度分解され、すなわち「色ニューロン」「線ニューロン」「微小空間ニューロン」などによって「三原色線分微小空間」に分解されて、「視覚連合野」で少しずつ段階的に情報処理が進められて再構成されていき、最終段階に近い段階で「TE領野」(ブロードマンの21野)の「微笑みニューロン」によって微笑みとして認識されるのです。TE領野には「顔ニューロン」「手ニューロン」などがあり、サルの実験で「顔ニューロン」が豊富にある部位を傷つけると、群に溶け込めなくなり、あるいは小さい時に仲間の顔を見る機会が少ないと「顔ニューロン」の発達が遅れると言います。

 哲学的にも「世界は我々が見た通りにそこにある」という考えを「素朴実在論」と言いますが、これはカール・ポパーによって「バケツ理論」と批判されています。我々の目や耳は実在と知覚を結ぶ、ただの穴となってしまうのです。


「ニューロン」(神経細胞、「神経単位」)~「情報を伝える」という役割を果たすため、「電気的にコントロールされた物質分泌を行うこと」にその本質があります。電気的コントロールは「イオンの移動」により、物質分泌とは「伝達物質」を出すということです。ちなみに、ここで「脳内物質」と言う場合もありますが、脳内には様々な物質があり、その全てが「伝達物質」として働いているわけではないので、これは正確な表現ではありません。

 ところで、「イオンの移動」は秒速100メートル以下の場合がほとんどで、電子で動くために秒速30万キロメートルという光速並の信号伝達をするコンピュータと比べると、「ニューロン」の伝達速度は遅すぎると言わざるを得ません。

 さらに「伝達物質」を介した情報伝達は、「ニューロン」の突起軸索)の末端が次のニューロンに接する部分である「シナプス」という構造で行われ、「軸索」の末端から放出された「伝達物質」は「シナプス」の隙間を移動して、次の「ニューロン」の受容体にくっつくのですが、これによって伝達速度はさらに遅くなるため、迅速な情報処理には適していないのです。こうした「伝達物質」には、情報処理に直接関わる「狭義の伝達物質」「脳内ホルモン」とも呼ばれる「調節物質」の2つの系統があります。

 かくして、編み出されたのが「並列処理」です。


「並列処理」~コンピュータの動作速度は大変速いのですが、情報を逐次処理するため、アプリケーション・ソフトが複雑になったり、膨大な情報処理が必要になると、コンピュータの処理速度を速くするしかありません。ところが、大量の情報を並列処理することが出来れば、速さはそれほど必要なくなります。このため、膨大な計算を要する情報処理において、何十台、何百台のスーパー・コンピュータに分散処理をさせることが行われていますが、実はこれは「脳」の情報処理をコンピュータ・システムに応用したケースなのです。

  「脳」は「ニューロン」の数を増やして「ニューロン」の並列的なシステムを増やすことによって、「並列処理」を発達させてきた のであり、こうした「ニューロン」の増加によってヒトの「脳」は大きくなり、情報処理が速くなって知能が高くなったのですが、こうした「並列処理」の仕組みが「知性」の「多重性」を生み出していったと考えられるのです。


「多重知性フレーム」~1989年に提唱された「多重知性」を再現する並列的かつ階層的な神経システム、脳内システムです。多重構造を作っている、個々の「知性」に対応した「脳」構造を指し、各「フレーム」では多数の「モジュール」領野)が階層的システムを作っていますが、各「モジュール」はさらに小さな基本的構造「コラム」皮質円柱構造)から形成されていて、コラム内部には数万個のニューロンが含まれています。

 「領野」は数十個から数百個の「コラム」群の集団であり、これを「心の単位」としての「モジュール」と考えることが出来ますが、「モジュール」には「低次モジュール」から「中位モジュール」、さらに「高次モジュール」があって、それらが階層的に配列して階層的ネットワークたる「フレーム」を構成しているのです。そして、こうした「多重フレーム」の集合体「大脳皮質」なのです。


「統合系」~一連の情報処理には「入力系」「出力系」、及び両者を連合ないし統合する「統合系」がありますので、「フレーム」「入力系」「出力系」「統合系」の3つを持ちます。「入力系」「視覚野」を始めとする一連の「感覚性領野群」によって、「出力系」「運動性領野群」によって形成され、「統合系」はヒトでは「大脳皮質」の約25%の体積を占める「前頭連合野」の「領野」群が作っています。

 この「統合系」こそが「超知性」「統合知性」「人間性知性」「自我」に他ならないのです。


【参考文献】

『幸せになる成功知能HQ』(澤口俊之、講談社)

『心が脳を変える 脳科学と「心」の力』(ジェフリー・M・シュウォーツ、サンマーク出版)



「頭の良さ」と「人間性」は不可分の関係にある

 本当の「頭の良さ」は「多重知性」を束ねる「ハイパー知性」「人間性知性」であり、「人間性」そのものに関わっていて、大脳皮質の「前頭連合野」をその舞台としています。「知性」と「脳」の情報処理に「多重性」(並列性)と「階層性」があるということは、情報処理に長けている人(いわゆる「頭のいい人」)ほど「同時並行処理」と「階層的処理」が上手く出来るということです。仕事や勉強を小さい塊に分けて処理し、最終的に再統合する。「大目標」に対して「小目標」を設定して、これをこなしていくのも「階層的処理」で す。


「二重貯蔵モデル」「脳」にもたらされた情報はまず「短期記憶」に入り、そこから「長期記憶」へ移るというプロセスを踏みます。「短期記憶」は数秒から数分程度の短い時間だけしか保持されませんが、「長期記憶」は数時間から数年、数十年という期間、保持される記憶で、記憶量はほぼ制限が無いとされます。

 約15秒以内にその90%以上が忘却される特性を持つ「短期記憶」は「長期記憶」への転送に関わると共に、新たな情報を一時的に保持し、さらに「長期記憶」の情報を検索する役割をも担っているのです。


「ワーキングメモリ」(Working Memory)~「短期記憶」の概念をさらに拡大して、課題を遂行するために処理機能の役割を補充したもので、「作業記憶」「作動記憶」とも言います。従来は保持機能にのみ注目されていた「短期記憶」に対して、文の理解や推論など、より高次の認知機能と関連する保持の場として考えられ、目標に向かって情報を処理しつつ、一時的に事柄を保持する働きをしているのが「ワーキングメモリ」であるとされます。

 これはすでに学習した知識や経験を絶えず参照しながら、目標に近づけるように、その過程を支えています。例えば、文を読む際には、知識やエピソードを元にした長期記憶の検索を進めながら単語や文を理解しており、逆に単語の保持に「ワーキングメモリ」の容量を取られてしまうと、文の理解が疎かになるのです。

 さらに今では「ワーキングメモリ」を単に入れ物としてではなく、「システム」として捉える考え方があり、特に「注意の監視システム」としての役割が注目されています。読み手は、文を読む時に文理解の中心となるもの(フォーカス)を探していますが、ひとたび特定の単語を重要な情報であると判断すると、すかさず、それを中心として心的表象を構築するのです。如何に効率よくフォーカスを形成できるかは、文理解の効率を決定します。

 つまり、「ワーキングメモリ」は記憶の情報を使った知的活動(暗算、思考、推論、計画、問題解決など)の作業台であり、いわゆる「頭の良い人」は特に「ワーキングメモリ」を駆使することに長けている人と言ってもよいでしょう。ちなみにヒトと相同な「ワーキングメモリ」を担う「脳」部位は真猿類にしかないので、これは「人間性」にも直結する機能だと考えられます。


「自我」スーパーバイザー)~自分の「脳」と他人の「脳」の活動を読み取りつつ、操作する高次脳システムです。自分の脳活動をモニター(意識化)しつつ統合し、適切に操作するシステムである「脳内操作系」であると共に、他者の脳活動を言語や表情、動作などで読み取りつつ、うまく操作するシステムである「脳間操作系」です。

 要するに「脳内・脳間操作系」(Intr- & Inter- Brain Operating System)であって、その基本的目的は自然環境や社会の中でうまく生きていくこと、すなわち成功し、幸福になることです。

「脳から見ると、人間とは何か、この哲学的な問いの答えは極めて単純。前頭前野が発達している動物が人間、なんです。」(川島隆太東北大学加齢医学研究所教授)


【参考文献】

『脳のメモ帳 ワーキングメモリ』(苧阪満里子、新曜社)

『幸せになる成功知能HQ』(澤口俊之、講談社)




(2)「人間性」で問題になるのは「前頭連合野」

原猿類と真猿類を分かつ「前頭連合野」の「46野」

 4000万年前に原猿類と真猿類が分かれ、真猿類は知的活動の作業台とも言うべき「ワーキングメモリ」を持つ「前頭連合野」の「46野」を獲得しました。これは「社会」の形成と密接な関係があると思われ、ヒトはこの「ワーキングメモリ」と「社会的知能」の発達によって、「自我」を形成したのです。人間は「人」の「間」でこそ「人間」であり、「自我」も社会の中でこそ自覚され、意味を持つ のです。


「感覚野」~感覚器からの信号を受け取る「大脳皮質」の領域です。視覚、聴覚、味覚、臭覚、皮膚感覚(体性感覚)などの「感覚野」があり、「感覚野」における生理的過程が「感性」的段階の認識に対応すると考えられます。


「運動野」~随意運動に関係する信号を送り出す「大脳皮質」の領域です。


「連合野」~「感覚野」「運動野」以外の「大脳皮質」の領域で、「頭頂連合野」「側頭連合野」「前頭連合野」などに分けられます。


「頭頂連合野」~知覚、判断、理解などの機能に関わります。「感覚野」の情報が「頭頂連合野」に集められて、そこで理解され、判断されるので、これが「悟性」的段階の認識に対応すると考えられます。


「側頭連合野」~記憶のメカニズムに関係していると考えられています。


「前頭連合野」~意志、創造、思考、感情などの機能に関わります。「頭頂連合野」における理解、判断に基づいて、「前頭連合野」で思考がなされ、創造活動が行なわれるため、これが「理性」段階の認識に対応すると考えられます。

 ちなみにヒトと最も近縁な現生霊長類であるチンパンジーは約650年前にヒトと枝分かれしていますが、「前頭連合野」の「大脳皮質」に占める割合はチンパンジーで約15%であるのに対し、ヒトは約25%であり、「脳」の4分の1を「前頭連合野」が占めている計算になります。重さを比較してみても、ヒトの「前頭連合野」はチンパンジーの5倍にもなっているのです。これに対して、「前頭葉」の中でも単純な運動機能をつかさどる「運動野」や高次の運動機能(運動感覚的知性)を担う「運動連合野」という領域は、ヒトもチンパンジーもほぼ同じ大きさか、ヒトの方がやや小さいくらいです。

 いずれにせよ、「顕著に発達した前頭連合野」がヒトの「脳」の大きな特徴であることは間違いないと言えるでしょう。


「46野」~「前頭連合野」のほぼ中央に位置し、「超知性」「統合知性」「人間性知性」「自我」の根幹とも言うべき「ワーキングメモリ」の脳内中枢となっています。約4000年前に原猿類、ギャラゴやロリスなどの霊長類の中から「46野」を持つヒト、ニホンザル、ゴリラ、チンパンジーなど真猿類の祖先が出現しました。

 ちなみに、「生きた化石」と呼ばれるギャラゴなどの原始的な原猿類の多くは単独生活をし、夜行性であることが多いのです。「表情」がほとんど変わらないことが知られていますが、暗くて孤独で毎日に「表情」は必要ないのでしょう。

