ちょっと切ない「学歴社会」の現実!

(1)日本社会は「最終学歴主義」

 日本という社会は「学歴社会」であることはよく知られています。考えてみれば、受験やバイト、就職といったあらゆる機会に、履歴書で「学歴」を示すよう求められますね。そこでは大体中学校卒業から記載するようになっていますが、果たして人事や採用担当者はこれを逐一チェックしているのでしょうか?答は「最終学歴」のみを厳しくチェックしているということです(そこしかよく理解できないとも言えます)。
 この「最終学歴」によってはなりたくてもなれない職業があるのも事実ですし、採用、初任給、人事配置、昇給、昇進といったあらゆる局面で差がつくのも避けられません。「大体、十八歳頃の学力だけで一生が左右されるなんてどういうことだ!」というクレームが聞こえてくるところですが、社会の現実がそうなっていることを認めないわけにはいかないでしょう。
 人によっては「学歴不用論」を唱える方もいらっしゃいますが、たいていその人は一定の「学歴」を得ている場合がほとんどです(しかも「高学歴」だったりする)。つまり、最初から最低限のセーフティネットを確保しているので、安心して「学歴なんて関係ないさ」とうそぶくことも出来るわけなのです(困ったもんですね)。「十万円から株で一億円が儲けられる!」本と同じで、これを読んだビギナーさんで、本当に「十万円から株で一億円儲けた人」の話を聞いたことがありますか?実は「すでに株で一億円儲けたことがある人が、十万円から一億円儲けることが出来る」のです。すでにノウハウが確立されているので、ムダを無くして最短距離を行くことが可能になるのです。
 実際に学歴なくして成功した人はたくさんいますが、「学歴コンプレックス」は意外に尾を引いていることが多いのです。

(2)最終学歴は「三つの階層」に分類される

 では、「最終学歴」は具体的にどのように評価されるのでしょうか。基本的には「大卒」「短大・専門学校卒」「高卒」の「三つの階層」に分けるのが普通です。もちろん、これより上に「大学院卒」があり、これより下に「中卒」がありますが、圧倒的大多数はこの「三つの階層」に分類されると言えるでしょう。そうです、実は日本は「最終学歴」を基準にした「階層社会」になっているのです。欧米はもっと固定的な「階級社会」になっていますので、使っている言語や意識、生活様式も大きく異なり、交友や婚姻などに大きな制限が出てきますが、日本はそこまで行っていませんので、「階層社会」と言う方が適切でしょう。「階層」ですから、「階級」と違って、比較的移動は楽であり、努力して新たな「学歴」を得ていけば、上の階層に入っていくことが誰にでも開かれているとも言えるでしょう。
 これは明治維新以来、日本が封建社会の身分制システムを捨て、代わりに採用した社会形成システムなのです。これが近代化の推進という目的において、実にうまく機能したことは歴史が証明しています。「学歴社会」とは厳しい現実のようですが、一面では可能性のあるシステムでもあるのです。

(3)「一九九二年問題」と「二〇〇七年問題」

 「少子化」による「大学全入時代」が到来すると言われています。いわゆる「二〇〇七年問題」です。これは「十八歳人口」の減少から、「大学志望者数」が「全大学の定員数」を下回ってしまうため、「選ばなければとりあえず大学には行ける」というものです。これと逆の状態だったのが「一九九二年」で、「全大学の定員数」に対して「大学志望者数」の三分の一が余ることとなり、大量の浪人が生まれることとなりました。当時は相当優秀な人でも合格できず、「一浪はヒトナミ(人並)」と普通に言われていたのです。これを「一九九二年問題」と呼ぶとすれば、わずか十五年で何という様変わりでしょうか。当時の受験生からすれば、今の受験生は全く恵まれているとしか言えないでしょう。
 この「二〇〇七年問題」の影響は早々と下位大学から影響が出始め、定員割れの学部を抱える大学が増えてきて、「推薦入試では全員入れる」という大学も出ているほどです。その影響は次第に中堅大学に及び、何と、変化が起きるとしても二〇〇七年を過ぎてからだろうと思われていた上位大学まで変動が起きていることが確認されています。具体的には「以前なら入れないはずの受験生が六大学や関関同立といった上位大学に受かり始めている」という声が全国的に出てきたのです。もちろん勉強しないでも受かるはずはなく、受験生は一生懸命勉強しているわけですが、「以前よりもその努力が報われやすくなっている」ことは事実です。いわば「ブランド品のバーゲンセール」が起き始めているので、今は「大学受験しないとソン」と言えるかもしれません。

