ちょっと切ない「学歴社会」の現実!

1、日本社会は「最終学歴主義」
2、最終学歴は「3つの階層」に分類される
3、「1992年問題」「2007年問題」「2020年問題」
4、今や「大卒」は「高卒」並み?
5、「大卒以上」の業界・職場がゴマンとある
6、就活で分かる「大学ブランド」の力
7、「東一早慶」「上智・ICU」のネーム・バリューと「G―MARCH」「日東駒専」のボーダー・ライン
8、中卒・高校中退者の「学歴リセット」には「高卒認定」が最適
9、「学力」なくして「学歴」なし
10、「学歴評価」は「平等社会」の証し


1、日本社会は「最終学歴主義」

 日本という社会は「学歴社会」であることはよく知られています。考えてみれば、受験やバイト、就職といったあらゆる機会に、履歴書で「学歴」を示すよう求められますね。そこでは大体中学校卒業から記載するようになっていますが、果たして人事や採用担当者はこれを逐一チェックしているのでしょうか?答は「最終学歴」のみを厳しくチェックしているということです(そこしかよく理解できないとも言えます)。  この「最終学歴」によってはなりたくてもなれない職業があるのも事実ですし、採用、初任給、人事配置、昇給、昇進といったあらゆる局面で差がつくのも避けられません。「大体、18歳頃の学力だけで一生が左右されるなんてどういうことだ!」というクレームが聞こえてくるところですが、社会の現実がそうなっていることを認めないわけにはいかないでしょう。
 人によっては「学歴不用論」を唱える方もいらっしゃいますが、たいていその人は一定の「学歴」を得ている場合がほとんどです(しかも「高学歴」だったりする)。つまり、最初から最低限のセーフティネットを確保しているので、安心して「学歴なんて関係ないさ」とうそぶくことも出来るわけなのです(困ったもんですね)。「10万円から株で1億円が儲けられる!」本と同じで、これを読んだビギナーさんから、本当に「10万円から株で1億円儲けた人」が出たという話を聞いたことがありますか?実は「すでに株で1億円儲けたことがある人が、10万円から1億円儲けることが出来る」のです。すでにノウハウが確立されているので、ムダを無くして最短距離を行くことが可能になるのです。
 実際に学歴なくして成功した人はたくさんいますが、「学歴コンプレックス」は意外に尾を引いていることが多いのです。


2、最終学歴は「3つの階層」に分類される

 では、「最終学歴」は具体的にどのように評価されるのでしょうか。基本的には「大卒」「短大・専門学校卒」「高卒」の「3つの階層」に分けるのが普通です。もちろん、これより上に「大学院卒」があり、これより下に「中卒」がありますが、圧倒的大多数はこの「3つの階層」に分類されると言えるでしょう。そうです、実は日本は「最終学歴」を基準にした「階層社会」になっているのです。欧米はもっと固定的な「階級社会」になっていますので、使っている言語や意識、生活様式も大きく異なり、交友や婚姻などに大きな制限が出てきますが、日本はそこまで行っていませんので、「階層社会」と言う方が適切でしょう。「階層」ですから、「階級」と違って、比較的移動は楽であり、努力して新たな「学歴」を得ていけば、上の階層に入っていくことが誰にでも開かれているとも言えるでしょう。
 これは明治維新以来、日本が封建社会の身分制システムを捨て、代わりに採用した社会形成システムなのです。これが近代化の推進という目的において、実にうまく機能したことは歴史が証明しています。「学歴社会」とは厳しい現実のようですが、一面では可能性のあるシステムでもあるのです。