 逆に「表情」が豊かな人ほど社会性が豊かで、「社会的知能」が発達していると見ていいかもしれません。現存の真猿類の全てが社会を形成していることは「46野」の獲得・進化と深い関係があると見られています。社会の中でうまく立ち回るためには、自分自身と他者の情報(心や行動)を的確に把握し、その情報に応じて自分の行動をコントロールする必要がありますが、このためにはまさに脳内・脳間操作が必要不可欠で、「ワーキングメモリ」も必須となるのです。

 実際、「46野」を持つ真猿類のほとんどの群れで、オス同士の力関係、メス同士の協調的関係、母子関係など、かなり複雑な社会関係が展開されており、彼らは「ワーキングメモリ」を持ち、かつ状況に応じて怒りを抑えたり、好意を示そうとする能力である「社会的知能」が発達させているのです。


【参考文献】

『幸せになる成功知能HQ』(澤口俊之、講談社)

『心が脳を変える 脳科学と「心」の力』(ジェフリー・M・シュウォーツ、サンマーク出版)



「前頭連合野」がつかさどる「人間らしさ」とは何か

 将来に向けた夢・計画・展望、感情を制御する理性、他人の気持ちを理解する能力、主体性・集中力・好奇心、幸福感、達成感、高度な創意工夫(創造性)などは全て「人間らしさ」(「人間性」)に属します

「人間性の崩壊」~1848年に「前頭連合野」の左半分を損傷したフィニアス・ゲージの症例から、「前頭連合野」がつかさどる「人間らしさ」「人間性」が明らかになりました。それによれば、ゲージは基本的な知覚能力や身体運動能力にはほとんど後遺症が残らず、記憶といった一般的な知能にも影響はなく、言葉もしっかりしゃべれたのですが、「人間性の崩壊」という後遺症が出たといいます。すなわち、実直で責任感があり、周囲の信頼も厚かったゲージは正反対の人間となり、感情を抑えることが出来ず、乱暴で刹那的な行動、ハレンチで常軌を逸した振る舞いをするようになったのです。「理性」を失い、「人格」が変わって、動物のような人間になってしまいました。


「ゲージの中で、いわば知性と獣性のバランスが崩れてしまったように見える。・・・彼の友人達はこう言っている。『彼はもはやゲージではない』。」(ゲージを診察した医師ジョン・ハーロウ)

「人間らしさ」~ゲージが失ったものは次のようなものですが、逆の見方をすれば、健常者でもこれらの要素が乏しければ、それだけ「人間的に未熟」「人間味に薄い」ということになるでしょう。


(1)将来に向けた計画、展望、夢計画性、未来志向性)=ヒトは計画を立てるからこそ、その延長線上に夢を思い描くことが出来、その夢を実現するために今日という日を努力することが出来るのです。逆にチンパンジーなどは40分からせいぜい2時間先のことしか読むことが出来ないといいいます。将来への計画、展望などは持っていないわけです。

(2)感情を制御する理性自己制御)=「分別」とも言い換えられます。

(3)他人の気持ちを理解する能力社会性、協調性)=「心の理論」(霊長類学者トレマックが提唱しました)や「マインド・リーディング」読心)とも言います。これはヒトとサルの大きな違いの1つとされます。自分の言動に対する相手の意識や感情を推測したり、相手の立場に立てるということはヒトならではの能力で、サルには「自分がこんなことをしたら、相手はどう思うだろうか」とは考えられないのです。ちなみに、ストーカーなどもこうした能力の欠如から来る犯罪行為ですが、このように「相手の気持ちになることが出来ない」原因として、幼児期に(特に母親からの)愛情豊かに育てられなかった可能性が挙げられますが、子育てを放棄したり、子ザルが甘えてきても追い払うような子育て下手な母ザルは、愛情に関係する脳内伝達物質「セロトニン」の分泌量が少ないことが分かっています。セロトニンには子供をかわいがるという気持ちにさせる働きがあるため、子育てには欠かせない「伝達物質」です。

(4)主体性、集中力、好奇心やる気、意志力、探求心)=自分から何かをしていこうという気持ちや集中力がなくなり、注意力が散漫になって、新しいことにチャレンジする気持ちも無くなって、慣れ親しんだことしかしなくなるという状況は、「ADHD」注意欠損多動性障害)の症状に酷似しています。実際、「ADHD」は「前頭連合野」に機能障害があり、その障害には「前頭連合野」の正常な機能に必須の「伝達物質」である「ドーパミン」の機能低下が伴っていることが分かっています。

(5) 幸福感、達成感

(6)高度な創意工夫独創性、創造性)=「前頭連合野」の中心的機能は「創造性」とされますが、こうした創意工夫には高い「一般知能」が必要となります。逆に「前頭連合野」のダメージによって、相手のしていることをそのまま繰り返すだけの人になることがあり、この症状を「人真似症候群」と言います。

(7)高度な思考力、問題設定・問題解決能力、一般知能=1900年代初頭に知能検査やIQについて研究していたエドワード・C・スピアマンが「知能」は2つの「因子」から成り立つと考えて、「因子分析」という統計技法を考え出し、全ての知的作業はその作業に固有の特殊因子「s因子」と、あらゆる作業に共通する一般因子「g因子」として、後者から成り立つ知能を「一般知能」GIGeneral Intelligence)と呼びました。これが全ての「知性」を貫いて存在する因子「IQg」というわけで、公務員試験で出題される「一般知能」はまさにこれを見ようとしているのです。

 2000年には「脳イメージング法」によって、「一般知能」の中枢が「前頭連合野」の「46野」にあることが判明しています。「46野」は「ワーキングメモリ」のセンターでもありますが、実は「一般知能」のベースに「ワーキングメモリ」があり、「ワーキングメモリ」能力が高いと「一般知能」も高いことが分かっています。


「人生の成功度」~アメリカの知能学者達は「IQg」と「人生の成功度」の相関関係を大規模な調査で調べていますが、その結果は次の通りです。もちろん、何をもって成功とするかは価値観の問題であり、一般的に「社会的成功」と考えられているものに限定しても、「IQg」は成功要因のごく一部に過ぎず、高いからといって必ず成功するわけではありません。あくまでもいわゆる「IQ」よりも「IQg」と「社会的成功」との関係が「統計的に有意」ということです。ちなみに「超知性」「統合知性」「人間性知性」「自我」「成功知性」とも呼ばれますが、それはこの「一般知能」を根幹に有するからでもあります。


◎125~=成功間違いなし

○110~125=前途洋々。中退や留年をせずにアメリカの大学を卒業出来る人は110以上がほとんどだとされます。アメリカで実際に成功していると思われる医者・弁護士・企業の重役・成功した企業家など数百人を調べたところ、1人の例外なく、110以上だったといいます。逆にアメリカの高校中退者で110以上の人は1%に満たないのです。

△90~110=現状維持

●75~90=厳しい。30%以上がアメリカの高校中退です。

×~75=リスク大。半数以上がアメリカの高校中退です。


「環境要因」「一般知能」の個人差60%は「遺伝要因」で説明でき、残りの40%が成長の過程での「環境」(「教育」を含む)に影響されます。マリアン・ダイヤモンドの実験によれば、遺伝的に同一のラットを幼い頃から「貧しい環境」「普通の環境」「豊かな環境」の3つに分けて育てたところ、遺伝的には同じであるにもかかわらず、「豊かな環境」で育てたラットは知能テストで優秀な成績を示したのみならず、「脳」自体も発達して、重さが5%ほど重くなり、「大脳皮質」もより厚く、かつ重たくなったといいます。脳重量増加率5%を人間に当てはめると、それだけの変化をするには数十万年の時間が必要になるため、「豊かな環境」は人間での数十万年の進化を果たしたことになります。

 「豊かな環境」には多様性があり、例えば、モーツァルトのピアノソナタ「K448」が「脳」や「知能」に好影響を及ぼすことは実験で証明されています。モーツァルトの他の楽曲でも同様の効果をもたらすと見られており、これを「モーツァルト効果」と言います。


【参考文献】

『幸せになる成功知能HQ』(澤口俊之、講談社)

『心が脳を変える 脳科学と「心」の力』(ジェフリー・M・シュウォーツ、サンマーク出版)



「人間性」が目指すのは「幸福」である

 「人間性」は「複雑な社会的人間関係」の中で発達し、「喜び」「満足」に至るのです。


「大人」「脳科学」の観点から見た定義では、しっかりとした目的と計画を持ち、社会的規範と自分の置かれた状況に応じて適切な判断をしつつ、相手の気持ちを汲んで、言動と感情をコントロール出来る人間とされます。


「小人」「儒教」的倫理ではなく、「脳科学」的視点によれば、目的性・計画性に乏しく、規範意識や状況判断力が弱い、他人の気持ちが分からず、自分の言動と感情をコントロール出来ない人間とされます。


「理想的人間像」「脳科学」の観点から見て、「脳内・脳間操作系」としての「超知性」「統合知性」「人間性知性」「自我」「成功知性」が十分に発達すると、次のような人物になると考えられます。

前向きで、計画的、プラス思考。

個性的で独創的。

頭が良く、優れた問題解決能力を持つ。すなわち、「一般知能」が高い。

理性的で、自分の感情・欲望や行動をうまくコントロールができ る。

良好な社会性・協調性を持ち、優しく、思いやりがある。

豊かな感情、やる気、幸福感、達成感を持つ。

幸福な家庭と社会的成功を得て、人生に成功する。すなわち、「IQg」が110 以上。


「人間的未成熟」~逆に「超知性」「統合知性」「人間性知性」「自我」がうまく発達しないと、次のような人物になると考えられます。

●無計画で刹那的。

●キレやすく、衝動的。

●頭が悪く、問題解決能力が低い。すなわち、「一般知能」が低い。

●状況を無視した自分勝手な行動や非社会的あるいは反社会的な行動を繰り返す。

●相手の気持ちがよく分からず、協調性や優しさが希薄。

●やる気や幸福感、達成感が欠如し、無感情にもなる。

●社会性や人間性が欠如し、幸福な結婚や社会的成功からも見放されて人生に失敗する。すなわち、「IQg」が90以下。

 最近ではIQが高くて勉強もでき、一流大学に入って一流企業にまで入りながらドロップアウトしてしまう若者や、一流大学を卒業して大学院に入りながら、受験や試験の成績は良く、知識は多いものの、問題設定能力と問題解決能力があ然とするほど低い大学院生が増えてきていますが、彼らにも「超知性」「統合知性」「人間性知性」「自我」「成功知性」の機能低下が確認されるというのです。分数ができない、ことわざや四字熟語の意味が分からない、難しい漢字が読めないなど、大学生の学力低下は深刻であり、旧帝大の大学院生の学力が短大生と同程度だという調査もあるぐらいですが、もっと深刻なのは様々なアンケート調査でも「幼稚」「無責任」「自分勝手」「ウソつき」「将来の展望がない」「目標がない」「刹那的」といった大学生像が浮かび上がってくることであるといいます。

 さらには学校へも行かず、職もなく、働く意欲を喪失した「ニート」NEETNot in Education, Employment or Training)が2000年頃から急増し、現在では80万人もいるとされますが、「脳科学」的にも深刻な存在となっています。


「統合失調症」~多くの場合、「脳」の発達障害が原因とされ、胎児や幼少期に何らかの原因で「脳」がうまく発達しなかったせいで、「統合失調症」になることがあり、虐待などの過酷な環境が原因となることもあります。共通しているのは「超知性」「統合知性」「人間性知性」「自我」「成功知性」の障害であり、特にその根幹たる「ワーキングメモリ」が衰えていて、重篤な場合は正常な社会生活も困難となります。「ワーキングメモリ」で重要な働きをしている脳内ホルモン「ドーパミン」の働きが悪化しており、「前頭連合野」のドーパミン受容体が減っていることが知られています。


