「近代の論理」~社会科学のエッセンス~



(1)「近代国家」には「憲法」が必要

①中世「王国」と近代「国家」は決定的に違う

②「主権」を制御するために「憲法」が必要となった

③「近代法」を代表する「民法」と「刑法」の到達点


(2)「近代資本主義」は「市場の法則」を持つ

①「近代法」「近代民主主義」「近代資本主義」は「三位一体」の関係にある

②思想的淵源としての「プロテスタンティズム」と理論的根拠を確立したロック思想

③「市場の法則」は「社会的事実」である


(3)「近代精神」の根幹にある「合理主義」

①「近代神学」「近代哲学」「近代科学」も「三位一体」の関係にある

②「伝統主義」を打破した「合理主義」の精神

③「抽象化」「普遍化」が世界化する


(4)近代ヨーロッパが世界の「覇者」となった秘密

①「市民革命」と「産業革命」が「近代社会」を形成した

②「契約思想」「革命思想」「選民思想」がもたらしたもの

③「帝国主義」が「世界大戦」を生み出した


(5)イスラーム圏と東洋の「近代化」の困難

①「近代化」とは畢竟「西洋化」「キリスト教化」に他ならない

②一元的な「イスラーム法の社会」と二元的な「キリスト教の論理」

③西洋的「絶対神」の排他的独善性と東洋的「人格神」の包括的多様性


(6)「近代」なくして「現代」なし

①「近代」は人類歴史における「アイス・ブレーク」期

②「理性」の限界から「実存」の深淵に直面

③「還元主義」から「包括主義」へ




「近代の論理~社会科学のエッセンス~」

(1)「近代国家」には「憲法」が必要

中世「王国」と近代「国家」は決定的に違う

中世の「王国」(realm、レルム)と「王」(rex、レックス)~中世には「国」や「王」はあっても、「国境」「国土」「国民」「国語」はありませんでした。また、中世の「王権」(prerogativeプリロガティヴ)は非常に限定されており、「同輩中の首席」プリムス・インテル・パレス)というだけあって、国王の権限が及ぶのは直轄地のみと言ってもよかったのです。中世の「自由」「特権」(privilegeプリヴィレッジ)であり、内容は身分によって異なっていました。これは「伝統主義」「永遠の昨日」〔マックス・ヴェーバー〕)「慣習法」の支配する世界です。

近代の「国家」(stateステイト)と「国王」(kingキング)~近代国家は絶対主義国家からスタートしました。すなわち、中世の「王国」「等族国家」「身分制国家」→近世の「絶対主義国家」という図式です。例えば、中世では封建諸侯が自前の軍隊を保持していましたが、中世の「王権」が漸次強大になり、ついに「暴力装置」(武力=軍隊・警察)を独占し、「立法権」「課税権」「徴兵権」を持つ「絶対王権」(absolute prerogativeアブソルート・プリロガティヴ)、「主権」(sovereigntyソヴァリンティジャン・ボダン〕)が登場したのです。

 中世の「特権」も長い時間を経て、「人権」(human rightsヒューマン・ライツ)に至りました。ここでは「伝統主義」とは対極にある「合理的判断」が働いています。また、「絶対王権」を支えた「家産官僚制」は、「立憲制」「デモクラシー」の発達と共に「依法官僚制」へと変わっていきました。

ホッブズの「社会契約説」「自然権」のみを持った「自然人」が多数いる「自然状態」「万人の万人に対する戦い」「人間は人間に対して狼である」となるため、国家権力に自然権を全面譲渡して、完全服従しなければならないと考えました。これは絶対主義を擁護する理論となります。ちなみにホッブズによれば、「リヴァイアサン」(国家権力)が弱体化すれば「ビヒーモス」(内乱)が現われるといいます。

「一夜の無政府主義より数百年にわたる圧政の方がましだ。」(アラブのことわざ)

ボダンの主権論「近代的所有概念」がボダンの「近代的主権概念」に基礎を与えました。この「主権」は歴史上に現われる、他の諸々の「支配権」の形態とは区別する必要があります。例えば、「主権者」は自分勝手に法律を作ってよく、自由勝手に法律を蹂躙してよいのです。さらに「伝統主義」から完全に切れているため、「主権者」は伝統的諸権利を蹂躙してもいいし、伝統による束縛も一切受けません。ローマ法王庁や神聖ローマ帝国の「権威」に服しなくてもよいのです。こうした「主権の絶対性」は資本主義における「所有権の絶対性」「同型」なのです。このような「リヴァイアサン」から人民の権利を守ることが「近代民主主義」の出発点です。

「ボダンによれば、主権者たる王は「絶対」なのですから、何をしようとかまわないのです。

 まず第1に、主権は慣習法を無視することができる。そして、自分が望む法律を自由に作って、人々に強制することができる。すなわち、「立法権」という考えが、ここから出てきます。

 中世における法とは「発見するもの」でした。中世においては、目に見えない、条文に書かれていない慣習こそが絶対でした。だから、何か問題があれば、慣習の中にその解決策を「発見」するのが当然だったのです。

 ところが絶対王権の時代になると、法は「作り出すもの」になった。主権者はたとえ伝統に背くような法律でも制定することができるし、また慣習を含むすべての法律を廃止することもできるとボダンは保証します。ヘンリー8世が「国王至上法」を制定したのは、まさにその見本です。

 第2に、主権は国家に属する人間に対して、自由に税金をかけることができる。つまり、「課税権」です。

 そもそもボダンに言わせれば、国家の財産はすべて主権者の自由にしてかまわない。主権の力は絶対なのですから、人民の私有財産を売ろうが没収しようが勝手なのです。だから、好きなだけ彼らに税金をかけ、彼らの財産の一部を巻き上げてもいいということになる。

 第3に、主権は人民の生命も自由にしてよろしい。

――人民は煮て食おうが焼いて食おうが勝手である!ひどい王様ですねえ。

 このように書くと、とても過激なように見えますが、これは要するに「徴兵権」のことです。

 中世の国王軍は、その兵隊は家臣が差し出す軍勢によって構成されていました。したがって軍隊の規模はおのずから限定されていたのですが、絶対王権の時代になると、そんな制約はありません。国王は自由に1人1人の人民に「戦争に行け」と命じることができる。たとえ戦争で死のうと、それに対して文句は言えないわけです。

――立法権、課税権、徴兵権……今の国家と変わりませんね。

 そのとおりです。

 まさに絶対王権の時代になって、王国は「国家」になった。ボダンの主権という考えは今も政治理論に生きています。近代国家の原型がこの時代に作られた。」(小室直樹『日本人のための憲法原論』)

参考文献:

『日本人のための憲法原論』(小室直樹、集英社インターナショナル)

『近代民主主義とその展望』(福田歓一、岩波新書)

『アラブの格言』(曽野綾子、新潮社)



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(1)「近代国家」には「憲法」が必要

「主権」を制御するために「憲法」が必要となった

ホッブズは近代国家を「リヴァイアサン」と呼んだ「法」を超越し、「法」を創造する「絶対神」のイメージです。

「憲法違反」が出来るのは「国家」だけ~例えば、憲法が保障する「言論の自由」を侵害出来るのは「国家」だけです。親が子供の口を封じようと、上司が部下の発言を禁じようと、右翼が言論妨害しようと、憲法とは無関係なのです。

「憲法」も「議会」も「多数決」も本来「民主主義」(デモクラシー)とは無関係~後にこれらが「民主主義」に取り入れられ、代名詞のようになってしまいました。

「憲法」の始まりは「マグナ・カルタ」(大憲章、1215年)慣習法を無視したジョン王に対して、貴族が63か条の「契約」を作って、「伝統」を守らせました。かくして、国王もまた「法の下にある」ことが確認され、王が慣習法を破った場合には反乱に訴えることが出来ると明記されたのです。一部の特権階級を指す「自由民」の言葉も後にはイギリス国民全部を指すようになり、国王の行為が法に基づくものであるかどうかをチェックする「裁判所」パーラメント)が後にイギリス議会になっていきます。

「議会」の始まりは「身分制議会」「等族議会」「王」「徴税の効率化」「貴族」「利益(既得権益)と特権(慣習法)の確保」がそもそもの目的でした。

 やがて、ヘンリー8世がジェントリーの力を活用したことによって、「議会」の地位と重要性が確実なものとなりました。ヘンリー8世は絶対君主でありながら、重要な決定は全て議会を通したのです。ここに、議会の協賛なくして王はその絶対権力を振るうことができないという「議会の中の王」(King in Parliament)という原則が確立したのです。これを「チューダー統治革命」と言います。

 さらにヘンリー8世の頃の「従順議会」がエリザベス1世の時に「議会における言論の自由」を確立し、「名誉革命」においてイギリス議会の地位は確定したとされます。この時、議会が起草し、国王に承認させた「権利の宣言」では「法の支配が国王の支配に優先すること」「課税には議会の承認が必要であること」「議会内における言論の自由」などが明記されていました。

「多数決」の始まりは「コンクラーベ」(次期ローマ法王決定の場)ゲルマン社会では「全員一致」が原則でした。中世ヨーロッパの相続においては、古代ゲルマンの慣習に由来する「サリカ法」が絶対の権威を有しており、サリカ法に定められた相続順位は国王ですら変えることができませんでした。

 こうした状況が変わったのが次期ローマ法王を決定する会議「コンクラーベ」においてで、全会一致の原則を適用していたら、いつまで経っても決まらないため、ローマ教会で12世紀に「多数決」が導入されたのです。ここで重要なことは、「多数決で認められたことは全体の総意と見なす」という原則は、元々「民の声は神の声」「神意は民意に現れる」と考えられていたことに由来するということです。

 やがて、多数決の原理が議会に導入されていき、本来の宗教的意味合いが薄れていって、アメリカの南北戦争「多数決」「民主主義」において定着したとされます。南部11州が連邦政府に対して反旗をひるがえしたのは、11州の少数意見が多数決の下に無視されているという主張だったのですが、時のリンカーン大統領は断固とした態度で、「たとえ南部11州が不満であろうと、勝手に連邦を離脱するのは非合法である」としたのです。

「現代では「多数が賛成したから正しいとはいえない」という議論がある。新聞などにもしばしば現れる議論で、1前記の「合点状」でも、四十一対二十三だから四十一の方が正しい決定とは、必ずしもいえないだろう。ではなぜそれが、反対二十三を含めて全員の決定とされるのか。実をいうと「多数が賛成したから正しいとはいえない」という前記の言葉は、多数決原理発生の原因を忘れてしまった議論なのである。

 この原理を採用した多くの民族において、それは「神慮」や「神意」を問う方式だった。面白いことにこの点では日本もヨーロッパも変わらない。古代の人びとは、将来に対してどういう決定を行なってよいかわからぬ重大な時には、その集団の全員が神に祈って神意を問うた。そして評決をする。すると多数決に神意が現れると信じたのである。これは宗教的信仰だから合理的説明はできないが、「神意」が現われたら、それが全員を拘束するのは当然である。これがルール化され、多数決以外で神意を問うてはならない、となる。

 そしてこれはあくまでも神意を問うのだから、「親が…、親類が…、師匠が…」といったようなこの世の縁に動かされてはならない。それをすれば「親の意向…、親類の意向…、師匠の意向…」を問うことになってしまうから、神意は現われてくれない。もちろん賄賂などで動かされれば、これは赦すべからざる神聖冒瀆となる。これらは日本でも厳しく禁じられている。そして、2延暦寺の異形・異声とか、高野山の「合点」とかは、こういう考え方の現われである。おそらく、異形・異声になったとき、別人格となったのであろう。このような信仰に基づけば、多数決に現われたのは「神慮」「神意」だから当然に全員を拘束し、これに違反することは許されない。