3、「1992年問題」「2007年問題」「2020年問題」

 「少子化」による「大学全入時代」の幕開けとなったのが2007年とされます。いわゆる「2007年問題」です。これは「18歳人口」の減少から、「大学志望者数」が「全大学の定員数」を下回ってしまうため、「選ばなければとりあえず大学には行ける」というものです。これと逆の状態だったのが「1992年」で、「全大学の定員数」に対して「大学志望者数」の3分の1がはみだす比率であったため、大量の浪人が生まれることとなりました。当時は相当優秀な人でも合格できず、「1浪はヒトナミ(人並)」と普通に言われていたのです。これを「1992年問題」と呼ぶとすれば、わずか15年で何という様変わりでし
ょうか。当時の受験生からすれば、2007年以降の受験生は全く恵まれているとしか言えないでしょう。  この「2007年問題」の影響は早々と下位大学から影響が出始め、定員割れの学部を抱える大学が増えてきて、「推薦入試では全員入れる」という大学も出ていました。その影響は次第に中堅大学に及び、上位大学まで変動が起きたことが確認されています。ところが、推薦入試・AO入試で入学した学生の学力が低いことが問題となり、文部科学省は「学力の担保を取るように」という方針に転換しました。
 そして、次に大きな転換点となったのが2020年です。この年にセンター試験が終わりとなり、知識よりも思考力を重視した大学入学試験共通テストの導入、英語民間資格の本格的導入、記述試験の増加といった「学力重視」の傾向が明確になりました。加えて、コロナウイルス対策のため、オンライン授業やテレワークへの転換が余儀なくされ、教育や仕事のあり方が大きく転換されることとなったのです。より利便性が高まった分野もありますが、より「実」を求める傾向は後戻りできないトレンドとなりました


4、今や「大卒」は「高卒」並み?

 かつては「高校くらいは出ておかないと」というのが一般的な社会通念でした。現在は高校進学率が98%にまで達しているので、「高卒」は当然、ほぼ義務教育状態というのもうなずけるところです。ところが、「大学全入時代」から「実力重視時代」到来を迎え、経営難から大学も淘汰される時代になってくると、「大学くらいは出ておかないと」という感覚が次第に普通になってくると思われます。
 アメリカの社会学者マーチン・トロウは先進工業国の高等教育(大学)に関して、適齢人口中の学生比率が15%までを「エリート型」(特権教育)、15~50%までを「マス型」(大衆教育)、50%以上になると「ユニバーサル型」(「権利」というより「義務」として意識される)と位置付けたことで知られます。これはアメリカに典型的に当てはまり、ヨーロッパその他では当てはまらないと見られていますが、この視点は多分に示唆的です。日本では「高校義務教育化」が長らく議論されてきましたが、これは「高校」を「マス型」から「ユニバーサル型」に変えようじゃないか、ということに他なりません。ところが、そうこうしているうちに大学進学率が50%以上(首都圏では60%以上)となり、何と「大学」が「マス型」から「ユニバーサル型」に変わってしまう可能性が出てきてしまったわけです。
 実際、優秀な人は昔も今もやっぱり優秀なのですが(情報・ビジネス・教育・国際環境などから、昔よりもはるかに優秀な人材は多数出ています)、全般的な「大学生の学力低下」はデータ上も実証されており、分数・小数の計算も出来なかったり、英語の文法も分かっていない大学生が増えてしまっているのも事実です。つまり、「大学」「大卒」の実態及びその評価には「二極化」が起きつつあるということになるでしょう。


5、「大卒以上」の業界・職場がゴマンとある

 当たり前の話ですが、意外と知られていないのが、「ある仕事をしたくても、大学を出ていないと出来ない」という業界・職場が決して少なくないという事実です。これは別に「大卒だから素晴らしい」という人格的・人間的意味ではなく、その仕事の持っている要求条件・前提条件があるということです。別に大卒でも犯罪者・変質者はいっぱいおり、高卒でも成功者・人格者はいっぱいいますので、「学歴」と「人間性」とは全く別な話です。そうではなくて、ある仕事の持つ専門性・特殊性から「大卒要件」が客観的に出てくるということです。
 例えば、医者や薬剤師になりたい人なら、それぞれ大学医学部・薬学部に行くしかありません。そうしないと国家試験を受けることもできないのです(ちなみに薬学部を出ていても、国家試験に受かっていなければ、高卒並の時給で雇われることすらあります)。さらに新聞社・出版社・広告代理店などでも「大卒」が普通です。これは一定の知的レベル以上の人を相手にする以上、止むを得ないと言えるでしょう。これが入力・レイアウト・校正といった技術職分野になってくると、専門学校卒が増えてきます。あるいは弁護士・裁判官・公認会計士・税理士といった難関資格や教師などは大卒でなくてもなれますが、現実的には大卒以上がほとんどです。試験制度上、大学に行っている方が圧倒的に有利だからです。公務員も医療職も銀行も高卒以上でなることができますが、出世しやすさでは大卒の方がはるかに恵まれています。さらに絵画や音楽の勉強をするのであれば、専門学校でも十分できるのですが、美大・音大・芸大を出ていれば、専門家としての評価は格段に高くなります。これは技術力そのものよりも「市場評価」「格付け」と言ってもいいかもしれません。