「注意欠損多動性障害」ADHDAttention-Deficit Hyperactivity Disorder)~いくつかのタイプがありますが、幼少期に多発し(7歳未満)、注意力が散漫で、集中できない、じっとしていられず、絶えず動き回る、キレやすく衝動的、授業中に立ち歩く、勉強に集中しない、などといった症状を示します。いわゆる「学習障害」に直結しがちな障害で、その多くは「前頭連合野」の機能障害です。したがって、「超知性」「統合知性」「人間性知性」「自我」「成功知性」の障害です。アメリカ大統領ケネディやエジソンも「ADHD」であったことは有名で、日本の全児童の5%が「ADHD」だという統計もあり、40人クラスなら、1クラスに2人はいる計算になります。

 そもそも「注意」には、近くで何かが落ちて音がした時、反射的にその方向に意識が向くというような「受動的注意」と、自分の意志によって特定の対象に注意を払うことを言う「能動的注意」の2種類がありますが、「能動的注意」は「選択的注意」とも呼ばれ、学校で先生が字を書いている黒板に目を向けている時などに起こる意識で、同時に何かに注意する際に、その注意を妨害するものを排除する働きが伴います。「ADHD」は「超知性」「統合知性」「人間性知性」「自我」「成功知性」の働きである「能動的注意」及び「自己制御」がうまく働かない病気であり、「前頭連合野」における「注意力」に関係する「ノルアドレナリン」の機能不全と、「集中力」の源である「ドーパミン」の機能低下が原因であることが分かっています。


「アダルト・チルドレン」~アメリカ大統領クリントンが自らそうであることを明らかにして脚光を浴びましたが、これも軽度な「超知性」「統合知性」「人間性知性」「自我」「成功知性」の障害と考えられています。あくまで「自覚症状」であって「病名」ではないので、アメリカ精神医学会の『精神障害の診断と統計マニュアル』(DSM=Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders)には載っていなません。このマニュアルは精神障害の国際的かつ標準的マニュアルとなっているので、精神科医は通常、最新バージョンのDSMに基づいて診断を下すのです。

 ちなみにジャネット・ウォイティッツによれば、「アダルト・チルドレン」の特徴は次のようであるといいます。

●何が正常かを推測してしまう。つまり、「これでいい」という確信が持てない。

●物事を最初から最後までやり遂げることが困難である。

●本当のことを言った方が楽な時でもウソをつく。

●情け容赦なく自分に批判を下す。

●楽しむことがなかなかできない。

●真面目すぎる。

●親密な関係を持つことが難しい。

●自分にコントロールできないと思われる変化に過剰に反応する。

●他人からの肯定や受け入れを常に求める。

●他人は自分と違うといつも考えている、と思っている。

●常に責任を取り過ぎるか、責任を取らなさ過ぎるかである。

●過剰に忠実である。無価値なものと分かっていても、こだわり続ける。

●衝動的である。他の行動が可能であると考えずに、1つのことに自らを閉じ込める。


「臨界期」critical period)~「脳」を発達させる適齢期であり、「知性」の神経システムがドラスティックに変化して最も発達する時期を指します。

 例えば、生まれたばかりの赤ん坊は少なくとも1300億個以上の「ニューロン」「大脳」にありますが、生後1年で「ニューロン」の85%は死滅し、大人のレベルに近づいてしまうといいます。ちなみに成人の大脳には約200億個の「ニューロン」があります。こうして生き残った「ニューロン」は豊かに発達し、「シナプス」も急激に増加して「神経回路」も複雑になるのですが、「シナプス」の急増も5~6歳頃をピークとして一転して減少に転じ、15歳頃には大人のレベルに近づくのです。

 このように「ニューロン」の大量死と「シナプス」及び「神経回路」の急速な形成と減少が「脳」の発達を特徴づけているのですが、これは生まれてからの「環境」を完全には予測することはできず、また、3万個にも満たない遺伝子だけできわめて複雑な「神経回路」を決めることは不可能だからです。そのため、生まれて間もない頃の「脳」は無駄とも言えるほど大きな可能性を求めて、「ニューロン」や「シナプス」を作り、多様な「神経回路」を形成し、その後、「環境」に合わせて無駄を捨て去り、適応した「神経回路」が生き残る仕組みとなっているのです。

 ちなみに、「脳」の機能ごとに「臨界期」が多少異なっていることが分かっています。

(1)視覚の「臨界期」=4歳頃まで。この期間にものを見ないで過ごしてしまうと、一生ものが見えなくなります。

(2)言語の「臨界期」=8歳頃まで。この時までに2つの言語環境で育った人は「初期バイリンガル」となりますが、2つの言語を共にネイティブ同様に話し、理解するため、「真のバイリンガル」とされます。これは「前頭葉」「ブローカ野」の同じ領域が2つの言語を同じように扱うためです。この「ブローカ野」は「左脳」にある代表的「言語野」で、他に代表的な「言語野」として「側頭葉」の「ウェルニッケ野」があります。これに対して、「後期バイリンガル」は第二言語が如何に流暢に見えても、ネイティブには及ばないとされますが、これは「ブローカ野」が2つの言語用に区画化され、それぞれの言語は区画ごとに処理されるため、「臨界期」を過ぎてから獲得した言語用の区画の機能は母国語並みにはならないからです。

(3)絶対音感の「臨界期」=8歳頃まで。この期間に音楽の訓練を受けると60%ほどの子供が絶対音感を獲得でき、その後ではわずか2%しか絶対音感を身に付けられないことが分かっています。ここで100%ではなく60%なのは、「遺伝要因」があるからです。また、2%でも絶対音感を身に付けられるということは、「臨界期」を過ぎても可能性はゼロではないということです。

(4)「超知性」「統合知性」「人間性知性」「自我」「成功知性」の「臨界期」=8歳頃まで。これは「アヴェロンの野生児」ヴィクトールや「狼少女カマラ」、アメリカのジーニーやレイシーなどのケース、真猿類の社会的隔離実験などによって検証されています。ちなみに「好きなことを自由に主体的にする」「好奇心、集中力、充実感を持つ」という行動によって「伝達物質」の1つである「ドーパミン」系がよく働き、「超知性」「統合知性」「人間性知性」「自我」「成功知性」の成長が促進されるのです。


「両親の愛情」「豊かな社会的関係」~親の「過保護・過干渉」が子供に悪影響を及ぼすことが明らかになっています。特に「母親の過保護・過干渉」「母子密着型の子育て」が問題であるとされています。

 例えば、「思春期挫折症候群」は「思考と判断能力の低下」「自己中心的、責任転嫁」「無気力、刹那的、憂鬱、被害妄想」などを特徴とし、具体的な行為障害としてはルーズな生活や親への反抗・暴力、校内暴力や登校拒否、引きこもり、非行などが見られ、自殺に至ることもありますが、この症候群になった子供の親の性格を調べたところ、「過敏で心配性」「完全欲が強く几帳面」という顕著な傾向があることが分かっています。

 すなわち、半数以上の親、特に母親が「過敏で心配性」だったことが判明しており、それ以外の性格、例えば「自己中心的」「依存的」「非社交的」「固執」「小心」などはほとんど関係がなかったといいます。このように親が「過敏で心配性」で、「完全欲が強く几帳面」であると、「過保護・過干渉」になる可能性が高くなるのです。

 あるいは「虐待」「無視」を含む)や援助交際に代表される「劣悪な性関係」なども「超知性」「統合知性」「人間性知性」「自我」「成功知性」の成長を阻害する大きな要因とされています。逆に「添い寝」「抱っこ」「母乳」などの「スキンシップ」「語りかけ」などが「脳」の発達に非常に重要で、「脳幹」(特に「中脳」)の「ニューロン」群を刺激して、「セロトニン」「ドーパミン」「ノルアドレナリン」などを分泌させ、「超知性」「統合知性」「人間性知性」「自我」「成功知性」や「多重知性」を促進・発達させるといいます。実はこれも「母親」が重要であり、「父親」が語りかけても新生児の「言語野」は活動しないということです。

 さらに3歳頃から「臨界期」たる8歳頃までの「豊かな社会的関係」が、「超知性」「統合知性」「人間性知性」「自我」「成功知性」発達にとって基礎的かつ決定的であるとされます。これには「仲良く」だけでなく「ケンカ」も時には必要で、「心の痛み」も「体の痛み」も「他人の気持ちを理解する能力」の発達に深く関係しているのです。


「幸福感」~心理学における統計研究で、「収入」「社会的成功度」「国家」「民族」「宗教」「性別」「年齢」等の要因は「幸福感」と無関係であることが分かっています。現時点で分かっている「幸福感」と結びつく「共通要因」「遺伝」「家系」であり、もう1つは「結婚」です。ちなみに「超知性」「統合知性」「人間性知性」「自我」「成功知性」が発達している人は離婚しない傾向が強く、持続的な「結婚」には高い「超知性」「統合知性」「人間性知性」「自我」「成功知性」が不可欠で、そうした「結婚」こそが「幸福感」と結びついているというわけなのです。

 従って、「超知性」「統合知性」「人間性知性」「自我」「成功知性」を発達させれば「幸福な結婚生活」を送りやすくなり、また、遺伝学的に見れば、「遺伝的に幸福感を抱きやすい人」と「結婚」することも、「幸福感を抱きやすい子供」が生まれる可能性が高くなることから、「子供の教育」以前に「出会い」が重要ということにもなるでしょう。


「うつ病」「幸福感」の減退・欠如「うつ病」は結びついていることが多く、「幸福感」が少ない人に「うつ病」患者が多いことが分かっています。その特徴は「感情障害」であり、特に「幸福感」や「安心感」が減退、もしくは欠如しており、いつも憂鬱で、物事を悲観的に考え、しかも自殺志向があって、実際に自殺に走るケースも多いのです。近年、増加している自殺者のほとんどが「うつ病」患者だという報告もあります。注意力や集中力が減退し、活動量も低下して、食欲などの欲望がなくなり、夜眠れなくなり、寝ても早く起きてしまうのです。欧米では1年当たり、人口の3~6%が「うつ病」になっているといいます。「ストレス」が原因だと考えられていますが、「ストレス」に最も敏感な「大脳」領域が「前頭連合野」であり、「脳」レベルで言えば、「伝達物質」である「セロトニン」の機能不全が主要因とされます。


【参考文献】

『幸せになる成功知能HQ』(澤口俊之、講談社)

『心が脳を変える 脳科学と「心」の力』(ジェフリー・M・シュウォーツ、サンマーク出版)




(3)「私」は「脳」のどこにあるのか?