 多くの国での多数決原理の発生は、以上のような宗教性に基づくものであって、「多くの人が賛成したから正しい」という「数の論理」ではない。コンクラーベという教皇の選挙は、今では多くの人に知られている。だがこれは決して枢機卿(カーディナル)が教皇を選出するのではなく、祈りつつ行われる投票の結果に神意が現われるのだという。従って教皇は神の意志で教皇になったので、「当選御礼」などを枢機卿にする必要はない。」(山本七平『日本人とは何か。(上巻)』)

*1 前記の合点状…高野山違犯衆起請文(1384年)。年貢を滞納した荘官罷免に関する評定で、「荘官罷免」に四十一票、「罷免せず年貢取り立て」に二十三票が入った。「合点」は元来は少人数の表決の結果すなわち「点の合計」を意味する言葉であった。

*2延暦寺の異形・異声…『平家物語』に詳しく記されているところによると、延暦寺には「多語毘尼」(たごにび)と呼ばれる原始仏教以来の議決方法があり、「満寺集会」という宗徒全員が参加する会で「大衆僉議」(だいしゅせんぎ)と呼ばれる評決を行なっていたが、参加者は異形・異声で誰が誰だか分からないようにした上で参加しなければならなかった。

参考文献:

『日本人のための憲法原論』(小室直樹、集英社インターナショナル)

『近代の政治思想』(福田歓一、岩波新書)

『近代民主主義とその展望』(福田歓一、岩波新書)

『日本人とは何か。(上巻)』(山本七平、PHP文庫)



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(1)「近代国家」には「憲法」が必要

「近代法」を代表する「民法」と「刑法」の到達点

「人権」思想の原点は「水平派」の成文憲法案「人民協約」(1647年)「水平派」クロムウェルと協同して「ピューリタン革命」を行い、「万人は平等なのだから、選挙権も等しく与えられるべきだ」「思想信仰の自由の保障」といった主張を持っていました。このような誰もが生まれながらにして平等の権利「人権」を持っているという考えは、「アメリカ独立宣言」(1776年)に結実します。

「近代民主主義が出てくるまで、地球上のどこにも「人権」などという概念はなかった。

 人権がまったく存在しなかった代わりに、それこそ腐るほどあったのは「特権」です。…

 ところが、予定説を信じる人々が登場したことによって、そうした特権は「人権」へと変貌した。一部の人だけが特権を持つのではなく、誰もが同じ特権を持っている。それを人権と呼ぶようになったわけです。だから、「少年の人権」などという言葉を使うのは、歴史の歯車を反対に回す暴挙としか言いようがない。

 人権とはあくまでも誰もが等しく持っているもの。一部の人しか持っていない人権は、中世の特権と何ら変わることがないのです。」(小室直樹『日本人のための憲法原論』)

「我々は自明の真理として、全ての人は平等に造られ、造物主によって一定の奪い難い天賦の権利を付与され、その中に生命、自由、及び幸福の追求の含まれることを信ずる・・・」(アメリカ独立宣言)

「近代(欧米)法」の中心にあるのは「民法」「市民法」(civil law⇔「教会法」)~「近代民法」の中心となるのは「近代的所有概念」です。これがあって初めて目的合理的生産計画、流通計画は可能となり、資本主義的市場は作動し得るのです。

「近代的所有」

(1)所有者は所有物に対して絶対である。すなわち、神が被造物におけるが如く、何をしてもよい。例えば、利用・販売・処分が自由である。

(2)所有者と所有物の対応は一対一である。誰が何を所有しているかが、一義的に明確である。

(3)所有は抽象的である。すなわち、所有物を占有していなくても、「所有権」を主張することができる。

「ナポレオン法典」(民法)は「近代資本主義の基本法」「近代資本主義」が成立するためには「契約の絶対性」「所有権の絶対性」が必要です。なぜなら、資本主義経済下の「私法」たる「民法」「商法」では「法適用の安定」を特に重視しますが、これなくしては「目的合理的な経営」をなし得ないからです。ゆえに「事情変更の抗弁」を最も嫌うこととなります。

「ナポレオンが皇帝になると、それまで革命の混乱のためガタガタになっていたフランスの景気は急速によくなりました。ナポレオンの登場によって政治が安定したことに加えて、「ナポレオン法典」と呼ばれる民法を制定したことが大きかったのです。

 このナポレオン法典は、一口で言うならば「近代資本主義の基本法」です。

 近代資本主義が成り立つには、契約の絶対、そして所有権の絶対が必要です。契約がきちんと守られ、私有財産の所有権が明確に保障されないかぎり、資本主義は作動しないのです。契約が守られなければ、商品と資本の流通がスムーズにいきません。所有権が絶対でなければ、安心して投資は行なえませんし、目的合理的な経営もできません。

 その2つの必要条件をナポレオンは法律によって保護しました。この結果、フランス経済は急速に資本主義化することができたのです。

 この法律がいかに優れていたかは、今でもナポレオン法典がフランスで通用していること1つを見ても分かります。この間、フランスの憲法は何度も変わっていますが、ナポレオン法典の論理は本質的にそのまま続いているのです。

 また、明治政府が日本に近代法体系を作ろうとしたとき、まず勉強したのがこのナポレオン法典です。旧民法の論理はナポレオン法典をコピーしたものと言ってもそれほど過言ではありません。」(小室直樹『日本人のための憲法原論』)

「刑法」(criminal law)における「罪刑法定主義」事前に明示的に法定された行為のみが罪として刑されること。これは「権力から人民の権利を守る」ことをテーマとする「近代法」の終着点であり、目的合理的な法律の実現とされます。「千人の罪人を逃すとも一人の無辜(むこ)を刑するなかれ」という言葉によく言い表されています。

 これに対して、「中国法」の中心にあるのは「刑法」であり、「法家思想」によって「立法」概念も発達していましたが、「罪刑法定主義」にはついに到達しませんでした。ちなみにヨーロッパでは中世まで「法律を作る」という概念はなく、「そこにあるものを発見する」という考え方でした。さらに唐律や明律は19世紀初めのヨーロッパの刑法と比較しても、ほとんど遜色がないとされます。

「デュー・プロセス(適法手続き)の原則」「悪法といえども法である。」(ソクラテス)という言葉に代表されます。

「近代法の思想を一言で言うと、「1000人の罪人を逃すとも、1人の無辜(むこ、無実の人)を刑するなかれ」ということにあります。

 権力の犠牲になって、無実の人が牢獄に送り込まれることだけは、何としてでも避けなければならない。権力の横暴を絶対に許してはならない。

 みなさんもご承知の「疑わしきは罰せず」という原則も、ここから誕生したのです。

 つまり、検察側が勝利を収めるためには、犯罪を完璧に立証しなければならない。そこに少しでも疑問の余地があってはいけないし、ましてやデュー・プロセスの原則を踏み外してもいけない。検察側はパーフェクト・ゲームが求められているわけです。」(小室直樹『日本人のための憲法原論』)

参考文献:

『日本人のための憲法原論』(小室直樹、集英社インターナショナル)

『小室直樹の中国原論』(小室直樹、徳間書店)

『近代の政治思想』(福田歓一、岩波新書)

『近代民主主義とその展望』(福田歓一、岩波新書)

『日本人の法意識』(川島武宜、岩波新書)



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(2)「近代資本主義」は「市場の法則」を持つ

「近代法」「近代民主主義」「近代資本主義」は「三位一体」の関係にある

「人権」という概念は「近代民主主義」の誕生によって初めて生まれた「議会」「憲法」「近代民主主義」より先に誕生していましたが、「人権」と「近代民主主義」はワン・セットです。「近代民主主義」が出て来るまでは「人権」という概念はありませんでした。また、「少年の人権」というものはなく、「少年の特権」なら存在します。

「さて、民主主義の誕生を語るためには、まず「民主主義とは何か」を明確にしておく必要があります。民主主義の定義が曖昧では、議論も曖昧になるというものです。

 そこでまず、大切になってくるのが「人権」に対する理解です。人権という概念は、近代民主主義の誕生によって、初めて生まれたもの。

 民主主義よりも議会や憲法は先に生まれていたわけですが、人権は違います。人権と民主主義はワンセットであり、切っても切れない関係にある。だから、人権が理解できていなければ、民主主義も理解できていないことになる。

 ところが、困ったことに日本人は、この人権という言葉を実に理解していない。

 その最たる例が、「少年の人権」などという言い方です。

 つい先日も少年法改正をめぐる問題で、大新聞がさかんに「少年の人権を守れ」などと言った論説を掲げていました。未成年者の起こした事件を大人と同じように法廷で裁くのは、少年の人権という観点から考えると問題であるから、少年法を軽々しく改正すべきではないといった趣旨のキャンペーンが行なわれました。

 しかし私に言わせれば、「少年の人権」など笑止千万、バカもいい加減にしなさいと言いたい。

――いいんですか、そんなこと言って。

 本当にことを言って、どこが悪い!

 今の大新聞の記者は偏差値の高い大学を出た連中が多いはずだが、民主主義の「み」の字も知らないと見える。こんなことだから、日本のジャーナリズムは世界で評価されないのです。

 日本のマスコミは何かにつけて、「人権、人権」と騒ぎ立てるのに、人権とは何かという基礎知識すら持っていない。

 そもそも人権というのは、万人に平等に与えられるもの。人間でありさえすれば、誰にでも無条件で与えられるというのが人権の概念です。

 しかるに、「少年の人権」とは誤用もはなはだしい。子どもだけに認められ、大人には認められない権利があるとしたら、それは子どもの「人権」とは言えません。それは、子どもの「特権」です。

 だから、少年法の問題にしても、「少年に特権を与えよ」という論説を書くべきなのです。

――たしかに殺人事件を起こしても刑事裁判にかけられないというのは、大人にはない特権ですよね。

 しかし、「少年に特権を与えよ」というのでは大衆の支持が得られないと思ったのか、新聞社は「少年の人権」なる用語を濫発した。だが、それでは議論のすり替えと言われてもしかたがありません。

 少年法をめぐる議論はあくまでも、子どもに特権を与えるべきか否かの問題です。それなのにマスコミみずからが議論のミスリードをするとは、嘆かわしいにもほどがある。しかし、これが今のマスコミのレベルなのです。」(小室直樹『日本人のための憲法原論』)

ヨーロッパの知識人にとって「民主主義=衆愚政治」は常識だった~古代ギリシアのアテネにおいて民主政の黄金時代があったわけですが、ペロポネソス戦争で民主政のアテネは王政のスパルタに敗北し、さらに師であるソクラテスが死に追いやられるに至って、プラトンは「民主政治とは要するに貧乏人の政治である」と決めつけました。プラトンの弟子アリストテレスもギリシアの様々な政治形態を分析して、やはり「民主政治とは貧乏人の政治だ」と断言しています。この2人の思想は中世キリスト教社会に多大な影響を及ぼし、ルネサンス以後も読み継がれていたので、「民主主義とはしょせん衆愚政治だ」ということはヨーロッパの教養人なら誰でも知っていたのです。