(4)今や「大卒」は「高卒」並み

 かつては「高校くらいは出ておかないと」というのが一般的な社会通念でした。現在は高校進学率が九十七%前後にまで達しているので、「高卒」は当然というのもうなずけるところです。ところが、「大学全入時代」到来を迎え、経営難から大学も淘汰される時代になってくると、「大学くらいは出ておかないと」という感覚が次第に普通になってくると思われます。
 アメリカの社会学者マーチン・トロウは先進工業国の高等教育(大学)に関して、適齢人口中の学生比率が十五%までを「エリート型」(特権教育)、十五~五十%までを「マス型」(大衆教育)、五十%以上になると「ユニバーサル型」(「権利」というより「義務」として意識される)と位置付けたことで知られます。これはアメリカに典型的に当てはまり、ヨーロッパその他では当てはまらないと見られていますが、この視点は多分に示唆的です。日本では「高校義務教育化」が長らく議論されてきましたが、これは「高校」を「マス型」から「ユニバーサル型」に変えようじゃないか、ということに他なりません。ところが、そうこうしているうちに大学進学率が約五十%となり、何と「大学」が「マス型」から「ユニバーサル型」に変わってしまう可能性が出てきてしまったわけです。
 実際、優秀な人は昔も今もやっぱり優秀なのですが(情報・ビジネス・教育・国際環境などから、昔よりもはるかに優秀な人材は多数出ています)、全般的な「大学生の学力低下」はデータ上も実証されており、分数・小数の計算も出来なかったり、英語の文法も分かっていない大学生が増えてしまっているのも事実です。つまり、「大学」「大卒」の実態及びその評価には「二極化」が起きつつあるということになるでしょう。

(5)「大卒以上」の業界・職場がゴマンとある

 当たり前の話ですが、意外と知られていないのが、「ある仕事をしたくても、大学を出ていないと出来ない」という業界・職場が決して少なくないという事実です。これは別に「大卒だから素晴らしい」という人格的・人間的意味ではなく、その仕事の持っている要求条件・前提条件があるということです。別に大卒でも犯罪者・変質者はいっぱいおり、高卒でも成功者・人格者はいっぱいいますので、「学歴」と「人間性」とは全く別な話です。そうではなくて、ある仕事の持つ専門性・特殊性から「大卒要件」が客観的に出てくるということです。
 例えば、医者や薬剤師になりたい人なら、それぞれ大学医学部・薬学部に行くしかありません。そうしないと国家試験を受けることもできないのです(ちなみに薬学部を出ていても、国家試験に受かっていなければ、高卒並の時給で雇われることすらあります)。さらに新聞社・出版社・広告代理店などでも「大卒」が普通です。これは一定の知的レベル以上の人を相手にする以上、止むを得ないと言えるでしょう。これが入力・レイアウト・校正といった技術職分野になってくると、専門学校卒が増えてきます。あるいは弁護士・裁判官・公認会計士・税理士といった難関資格や教師などは大卒でなくてもなれますが、現実的には大卒以上がほとんどです。試験制度上、大学に行っている方が圧倒的に有利だからです。公務員も医療職も銀行も高卒以上でなることができますが、出世しやすさでは大卒の方がはるかに恵まれています。さらに絵画や音楽の勉強をするのであれば、専門学校でも十分できるのですが、美大・音大・芸大を出ていれば、専門家としての評価は格段に高くなります。これは技術力そのものよりも「市場評価」「格付け」と言ってもいいかもしれません。