コンピュータ的機能を持つ「左脳の心」

 右半身を統御する「左脳」は情報処理能力に長け、この分野を発達させたのがコンピュータに他なりませんが、脳梁切断をして「左脳」と「右脳」が切り離された分離患者の「左脳」は「右脳」の行動に対して、「これは私がやったのではない」と当惑します。すなわち、「私」は「右脳」の中には住んでいないのです


「分離脳」~大脳は左右2つの半球に分かれています。「左脳」が右半身を制御し、右視野は「左脳」に入り、右手・右足も「左脳」が動かします。「右脳」が左半身を制御しており、左視野は「右脳」に入り、左手・左足も「右脳」が動かします。ここで左右が交差していることに注意しましょう。左右脳間の連絡は「脳梁」という約1億本の神経網によって行なわれています。

 従来、この「脳梁」による連絡の重要性があまり認識されておらず、てんかん治療の最終手段として「脳梁切断手術」が行なわれて、重度のてんかん患者が劇的に治癒することが分かったのですが、それと同時に多くの「分離脳」患者が生まれました。これが、左右に分かれた大脳両半球の機能分担に関する、1960年代のスペリー(ノーベル生理学・医学賞授賞)の有名な実験の端緒となっていくのです。

 その結果、両脳の機能が全く違うということが分かり、さらに人間の心が大脳の中にあるという常識的見解を崩壊させることとなったのです。すなわち、「意識の二重性」の発見です。


「左右脳」~放射線で血流を断層撮影するポジトロンCT(コンピュータ断層撮影)であるPETスキャンを使って調べると、「言語」を聞いている場合には「左脳」が活動し、「音楽」を聞いている場合には「右脳」が活動していることが分かります。このため、「言語脳」「音楽脳」「優位脳」「劣位脳」「デジタル脳」「アナログ脳」と呼ばれたりするのですが、「ボケ脳」「ツッコミ脳」と言ってもいいかもしれません。

 実は左脳と右脳の最も本質的な対称性は「時間性」「空間性」「収束性」「発散性」です。例えば、「右脳」の「イメージ」は空間的に広がり、その時、時間は止まっていますが、逆に「左脳」はこうした「イメージ」を「言葉」に翻訳し、時間の流れの中で概念整理を行うのです。

 ちなみに腕を組んでみた時、どちらの腕が上に来るかで、その人の「利き脳」、つまり左右のうちよく使っている脳が分かると言います。右腕が上に来る人は「左脳」の働きがよく、論理的で判断力に優れているタイプで、左腕が上の人は「右脳」の働きがよく、直感的で創造力に優れているタイプだというのです。

 また、日本人に洋楽と邦楽を聴かせ、左右のどちらで聴くかを調べると、ヴァイオリン、ピアノなどの西洋楽器の音は「右脳」、尺八、琴などの和楽器の音は「左脳」と聴き分けていたといいます。また、虫の音も欧米人が単なる音として「右脳」で捉えるのに対し、日本人は「風情」として「左脳」で感じるといいます。

 さらに男の脳と女の脳は価値観が違うといってもいいくらい多くの面で異なっており、左右脳をつなぐ「脳梁」も女性の方が太く、女性は話をする時に左右の脳を使うことが分かっていますが、これは「脳梁」などがよく発達しているので、常に情報の行き来がしやすいためと見られています。こうした「脳」の解剖学的な差は、男女の脳の機能差になっていると考えられているのです。

「コンピュータ脳」「左脳」の主機能「言語」「論理」「分析」「情報処理」であり、これを代替させたのがコンピュータであることが分かります。


「自我意識」~ある「分割脳」患者は左方から飛んで来たハエを左手が追い払った時(これは「右脳」の認識・判断・行動です)、それを見て彼は「これは私がやったんじゃない!」と叫んだといいます。あるいは毎朝定刻に起きる「分離脳」患者がある日、寝坊をしたところ、「右脳」だけは定刻に目を覚まして、「左脳」を起こすために左手で右ほほをぶったというのです。こうして、左半身を操る「右脳」は明らかに「私」ではなく、少なくとも「右脳」の神経活動は「私」という「自我意識」を生み出さないことが分かったのです。つまり、「私」は「右脳」の中には住んでいないということです。正常人がこのような体験をしないのは、「脳梁」を通じて左右脳が情報交換をしているためです。

「(ヴィッキィという30代女性の分離脳患者の証言)私は左手を動かせるのですが、その左手はつかんではいけない物をつかむか、私がつかもうとしていない物をつかむのです。こんな風にいくらか左手を伸ばせるのですが、私はそうしようと思いません。なぜなら、何が起こるか分からないからです。時々、私は右手を使って左手や左腕をつかみ、引き戻します。また、ある時は馬鹿げたことと思われるかもしれませんが、私は左手をピシャッと叩きます。というのは、この左手に腹が立ってしまうからです。私は実際にそうしました。そして、夢中でぶちました。だけど、そうしたところで何もよくなるわけではなく、ぶたれた左手が傷つくだけだと悟りました。」(D・ギリング、R・ブライトウェル『ヒューマン・ブレイン』)

「積み木を一定の模様に並べる(これは右脳の得意な活動)ようにと言われた患者が右手(左脳)でその通りにしようとしたが、いくらやっても出来ず、見かねた左手(右脳)が加勢してやろうとする度に、右手がまるで『これは俺にやらせろ』と本当に言っているみたいに左手を払いのけ、ついには左手の上に当人が座り込んで、邪魔されるのを防いだ。」(C・ウィルソン『右脳の冒険』)


【参考文献】

『ヒューマン・ブレイン』(D・ギリング、R・ブライトウェル、プレジデント社)

『右脳の冒険』(C・ウィルソン、平河出版社)

『脳の人間学』(R・レスタック、新曜社)



動物的直観を持つ「右脳の心」

 左半身を統御する「右脳」は直観的把握に長け、「動物の心」にも通じますが、左脳摘出患者の「自我意識」は決して消滅しないため、「左脳の心」と「右脳の心」は「私」そのものではなく、「私」によって統轄される、それよりも下位の精神作用であることが分かります。


「左脳摘出」「右脳」に「私」という「自我意識」が存在しないことは「分離脳」患者の症例から明らかになりましたが、その「左脳」を摘出しても「自我意識」は消滅しないのです。言語能力を失うので全く話せなくなりますが、「自我意識」は崩壊せず、摘出前後の「自我意識」の連続性も確認されています。

 しかも、「左脳」摘出が成されたのが子供の患者である場合、その「自我意識」は必死に努力して、ついに「右脳」を支配し、「右脳」に言語能力を発達させることに成功するのです。この場合、「右脳」は「別の生き物」ではなく、「私」そのものになっているわけです。


「意識の二重性」「2人の私」がいるという感覚は誰でも持つことがありますが、例えば、「感情的になっている自分」「右脳の心」「冷ややかに眺めている自分」「左脳の心」といったケースです。自分ではどうしようもないほど感情に流され、後で自己嫌悪に陥るというのは、「右脳」に対してこれは「本当の私ではない」と叫ぶ「左脳の心」であり、ひいてはその「左脳」の分析をふまえた「自我意識」の感覚と言ってもいいかもしれません。

「ある(分離脳)患者が奥さんに腹を立てた時、左手ではぶとうとしているのに、右手は奥さんをかばい、きつく左手を押さえていた。」(C・ウィルソン『右脳の冒険』)

「(スペリーの報告)左半球の優位な心のシステムは、たまたま右半球によって何か反応が行なわれた時以外は、劣位半球(右脳)の心のシステムと何ら関わりを持たないし、それが存在することすら知らないのである。患者の一人は、自分の左手がある反応を行なったのを見て、直ちに『それを行なったのが私ではないことが今、分かりました』と述べている。」(R・レスタック『脳の人間学』)

 実はこの対立する「2つの心」は「私」そのものではなく、「私」という「自我意識」によって統轄される、それよりも下位の精神作用であると言わなければならないのです。したがって、人間の「心」には主体的部分対象的部分があり、前者は本体とも言うべき「私」という「自我意識」、後者は「左脳の心」「右脳の心」であるという心的構造が成立していることが分かるのです。


【参考文献】

『右脳と左脳の対話』(杉下守弘、青土社)

『右脳の冒険』(C・ウィルソン、平河出版社)

『脳の人間学』(R・レスタック、新曜社)



実は「私の心」は左脳にも右脳にもない

 「左脳」は時間性・収束性を持ち、論理を駆使しますが、「右脳」は空間性・発散性を持ち、イメージを駆使する存在で、両者は脳梁を通じて情報交換し、「私」という自我意識によって一つの「人格」として統一されます。すなわち、価値を追求したり、意味を与えたりする「私の心」に対して、価値や目的実現の道具として駆使されるのが「脳」なのです


「創造性」人間の心の対象的部分が2つあるのは、人間にしかできない創造活動を行うのに不可欠な構造になっていると考えられます。漫才でも「ボケ」「ツッコミ」がなければ成立しないように、全ての創造的作業は両極端の機能を果たすもの、例えば「次から次へと問題を起こすもの」「その問題を必死に収拾するもの」何らかの強力な統轄力によって統合される所にのみ、成り立つのです。

 すなわち、「左脳」だけでものを考える人はいわば「コンピュータ」人間であり、「論理」が堂々巡りする「言葉」遊びの世界から抜け出すことが出来ません。また、「右脳」だけでものを考える人は「芸術家」タイプであり、次から次へと「イメージ」を爆発させますが、「言葉」で表現しない限り、他人の理解は得られず、自分でもそれが果たして正しいのか確認出来ないのです。

 これに対して、真に創造的な人は、まず「右脳」で「イメージ」を無限にふくらませますが、この時、「時間」は止まっており、「イメージ」は「空間」の中で複雑な構造を織り成していきます。そして、「これだ!」と閃いた「イメージ」をすかさず「左脳」に渡し、四苦八苦しながら「言葉」に翻訳するのですが、この時、「時間」が流れ始め、絡まり合った「イメージ」は一定の概念の流れの中に整列させられます。数学者や物理学者であれば、その「言葉」とは数式に他ならず、出来上がった数式を眺めて、改めて「これは美しい!」と感動できれば、「真に創造的な行為」として完結するのです。

 アインシュタインの相対性理論も「光と同速度で走ったら」というイメージから始まりましたし、数学者の岡潔も「数学は情緒で解くのだ」と喝破しました。彼らはこうした「創造性」を有する典型的な人物として挙げられるでしょう。


「価値性」「意味性」「目的性」~人間の場合、「右脳」と「左脳」が両極端の機能を持つために、下手をすると、両者は主導権争いをして精神に異常をきたす場合があります。例えば、てんかんやどもりなどがそうです。こうした両脳を1つの「人格」として統合するためには、1つの「目的」を持って両脳を強力に統合する主体が必要であり、それが「私」という「自我意識」です。

  「右脳」は「空間」に縛られ、「左脳」は「時間」に縛られるのに対し、「私」は自由に時空を超越して駆け巡る存在であり、こうした「時間観念」「歴史意識」や「空間観念」「立体把握」を駆使出来るのは「万物の霊長」人間ぐらいのものです。両脳はただひたすら協力して科学理論や芸術作品などを創り上げ、「生きていく」だけですが、「私」という「自我意識」はその科学理論に「真理性」、芸術作品に「美的感動」、実践活動に「倫理的善」といった「価値」を見出し、人生に「意味」を与える存在となっているのです。そもそも、「脳」自体は「価値性」「意味性」とは無関係です。

 すなわち、「脳」は「価値」「意味」「目的」実現の「道具」であり、「私」という「自我意識」は「価値」「意味」「目的」追求の主体と言ってもいいのです。


【参考文献】

『右脳と左脳の対話』(杉下守弘、青土社)




(4)「無意識の発見」と複数の「私」の存在

「私」ではない「私」が「私」を動かす

 「後催眠暗示」によって、「私」を動かす「無意識」の存在が明確になりました。これを探求したフロイトの画期的業績によって近代心理学は大きく前進し、現代思想でこうしたフロイト思想(「無意識の理論」)の影響を受けていないのものは皆無とまで言われますが、「心の修行」を重ねてきた仏教においては、紀元前に「随眠」(ずいみん、無意識)の存在に気づき、5世紀の段階で「阿頼耶識」(あらやしき、潜在意識・深層意識)を駆使する体系を構築していたのです。