6、就活で分かる「大学ブランド」の力

 大学3年生になると、誰しも就職活動を開始します。今はネットでエントリー・シートを出すことが普通ですが、学生の間でも「就活の二極化」が進行していると言われています。これは内定、内々定が取れる人には何社でも集まってくる一方、取れない人は何十社アプローチしても全然取れないというものです。もちろん、就職率はその時の景気動向に多分に左右されるので、優秀でも「就職氷河期」にぶつかってしまう人もいれば、さほどでもなくても「売り手市場」に乗っかれる人が出てくるのは仕方のないことだと言えるでしょう。
 ただ一般的傾向として言えることは、上位大学の場合、個人の資質以上に「大学ブランド」を買ってくれるケースが多くなり、中堅大学以下では「大学名」を当てにせず、個人のコミュニケーション能力、成功体験、達成実績といったものが大きく問われてくるということです(意外にも「資格」はそれほど見られていません)。今は「大学名不問」をウリにして求人している大企業も増えてきましたが、実はこうすると逆に上位大学の採用が増えてくるという現象すら起きています。また、「学歴で選んでどこが悪いのか」とはっきり言い切る人事担当者もいます。企業としても優秀な人材を確保するのは死活問題ですから、「大学ブランド」の力は決して廃れていないと言えるでしょう。


7、「東一早慶」「上智・ICU」のネーム・バリューと「G-MARCH」「日東駒専」のボーダー・ライン

 実際、企業で採用面接をするといっても、数万人単位で応募する中での面接ですから、せいぜい3~4回で評価しなければならないことになり、4年前の学力指標でしかないといっても、「大学名」はやはり大きな判断材料となっています。業界による差はありますが、関東なら東京大学・一橋大学・早稲田大学・慶應義塾大学は首都圏では一般に「東一早慶」と呼ばれてSランクに入ります。企業側からすれば、ここの学生が応募すれば当然取りたい気持ちになるわけです。また、「各地の東大」ともいうべき旧七帝大(北海道大学、東北大学、名古屋大学、京都大学、大阪大学、九州大学)、東京工業大学・筑波大学といった実力派国立大学なども同様に考えることができます。これに続くのが上智・ICUといった上位ミッション大学がAランクとされ、東京外国語大学・神戸大学・広島大学・同志社大学・関西学院大学といった有力大学も同様に考えることができます。こういったS・Aランク大学では、個人名よりも大学名が前面に出ると考えた方がよく、「東大生がやって来た」などと言われて、個人名が後回しになりがちです。ただ、最近では「実」を求める傾向は就活市場でも顕著であり、東大生といえども1学年3000人もいるのですから、そのままだとその他大勢の1人にすぎず、「個人としてどうなのか、何ができるのか」が問われ始めています。
 学生達の間では「G-MARCH」(学習院大学・明治大学・青山学院大学・立教大学・中央大学・法政大学)のラインは大きな意味を持ちますが、就職で有利に作用するということは特にありません。つまり、これより上なら個人よりも「大学ブランド」を評価してくれることが多くなり(つまり、大学や先輩達の功績にあやかるということでしょう)、これより下なら「個人の資質」(つまり、大学をあまり当てにしないで、自分を磨いていこうということになります)を前面に出していく必要があるということです。そして、「G―MARCH」の下に位置する中堅大学が「日東駒専」(日本大学・東洋大学・駒澤大学・専修大学)ですが、企業の人事担当者によれば、このライン以上の学力が最低欲しいとのことです。仕事の現場において、言われたことの意味をちゃんと理解して適切な対応をし、結果を出していくにも、一定レベル以上の「学力」が必要であることは言うまでもありません。