(6)就活で分かる「大学ブランド」の力

 大学三年生になると、誰しも就職活動を開始します。今はネットでエントリーを出すことも多くなってきましたが、学生の間でも「就活の二極化」が進行していると言われています。これは内定、内々定が取れる人には何社でも集まってくる一方、取れない人は何十社アプローチしても全然取れないというものです。もちろん、就職率はその時の景気動向に多分に左右されるので、優秀でも「就職氷河期」にぶつかってしまう人もいれば、さほどでもなくても「売り手市場」に乗っかれる人が出てくるのは仕方のないことだと言えるでしょう。
 ただ一般的傾向として言えることは、上位大学の場合、個人の資質以上に「大学ブランド」を買ってくれるケースが多くなり、中堅大学以下では「大学名」を当てにせず、個人のコミュニケーション能力、成功体験、達成実績といったものが大きく問われてくるということです(意外にも「資格」はそれほど見られていません)。今は「大学名不問」をウリにして求人している大企業も増えてきましたが、実はこうすると逆に上位大学の採用が増えてくるという現象すら起きています。また、「学歴で選んでどこが悪いのか」とはっきり言い切る人事担当者もいます。企業としても優秀な人材を確保するのは死活問題ですから、「大学ブランド」の力は決して廃れていないと言えるでしょう。

(7)「東一早慶」のネーム・バリューと「G-MARCH」のボーダー・ライン

 実際、企業で採用面接をするといっても、数万人単位で応募する中での面接ですから、せいぜい三~四回で評価しなければならないことになり、四年前の学力指標でしかないといっても、「大学名」はやはり大きな判断材料となっています。業界による差はありますが、関東なら東大・一橋・早稲田・慶応は一般に「東一早慶」と呼ばれてSランクに入ります。企業側からすれば、ここの学生が応募すれば当然取りたい気持ちになるわけです。これに続くのが他の六大学(立教・明治・法政)や上智・ICU・青学といった上位ミッション系、さらに中央・学習院といった六大学に準ずる大学群で、これをAランクとすれば、いい学生がいたら取りたいということになります。大体、業界最王手にはSランクの学生が集中しやすく、二番手以降にはAランクが増えてきます。このラインを通常「G-MARCH」(明治・青学・立教・中央・法政)と呼び、「大学ブランド」のボーダー・ラインと化してきています。
 では「G-MARCH」以上の大学でないと意味がないのか、という疑問が出てきますが、そういうことではなくて、これ以上なら個人よりも「大学ブランド」を評価してくれることが多くなり(つまり、大学や先輩達の功績にあやかるということでしょう)、これ以下なら「個人の資質」(つまり、大学をあまり当てにしないで、自分を磨いていこうということになります)を前面に出していく必要があるということです。社会的評価やポジションの確認は、現状認識として目をつぶるわけにはいかないのです。