「プラトンが民主政治に敵意を抱くようになった、もう1つのきっかけはソクラテスの死です。

 プラトンは若いころからソクラテスの教えをうけ、ソクラテスから大変な影響を受けています。プラトンにとって、彼は父以上の存在だったと言えるでしょう。

 ところが、そのソクラテスは、ペロポネソス戦争の混乱の中、アテネの市民たちによって裁判にかけられ、死刑の宣告を受けます。そして、ソクラテスは毒杯を仰いで自殺した。

 この成り行きを見て、プラトンは衝撃を受けました。

 そもそもプラトンから見れば、ソクラテスの罪状は単なる言いがかりにすぎません。ソクラテス先生の偉さが分からぬ庶民連中が、彼をねたんで告訴したにすぎないのです。

 この無実の罪を晴らすべく、ソクラテスは、かの有名な「ソクラテスの弁明」を行なうわけですが、その裁判で陪審を務めたのも、また庶民たちでした。彼らは大哲学者の弁明に耳を貸さず、ソクラテスに死刑判決を与えたのでした。

 つまり、プラトンから見れば、ソクラテスはアテネ民主政治に殺されたようなものだった。そこで彼は民主政治をなお一層、憎むようになったというわけです。

 この思想はプラトンの弟子である、アリストテレスにも受け継がれました。アリストテレスはさまざまな政治形態を分析して、やはり「民主政治とは貧乏人の政治だ」と断言しています。

 前にも述べたように、ヨーロッパの知識人にとってプラトン、アリストテレスと言えば、古典中の古典です。中世のキリスト教会では、この2人の著作を基礎にして壮大な「スコラ哲学」が作られましたし、ルネサンス以後もプラトンやアリストテレスは読み継がれました。だから、「民主主義とは、しょせん衆愚政治だ」ということは、教養人なら誰でも知っていたわけなのです。」(小室直樹『日本人のための憲法原論』)

「民主主義」とは「独裁者」の温床である~プラトンやアリストテレスの言う「貧乏人の政治」を利用し、貧しいローマの平民たちの圧倒的な支持を受けて、共和政ローマを乗っ取ったのがカエサルでした。さらにカエサルの故事を徹底的に研究して、いかにすれば大衆の人気を集めて権力を握るかを考え、「第2のカエサル」として登場したのがナポレオン・ポナパルトであり、その後のフランスでは政治が乱れるたびに独裁者が現われようとしますが、これを「ポナパルティズム」と言います。

 「独裁政治」がよくないのは往々にして、「宗教戦争」の経験に基づいて確立された概念である「内面の自由」に踏み込むためです。ここから一時的な熱狂によってカエサル、ナポレオン、ヒトラーが登場してきたことをふまえ、熱狂が起こりにくいようにするため、「教育なき所にデモクラシーは生まれない」という結論が導かれ、「教育こそ民主主義の防波堤」であるとなるわけです。例えば、非常に強い権力を持つアメリカ大統領を選ぶ選挙は非常に複雑で、長い期間をかけて候補者の資質を見極めるようになっているのは、大統領を決して大衆の歓呼によって決めないようにするためで、建国者たちの知恵のたまものだということです。

「古代ギリシャにとって代わって、地中海世界の覇者となったのは古代ローマでした。ローマはギリシャ文化の影響を受けて、共和制の国となりました。

 アテネのように徹底した民主政治は行なわれなかったものの、古代ローマでは平民たちの代表によって構成される「民会」が力を持っていました。古代ローマが世界最強の陸軍国になれたのも、こうした平民たちのおかげです。有事の際に、平民がこぞって武器を取って戦うという習慣があったからこそ、ローマは覇権を唱えることができたのです。

 ところが、そのローマの輝かしき共和制は1人の男によって、あえなく「殺されて」しまいます。

 その男とは、ガイウス・ユリウス・カエサル。紀元前44年、カエサルはディクタトル、すなわち終身独裁官に就任し、ローマの軍事・政治のすべての権力を握ります。このときを以てローマの共和制は死に、帝国への道を歩むことになる。カエサルの甥であったオクタウィアヌスが初代ローマ皇帝になったのは、紀元前27年のことでした。

 さて、「共和国殺し」のカエサルは、いかにして独裁権力を握ったか。

 その答えは、プラトンやアリストテレスの言う「貧乏人の政治」にありました。すなわち、カエサルは貧しいローマの平民たちの圧倒的支持によって、共和国を乗っ取ったのです。言い換えれば、平民たちはみずから共和制をカエサルに差し出したのです。」(小室直樹『日本人のための憲法原論』)

「プラトンやアリストテレスの説、そして古代ローマのカエサルの故事、この2つが揃えば、誰だって「大衆が政治に参加すれば、ロクでもないことになる」と考えるというものでしょう。…

 民主主義ぐらい危ない政治はないということは近代史が余すことなく証明しています。プラトンやアリストテレスが生きていたら、「そら見たことか」と大笑いしたことでありましょう。

 すでに述べたとおり、18世紀になって民主主義は花開くわけですが、民主主義のもろさは、たちまち露わになりました。

 というのも、民主主義を求めたはずのフランス革命が独裁者を生み出したからです。

 ナポレオンこそ、彼らの恐れてやまなかった「第2のカエサル」」です。民主主義はやはりカエサルを作った!

 コルシカに生まれたナポレオン・ポナパルトは最初、一介の軍人にすぎなかったのですが、イタリア遠征、パリで起きた暴動の鎮圧、そしてエジプト遠征という軍功と、大衆からの支持を背景に、パリで軍事クーデターを起こすことに成功し、フランス共和国の禅権力を手中に収めた。

――カエサルと怖いくらいに似ていますね。

 いや、ナポレオンはカエサルですらできなかったことをなしとげた。

 1804年、彼は元老院から皇帝の位を授けられることになりました。「共和国(レパブリック)の皇帝」の誕生です。このとき、彼はカエサルを超えたと言ってもいいでしょう。時にナポレオンは35歳。カエサルが独裁官になったのは50歳を過ぎてですから、ここでもナポレオンはカエサル以上だった。

 ナポレオンは天才であると同時に、たいへんな勉強家でもありました。彼はカエサルの故事を徹底的に研究することで、いかにすれば大衆の人気を集めて、権力を握ることができるかを考えた。

 ですから、ナポレオンの出世は、けっして偶然に支えられたものではない。彼は最初から、民主主義の弱点を知っていた。だからこそ、皇帝になれたと見るべきでしょう。」(小室直樹『日本人のための憲法原論』)

「近代民主主義」は「法の前の平等」を何よりも重んずる~フランス革命において身分制をフランスから完全に追放することを目指し、「金持ちから財産を奪って貧乏人に配る」ことを目的としたロベスピエールは自分が行おうとしている政治を「民主主義」だと考えていたのですが、その「恐怖政治」は共産主義とほとんど同義であり、ロベスピエールはわずか数か月の独裁政治の中で「民主主義の敵」を数万人も粛清しています。フランス革命当時においては、民主主義者とは過激派、革命家と同義語であったのであり、マルクスとエンゲルスも『共産党宣言』で「労働者の革命の第1歩は、プロレタリア階級を支配階級にまで高めること、民主主義を闘い取ることである。」と高らかに宣言しています。

 実は民主主義をさらに推し進める制度として共産主義が生まれたのですが、近代民主主義の総本山アメリカにおける「平等」とは「機会の平等」であるのに対して、ロベスピエールやマルクスの「経済的平等」は「結果の平等」であることに注意しなければなりません。その結果、「貧困の平等」に行き着いたことは、「平等の実現」であるとはいえ、幸福とはほど遠い状況になったことは言うまでもありません。

「近代民主主義では「法の前の平等」を何よりも尊重します。つまり、1人1人の人間はたしかに財産の有無、権力の有無、いろんな違いがあるけれども、少なくとも法の前においては平等に扱う。それが民主主義の始まりです。

 この思想の元になったのは、今さら読者には説明するまでもないことですが、キリスト教の予定説です。

 カルヴァンは神を絶対にして万能の存在だと考え、神を究極の高みに置いた。その神様の前には、国王も農奴も関係ない。みんな似たようなものである。

 すなわち「無限大の目には、いかなる数値も意味がない」(福田歓一『近代民主主義とその展望』岩波新書)というわけです。

 近代民主主義の平等の考えは元来、キリスト教の考えから生まれたものですから、現実の人間を経済的に平等にしてしまうとまでは言いません。

 たとえ神様から見て平等であっても、実際には王様もいれば、貧乏人もいる。

 しかし、神様はそれについては何もなさらない。みんなを平等にしようとはしないわけです。

 それと同じように、民主主義も、金持ちと貧乏人がこの世の中にいることまで変えようとは思わない。あくまでも、法の前に平等に扱うということだけです。

 その考え方はロックの社会契約説でも基本的には同じです。

 彼は確かに「自然人は平等である」とは考えましたが、それはあくまでもスタート・ラインの話であって、その後の働き方によって私有財産の違いが出るのは当然だと考えた。

 しかし、たとえ財産に違いがあったとしても、その人間たちが対等に社会契約を結ぶことによって国家を作った。その意味では、人民はみな平等なのだというわけです。

 アメリカの民主主義でも、この思想は受け継がれています。

 よく言われることですが、アメリカにおける平等とは「機会の平等」です。

 誰もが同じアメリカ人として、チャンスをつかむ権利を持っている。白人でも黒人でも、男でも女でも、あるいは健常者でも身体障害者でも、等しくチャンスを与えられる。しかし、そこから先はアメリカ民主主義も面倒は見てくれない。

 ところが、それで我慢できないのがロベスピエールであり、マルクスです。彼らにとっては、あくまでも経済的な平等こそが大切なのです。別の言葉で言うならば、「結果の平等」が必要である。

 たとえ法の前の平等が成立しても貧乏人は貧乏なまま。はたして、これでいいのだろうかと考えるのは、ある意味で当たり前です。

 そこで、民主主義をさらに推し進める制度として、共産主義が生まれた。こう言うことができます。

 しかし、あらためて言うまでもなく、この共産主義の壮大な実験は失敗に終わりました。」(小室直樹『日本人のための憲法原論』)

「近代民主主義」と「近代資本主義」は同じ母から生まれた双生児である「近代民主主義」「近代資本主義」「共同体」ゲマインデ)を解体する所に生成され、発達します。

 共同体は「二重規範」(double normダブル・ノルム)を特徴とし、さらに「敬虔」(pietyパイアティ)が支配的感情であり、「社会財の二重配分機構」を持つという要素があります。資本主義はこうした諸共同体が解消し、「普遍的規範」(universal normユニバーサル・ノルム)が成立することによって完成します。逆に資本主義が完成すれば、「普遍規範」は他の全ての規範よりも優先され、「普遍規範」以外の規範(二重規範)などは消滅し、諸共同体は解消されるのです。例えば、経済的取引においては、「民法」「商法」「商慣習」などの「普遍的規範」が経済主体(消費者・企業など)内のルールや経済主体間(カルテル、個人の結合など)のルールよりも優先するのです。

参考文献:

『日本人のための憲法原論』(小室直樹、集英社インターナショナル)

『近代民主主義とその展望』(福田歓一、岩波新書)

『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(マックス・ヴェーバー、岩波文庫)

『社会科学における人間』(大塚久雄、岩波新書)

『社会科学の方法』(大塚久雄、岩波新書)