「後催眠暗示」~医師が被験者を催眠によって眠らせ、一定の時間に一定の行動を命じ、この暗示を与えてから被験者を目覚めさせます。一定の行動とは例えば、目覚めてから30分後に診察室中を四つん這いになって歩くことなどです。被験者は完全に意識を回復し、命じられたことは何も覚えていませんが、医師に指定された時間になるとそわそわし始め、何かを探す風をし、ついには四つん這いになるというのです。その時、被験者は小銭とかボタンを無くしたなどともっともらしい言い訳をしながら、結局、命じられた通りに四つん這いの姿勢であちこちを探し、診察室中を一周するのですが、命じられたという事実を思い出すことは決してなく、あくまでも自分の「自由意志」でそうしたと信じているのです。

 フロイトはこの実験から「精神分析学」を発展させることになるのですが、この実験で明らかになったことは次のようなものです。

  1. 「無意識的精神」が存在していること。なぜなら、被験者は命令を正確に理解し、記憶したからです。

  2. 「無意識」が一定の時間を経てから「意識生活」に影響を及ぼすこと。

(3)「意識的精神」はそうした影響に動かされて行動を起こすが、「無意識の意識」にそそのかされて起こしたその行動に、「偽りの動機」を付与すること。この「偽りの動機」は捏造した架空のものですが、意識的なものです。


「コギト」~デカルトは「コギト・エルゴ・スム」我思う、故に我有り)と述べて、「理性」を中心にすえた「近代哲学」の道を開きましたが、フロイト以降、その「コギト」(思惟する主体)が複数いることが分かり、「現代思想」の道が開かれました。

「我々の行為の深い理由は、我々が常々自分でそうだと思っている高尚な動機のうちにあるのではない。そうした高尚な動機の背後には根元的な利己心が隠されている。人間は何物かに駆り立てられているのに、自分の意志で行動していると思い込んでいることがよくある。」(17世紀、ラ・ロシュフーコー)

「我々は我々の精神生活を全て知っているわけではない。動物的本能の精神的側面を解明するためには、無意識という概念が必要である。」(17世紀、ライプニッツ)

「生きとし生けるもののうちには、生命そのものの源泉から力を汲み取っている、隠れた盲目的な意志がある。知性は意志の行う決断と無関係である。」(19世紀、ショーペンハウエル)

「人間を動かしている真の動機は、人間が自分の決意に与えている動機と必ずしも同じではない。」(19世紀、ニーチェ)


「随眠」(ずいみん)~原始仏教・部派仏教(紀元前5世紀~1世紀)の論究をまとめた世親ヴァスパンドゥ)の『倶舎論』(くしゃろん、5世紀)によれば、「煩悩」が眠っている状態を「随眠」、覚めた状態を「纏」(てん)と呼び、「無意識の意識」たる「随眠」の分析を行っています。


「根本随眠」「根本煩悩」「六大煩悩」)~古代仏教では「無意識の意識」たる「随眠」を、むさぼり、執着することである「貪」(どん)、憎悪である「瞋」(じん)、根本的な無知である「無明」(むみょう、(ち)とも言います)、驕り、傲慢である「慢」(まん)、疑いである「疑」(ぎ)、誤った我見に固執することであり「(悪)見」((あく)けん)の6種類に分けて説明しています。


「随煩悩」「根本煩悩」に付随して次々と起きる心を観察・分析したものです。怒りである「忿」(ふん)、怨恨である「恨」(こん)、へつらいである「諂」(てん)、嫉妬である「嫉」(しつ)、悩み、憂悶である「悩」(のう)、責任逃れである「覆」(ぷく)、物惜しみ、吝嗇である「慳」(けん)、欺瞞である「誑」(おう)、驕り高ぶり、自己満足である「憍」(きょう)、害意、人を傷つける心である「害」(がい)、無反省、自分に対する無恥である「無慚」(むざん)、破廉恥、他人に対する無恥である「無愧」(むき)、軽率、軽はずみである「掉挙」(じょうこ)、沈鬱、心の滅入ること、ふさぎ込むことである「惛沈」(こんじん)、邪推、歪曲である「不信」(ふしん)、怠惰、無気力である「懈怠」(けたい)、わがまま、放縦である「放逸」(ほういつ)、自制心を失うことである「失念」(しつねん)、無分別、正しい認識ができないことである「不正知」(ふしょうち)、心の拡散、注意散漫、心が乱れて定まらないことである「散乱」(さんらん)の20種類があります。


「大善地法」古代仏教ではあらゆる存在を「五位七十五法」という体系に分類していますが、その中の「大善地法」という体系の中で、「根本煩悩」「随煩悩」に対する心理的改善アプローチを編成していることは注目されます。

「煩悩が眠るとはどういうことか。それは心の表面に現われないで、ちょうど植物の種子が将来、地に蒔かれた時、芽を出し、やがて草木に成長する可能性を持ったまま眠っているように、心の奥深く眠っていることを言うのである。

 それでは、覚とはどういうことか。それは心の奥深くに眠っていた諸々の煩悩(随眠)が心の表面に現われてきて、表面の心にまとわりつき、その心の働きを奪い取ってしまうということである。

 それでは煩悩の種子とは何を言うのか。それは前に起きた煩悩がその動きを収めてしまった後も、その影響は心身の上に残って心の奥に潜み(すなわち再び随眠となって)、また、後の煩悩を呼び起こす種子となるからである。心は経験智(情報)によって働くが、その経験は間もなく心の深層に入ってしまって、常には表面に存在しない。しかし、必要な時には直ちに記憶として出て来て働くように、煩悩もまた前の煩悩が後の煩悩を発起させるのである。植物の芽が前の果実(結果)から生じて、後の果実を生ずる能力(原因)を持っているのと同じことである。」(『倶舎論』随眠品)


【参考文献】

『無意識と精神分析』(ジャン・ポール・シャリエ、せりか)

『認識と超越<唯識>』(服部正明、上山春平、角川文庫ソフィア)



古皮質・旧皮質・新皮質に対応する「心」の多層性

 「旧皮質」「古皮質」からなる「大脳辺縁系」は本能行動・情動行動をつかさどり、「たくましく」生きてゆくことを可能にします。「新皮質」系は適応行動をつかさどって、「うまく」生きてゆくことを可能にすると共に、創造行為をつかさどって「よく」生きてゆくことを可能にします。

 心理学的には「旧皮質」はユングの言う「集合的無意識」、人類的無意識である「深層意識」に相当し、「古皮質」はフロイトの言う「個人的無意識」、ソンディの言う「家族的無意識」である「潜在意識」に相当し、「新皮質」は表層意識である「顕在意識」にそれぞれ相当すると思われます。


「大脳辺縁系」「大脳皮質」は発生学的に「旧皮質「古皮質」「新皮質に分けられ、古い「旧皮質」「古皮質」と新しい「新皮質」との大きく2つに分けられます。

 魚類から嗅覚に関わる「旧皮質」が現われ、両生類で「古皮質」が加わります。この「旧皮質」と「古皮質」をあわせて「辺縁皮質と言います。そして扁桃体や海馬、帯状回などと共に「大脳辺縁系」を構成し、情動や欲求、本能、そして自律系の機能を受け持っているのです。

 また、哺乳類になってから「新皮質」が新たに出現し、本能に加えて知能をも獲得しました。人間は「新皮質」が大脳のほぼ全表面を覆っており、「旧皮質」や「古皮質」は大脳の深い所に押しやられ、例えば大脳半球の内側底面にわずかに残る程度となっているのです。

 ただし、人間でも記憶の固定に関わる側頭葉の海馬や嗅覚路にある前梨状皮質は「古皮質」です。つまり、「短期記憶」「作動記憶」「新皮質」「表層意識」が扱いますが、「長期記憶」に移行するにつれ、「古皮質」「潜在意識」に移行するということでしょう。さらに「記憶の流れ」「記憶の継承」という点まで考えれば、「旧皮質」「深層意識」にまで至った「記憶」もあるということになります。


「集合的無意識」~ユングが提唱した分析心理学における中心概念であり、人間の無意識の深層に存在する、個人の経験を越えた先天的な構造領域です。個人的無意識の対語としてあり、ユングはフロイトの精神分析の理論では説明のつかない深層心理の力動を説明するため、この無意識領域を提唱しました。

 言語連想試験の研究によってコンプレックスの概念を見出したユングは、個人の「コンプレックス」より更に深い無意識の領域に、個人を越えた集団民族人類の心に普遍的に存在すると考えられる先天的な「元型」の作用力動を見出したのです。「元型」の作用とその結果として個人の空想に現れるある種の典型的なイメージは、様々な時代や民族の神話にも共通して存在し、このため、「元型」や「元型」が存在すると仮定される領域は、民族や人類に共通する古態的(アルカイック)な無意識と考えられ、この故に、ユングはこの無意識領域を「集合的無意識」と名づけました。

 人間の行動思考判断は、自我と外的世界との相互作用で決まる面がありますが、他方、「集合的無意識」に存在するとされる諸元型の力動作用にも影響される面があるのです。


「元型」~ユングの理論において、中心的な意味と働きを持つ「元型」は、意識の中心としての自我(Ego)の「元型」と、(魂)全体の中心として仮定される自己(Selbst)の「元型」です。自我が元型であるということは一般に知られていませんが、ユング心理学では、意識の中に存在する唯一の元型が「自我」です。ユングは次のような元型を代表的なものとして提唱しましたが、この「元型」理論を一般化すると非常に含蓄の深いものとなります。

(1)「自我」エゴ)=意識の中心であり、個人の意識的行動認識主体です。意識の中の唯一の「元型」。

(2)「影」(シャッテン)=意識に比較的に近い層で作用し、「自我」を補完する作用を持つ「元型」。肯定的な「」と否定的な「影」があり、否定的な場合は、「自我」が受け入れたくないような側面を代表することがあります。

(3)「アニムス」と「アニマ」アニムス女性の中にある理性的要素の「元型」で、選択的特徴を持ち、男性のイメージでしばしば認識されます。他方、アニマ男性の心の中にある生命的要素の「元型」で、受容的特徴を持ち、女性のイメージでしばしば認識されます。ラテン語では、同じ語幹から派生した名詞の男性形と女性形、つまり、animusと animaが、前者は「理性としての、後者は「生命としての魂」の意味があり、この区別を巧みに利用して、ユングはこの2つの元型の名称を決めました。「アニマ」と「アニムス」は総称して、「シュツギー」とも言われます。

(4)「太母」と「老賢者」「太母」は「自己元型」の主要な半面で、全てを受容し包容する大地の母としての生命的原理を表し、他方、「老賢者」は「太母」と対比的で、同様に「自己元型」の主要な半面で、理性的な智慧原理を表します。

(5)「自己」(ゼルプスト)=心全体の中心であり、心の発達や変容作用の根源的な原点となる「元型」。宗教的にはの刻印」とも見なされます。

「内なる理想像」~ユング心理学者河合隼雄などの知見をふまえて「元型理論」を一般化すれば、人間の「心」の奥底には「父なるもの」(理想的父性像)と「母なるもの」(理想的母性像)が存在し、ここから「父性原理」「母性原理」が成り立ちます。

 また、「内なる男性」(理想的男性像)と「内なる女性」(理想的女性像)が存在し、ここから「夫婦関係」を成立させる「相補性原理」が成立します。

 さらに、「まぼろしの兄」(理想的兄弟像)と「まぼろしの姉」(理想的姉妹像)が存在し、ここから「友情」「恋愛感情」の土台にして、それらを成熟させる要素となる「兄弟姉妹関係」が成立ます。