(8)中卒・高校中退者の「学歴リセット」には「高卒認定」が最適

 さて、こういった学歴社会である日本において、中卒者・高校中退者の置かれた状況は決して甘いものではありません。バイトや就職などで社会に出てから何年もすると、否が応でもこの「学歴の壁」といったものを痛感することになります。そこで「学歴リセット」をするにはどうしたらいいのか、あるいは「やりたいこと」が見つかったのに、それをやるためには「学歴」が必要だとなった場合、最も効率よく、誰でも出来る方法でそれを実現するとしたらどんな方法があるのか、ということになるのですが、そこで登場するのが「高卒認定試験」です。これは高卒程度の基礎学力試験なので、これに合格すれば「高卒同等」として進学でも就職でも資格試験でも全て適用されるのです。
 これに対して、通信制高校などに入るという手もあるのですが、トータルで三年間かかってしまうこと、最終的に卒業までこぎつけるのが平均二十%にとどまること、学力がそれほどつかないこと、最終的に得られるものが「高卒」という学歴にとどまること、などといった点で必ずしもメリットが多いわけではありません。高卒認定の場合なら、短期間でも決着はつくのみならず、一度合格すれば一生有効で二度と受ける必要がなく、かつ基礎学力をつけないわけにはいきません。要は学力がつかないまま「高卒」になるよりも、学力をつけて「高卒程度」になる方がはるかにその後の進路に直結するのです。高卒程度の基礎学力もないまま、進学したところで、もっと高度な学問をやっていけるはずもありません。「勉強の基本を身に付け、基礎学力だけはきちんとつけた上で、最短距離で次の進路にステップアップする」、これが高卒認定の最大のメリットと言えるでしょう。

(9)「学力」なくして「学歴」なし

 「たかが学歴、されど学歴」といったところですが、所詮、「学力」という「人間性」や「能力」のほんの一面だけで決まってしまった「学歴」にそれほど意味があるのか、という疑問は付いて回ると思います。しかしながら、上位大学に行けば行くほど、教員のみならず、学生にも質の高い人が増えてきて、その視野や経験、知識、行動に刺激を受けることが多くなってきます。もちろん、上位だろうが下位だろうが、立派な人物はどこでもいるのですが、その絶対数が増えてくるのです。これを「人的環境」としてとらえれば、やはり上位大学の方が「交友関係」「人脈形成」といった点で恵まれてくるのは事実です。例えば、慶応の看板学部の大学院のゼミまでいくと、そこに参加しているメンバーは男女共に優秀な人材がそろっています。おそらく企業に入れば、五年後、十年後には中堅リーダーとしてその業界を引っ張っていく人材でしょうし、起業して経営者になる人も少なくないでしょう。そうすると、卒業後に開かれる同窓会(慶応は特に結束の固い大学として知られています。これに対して、早稲田は一匹狼的な人が多いですね。あまり群れません)はそのまま「異業種交歓会」「情報交換の場」となってしまうわけです。
 実は「学力」といっても「人間性」や「能力」の一部である以上、それらは決して無関係ではなく、ちゃんとつながっているのです。そして、この「学力」がないと「学歴」を作れないわけですから(推薦入試で合格し、受験競争を通過せずに上位大学に入った学生の中にはコンプレックスを引きずっている人もいます)、「学力」をきちんとつけることは避けて通れないテーマであると言えるでしょう。つまり、「結果」としての「学歴」ですが、「原因」としての「学力」がもっと肝心なのです。

(10)「学歴評価」は「平等社会」の証し

 身分制に縛られた社会は実に悲惨な一面があります。「生まれ」で一生が決まってしまうのですから、努力しようにも報われず、努力する意欲すらそがれてしまいます。これは「永遠の昨日」が支配する「伝統主義社会」(昨日がそうだったから今日もこう、だから明日も明後日もこのまま変わらずずっと続いていくという社会)に他なりません。これに対して、どこでどの家にどういう立場で生まれようとも、努力すればその「学力」によって誰でも「学歴」を創出することが出来、その「学歴」が正当に評価されるとしたら、これを「平等社会」と言わずして何と言うでしょう。もちろん、経済的に裕福であれば、それだけ教育費をかけることが出来るので、「経済格差即教育格差」という批判も出てくるのですが、典型的な移民社会であるアメリカでは、移民一世達が死に物狂いで働いて生活基盤を作り、二世達に何とか高等教育を受けさせようと努力するケースが多く見受けられます。「自分の代では無理だから、子供の代で」というわけです。やはり、「学歴社会」の弊害(学歴絶対主義、学歴中心主義)もさることながら、「学歴評価が正当になされない社会」の弊害の方がはるかに大きいと考えるべきでしょう。「学歴」はうまく「活用」すべきものなのです。