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「近代の論理~社会科学のエッセンス~」

(2)「近代資本主義」は「市場の法則」を持つ

思想的淵源としての「プロテスタンティズム」 と理論的根拠を確立したロック思想

「プロテスタンティズムの三原理」~ドイツの宗教改革の指導者ルターは、教会を通じてこそ信仰が成り立ち、救済がなされるという従来のキリスト教のあり方を批判し、教会の権威や教義に縛られることなく、聖書を通じて一人一人が直接神と向き合う信仰によって罪から解放されると説きました。ルター時代にはサン・ピエトロ大聖堂の建設資金を集めるために贖宥状が販売され、「贖宥状を買うことで、煉獄の霊魂の罪の償いが行える」と盛んに宣伝されていたのです。これに反発したルターの主張は、①聖書中心主義(聖書のみ、sola scripturaソラ・スクリプトゥーラ)、②信仰義認論(信仰のみ、sola fideソラ・フィデ)、③万人司祭主義、の3つに集約され、これをプロテスタンティズムの三原理と言います。かくしてヴィッテンベルク教会に「95か条の論題(意見書)」を提出し、贖宥状(免罪符)批判を展開します。贖宥状はルター時代よりも200年前に始まったものですが、「贖宥状を買えば魂が救済される」として教会の資金集めに使われ、特に強力な王権のないドイツは教会から搾取され、「ローマの牝牛」と言われていました。

 「信仰のみ」とは信仰によってのみ救われるという信仰義認であり、ローマ=カトリックの善行も救いにあずかるとする行為義認に対抗する原理です。いわゆる贖宥状(免罪符)は善行の1つであり、カトリックは信仰義認+行為義認という二重性に立っていたのですが、ルターはパウロの原点に立ち返って信仰義認の立場を徹底化し、純化するのです。

  「聖書のみ」とは聖書中心主義であり、カトリックの伝承にも権威があるとする伝承主義に対抗する原理です。カトリックは聖書+伝承という二重性に立っていたのですが、ルターはパウロの『ローマ人への手紙』に立ち返って宗教改革の原点を定めていったように、聖書のみを権威とする立場を徹底化し、純化していくのです。

  「万人司祭主義」は神の前に1人1人が立つことができ、イエス・キリストを通して関係を持つことができるとするもので、信仰生活は教会を介さないといけないとするカトリックの教会中心主義に対抗する原理です。この立場を徹底させると無教会派となりますが、ルターはそこまで主張したわけではなく、ヴォルムス国会で自説の撤回を求められた時に「我ここに立つ。神よ、我を救いたまえ!」と叫んだごとく、「神と我との関係」を重視したと言えるでしょう。神の前の平等という観点で近代民主主義の思想的淵源となり、さらにここから全ての職業は神によって与えられた召命天職、ドイツ語Beruf、英語calling)という職業召命観が生まれ、それまで卑しいとされてきた世俗の職業に励むことが奨励されるようになりました。こうした職業召命観天職思想はカルヴァンによって予定説と連結され、近代資本主義の淵源となります。

「カルヴァンが現われて、予定説を普及させていったことで、ヨーロッパのプロテスタントはまさに人が変わったようになった。信仰の無限サイクルに入って、昼も夜も片時も信仰が頭から離れることはない。

 こんな人間は、それまでのヨーロッパにはいなかったタイプです。何しろ、それまでのキリスト教は聖書さえ読むことがなかったわけですから。

――なるほど、この「新人類」の出現が、絶対王権をひっくり返すことになるわけですね。

 いや、それだけではありません。

 こうしたプロテスタントの登場こそが、近代への扉を開いたのです。

 予定説は単に王権を覆しただけではありません。近代民主主義も近代資本主義も、予定説がなければ生まれなかった。だからこそ、カルヴァンは歴史を変えた大天才なのです。」(小室直樹『日本人のための憲法原論』)

「天職」思想、「召命」観~中世までは「聖職のみ貴し」でしたが、プロテスタントの登場によって、世俗内の職業を通して「神の栄光」を現わすことが理論づけられました。ここから「労働」することが「救済」につながるという「行動的禁欲」が出て来ます。これはパウロに始まり、「祈り、かつ働け」という戒律を持つ修道院内のみに存在していたのですが、プロテスタントにより「世俗内禁欲」として世に広まることとなります。

「予定説においては、すべての人間の人生はあらかじめ神が定めたもうたこと。ならば、自分の職業もまた神が選んでくださったものに違いないという考えが生まれたのです。

 これをプロテスタントでは「天職」(Beruf ドイツ語、calling 英語)もしくは「召命」と言います。

 天職という考えは、プロテスタント以前にはヨーロッパには存在しなかったと、ウェーバーは言っています。

 自分の仕事が天職であるならば、怠けているわけにはいきません。働いて働いて働くことこそが、神様の御心に沿う方法。

 したがって、プロテスタントの人は安息日以外はずっと働いている。稼ぐ必要はないから、あとは楽に暮らそうという発想はありません。

――それでカネを使わなければ、貯まるでしょうね。

 予定説にかぎらず、もともとキリスト教には「労働こそ救済の手段である」という思想がありました。

 「働かざる者、食うべからず」という言葉を、たいていの人はレーニンの発明だろうと思っていますが、そうではありません。もともとはキリスト教の修道院の戒律です。

 キリスト教の修道院では、修道僧たちがワインを作ったり、バターを作ったりするわけですが、これは何も自給自足のためではありません。「祈り、かつ働け」というのがキリスト教の教えで、働くことがそのまま救済につながるとされていたのです。」(小室直樹『日本人のための憲法原論』)

ロックの思想がヨーロッパの近代の基礎を作ったルターカルヴァン近代民主主義近代資本主義の思想的淵源ですが、これらを思想的に確立したのがロックです。ロック「政治学の父」にして「経済学の祖父」「経済学の父」アダム・スミスなので)と呼ばれます。ロック思想の特徴は以下の通りです。

(1)「科学的思想」~ロックは人間や社会を抽象化して「国家」とは何かと考え、「自然人」「自然状態」を想定しました。これは社会科学における「モデル・ビルディング」であり、そのアプローチを最も引き継いでいるのが経済学です。「需要と供給の法則」「完全競争」などは現実の経済を観察して導かれた概念ではなく、一種の思考実験、シミュレーションなのです。

(2)「社会契約説」~ロックは、国家権力は必ず肥大化して暴走するので、それを食い止めるのが「憲法」であり、「民主主義」であると考え、ここでヨーロッパ人は初めて「民主主義の哲学」を手に入れたとされます。ちなみに、ヨーロッパの議会は税金問題を解決するために作られたのであり、税金をかける際には必ず納税者代表の意見を聞くという伝統があり、ことにイギリスではマグナ・カルタ以来、この原則が何度も王と議会の間で確認され、「代表なくして課税なし」という成句が生まれたわけですが、この大原則を理論化したのもロックです。さらに、国家権力が暴走した際には1人1人の人間はそれに抵抗することが出来、それでもなお横暴を続けるのであれば、革命を起こしてもいいと考え、「抵抗権」から「革命権」に至る「革命の哲学」も作り上げました。ただし、これは「革命の勧め」ではなく、イギリスでもマグナ・カルタ以来、「抵抗権」が実際に行使されたのはピューリタン革命名誉革命ぐらいでした。かくして革命は初めて理論的根拠を得て、イギリス革命は正当化され、さらに「代表なくして課税なし」という原則と「革命権」が結びついてアメリカ独立革命が起こり、世界最初の社会契約説に基づく人造国家が誕生し、世界最初の成文憲法である合衆国憲法を生み、そして激烈なフランス革命に至ります。

(3)「労働価値説」~中世社会の認識では「富」の量は有限であって、増えたりしないと思われていました。中世は言わば「土地フェティシズム」の時代であり、ここではホッブズが言うような「闘争状態」が続いていました。ところが、資本主義が芽生え出す中で、土地にこだわって農業にしがみついていなくても、商売やモノ作りで利潤をあげていけばいいという考えが生まれてきて、こうした時代背景の中でロックは史上初めて「富は有限ではない」「労働が富を作り出す」と考えたのです。これは人間が知恵を使って働けば地球上の資源を増やすことにつながるため、働くことは社会全体のためになるということになり、働くことは社会全体への貢献だとして、金儲けに対する罪悪感を払拭し、近代資本主義に理論的根拠を与えることとなりました。

(4)「私有財産」の正当化~ロックは、私有財産は「労働」の結果、新たに生み出された資源であり、政治権力が作られる前から存在しているため、「国家権力」といえども個人の「私有財産」に干渉してはいけないと考えました。権力の都合で税金を勝手に取ることができないのもこのためで、この思想からアメリカ独立戦争も生まれました。これは「所有権の絶対性」につながる考え方であり、「近代資本主義」に理論的根拠を与えたとされます。

(5)「公共善」を追求する国家観~ロックの考える政治システムとはトラブルの仲裁機関・調整役にして、その目的は人民の生命と私有財産を守ることでした。国家権力は人民が作ったものであり、人民に奉仕するためのものであるから、人民の代表を議会に送って、政府の運営を監視しなければならないという主張は、まさに「民主主義の根本精神」であり、「人民の、人民による、人民のための政府」(リンカーン)に通じるものです。

(6)「経済は国家とは関係なく発展する」~ロックは、自然状態では人間はそれぞれ自由に経済活動を行っており、利潤追求をしていたとして、国家権力は国民の経済活動には口出しする必要はないと考えました。これはアダム・スミス『国富論』で打ち出した「(神の)見えざる手」「自由放任」レッセ・フェ-ル)の考えに他ならず、「古典派経済学」から「最大多数の最大幸福」を追求する功利主義、国家は最小限の機能にとどまるべしとする「夜警国家」論、さらには現代のグローバリズムにも通じる考え方と言えます。

「ロックの思想は脈々と民主主義の中に生きています。社会契約のアイデアは、今でも死んでいないのです。

 何よりの証拠に、日本国憲法前文を読んでごらんなさい。そこには、社会契約の思想が記されているではありませんか。

「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する」

――なんと、これはロックそのものですね。

 国民の信託とは、要するに国民同士が契約を結んで、自分の持っている権利を国家に預けたということです。日本の憲法にも、ロックは生きているのです!」(小室直樹『日本人のための憲法原論』)

「ロックの時代には事実としての私有財産はもちろん普通のことであったが、財産正当化の根拠を人間が労働を加えたことに求めたのは画期的なことであった。」(福田歓一『政治学史』)

参考文献:

『日本人のための憲法原論』(小室直樹、集英社インターナショナル)

『経済学をめぐる巨匠たち』(小室直樹、ダイヤモンド社)

『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(マックス・ヴェーバー、岩波文庫)

『社会科学における人間』(大塚久雄、岩波新書)

『社会科学の方法』(大塚久雄、岩波新書)

『政治学史』(福田歓一、東京大学出版会)



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「近代の論理~社会科学のエッセンス~」

(2)「近代資本主義」は「市場の法則」を持つ

「市場の法則」は「社会的事実」である

「隣人愛」が「定価販売」を作ったカルヴァンの予定説仏教の末法思想のごとく、一種の終末観を生み出し、人々のエートス(行動様式及びそれを支える心的態度)の転換をもたらし、天職思想職業召命観とあいまって世俗内職業を通して「隣人愛」を実践する中に救いの確信を求めることとなりました。ここに行動的禁欲に基づく労働が誕生し、隣人愛をどれだけ行なったかの指標が「利潤」であり、利潤追求を中心とした経済活動が全面的に肯定されることとなります。ここから商品やサービスを適正価格で売る、掛け値なしの定価販売をすることがヨーロッパで急速に普及したのです。