 これらが悲惨な環境の中にあっても、人間をあるべき方向(理想)に導く羅針盤の役目をすることが分かります。こうして育まれるのが「内なる私」「本当の私」です。


「家族的無意識」ソンディが提唱した、フロイトの「個人的無意識」ユングの「集合的無意識」の間にある「無意識」の層です。「運命心理学」「運命分析学」「衝動心理学」とも言われる「ソンディ心理学」では、「衝動」というものは祖先から遺伝子を介して受け継いだものと考えています。

 ソンディが最初にそのことに注目したのは、ソンディがまだブタペストの高等学校を卒業して間もない頃、ブタペストの大学に入学する以前、ドストエフスキーに没頭していたことに始まります。「罪と罰」「カラマーゾフの兄弟」などを読み進むうち、彼には次のような疑問がわいて来たといいます。すなわち、ドストエフスキーは何故、「殺人者」を主人公に選ぶのか、ということです。そして、ソンディはその答えとして、「ドストエフスキーの心の中には、殺人者と同じ欲求が潜伏しているのではないか」と考えたのでした。

 彼はドストエフスキーの家系を調べて行き、その家系に殺人者や、一見それとは正反対に見える、宗教家をも見出したのですが、そこからさらに髪や眼や肌の色や鼻やあごの形や足の長さなど、形質の遺伝ばかりでなく、「欲求」にも遺伝があり得るのではないか、との考えを持つに至ったのでした。

 そして、この考えは従軍の後、ブタペスト大学からウィーン大学に移り、ワーグナー・ヤウレッグ教授の下で精神医学を学び、実際の症例に基づいて、詳しい家系研究に携わる頃には確信に近いものになったというのです。「衝動」の集合である「心」は、「家族的無意識」の遺伝として先天的に形成されるものであるとする立場に立つと、ある家族においては「運命」もまた繰り返されるということになります。そして、いろいろな世代において何回も何回も似たような恋愛の相手や結婚の相手、似たような職業、似たような死に方さえも無意識に選ばれるのかも知れないのです。

「家族的無意識。この無意識の中では、すでに受精時に『前個人的な、抑圧された、家族的な祖先の欲求』が力動的に生存し続け、個人の運命を危険にさらすのである。このような祖先の欲求――『遺伝素質』と呼んでもよいであろうが――との対審と、個人が隠された祖先と最終的に和解することは、運命分析の特別な課題である。」(L・ソンディ)

「運命分析は、個々の人間は世界に対して一つの生活設計をもってこの世に現われるのであり、その生活設計は、かくされた遺伝素質の指導の下で、われわれの運命を形成する選択行動を無意識的に規定すると主張する。人間は、世界に対して、反人間的および人間的な衝動要求をもってこの世に現われる。というのは、祖先や遺伝素質において、反人間的なものならびに人間的なものに対する素質が、かつてすでに存在したからである。彼はこのような遺伝的に規定された、対立した運命可能性の圏から逃げることはできない。」(佐竹隆三『運命心理学入門 ソンディ・テストの理論と実際』)


「個人的無意識」~フロイトによれば、人間には無意識の過程が存在し、人の行動は「無意識」によって左右されるという基本的な仮説に基づいています。フロイトは、現在の解離性障害や身体表現性障害に相当するヒステリーの治療に携わる中で、人は意識することが苦痛であるような欲望を無意識に抑圧することがあり、それが形を変えて神経症の症状などの形で表出されると考えました。そのため、無意識領域に抑圧された葛藤などの内容を自覚し、表面化させて、本人が意識することによって、症状が解消しうるという治療仮説を立てたのです。


【参考文献】

『脳の心』(時実利彦、岩波新書)

『人間であること』(時実利彦、岩波新書)

『家族関係を考える』(河合隼雄、講談社現代新書)

『自己成長の基礎知識① 深層心理学』(R・フレイジャー、J・ファディマン、春秋社)

『運命心理学入門 ソンディ・テストの理論と実際』(佐竹隆三、黎明書房)



深層意識・潜在意識・表層意識からなる「私」の多層性

 「深層意識」の中にキリスト教的「神性」「原罪」、仏教的「仏性」「業」、儒教的「本性」、ユング的「元型」などが存在し、「潜在意識」の中にフロイト的「抑圧」「トラウマ」、「ウォンツ」などが存在し、「表層意識」の中に「自我意識」「ニーズ」「嗜好性」などが存在していると思われます。自覚的な「私」(表層意識)は10%にも満たず、氷山の一角であるといいます


「阿頼耶識」(あらやしき)~「根本識」「一切種子心識」(いっさいしゅじしんしき)「蔵識」(ぞうしき)とも言います。心識の根本的主体にして、全ての経験・記憶の保持者であり、輪廻(生まれ変わりではありません)の主体であると共に、悟りの当体でもあるといいます。中期大乗の『解深密経』(げじんみつきょう)の中心思想として出て来ました。これは後の唯識思想の先駆とも言えます。


「如来蔵」(にょらいぞう)~「仏性」とも言います。中期大乗の『勝鬘経』(しょうまんぎょう)で説かれました。


「唯識思想」「阿頼耶識」思想人間の「矛盾性」「罪性」の分析から生まれたもので、儒教で言えば「性悪説」の精緻な分析です。「如来蔵」思想人間の「本性」「仏性」「神性」の分析から生まれたもので、儒教で言えば「性善説」の精緻な分析です。やがて、この両者は中期大乗の『楞伽経』(りょうがきょう)で融合・統合され、儒教で言えば「性善・性悪説」となるのですが、さらに「瑜伽」(ゆが、ヨーガ)実践の見地から『瑜伽師地論』(ゆがしっちろん)において修行過程が編成され、「唯識思想」の誕生となります。

 これは大乗仏教の根本的再編成となり、その実践的側面は続く後期大乗・密教によってさらに強化されることとなりました。

(1)「前五識」眼識(視覚)、耳識(聴覚)、鼻識(嗅覚)、舌識(味覚)、身識(触覚)。

(2)「意識」(第六識)=思考力を媒介とする六種の認識機能。

(3)「末那識」(まなしき、第七識)=自我意識、一部潜在意識。

(4)「阿頼耶識」(第八識)=深層意識。

「コロラド大学のニコラス・シードは、ハツカネズミの脳を取り出し、それを処理してバラバラな細胞にした。彼はこれらを試験管内の培養液中に入れ、数日間、静かに振り動かした。すると最後に分離した細胞は再び集合し、脳の小片を形成したが、そこでは細胞が正常なシナプスでつながり、正常の生化学的反応を示し、自然の髄鞘を発達させていた。

 どういうわけか、細胞は元のパターンを再構成することが出来る。細胞は分子記憶を持っており、分子記憶が一つの細胞から別の細胞へと伝えられるので、新しい細胞が親細胞の行動を再現出来るのである。変化、つまり突然変異が生じると、これもまた子孫に忠実に複製される。死んだものが時間を無視して再び生き返るのである。生命の循環のパターンは、物質は決して滅びず、後日、再現するために系に戻って来ることを意味している。生物は再生の過程で同じ行動パターンを持った同じ形態を生じる。」(L・ワトソン『スーパーネイチャア』)

「実際、フロイト及びその弟子達(K・アブラハム、E・ジョーンズ、K・ホーナイ)の全著作に展開されている中心的思想は次の通りである。すなわち、我々が生まれ落ちて以来、我々各人の中の太古的精神の諸表現、原始的諸傾向は社会によって抑圧される。人間はそのような太古的精神をすでに乗り越えているのだが、完全に抹殺するには至っていない。

 第一に、抑圧は心理的葛藤を生じさせる。我々の中にはそうした葛藤をいつまで経っても解決出来ない者がいる。その場合、彼らの人格発達と大人としての成長は妨げられたり、乱されたりする。

 第二に、抑圧された諸傾向は決して消滅することなく、社会的習慣の背後に身を潜め、思いがけないきっかけを利用して外へ表われて来る。その表われ方は様々で、時には遊戯、戦争、迫害等の形で激しくほとばしり出たり、あるいは何でもないような出来事の隠れた象徴的な姿のもとに、あるいは満たされない欲望に禁じられた満足を与える夢となって、あるいは言い間違い、失錯行為(しくじり。例えばど忘れ、言い間違い、貴重品の喪失、思いがけないヘマ、重大な仕事の放棄など)、神経症的行動(神経症の状態。精神外傷によって誘発され、感情生活の障害を伴う精神疾患。社会的不適応の原因)となって浮かび上がって来る。

 社会的拘束のために抑えつけられているエネルギーは、社会が原始的人間性の暴力に対抗して築いた堤防を打ち破り、ささいな機会をとらえて溢れ出す隙を窺っている。

 しかしながら、これらの抑圧された衝動のエネルギーは、人間の高尚な生活(芸術的、科学的、技術的、宗教的活動など)に活力を提供するという方向にはけ口を見出すこともある。この場合、そのエネルギーは昇華されたという。言い換えれば、自然が目指していた目標とは異なった目標にそらされたわけである。フロイトによれば、文化及び文明のあらゆる努力はまさしく我々に少しずつ社会的拘束を受け入れさせ、その補償として精神的な快感――与え合い、知識を分かち合い、共同で技術的征服を成し遂げる喜び、芸術的瞑想の喜び、愛し愛される喜び――を我々に提供することに存する。

 しかしながら、フロイトの考えるところでは、文化と教育は大体においてこの任務をしくじっており、我々の不安、不幸、苦悩、暴力の原因はそこにある。まず第一に、教育課程は無意識の感情層を知らず、子供に精神外傷を与え、暴力をもって子供を強制し、各人のうちに皮相で脆弱な社会的自我を形成するだけで事足れりとしている。この社会的自我の動機づけは『超自我』に由来しているが、超自我は我々の欲望を禁圧するだけで、ほとんどの場合、この欲望と社会的禁止とがなぜ葛藤するのかの理由を示してはくれない。社会は我々を我々自身に敵対せざるを得ない状況に追い込み、様々なコンプレックスの源泉となる。社会(文化、教育、道徳、宗教)は我々の衝動を抑えつけるが、その結果、どういうことになるか、抑圧がどのような事態を招くかなどを斟酌しない。

 第二に、社会の中で本能的衝動を高尚な活動にまで昇華出来るのはエリートだけである。大部分の人間は、依然として社会的・道徳的・宗教的拘束の下に生活しており、なぜそうしなければならないのかの理由を理解出来ず、また、文明が提供する諸々の補償の恩恵に浴することも出来ない。大衆の精神的惨めさと不安定、不幸はそこから生ずる。

 第三に、フロイトの考えるところによれば、社会的制裁は常に宗教的脅しと組み合わさっており、人間を二度と再び立ち上がれないのほど責め苛む。そのため、病的な集合的罪悪感が育まれ、重大な精神的不安の原因となる。」(ジャン・ポール・シャリエ『無意識と精神分析』)

「家族的無意識とは『無意識の核心』の一部であり、その中で祖先の欲求、祖先の像、したがってまた家族的な(個人的でも集合的でもない)遺伝型が潜在的な状態で存在し、子孫の生命の中で顕現しようとしているのである。我々はこの家族的無意識を核組織の中に、すなわち染色体、細胞の遺伝子の中に局在させるのである。それ故に、それは個人の遺伝運命ないし強制運命を規定するのである。――家族的無意識の最も重要な機能のうちの一つは、恋愛、友情、職業、疾患、および死亡形式による無意識かつ強制的な選択、つまり簡単に言えば、強制運命の選択である。」(L・ソンディ)


【参考文献】

『唯識の心理学』(岡野守也、青土社)

『唯識のすすめ 仏教の深層心理学入門』(岡野守也、NHK出版)

『スーパーネイチャア』(L・ワトソン、蒼樹書房)

『無意識と精神分析』(ジャン・ポール・シャリエ、せりか書房)

『運命心理学入門 ソンディ・テストの理論と実際』(佐竹隆三、黎明書房)




(5)「脳の活用」と「心の活用」は別物なのだ

「心」は「脳の産物」「脳の機能」か?