8、中卒・高校中退者の「学歴リセット」には「高卒認定」が最適

 さて、こういった学歴社会である日本において、中卒者・高校中退者の置かれた状況は決して甘いものではありません。バイトや就職などで社会に出てから何年もすると、否が応でもこの「学歴の壁」といったものを痛感することになります。そこで「学歴リセット」をするにはどうしたらいいのか、あるいは「やりたいこと」が見つかったのに、それをやるためには「学歴」が必要だとなった場合、最も効率よく、誰でも出来る方法でそれを実現するとしたらどんな方法があるのか、ということになるのですが、そこで登場するのが「高卒認定試験」です。これは高卒程度の基礎学力試験なので、これに合格すれば「高卒同等」として進学でも就職でも資格試験でも全て適用されるのです。
 これに対して、通信制高校などに入るという手もあるのですが、トータルで3年間かかってしまうこと、最終的に卒業までこぎつけるのが平均20%にとどまること、学力がそれほどつかないこと、最終的に得られるものが「高卒」という学歴にとどまること、などといった点で必ずしもメリットが多いわけではありません。高卒認定の場合なら、短期間でも決着はつくのみならず、1度合格すれば一生有効で2度と受ける必要がなく、かつ基礎学力をつけないわけにはいきません。要は学力がつかないまま「高卒」になるよりも、学力をつけて「高卒程度」になる方がはるかにその後の進路に直結するのです。高卒程度の基礎学力もないまま、進学したところで、もっと高度な学問をやっていけるはずもありません。「勉強の基本を身に付け、基礎学力だけはきちんとつけた上で、最短距離で次の進路にステップアップする」、これが高卒認定の最大のメリットと言えるでしょう。


9、「学力」なくして「学歴」なし

 「たかが学歴、されど学歴」といったところですが、所詮、「学力」という「人間性」や「能力」のほんの一面だけで決まってしまった「学歴」にそれほど意味があるのか、という疑問は付いて回ると思います。しかしながら、上位大学に行けば行くほど、教員のみならず、学生にも質の高い人が増えてきて、その視野や経験、知識、行動に刺激を受けることが多くなってきます。もちろん、上位だろうが下位だろうが、立派な人物はどこでもいるのですが、その絶対数が増えてくるのです。これを「人的環境」としてとらえれば、やはり上位大学の方が「交友関係」「人脈形成」といった点で恵まれてくるのは事実です。例えば、慶應義塾大学の看板学部の大学院のゼミまでいくと、そこに参加しているメンバーは男女共に優秀な人材がそろっています。おそらく企業に入れば、5年後、10年後には中堅リーダーとしてその業界を引っ張っていく人材でしょうし、起業して経営者になる人も少なくないでしょう。そうすると、卒業後に開かれる同窓会(慶応は特に結束の固い大学として知られています。これに対して、早稲田大学は一匹狼的な人が多いですね。あまり群れません)はそのまま「異業種交歓会」「情報交換の場」となってしまうわけです。
実は「学力」といっても「人間性」や「能力」の一部である以上、それらは決して無関係ではなく、ちゃんとつながっているのです。そして、この「学力」がないと「学歴」を作れないわけですから(推薦入試で合格し、受験競争を通過せずに上位大学に入った学生の中にはコンプレックスを引きずっている人もいます)、「学力」をきちんとつけることは避けて通れないテーマであると言えるでしょう。つまり、「結果」としての「学歴」ですが、「原因」としての「学力」がもっと肝心なのです。


10、「学歴評価」は「平等社会」の証し

 身分制に縛られた社会は実に悲惨な一面があります。「生まれ」で一生が決まってしまうのですから、努力しようにも報われず、努力する意欲すらそがれてしまいます。これは「永遠の昨日」が支配する「伝統主義社会」(昨日がそうだったから今日もこう、だから明日も明後日もこのまま変わらずずっと続いていくという社会)に他なりません。これに対して、どこでどの家にどういう立場で生まれようとも、努力すればその「学力」によって誰でも「学歴」を創出することが出来、その「学歴」が正当に評価されるとしたら、これを「平等社会」と言わずして何と言うでしょう。もちろん、経済的に裕福であれば、それだけ教育費をかけることが出来るので、「経済格差即教育格差」という批判も出てくるのですが、典型的な移民社会であるアメリカでは、移民一世達が死に物狂いで働いて生活基盤を作り、二世達に何とか高等教育を受けさせようと努力するケースが多く見受けられます。「自分の代では無理だから、子供の代で」というわけです。やはり、「学歴社会」の弊害(学歴絶対主義、学歴中心主義)もさることながら、「学歴評価が正当になされない社会」の弊害の方がはるかに大きいと考えるべきでしょう。「学歴」はうまく「活用」すべきものなのです。




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