「労働はキリスト教が教える隣人愛の実践にもつながります。

 なぜなら、他人が求める商品やサービスを提供すれば、それだけ隣人愛を行なったことになる。だから、ますます働くことは正しくなった。

 そこで、隣人愛をどれだけ行なったかの指標となるのが、利潤、つまり儲けです。

 キリスト教は儲けを堅く否定しましたが、だからといって、無料でモノを配れとまでは言わない。暴利をむさぼるのはよくないと言っているだけです。商品やサービスを適正な価格で売るのであれば、差し支えない。

 ヨーロッパで定価販売が広まっていくのも、このことが関係しています。

 それまでのヨーロッパでも、商人は買い手を見て値段を決めていた。客が金持ちならば高くふっかけるし、あまり持っていないような、そこそこの値段を付ける。

――いまでも中近東あたりのマーケットはそうらしいですね。

 そんな商売は、要するに客からできるだけ絞り取ってやろうということに他なりません。プロテスタントにとって商売とは、隣人愛の実践なのですから、貪欲はいけない。そこで掛け値なしの定価販売が急速に普及するようになったというわけです。

 こうしたやり方でプロテスタントたちは、「隣人愛」を実践していきました。そして、自分の隣人愛の高さを確認するために、より多くの利益を上げようと考えるようになった。

 カルヴァンは本来、富を激しく否定していたわけですが、それがかえって利潤の追求を許すようになった。ここでもまた、逆転現象が起きていると言うことができるでしょう。」(小室直樹『日本人のための憲法原論』)

「市場には法則がある」市場には客観的な法則があって、人間の意志でこれを変えることは出来ません。これは自然現象には客観的法則があり、それを研究・解明して活用するところに意義があるのと同様であり、社会科学たる経済学自然科学と同じように市場を中心とする経済現象を研究対象とし、それを解明して活用するところに意義があります。したがって、経済法則を理解しないで経済に命令したりすると、「経済の報復」を受けるわけです。江戸時代の三大改革のうち、唯一成功したかに見える享保の改革を主導した徳川吉宗も、客観的な市場法則を(人間)「疎外」と呼んだマルクスに学んだはずのスターリンも、どうやら経済法則は理解できていなかったようです。

「徳川時代に市場法則を見ることができる。幕府が腐心したのは米価の制御である。米価は、元禄~享保までは上昇傾向であり、その後は下落していった(大石慎三郎著「幕藩体制の転換」『日本の歴史20』小学館、一九七五年、一二八頁)。

 当時の武士の給与は米で支払われていたから米価が下落すれば武士は生活に困る。吉宗はじめ幕府の為政者は、米価を上げようとした。吉宗などは、何としてでも米価を上げようとしたので、世間では彼のことを米公方(こめくぼう)と呼んだとか。

 武士が特に困るのは、”米価安の諸色高”(米価が安くて、その他の生活物資の価格が高いこと)である。享保八年(一七二三年)には、銀が暴騰したために、この米価安諸色高と物価は異常となった(同書、一三六頁)。

 江戸町奉行の大岡越前守忠相(おおおかえちぜんのかみただすけ)は、町奉行所に両替商達を呼び出して、「銀相場を引き下げるよう」に命じた(同書、一三七頁)。

 大岡越前守程の名奉行でも、享保年間には銀の価格は、権力者の命令によって引き下げられるものと思っていたのであった。この点、平成年間における大蔵省役人をはじめとする日本の権力者と同じである。

 これに対し、当時の両替商達は、銀の価格が高いのは、「人為的なことではなく、相場のなりゆきだからしかたがない」と答えている(同書、一三七頁)

 見るべし、当時のベスト・アンド・ブライテストの大岡忠相にも市場法則は見えなかった。現在の大蔵官僚の如し。しかし、当時の銀行家たる両替商には市場法則が見えたのであった。この点、市場法則が見えなくて、住専問題で退っ引きならないところまで追い詰められた平成の銀行家よりずっとましと言うべきか。

 この時、大岡越前守は、市場法則は権力者の命令では如何とも為ることができないことを立証(デモンストレイト)してくれたのであった。」(小室直樹『日本人のための経済原論』)

「スターリンは権力を握った時、何が何でも遮二無二(しゃにむ)、社会主義に向けて突進することにした。と思って良く見回すと、無い無い尽くし。資本がない。技術がない。これは困った。

 社会主義は、資本主義の巨大な遺産を継承するはずだった。マルクス理論によれば、資本主義が爛熟し、高度に発達した生産力が資本主義という生産関係に入り切れなくなって革命が起きることになっている。それ故、革命によってできた社会主義は、高度な生産力(高度な技術も含めて)と膨大な資本蓄積を活用できるはずになっていた。

 そのはずになっていたのに、こと理論とちがって、革命は(ヨーロッパの)最後進国ロシアで起きた。故に、(殆ど)資本もない。技術も低い。

 仕方がないので、スターリンは、五カ年計画に次ぐ五カ年計画を強行して、強引に「資本」と技術を作ってしまうことにした。

 その結果の一つが、未完工工事に次ぐ未完工工事。

 計画したつもりでも実は計画にも何もなっていない。計画を立てるためには、そこで作動している法則を発見しなければならないのに、法則の所在を知らない。そして、当て推量に命令を下す。彼らは疎外されているのだから、そんな命令、実現される訳がない。

 大概は未完工工事で、工場などが完成することは滅多にないのだが、偶(たま)に完成することがあっても、その工場は動かない。”幽霊工場”、廃工場になる。

 「未完工工事」はスターリン時代以来、ソ連経済を悩まし抜いた持病であったが、スターリンが死んで彼のカリスマが失われた後、病、膏肓(こうこう)に入った。

 ゴルバチョフは、加速化(ウスカレーニエ)を発進させた時に疎外され切ったか、「計画したことは達成されることなり」とばかり、経済法則も何も無視して投資しまくったために、大変な目に遭った。

 投資をしても投資をしても、工場・施設が完成しない。未完工工事は膨大な物となった。

 未完工工事こそ、ソ連経済の痼疾(こしつ)である。

 膨大な物的資源と労働力が空費された。

 それにも拘わらず、ソ連の指導者もエコノミストも、誰一人、何故、未完工工事が起きるのかを考えてみる者はいなかった。何故、ソ連経済に限って未完工工事が頻発するのか考えてみようともしなかった。

 物象化された社会現象に意志を倒錯されて、「命ずることは成されることなり」と盲信して、経済現象を分析してその法則を理解せずに、経済に命令しようとしたからである。」(小室直樹『日本人のための経済原論』)

近代資本主義では「市場法則」は「人間関係」から抽象されている~代表的な総合社会学の提唱者デュルケームは、人間の外にあって、人間行動に大きな影響を及ぼすものを「社会的事実」(フェー・ソシアール)と呼びました。「伝統主義」社会においては、制度、文物、慣行、政治権力などはあたかも自然現象の如く、「そこにある」ものであって、人間の力で動かせるものとは到底考えられないわけです。「近代資本主義」における「市場法則」もまさに「社会的事実」と言ってよいわけですが、これに対して、例えば中国ではこうした「市場機構」(マーケット・メカニズム)以外の「価格決定機構」として、日本の「恩」や「義理」に相当する「関係」(クァンシー)、「利害」を基礎に置く「情誼」(チンイー)、「絶対的盟友」「義兄弟」とも言うべき「幇会」(パンフェ)などが存在するわけです。

「彼らは金だけを追求する商売を軽視する。商売を通じて、豊かな人間関係が成立しないと満足しないのである。」(孔健『中国人――中華商人の心を読む』)

「商売は、金と物のやり取りをすることだけではない。人間と人間との付き合いなのだと彼らは固く信じている。」(孔健『中国人――中華商人の心を読む』)

「全く同じ品物でも、中国では買い手によって、値段がちがう。」(孔健『中国人――中華商人の心を読む』)

「商人は、情誼(チンイー)を深めたい相手には安く売る。また、安く売ることによって情誼をもつ相手のネットワークを広げてゆく。」(孔健『中国人――中華商人の心を読む』)

「中華商人は、買い手によって、価格が異なることを不道徳とも不当だとも思っていない。むしろ当然の商法だと考えている。」(孔健『中国人――中華商人の心を読む』)

近代資本主義では「価格」は「市場法則」だけによって決まる~例えば、「完全競争市場」なら価格需要関数と供給関数との交点で決まります。これは経済学の第一原理たる「需要と供給の法則」に基づく「均衡価格」の実現です。市場取引は商品(資本・労働力も含みます)の「売買契約」であり、「取引成立」とは「売買契約」が結ばれることであり、「売買契約」が結ばれればその通りに実行されなければなりません。「近代資本主義」において「対等な両当事者の合意」に基づく「契約」は絶対であり、文字通りに実行されなければならず、「事情変更の原則」は許されません。こうした「資本主義取引」の典型的なモデルは自動販売機です。

「近代資本主義の所有権は、きわめて特異なものであって、近代以前の所有権概念とは異なるものである。その特徴は、いくたびも述べたように絶対性と抽象性にある。このような所有権概念は、近代資本主義社会以外の社会にはあり得ない。すでに強調したように、所有権の絶対性(absoluteness)とは、絶対的・全包括的な支配権であるということである。所有者は、所有物に対してどのような行為をもなし得るということである。

 では、近代資本主義社会における商品の絶対性は、どこからきたのか。

 それは、商品交換から生まれた。資本主義社会においては一切の富の基本形態は、マルクスの言う意味での商品(等価で交換される財貨)である。資本主義は、流通(商品交換)によって機能する。商品交換がとまれば資本主義は動き得なくなる。

 商品とは、貨幣、証券はもとより、資本(企業)、労働力、サーヴィスをも含む。諸情報が含まれていることは言うまでもない。情報通信(IT)革命によって、情報の商品としての比重が大きくなったことは注意されるべきである。

 また、「商品流通」というときには、その前提にある「商品の資本主義的生産(目的合理的生産、すなわち利潤最大化のための生産)」および「資本主義的消費(目的合理的消費、すなわち効用最大化のための消費)」をも含んでいることにする。

 商品流通の前提としての「利潤最大化のための生産」と「効用最大化のための消費」は特に重要である。企業は、利潤最大化のための生産を行う。これは、どの経済学教科書にも書いてあることで、当たり前のことだと思うだろう。しかし、そうではない。それは、市場が自由であるから当たり前なのである。市場が自由放任(laissez-fairre, let us free)だから当たり前なのである。

 市場の自由は、資本主義であればこそ達成されたのであり、すべての経済においてそうであるわけではない。例えば、中世においては、ギルド(商人組合、同業組合)は、各企業を厳しく統制していた。ギルドのルールは、正確に守ることが要求され、利潤の最大化をめざして各企業が勝手なことをするなんて、とんでもない!