 素朴な唯物論者は「心」は脳の神経活動そのもの、化学反応の産物、脳の機能であると考えます。大多数の脳科学者もこれに入るでしょう。もしそうであるならば、「脳」が消滅した途端(「死」)、「心」も消滅しなければなりませんが、「臨死体験」「近似死体験」の研究や「霊性」の研究から、「心」はむしろ「霊魂」の方に存在すると考えられます


「臨死体験」~1975年に医師のエリザベス・キューブラー=ロスと、医師で心理学者のレイモンド・ムーディが相次いで著書を出版したことで目されるようになりました。 キューブラー・ロスのそれは『死ぬ瞬間』(1975年)で、約200人の臨死患者に聞き取りし、まとめたものです。欧米での研究では、臨死体験には共通してあらわれやすい要素があることが指摘されています。

・自分の身体の外側に抜け出たような感覚(体外離脱体験

・暗いトンネルを光に向かって通り抜ける体験(トンネル体験

・光に満ちた、お花畑のような美しい世界(光体験

・人生を走馬灯のように振り返る(人生回顧体験

・境界線(三途の川など)を見る(異世界体験。生還者はそこを超えない)

・死者の霊や神との出会い(守護霊体験。帰れと言われることが多い)

 これは特定の宗教・信念・文化・性別・年齢などによらず、普遍的な実在を示すものであり、これを一般的に「霊界」と呼ぶならば、そこに行く存在は「霊魂」「霊人」、こうした霊的世界に対する感性は「霊性」ということになるでしょう。

 近代医学・近代心理学は「宗教と科学の分離」のあおりを受けて、どこまでも「唯物論的説明」にこだわろうとしてきましたが、現代医学においては臨死体験の研究から「死生学」が誕生し、現代心理学では宗教体験を説明する「トランスパーソナル心理学」が誕生しました。「唯物論」「唯心論」を統合するような「二重存在論」に立つ「統合医学」「統合心理学」が必要とされる時代に入ったと言ってもよいでしょう。

「しろうとも多くの科学者も、科学は世界を小さな物質からできていると見ている。『だが、そういう考え方は間違っている』と、カリフォルニア州バークレーのローレンス・バークレー国立研究所の物理学者ヘンリー・スタップは言う。少なくともハンガリーの数学者ジョン・フォン・ノイマンが三〇年代に提起した量子理論のひとつは、『世界は小さな物質で成り立っているのではなく、小さな知識――主観的、意識的な知識――の集積で成り立っていると考えている』とスタップは語る。しかしこの考え方は唯物論者の世界観を覆すにはいたらなかった。唯物論的世界観がすっかり勝利をおさめているので、精神生活には軸索を伝わる電位以上の何かがあるかもしれないとひかえめに提案しただけで、『科学がわかっていない』とレッテルを貼られるおそれがある。事実、九七年にわたしが神経科学会の元会長とのディナーの席で同じことを言ったとき、元会長はこう言い切った。『なるほど、そういうことを考えているのなら、あなたは科学者ではないね』

 意識や感情、思考、創造性の火花などがほんとうに神経回路の集積の電気化学的な活動だけから生じるのか、と疑問を投げかけたりすれば、救われない二元論者だと切り捨てられることは確実だ。

 なんと、恐ろしいレッテルだろう。」(ジェフリー・M・シュウォーツ『心が脳を変える 脳科学と「心」の力』)

「精神的なものと、脳を含む物質的なものは全く違う。・・・自発的な意志を持ち、自由に動き回る。意志を行使することで、非物質的な心は物質である人体という機械を動かすことが出来る。」(デカルト)

「唯物論の問題は、いくら足し合わせても心になり得ないものから心を組み立てようとすることだ。」(コリン・マッギン)

「二元論的相互作用説の核心は、心と脳が独立した別個の存在だということだ。そして、この2つは量子力学によって相互に作用している。」(ジョン・エックルズ)

「物理的プロセスと主観的体験を結びつける心理・物理法則が必要だ。量子メカニズムのある側面が、これに実にうまく当てはまる。」(チャルマーズ)

「量子理論は思考と脳の活動のつながりという問題に、全く新しい光を投げかけている。・・・古典的な力学の考え方に量子力学が取って代わったことで、心と脳の二分法の様相も、心と脳の関係も一変した。」(ヘンリー・スタップ)


【参考文献】

『死ぬ瞬間―死とその過程について』(エリザベス・キューブラー=ロス、中公文庫)

『心が脳を変える 脳科学と「心」の力』(ジェフリー・M・シュウォーツ、サンマーク出版)



高度な宗教修行者は「脳」と「心」が別物であることを知っている

 仏教修行の土台であるヨーガでは「体位法」「呼吸法」「瞑想法」の3つを駆使しますが、このうち「体位法」「呼吸法」が「脳」及び神経内分泌中枢の開発に主眼を置き、「瞑想法」は「心」の開発に主眼を置いています。ただ、「脳」と「心」は別物であると同時に密接不可分の関係にあり、「脳」を離れて「心」は成長せず、「心」を離れては「脳」は機能しないのです


「心脳二元論」「脳」は記憶しますが、興味を持つのは「心」です。いくら「脳」が経験しても、「心」が興味を持たないものは「脳」は一切取り入れません。したがって、それは経験にならないのです。例えば、「脳」は神を認めなくても、「心」は神にすがるのです。


「シャマタ」奢摩多「止」)~「心」が止滅した状態。外界の対象に向かう感覚器官を制御して、心の働きを静める行です。「無心定」とも言います。一般的な「瞑想法」としては、自己を完全に否定するプロセスが必要になります。


「ビバシャナ」毘鉢舎那「観」)~統一された心の思惟観察の働き。静まった心に対象の映像をありありと映し出す観法の行です。一般的な「瞑想法」としてはイメージ力の強化が必要となります。


「双運」(そううん)~「止観」シャマタ・ビバシャナ)の行を同時に行なうこと。対象を完全に消滅させると同時に、全く別の対象をそこに現出させる行です。「成仏法」(成仏陀)も「成功法」も全ては突き詰めれば「双運」です。

 すなわち、竜樹ナーガールジュナ)らが大成した初期大乗・空仏教の目指した「空」を、無着アサンガ)・世親ヴァスパンドゥ)らが大成した中期大乗・唯識思想では完全なるシャマタによって実現し、さらに強力なビバシャナによって「仏陀」の現出を図るという「速疾成仏」論が説かれます。これはそのまま後期大乗・密教に引き継がれ、古代ヨーガの技法を「身密」体位法アーサナ印契ムドラー)、「口密」真言マントラ)、「意密」三昧サマディ)の「三密加持」に再編成し、その行法次第を「曼荼羅」に集約して、「即身成仏」論を展開していくのです。

  「千年に一人の天才」と称される空海はこの「即身成仏」を宮中で実践して見せたという記録もありますが、その後の真言宗で空海を超える人物が出るはずもなく、鎌倉新仏教に至っては浄土宗法然浄土真宗親鸞「南無阿弥陀仏」という「口密」に、臨済宗栄西「公案禅」という「意密」に、曹洞宗道元「只管打坐」という「身密」に、日蓮宗日蓮「南無妙法蓮華経」という「口密」に重きを置き、実質的に「一密加持」に徹していきました。したがって、現代の成功法でもこうした宗教的修行法のエッセンスを一般化・普遍化して活用していけばいい、ということになるわけです。


「祈り」「瞑想」自己への沈潜ですが、これが内なる自己良心内なる神との対話になると、「祈り」となります。両者の違いは自己が主体か対象かということです。つまり、「祈り」には明確に祈る「相手」がいるということです。したがって、「瞑想」は仏教において最も高度に発達した宗教的修行法の一種ですが、「祈り」はキリスト教の「幼子の祈り」に代表されるように、どの立場からでも始めることができ、「ゲッセマネの祈り」のように神との深い対話にまで至り得るものであると言えます。

「山中鹿之助(鹿介)といえば戦国時代の有名な豪傑である。その鹿之助はいつも「七難八苦を与えたまえ」と神に祈っていたという。それをある人が不審に思って、その理由をたずねると、鹿之助は、「人間の心、人間の力というものは実際にいろいろのことに出合ってみないと自分でもわからない。だから、いろいろな困難に直面して自分をためしてみたいのだ」と答えたという。「憂きことの なおこの上につもれかし かぎりある身の力ためさん」という歌が彼の作として伝えられている。人間が神仏に祈るという場合、その内容はいろいろあるだろうが、概していえば、いわゆるご利益を願うのがふつうだと思う。幸せを祈ったり、健康を祈ったり、あるいは金儲けを祈るということはあっても、困難や苦労を与えてほしいと願う人はまずほとんどいないのではなかろうか。だから、七難八苦を与えたまえという鹿之助の願いを周囲の人が不思議に思うのは当然だといえよう。しかし、鹿之助はあえてそれを祈った。それは困難によって自分をためし、自分をきたえたいと考えたのでもあろうが、同時にそのようにみずから祈ることによって、われとわが心を励ましていたのではないだろうか。」(松下幸之助『指導者の条件』)

「祈りは、自分の心を清純にして、小知小才に頼らず、素直に、与えられた自分の生命力を完全に生かしきるために行うのだと思います。人間は宇宙根源の力から、実に偉大な生命力を与えられているのです。ところが、私たちはとかく自分の勝手な意欲に迷い、この与えられた力を素直に生かしきらない場合が多いのです。そこで、自分の我欲を捨て、清純な心になって、この力を素直に発現させるために、「祈り」ということを行うのです。ちょうど鏡の前に立って、自分の身の容姿を直すのと同じように、自分の心の容姿を正すために「祈り」があるわけです。ですから、神や仏に、求めたり頼んだりすることは、正しい「祈り」のしかたではないと思います。もっとも、お祈りするときには、神や仏にお願いしたりすがったりするという、通念的な潜在意識があり、また人情として、こういう言葉が出てくることは当然ですから、別にこれを止めるわけでありません。ただ「祈り」の本質とはどういうものであるかということを、はっきり知っていなければならないと思います。」(松下幸之助『松下幸之助発言集37』)

「足あと

ある夜、私は夢を見た。私は、主とともに、なぎさを歩いていた。

暗い夜空に、これまでの私の人生が映し出された。

どの光景にも、砂の上に二人のあしあとが残されていた。

一つは私のあしあと、もう一つは主のあしあとであった。

これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、

私は砂の上のあしあとに目を留めた。

そこには一つのあしあとしかなかった。

私の人生でいちばんつらく、悲しいときだった。

このことがいつも私の心を乱していたので、私はその悩みについて主にお尋ね

した。「主よ。私があなたに従うと決心したとき、あなたは、すべての道にお

いて私とともに歩み、私と語り合ってくださると約束されました。

それなのに、私の人生の一番辛いとき、一人のあしあとしかなかったのです。

一番あなたを必要としたときに、

あなたがなぜ私を捨てられたのか、私にはわかりません」

主はささやかれた。

「私の大切な子よ。私はあなたを愛している。

あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みのときに。

あしあとが一つだったとき、私はあなたを背負って歩いていた。」(マーガレット・F・パワーズ)