 国家による企業の統制も珍しいことではなかった。例えば、フランス革命のちょっと前くらいの時期、フランスは、工業の統制を行った。フランスの工業は、うるさい統制を強制し干渉してくる検査官の部隊をもち、「べし」「べからず」の網の目で取り囲まれていた(レオ・ヒューバーマン『資本主義経済の歩み――封建制から現代まで』小林良正ほか訳、岩波新書、一九五三年、二〇五頁)。このような例は、どの国の歴史でも枚挙に暇がない。

 要するに、私有財産を意のままに使って、利潤を最大化することなどは不可能であった。所有者が所有物をどう使うべきかは、ルール(ギルドのルールなり、社会慣習なり、政府の統制)によって厳しく決められていた。所有者の所有物に対する全包括的・絶対的な所有権なんてとんでもない。「所有者ハ、……自由ニ其所有物ノ使用、収益及ヒ処分ヲ為ス」権利なんかはなかったのである。資本主義社会以外の社会では、ギルド、慣習、……政府などが、所有権の行使に介入し、決められたルール以外の使用は許さなかったのである。」(小室直樹『数学嫌いな人のための数学 数学原論』)

「完全競争」の条件市場機構(マーケット・メカニズム)が本当に機能しているかどうかは、「完全競争」が行われているかどうかという観点で計測でき、「完全競争」が十分に行われていれば、「一物一価の法則」競争が完全であれば、特定時点の同一財の市場ではただ一つの価格しか成立し得ない)が成立し、「定価」が存在することなります。その時の状況や駆け引きのいかんによって定価が変わるようでは、合理的生産計画も合理的消費計画も立てられないので、能率が悪くなり、経済の力がぐっと下がってしまうのです。この「一物一価の法則」の法則が近代資本主義への第一関門であり、第二関門が「失業と破産」市場は淘汰によって労働者と企業を作る)であるとされます。さて、「完全競争」とは以下の4つの条件を満たした市場のことを言います。

  1. 財の同質性~需要者にも供給者にも差別がないこと。

  2. 需要者・供給者の多数性~個々の需要者も供給者も単独でどのように行動しても市場価格に影響を及ぼすことがない→需要者も供給者も市場価格を所与として行動する。

  3. 完全情報~財の全ての性質と市場価格を全ての需要者と供給者が無料で直ちに知ることができる。

  4. 参入と退出の自由~需要者も供給者もいつでも市場に参加して始めることができ、また、いつでも取引を止めて退出することができる。

参考文献:

『日本人のための憲法原論』(小室直樹、集英社インターナショナル)

『日本人のための経済原論』(小室直樹、東洋経済)

『数学嫌いな人のための数学 数学原論』(小室直樹、東洋経済新報社)

『小室直樹の中国原論』(小室直樹、徳間書店)

『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(マックス・ヴェーバー、岩波文庫)

『社会科学における人間』(大塚久雄、岩波新書)

『社会科学の方法』(大塚久雄、岩波新書)

『中国人――中華商人の心を読む』(孔健、総合法令)

『資本主義経済の歩み――封建制から現代まで』(レオ・ヒューバーマン、岩波新書)



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「近代の論理~社会科学のエッセンス~」

(3)「近代精神」の根幹にある「合理主義」

「近代神学」「近代哲学」「近代科学」も「三位一体」の関係にある

神本主義~中世の「教会中心主義」「他律」の精神を指します。

人本主義~近世の「人間中心主義」「理性的自律」の精神を指します。ルネサンスという現実的方向と宗教改革という宗教的方向と2つの方向性を持ちます。

物本主義~近代の「科学」的精神を指します。中世では「教会」が神になり、近世では「理性」が神になり、近代では「科学」が神になっていったわけです。現代思想(記号論)ではさらに「言葉」を神にしました。

ルネサンスRenaissance)~元々、「再生」を意味する言葉。中世のキリスト教中心的なあり方から個人を解放することを目指し、古代ギリシア・ローマの古典の中に人間らしい生き方を見出しました。かくして、ルネサンス期には、古代ギリシア・ローマの文芸を再生し、古典を学び直そうという運動が広く展開し、古典を模範とすることで人間性を解放し、新たな人間像を探求する、人間中心の文化が花開きました。なお、イタリア=ルネサンスの中心地の1つ、フィレンツェは東方貿易、毛織物生産、金融業などで繫栄しており、14世紀初頭にはヨーロッパ最大の都市であったように、経済的発展の土台の上に文化的成熟が生じることが分かります。

人文主義ヒューマニズム)~古典研究を通じた、教会中心から人間中心のあり方の追求。なお、ヒューマニズムという言葉には、①人文主義(ギリシア・ローマの古典研究)、②人本主義人間中心主義神本主義物本主義)、③人道主義ヒューマニテリアニズム、humanitarianism)の3要素があるので、要注意です。

万能人普遍人)~あらゆる分野で個性や能力を発揮する人間。古代ギリシア・ローマの理想の人間像が善・美の人、中世ヨーロッパの理想の人間像が信仰の人であるのに対し、ルネサンス時代の理想の人間像とされました。

ベーコンイギリス経験論の祖、『ノヴム・オルガヌム』『ニュー・アトランティス』。人間にはその本性や感覚によって誤謬や錯覚が生じますが、観察実験を通じて得られた知識によって、それらを取り除き、自然の一般的な法則を捉えることで、自然を支配できると考えました。これは「感性」の哲学ですが、「自然科学への哲学」ともなりました。『ニュー・アトランティス』では科学技術が発達した理想郷を描いています。

「人間の知識と力は合一する(知は力なり)。」(『ノヴム・オルガヌム』)

経験論~経験の起源を経験(感覚)に求める立場。アリストテレス哲学・スコラ神学的な演繹法のように、いきなり普遍的な命題から個々の事例を説明するのではなく、生得観念を否定し、観察実験によって個々の事例から段階的により普遍的な命題を導出し、自然法則を導く帰納法を学問方法としました。これは近代科学の方法論でもあります。現実の生活での有用性を重んじるイギリスを中心に発達し、経験知覚)を根拠にした認識とはどういうことかを追究していきます。

イドラ先入観偏見など。ベーコンは自然を正しく認識するためには、イドラを排除しなければならないとしました。

種族のイドラ(Idola Tribus)~人間という種族であるがゆえに陥る偏見、人間に共通する自然的な制約から生じる偏見。感覚による錯覚などです。

洞窟のイドラ(Idola Specus)~個人的な性向や経験から生じる偏見、各人が各様に持っている経験や知識から生じる偏見。自然の光が遮られた洞窟の中にいる状態にたとえられています。

市場のイドラ(Idola Fori)~言葉の不適切な使用から生じる偏見、人間相互の交わりから生じる偏見。人々が集まる場所でうわさ話を信じることにたとえられています。

劇場のイドラ(Idola Theatri)~伝統や権威を無批判に盲信することから生まれる偏見、劇場で演じられる芝居を観客が本物と思い込むようなものです。

ロック~人間の心は「白紙」のようなものだとしてイギリス経験論を発展させます。『人間悟性論』。人間には生まれつき一定の観念が備わっているという見方(生得観念)を否定し、あらゆる観念は感覚という外的な経験と反省という内的経験によって、後天的に形成されるとしました。

白紙タブラ・ラサ、tabula rasa)~人間の心の生まれた当初の状態、経験する前の状態。後に科学哲学者カール・ポパーはこれを「バケツ理論」と批判します。

バークリー~観念以外の事物の存在を否定する唯心論を展開しました。これは「全ては心の表れである」とする中期大乗唯識思想とも通じる考え方です。

「存在することとは知覚されることである。」~バークリーは、事物が存在するのは人間がこれを知覚する限りにおいてであり、心の他に物質的世界などは実在しないと考えました。

ヒューム~因果関係の客観性を否定する懐疑論者。原因と結果の結びつきはむしろ習慣的な連想や想像力に由来する主観的な信念に他ならないとしました。このヒュームの懐疑論は、後にカント「独断のまどろみ」を破ったことで知られています。

「知覚の束」~ヒュームは経験論を徹底させ、人間の心は単なる「知覚の束」にすぎないと主張しました。そして、実在するのは流れゆく知覚だけで、実体としての精神は存在しないという懐疑的立場を取りました。

デカルト大陸合理論の祖、物心二元論を展開、『方法序説』『省察』『情念論』。情念(感情や欲望)を外部からの刺激によってもたらされた受動の状態であると考えました。また、万人に等しく良識ボン・サンス理性)が備わっており、これを正しく用いることで真理に到達できると考えました。具体的には、方法的懐疑から出発して、彼自身が創始した解析幾何学(近代数学)に基づく演繹法を採用し、これを土台として一切の学問を築き上げようとしました。これは人間に生まれつき備わっている観念(生得観念本有観念)を認める「理性」の哲学ですが、近代数学の方法でもあり、座標平面(デカルト座標系)を使って代数と幾何を統合したのもデカルトの業績です。また、理性(良識)によって感情や欲望などの情念を制御することで生じる、自由な主体としての気高い心を高邁の精神と言います。

合理論~感覚的な経験は不確かだとし、人間の理性を知の源泉と考える立場で、主にヨーロッパ大陸で発展しました。人間に生まれつき備わっている観念(生得観念本有観念)を認めます。これは「理性」の哲学ですが、近代数学の方法でもあります。ちなみに座標平面(デカルト座標系)を使って代数と幾何を統合したのもデカルトの業績です。

「我思う、ゆえに我あり。」(cogito ergo sum.コギト・エルゴ・スム)~デカルトは、少しでも疑い得るものは虚偽として退ける方法的懐疑を徹底した結果、疑っている限りの我の存在だけは確実であると考えるに至りました。これにより、身体から切り離された意識の主体としての「私」(自我)の存在が確立され(近代的自我の成立)、精神と物質を区別する物心二元論心身二元論)が成立しました。

物心二元論~古代においてはアリストテレス形相エイドス)と質料ヒュレー)を説きましたが、デカルト思惟を本質とする精神と延長を本質とする物体を区別し、それぞれを独立した実体と考えました。ここから西洋哲学の基本となる主客対立という考え方が生まれるのであり、物質世界の法則を見出して古典力学を完成させたニュートンと合わせて、これをデカルト=ニュートン主義デカルト=ニュートン的世界観と呼んだりします。

スピノザ~大陸合理論の哲学者、『エチカ』。神は無限で永遠の唯一の実体であり、自然そのものであるという汎神論「神即自然」を唱えました。したがって、全ての事物を、神を表現するものとして「永遠の相のもとに」見ることの重要性を主張しました。

ライプニッツ~互いに独立して宇宙を構成するとされる「モナド」(monad、単子)を想定し、それらは神の創造の時点で予定・調整された「調和」を本質として持つとしました(予定調和)。

カントドイツ観念論の創始者。批判哲学の立場から理性を検討し、主観の働きにより対象が構成されるという認識論を展開して、「イギリス経験論」「大陸合理論」を統合し、「理性」の限界を示して、宗教と科学の分離を促しました。『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』。理性を理論理性実践理性に分け、理論理性の領域は経験できるものに限られ、それを超えたものは実践理性が明らかにする領域だと考えて、理性の限界を明らかにしました。これは「悟性」の哲学です。また、プラトン「ギリシア正教の哲学者」アリストテレス「ローマ・カトリックの哲学者」と呼ばれるのに対し、カント「プロテスタンティズムの哲学者」と呼ばれます。

『純粋理性批判』~人間の認識能力(理論理性)の限界を検討し、概念を形成する悟性(understanding)は時間・空間という形式を持つ感性(sensibility)より得た直感的な印象に思考の枠組みを当てはめて対象を構成するとしました。このようにカントが従来の「認識が対象に従う」という理解の仕方を「対象が認識に従う」と180度転換したことをコペルニクス的転回と言い、今日の認知心理学は基本的にこのカントの立場に立っています。そして、こうした感性と悟性をつなぐものを構想力と呼びますが、事物そのものである「物自体」は認識できないとしました。

「内容なき思考は空虚であり、概念なき直観は盲目である。」(『純粋理性批判』)

『実践理性批判』~人間の道徳能力(実践理性)を批判的に検討し、経験を超える事柄(神、霊魂の不滅など)については理論理性では判断できず、実践理性が関わる領域であるとしました。カントは、自然界に法則があるように、人間にも従うべき道徳法則があると考え、条件付きで従うべき命令である仮言命法に対して、道徳法則は「ただ~せよ」という定言命法の形で発せられ、善意志に基づいて、この実践理性が自ら立てた道徳法則に自発的に従うことを自律と言います。この「理性的自律」こそが近代的人間観の根底にあるものです。

「私の上なる星空と、私の内なる道徳法則」『実践理性批判』)~「繰り返し長く考えれば考えるほど、常に新たな感嘆と崇敬をもって心を満たすもの」として挙げられたもので、『実践理性批判』の結びの言葉です。カントの墓碑銘にもなっています。

目的の王国~各人が互いの人格を目的として尊重し合う理想社会。全ての人間が互いを自律的主体と見なし、尊重し合う道徳的共同体。

「汝の人格や他のあらゆる人格の内にある人間性を、いつも同時に目的として扱い、決して単に手段としてのみ扱わないように行為せよ。」(『道徳形而上学の基礎づけ』)

永久平和論~カントは目的の王国の考えを国際社会に適用し、戦争のない永久平和を実現するために世界連邦が必要であると考えました。このカントの永久平和論は国際連盟、国際連合に続く世界政府構想などを考える時、よく取り上げられます。

フィヒテ~ドイツ観念論の哲学者。ナポレオン占領下のベルリンで「ドイツ国民に告ぐ」と題した講演を行い、ドイツ人に国民国家形成を強く呼びかけたことで広く知られます。

シェリング~ドイツ観念論の哲学者。自然と精神の対立の根底に両者を統一する絶対者を認める同一哲学を唱え、芸術に現れる絶対者の直観的把握を目指しました。

ヘーゲル~ドイツ観念論の大成者。客観的な法と主観的な道徳の統一を主張しました。自由を本質とする精神は、まず個人の主観的精神として現れ、次に社会関係としての客観的精神となり、最後に両者を統一する絶対精神になると考え、このように主観的精神と客観的精神を統一した絶対精神が自由を実現していく過程として世界史を捉えました。

弁証法~全ての存在や認識は矛盾や対立を通してより高次なものへと展開していくとする思考法。産婆術と呼ばれたソクラテス問答法なども古代の弁証法です。ヘーゲルは、事物や現象の運動を支える原理として、事物が正→反→合の過程を繰り返しながら発展していく法則を弁証法としました。また、世界史を世界精神の弁証法的な自己展開の過程と考えました。

近代神学~伝統的信仰に基づく「正統主義神学」に対して理性的合理主義に立つ「自由主義神学」が提唱され、「宣教のイエス」に対する「史的イエス」の問題が取り上げられるようになります。ここに高層批評下層批評からなる「聖書批評学」という強力な方法論が誕生し、近代神学が確立します。

聖書批評学~聖書の一言一句を神の言としてとらえる伝統的な「逐語霊感説」に対して、「原典研究」「文献批評」テキスト・クリティーク)などによって聖書を文献として合理的に分析する学問。近代学問の源泉の一つとなり、その手法は哲学(アリストテレス研究におけるイェーガー革命など)、仏教学(サンスクリット語・パーリ語の原典研究による法華至上主義批判大乗仏教非仏説など)、歴史学(漢委奴国王批判邪馬台国批判など)など様々な分野に波及しました。また、同時代的に清朝で考証学、日本で荻生徂徠古文辞学が起こっており、いずれも学問の基礎づけとして重要視されます。聖書批評学には写本の比較検討を行う下層批評と本文内容の検討を行う高層批評の2つの方法があり、特に「史的イエス」「宣教のイエス」を分けた高層批評が伝統的信仰を揺るがすほどの影響を与えました。

モーセ五書の成立『旧約聖書』の根幹とも言える、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記からなるモーセ五書は従来、モーセ一人の作とされてきましたが、創世記だけでも神をヤハウェと呼び、素朴で写実的な文体で、人間と同じく園を歩かれる神が描かれるJ資料、神をエロヒームと呼び、技巧的で荘重な文体で、神の姿は見えず、威厳のある声だけが聞こえているE資料、申命記の原資料となったD資料、祭司資料であるP資料など、少なくとも4つの資料の合成体であることが明らかになりました。今日、一般的に支持されているグラーフ・ヴェルハウゼン学説によれば、その成立・編集・意図がかなりの部分まで明らかになっています。

①BC922年にイスラエル王国が北朝イスラエルと南朝ユダに分裂した後、BC850年頃、南朝ユダの伝承を編集してJ資料が成立。

②BC750年頃、北朝イスラエルの伝承を編集してE資料が成立。

③BC721年に北朝イスラエルがアッシリアに滅ぼされ、BC650年頃、南朝ユダでJ資料とE資料が1つの資料に編集されました。

④BC622年に神殿から1つの律法の書(D資料)が発見され、これが南朝ユダのヨシヤ王の宗教改革(申命記改革)の理念となりました。

⑤BC587年に南朝ユダもバビロニアに滅ぼされ、バビロン捕囚となりますが、その際にこれらの資料も捕囚の地に持ち込まれました。

⑥バビロン捕囚末期に捕囚の地で新しい宗教運動が起こり、この時に祭儀に関する細かい規定などが書かれたP資料がまとめられました。P資料は神の権威と支配を訴える一方、排他的選民主義に貫かれており、このP資料を編集したグループがJ資料・E資料・D資料に手を加えて、総合的に編集し、BC450年頃にモーセ五書を成立させました。

四福音書の成立『新約聖書』の根幹とも言える、マタイによる福音書マルコによる福音書ルカによる福音書ヨハネによる福音書からなる四福音書には少なくとも4つの原資料があったことが明らかになっています。ストリーター説によれば、おおむね次のような経緯となります。

①50年頃、マタイが編集したイエスの教訓集「ロギア」(Q資料)が成立。

②60年代、マルコ福音書、ルカ福音書特有の資料(L資料)、マタイ福音書特有の資料(M資料)が成立。

③80年代、これら4つの資料を使ってマタイ福音書ルカ福音書が成立。

④100年頃、マルコ福音書マタイ福音書ルカ福音書(これらは内容が類似しているので共観福音書と言います)を参考にし、独自の資料も加えてヨハネ福音書が成立。

様式史研究~福音書に記された伝承は、「史的イエス」を正確に伝えるためのものではなく、神の子イエス、病気の癒し、十字架による贖罪、復活、聖霊降誕など「宣教のイエス」を伝えるための「生活の座」で語られたものであることを明らかにしました。

編集史研究~福音書記者は単なる伝承の編集者ではなく、「宣教のイエス」を伝えるという編集の「意図」を持っていたことを明らかにしました。これによれば、十字架贖罪論信仰義認説も聖書に出てくるイエスの記述から必然的に導き出されるものではなく、逆にそのような意図を持って語られた伝承をそのような意図を持った編集者がまとめたものが聖書だということになります。したがって、こうした意図的な「宣教のイエス」像にそぐわない記述こそが、実際の「史的イエス」を浮かび上がらせることになります。さらにこれを仏教学に応用すれば、「史的釈迦」「宣教の釈迦」を分離する観点が出てくるでしょう。

コペルニクス~ポーランドの天文学者、『天球の回転について』。中世を通じて、アリストテレスプトレマイオス天動説がキリスト教の宇宙観になっていたのに対し、ピタゴラス派の主張を受けて地動説を完成させました。

ガリレイ~イタリアの数学者・物理学者、『天文対話』。宇宙や自然を「第二の聖書」と考え、仮説実験によって実証し、数学的に論証することで近代科学の方法を創始し、宗教と科学を分離します。天文学・力学分野で実験をもとに慣性の法則自由落下の法則落体の法則)を発見し、近代物理学の基礎を築きました。また、『天文対話』で地動説を支持しましたが、宗教裁判にかけられて自説を撤回しました。

ケプラー~ドイツの天文学者。ティコ=ブラーエの天体観測によって得られた精密な観測値に基づき、惑星が楕円軌道を描くという法則を発見して、伝統的な宇宙観に変更を迫りました。

ケプラーの3法則

(1)第一法則(楕円軌道の法則)~惑星は太陽を1焦点とする楕円軌道を描く。

(2)第二法則(面積速度の一定の法則)~惑星と太陽を結ぶ直線は等しい時間に等しい面積を描く。

(3)第三法則(調和の法則)~任意の2惑星の公転周期の2乗は太陽からの平均距離の3乗に比例する。

ニュートン~イギリスの数学者・物理学者・天文学者、『プリンピキア』(自然哲学の数学的諸原理)。地上から天体までのあらゆる自然現象の運動を統一的に説明し得る根本原理(運動の法則万有引力の法則)を発見することで古典力学を確立し、近代的な自然哲学を構築、機械論的自然観(⇔目的論的自然観)に道を開きました。

ニュートンの運動の3法則

(1)運動の第一法則(慣性の法則)~物体に外部から力が働かない時、またはいくつかの力が働いてもそれらの力がつりあっている時は、止まっている物体はいつまでも静止を続け、動いている物体は等速直線運動を続ける。

(2)運動の第二法則(運動方程式)~物体に力が働くと,力の向きに,力の大きさに比例した速度の変化。加速度) を生じる。

(3)運動の第三法則(作用反作用の法則)~物体Aから物体Bに力を働かせると、物体Bから物体Aに、同じ作用線上で、大きさが等しく、向きが反対の力が働く。

目的論的自然観~自然界の現象は一定の法則によって規定されているという見方。

機械論的自然観~自然を機械のような存在としてとらえ、自然界の事象を物理的な因果関係のみによって説明する見方。デカルトの物心二元論ニュートンの力学はこの立場に立ち、ここから自然の支配・利用が進みました。

参考文献:

『概説西洋哲学史』(峰島旭雄編著、ミネルヴァ書房)

『キリスト教思想史入門』(金子晴男、日本基督教団出版局)



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「近代の論理~社会科学のエッセンス~」

(3)「近代精神」の根幹にある「合理主義」

「伝統主義」を打破した「合理主義」の精神

中世の戦争(「正義の戦争」)は「感情の戦争」~中世までのヨーロッパでは、「いい戦争」「悪い戦争」の2種類があると考えられていました。「いい戦争」とは正義を実現するための戦争で、「悪い戦争」とは不正義を実現しようとする戦争なので、戦争目的に「大義名分」があるかどうかが重要でした。このため、憎むべき相手と徹底的に戦わなければならず、相手を叩きつぶした時に戦争目的が達成されたと考えました。その結果、どんなに自国の損害が大きかろうと関係ないというわけです。これが最悪の形で行なわれたのが宗教戦争であり、三十年戦争の舞台となったドイツでは、地域によっては人口が半減したとされます。

近代の戦争は「合理的精神」に基づいて行なわれる一種の経済活動~近代においては、「いい戦争」「悪い戦争」といった区別はなくなり、戦争をリアリズムで考えるようになりました。すなわち、国益を追求するために通常の外交手段を駆使しても達成されない場合、そこで出てくるのが戦争だという考えがプロイセンの士官だったクラウゼヴィッツによって示されました。彼の死後、公刊された『戦争論』「近代戦争のバイブル」として世界中の将校のみならず、エンゲルスやレーニンまで思想的な影響を与えました。

「戦争は他の手段による政治の継続である。」(クラウゼヴィッツ『戦争論』)