【参考文献】

『唯識の心理学』(岡野守也、青土社)

『唯識のすすめ 仏教の深層心理学入門』(岡野守也、NHK出版)

『自己成長の基礎知識③ 東洋の心理学』(R・フレイジャー、J・ファディマン、春秋社)

『指導者の条件』(松下幸之助、PHP研究所)

『松下幸之助発言集37』(PHP総合研究所研究本部「松下幸之助発言集」編纂室、PHP研究所)

『あしあと<Footprints>―多くの人を感動させた詩の背後にある物語』((財)太平洋放送協会<BPA>)



「脳の活用」は脳科学で、「心の活用」は深層心理学で

 「脳」は「人体最後のフロンティア」と呼ばれ、最も高度で複雑な臓器ですが、20世紀後半から急激に研究が進んでいます。当時はまだ「脳科学」という言葉はなく、「大脳生理学」と呼んでいたのです。総合的な「脳科学」の成果は「脳の活用」の仕方を教えてくれます

 一方、古くて新しい「心の学問」たる心理学は、「心の活用」とも言うべき性格形成論から人間関係論にまで応用されるため、誰もが知っておくべき教養として考えるべきでしょう


「大脳生理学」~1909年、大脳皮質の細胞構築学的研究をしたブロードマンにより、ヒトの大脳皮質は52の分野に区分され、各皮質野に番号を付けた地図(「ブロードマンの脳地図」)が作成されました。さらに発生学的に「旧皮質」「古皮質」から成る「大脳辺縁系」「新皮質」から成る階層構造になっていることが明らかになりました。そして、1960年代から1970年代にかけてスペリー(ノーベル生理学・医学賞受賞)らによる「分離脳研究」が盛んになり、「左脳」「右脳」の機能が明らかになると共に、ペンフィールドエックルズ(ノーベル生理学・医学賞受賞)らによって「脳」「意識」の問題が追求されるようになったのです。1980年代に入って、放射線で血流を断層撮影するポジトロンCT(PET)や機能的MRI(磁気共鳴断層撮影)などで脳の活動を科学的に計測出来るようになり、脳研究が格段に進むこととなりました。かくして「大脳生理学」神経生理学)に関連諸科学を統合した「脳科学」神経科学)が成立することとなったのです。


「脳の活用」~知恵や知識を問うテストの成績は大体60歳代をピークにゆっくりと下がっていきますが、「前頭連合野」の働きを調べるテストでは、20歳を過ぎると直線的に下がっていくことが分かっています。これが「20歳から脳は真っ直ぐに退化する」と言われる所以です。

 同じ作業を繰り返していると「脳」の働きはどんどん下がっていきますが、これは「学習」の機能、「慣れ」などにより、「脳」をあまり使わなくてもいろいろな作業が出来るようになっていくためで、この「慣れ」が起こらない例外中の例外が単純な数の「計算」といった「数を扱う」行為と文章の「音読」といった「文字を扱う」行為です。これらは常に「前頭連合野」を活性化させるといいます。川島隆太東北大学加齢医学研究所教授の研究によれば、認知症の高齢者5千人以上に毎日10~15分間、ひらがなを拾い読みしたり、数を数えたりする学習をしてもらったところ、約20人の寝たきりの人が起きられるようになり、2~3割の人がおむつを外すことが出来たため、介護保険の節減効果まで算定したといいます。

 日本では江戸時代から寺子屋教育初等教育)の中心に「読み・書き・そろばん」を置いていましたが、社会の要請や経験則から成されたものとはいえ、「脳科学」の観点から見ても意味のあるものだったのです。

 さらに「前頭連合野」の活性化という観点から、次のようなことが有意味であるといいます。

(1)「早起き」「生活時間のコントロール」)=「脳」の機能を測定すると、明らかに午前中の方がレベルが高く、「早起き」をすると、心身が一番良く働く午前中に活動ができることを保証してくれるわけです。実際、数学などが出来なくて落ちこぼれた生徒を指導する際にも、勉強以前の問題として「規則正しい生活」を確立した上で、小学校1年からやり直すという方法が最も効果を挙げています。実は勉強には一定時間思考を集中させ、記憶を照合し、あらゆる角度から可能性を検討するといった「マネジメント能力」が必要なのであり、「生活」を正すということは「マネジメント能力」の基本でもあるのです。

(2)「食事」(きちんと栄養を摂る)=「脳」の重さは全体重のわずか2%に過ぎませんが、体全体のエネルギー消費量の約20%を消費するといいます。

 バランスの取れた「栄養」としては、「豆類、ゴマ類、ワカメ(海藻)類、野菜、魚、シイタケ(キノコ類)、イモ」の7品目が挙げられ、最初の字を取って「孫はやさしい」と覚えます。「豆類」には記憶力を高める伝達物質アセチルコリンの前駆体であるレシチンが多く含まれていますし、魚の消費量が多い国はうつ病の発症率が低いという統計データがありますが、これはDHAが関与していると見られており、DHAはイワシ、サンマ、マグロといったいわゆる青魚に特に多く含まれています。

 他に「タケノコ」「米」などがありますが、タケノコにはドーパミンノルアドレナリンの前駆物質であるチロシンが多く含まれています。また、脳はエネルギー源としてブドウ糖しか使えませんが、このブドウ糖を摂取するのに一番なのが「米」であり、「米は脳のスーパー食」と言われているのです。

 これらをふまえると「脳」にとっての最適食は「日本食」であることが分かります。逆にカリウムや塩分が過剰に加えられているジャンク・フード(ハンバーガーやフライドチキンなど)は「脳」にダメージを与える食事なのです。

(3)「読書」「脳」を使うための「環境」からの「栄養」です。実は「脳」の中で真っ先に老化するのは「前頭連合野」であり、これが衰えると、好奇心や創造力、柔軟性が減退するため、同じ行動を繰り返すようになり(「固執傾向」)、その結果、頑固となるわけです。

(4)「ウォーキング」=「脳」の中でも「前頭連合野」に最も多くの血液が送られていますが、この血流不足を解消するのに有効なのが「エアロビクス」有酸素運動)であり、現時点でその効果が実証されているが「ウォーキング」です。これに対して、ジョギングは「脳内モルヒネ」を分泌するため、「ジョギング中毒」になることがあるといいます。「脳内モルヒネ」によって、いわゆる「ランナーズ・ハイ」の状態になっているわけです。

(5) 「楽しいことに熱中すること」


「潜在意識の活用」「潜在意識」「畑」であり、そこに蒔いた「種」(自己の想念)がそのまま結実することが知られています。「失敗への恐れ・不安」をいつも抱いていれば、時間と共にその如く結実して「失敗」し、逆に「成功への意志・決意」を絶えず確認していれば、時間と共にその如く結実して「成功」するというのがその最も基本的な活用法です。このために有効な方法として、「願望」を「書く」ということが挙げられます。これは単に「思う」だけではなく、「書く」「潜在意識」に明確に刻み込まれるからです。あるいは「イメージ力」を高めるために、電線に止まっているすずめを一瞬のうちに眼に焼きつけ、眼を閉じてそれを1羽1羽数えていくというトレーニング法もあります。

「想像力は知識より偉大である。」(アインシュタイン)

「自分が頭の中で考えることは、間違いなく実現するのであり、外的な状態、状況、事件、体験などは、自分が習慣的に考えたり頭に描いたりしていることを、正確に反映するものなのだ。」(J・マーフィー『眠りながら巨富を得る』)

「人生とは、我々が自分の潜在意識に預け入れたものとまさに同じものを自分に反映する鏡です。」(J・マーフィー『眠りながら巨富を得る』)

「あなたは何になりたいのか、何をしたいのか、また何を持ちたいのかについて、はっきりした心の絵を描いて下さい。あなたの潜在意識の力と知恵があなたを支持していることを知りなさい。辛抱強く、あなたのなりたいものになる決心をしなさい。あなたの心の絵は潜在意識の中で現像され、客観世界で実現されるのです。」(J・マーフィー『眠りながら巨富を得る』)


「直観力の活用」~人間には論理的分析思考といった能力もありますが、さらに「直観的把握」という優れた能力を持っていることが知られています。

  「逆境」「人生の岐路」といった重大な「選択」を迫られる「時」においては、「直観」が大きくモノを言う場合があります。成功した企業家、ベンチャー・キャピタリストなども最終判断は「論理」「思考」の積み重ねではなく、「カン」で決めるというケースが多く見られるのも、こうした「直観力」ゆえに世の中の流れや潮目が読めるためでもあります。逆に論理的に整合性のある答えを求めても、後付けの理由以外答えられないことがあるものです。こうした「直観力」「直観的把握力」「カン」を磨くための訓練として、例えば、電話がかかってくれば誰からだとか、エレベーターのボタンを押したら瞬時にこのエレベーターにランプがつくとかいったように何でも当ててみることや、「内省」「観想」「瞑想」の時間を持つことも有効な方法であるとされます。

「あなたの全生涯は一連の選択から成り立っているのです。あなたの経験はすべて、あなたの選択の総計なのです。あなたは自分の読む本とか、着る服とか、通う学校とか、共に仕事をやるパートナーとか、住む家とか、乗る車とかを絶えず選択しているのです。あなたが選択する考えとか、イメージとか、アイデアの種類に注意を払いなさい。愛すべきもの、よい評判のあるものを選びなさい。」(J・マーフィー『眠りながら巨富を得る』)

「神を選択し、神のみがその解答を知っていることを悟りなさい。二人の求婚者がいて、どちらを選ぶべきかまどい、決断がつかない場合は、神、すなわち無限の知性がその正解を知っているのだと悟りなさい。解答を観想しなさい。そうすれば至高の知性がそれに応じてくれます。それは失敗することがないのです。」(J・マーフィー『眠りながら巨富を得る』)

「沈黙は偉大なるものが自然に形成される固有の環境である。」(カーライル)

「神のささやきが聞こえるように沈黙しよう。」(エマソン)


【参考文献】

『幸せになる成功知能HQ』(澤口俊之、講談社)

『自己成長の基礎知識② 身体・意識・行動・人間性の心理学』(R・フレイジャー、J・ファディマン、春秋社)

『眠りながら巨富を得る』(J・マーフィー、三笠書房)




(6)「心」の3つの扉を開けてみよう

「第一の扉」は誰でも出入り自由

 人間の「心」には建前・本音・本心の三層があり、「心の壁」にも3つの扉があります。その「第一の扉」は基本的に誰でも入って来てよいとする(心理的抵抗が少ない)、建前や付き合いの世界です。


「第二の扉」はごく親しい人にのみ開かれる

 より深奥にある「心」の「第二の扉」を開くと、本音の世界が広がります。誰でもかれでも入れてしまうと軋轢が生じたり、自分が傷ついたりしてしまうので、心を許したごく少数の人にのみ開かれるのです。身内や親友だけが出入りするが、時としてここを固く閉ざして開かない人もいます。


「第三の扉」は自分ですら開けたくない

 「心」の最深奥にある「第三の扉」はほとんど開けたこともなく、カギもさびついていて、自分すら入れないこともしばしばです。むしろ入りたくない、開けて中を見たくない扉です。古来、アウグスティヌスやルター、マザー・テレサなど、劇的な「回心」を遂げた人は、この「第三の扉」をノックされ、ついに開けてしまった人達なのです。






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