古代イスラエル人は「宗教の合理化」を行なった「合理化」という点でマックス・ヴェーバーが注目するのが、古代ユダヤ教を創設した古代イスラエル人です。彼らは「苦難をも与える神」「目に見えない神」を崇拝し、信仰を合理化して、「呪術からの脱却」を図りました。

「ちなみに、イスラエル人がユダヤ人になったのは、このバビロン捕囚からです。

 バビロニアの奴隷になったイスラエルの人たちは、「なぜ自分たちは、こんな目に遭っているのだろうか」と考えた。そして過去の歴史を振り返ってみたら、自分たちが神様との契約を無視したからだということに気付いた。

 そこで彼らは過去の失敗の歴史を旧約聖書という形に集約し、今後は神と結んだ契約、いわゆる「律法」をきちんと守ろうと考えた。そうすれば、神様はもう1度、イスラエルの民にカナンの地を与えてくださるのではないかというわけです。

 実は、これこそがユダヤ教の原点です。

 ユダヤ教は古代イスラエル人の信仰をベースにしていますが、、それだけではありません。神との契約を無視した苦い教訓があって初めて、あの強固なユダヤ教の信仰が生まれた。

 同様に、古代イスラエル人が、そのままユダヤ人になったのでもありません。

 バビロン捕囚という体験によって、古代イスラエル人は、ユダヤ人へと変身した。マック・ウェーバー流に言えば、民族全体のエートスがバビロン捕囚によって変換したというわけです。

 エートスが変わったユダヤ人は、かつてのイスラエルの民とは見違えるほどになりました。

 古代イスラエルの人々は、不信心でグータラで、すぐに昔のことを忘れてしまう連中でした。

 しかし、ユダヤ人は違います。彼らはどの土地に住もうとも、信仰を捨てずに生きつづける。そして、つねに神との契約に基づいて、自分の生活を律していく。ユダヤ人がそんな民族になったのは、バビロン捕囚という苦い体験があったからです。」(小室直樹『日本人のための憲法原論』)

「一神教」の神との「契約」は「形式論理学」そのもの~興味深いことですが、古代ユダヤ教の特徴である「契約」は「形式論理学」で説明されます。「形式論理学」はアリストテレスが完成させ、「近代数学」もこれを引き継いだものですが、これは「同一律」「矛盾律」「排中律」の3つの根本原則から成ります。

(1)同一律(the law of identity)

「AはAである。」と表現されます。「契約」においては、その内容は文書で明示されなければならないということになります。

(2)矛盾律(the law of contradiction)

「AはBである」「AはBでない」という2つの命題がある時、両方とも真であることはなく、両方とも偽であることもないということです。「契約」においては、それを守ったか、守らなかったかが「一義的」に決まるということになります。

(3)排中律(the law of excluded middles)

 「AはBである」「AはBでない(Aは非Bである)」の2つの命題がある時、必ず一方だけが成立し、他方は成立しない(ここまでは「矛盾律」)が、この2つ以外にないということです。「契約」においては、それを守ったとも言えるし、守らなかったとも言えるというような中間状態は認められず、守ったか、守らなかったかは「二分法」的に分けられるということです。

「一貫した体系的論理を誕生させ、これと結びついたこと。これこそ、数学が諸科学の王となり、これを制御し、その下に発展させた理由である。

 しかし、その体系的論理が、人の世界観、人生観の中枢として、人のエトス(ethos)となるためには、宗教において合理性を獲得しなければならない。不合理な点を払拭しなければならない。

 宗教の合理化とともに進まなければならないのである。魔術や呪術や儀礼にまとわりつかれているというのではなく、論理がそれらから脱却して純粋に作用しているようになっていなければならないのである。」(小室直樹『数学嫌いな人のための数学 数学原論』)  

プロテスタントも「宗教の合理化」を行なった~マックス・ヴェーバーによれば、古代ユダヤ教同様、プロテスタントも「宗教の合理化」を行なったとされます。プロテスタントが登場するまで、中世カトリックは聖書にない「秘蹟」(洗礼・堅信・回心・聖餐・叙階・婚姻・終油)を定め、「救済財」の概念や「マリア信仰」、「煉獄」思想などを生み出し、「呪術の花園」と化していたのでした。

ヴェーバーの逆説~一般的に、ヨーロッパに「近代資本主義」が生れたのはキリスト教離れのおかげだと信じられてきたのですが、マックス・ヴェーバーは「事実はそれと逆で、宗教改革によって世の中が徹底的にキリスト教的になったからこそ、ヨーロッパは近代の扉を開けることが出来た」と主張したのです。すなわち、プロテスタントは中世のキリスト教から呪術的要素を徹底的に追放し、キリスト教に「合理性」を取り戻したのですが、この「合理性」の追求がそのまま「資本主義の精神」へとつながっていくと考えました。実際、「近代資本主義」は「合理的経営」なくして成り立ちません。

「マクス・ヴェーバーは、近代資本主義を生むのは目的合理性(Zweckrationalität)の論理であると言った。目的合理性の神髄は形式合理性である。形式合理性とは、数学のように計算ができること(Rechenbarkeit)を言う。

 数学、特に計算ができることが近代資本主義を生んだとも言えよう。

 ヴェーバーは、計算可能の例として、複式簿記(double entry accounting)、近代法、資本主義市場、物理学を代表とする近代科学を挙げている。

 いずれも近代資本主義の所産であり、数学の論理が縦横に活躍している。」(小室直樹『数学嫌いな人のための数学 数学原論』)

キリスト教における2段階の「エートスの変換」マックス・ヴェーバーによれば、「エートス」とは「行動様式とそれを背後で支える心的態度」のことです。「近代資本主義」が誕生するためには、まず「プロテスタンティズムの倫理」から予定説に基づき、「労働は救済の手段であり、隣人愛の実践である」という労働観の転換が起きます。さらに「利潤最大化」のために「目的合理性」が生まれ、伝統主義から完全に脱却して「資本主義の精神」が確立されるといった、2段階の「エートスの変換」が必要だったとされます。

「当時の社会は伝統主義が支配する社会です。「永遠の昨日」という言葉が示すように、社会の仕組みや決まりを人間の都合で変えてはならないというのが伝統主義です。

 ところが予定説を信じると、その伝統主義もまた色あせて見える。

 なぜなら、神の絶対を信じているプロテスタントからすれば、「昨日まで、そうやって来たから」という理由では納得できない。彼らにとって何より大事なのは、それが神の御心に沿っているかどうかだけです。だから、神様のためなら社会の仕組みなんてぶち壊して、作り替えてもかまわない。

――つまり革命だ。

 そう!近代の歴史は革命の歴史と言ってもいいわけですが、その革命もまた予定説の産物だった。

 神のためなら、社会をひっくり返してもいい……この考えがそのままフランス革命、ひいてはロシア革命につながるのです。

 革命の概念にしても、平等の概念にしても、予定説がなければ作られないものです。カルヴァン以前には、まったく誰の頭にもなかった。ここが近代民主主義の本質を理解するうえで、絶対に忘れてはならないポイントです。」(小室直樹『日本人のための憲法原論』)

「カルヴァン主義の信者になれば、紛れもなくエートスが変わる。

 予定説を信じれば、まず労働に対する見方が変わる。つまり、内面に変化が起きる。そして、それにともなって外面的行動も勤勉で質素な生活を送るようになる。

 また民主主義との関連でいえば、内面的には人間に対する見方が変わる。

――人間は平等であると思うわけですね。

 そして外面的には王様の首をちょんぎって、革命を起こすようにもなる。エートスの変化が起きるわけです。

 ウェーバーが言っている「資本主義の精神」というのも、要するにこうしたエートスのことです。

 いくら*1陶朱や*2紀伊国屋文左衛門のような豪商がいて、*3前期的資本が作られたとしても、資本主義は生まれない。

 カネが資本主義を作るのではなく、エートスの変換こそが資本主義を作る。これがウェーバーの言いたかったことです。

 その資本主義のエートス変換の媒体、触媒になったのが、かの予定説なのです。

 まず予定説によって、人々の間に「労働は救済の手段であり、隣人愛の実践である」という考えが生まれた。そして、外面的には毎日毎日、働くようになり、利潤を追求するにようになる。キリスト教徒のエートスがプロテスタントの登場で、まず変化した。これが資本主義誕生の第1段階です。

 しかし、これだけではまだ資本主義とは言えない。

 働くことが救済であるとは、日本の二宮尊徳も言ったこと。しかし、二宮尊徳だけでは資本主義は出てこない。

 資本主義が出てくるには、さらに第2段階のエートス変化が必要である。こうウェーバーは考えました。

 そのエートスを一言で表わすとすれば、目的合理性です。

 つまり、ただがむしゃらに働くのではなく、利潤を最大にするという目的を達成するために、何をすべきかを合理的に考えるという精神が生まれた。これこそが資本主義の精神の真髄と言っても差し支えありません。

 伝統主義に縛られていたら、利潤を最大化することはできません。刃物を鍛冶屋が昔ながらの方法で手作りしているのでは、どうしても生産量は限定され、利益の上限も決まってきます。しかし、同じ品質の刃物が作れるのであれば、設備投資を行なって機械を導入し、大量生産したほうが儲けが大きくなる。こう考えるのが、初歩の目的合理性です。

 しかし、さらに目的合理性を突き詰めて考えていけば、要するに目的は利潤を最大化することになるのだから、先祖代々の商売をしている必要すらない。もっと儲かる仕事があれば、さっさと転業するほうがいい。こう考える人たちがどんどん現われてきた。

――なるほど、そこで産業革命が起こって、新しい産業が続々と生まれてくるわけですね。

 さらに利潤最大化という目的を達成するには、日常の経営そのものもまた合理的でなければなりません。

 そこで従来の大福帳方式から、複式簿記という近代的な簿記システムが生まれてきます。要するに勘と経験で仕事をするのではなく、もっと数学的、客観的に事業を把握しようという動きが出てきたわけです。

 こうして、私たちが知っている近代資本主義がどんどん育ってくる。その資本主義のエートスも、プロテスタンティズム、つまり予定説という媒体、触媒があって誕生したものだというのが、ウェーバーの主張なのです。」(小室直樹『日本人のための憲法原論』)

*1陶朱…春秋時代の越王勾践(こうせん)の下で首相となり、呉王を倒した後に職を辞して商人となった范蠡(はんれい)のこと。経済法則の奥義をつかんで大いに利益を上げ、金持ちの代名詞となりました。

*2紀伊国屋文左衛門(きのくにやぶんざえもん)…元禄時代の豪商で、木材取引で巨万の富を築き上げ、伝説に残るような豪遊をしました。

*3前期的資本…大塚久雄によって指摘された概念で、単純な商品流通と貨幣流通の発生に伴って資本主義以前の諸社会に現れた古い資本形態。利子生み資本の古い形態である高利貸資本と商業資本の古い形態である商人資本を指します。

参考文献:

『キリスト教思想史入門』(金子晴男、日本基督教団出版局)

『概説西洋哲学史』(峰島旭雄編著、ミネルヴァ書房)

『日本人のためのイスラム原論』(小室直樹、集英社インターナショナル)

『日本人のための憲法原論』(小室直樹、集英社インターナショナル)

『数学嫌いな人のための数学 数学原論』(小室直樹、東洋経済新報社)



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「近代の論理~社会科学のエッセンス~」

(3)「近代精神」の根幹にある「合理主義」

「抽象化」「普遍化」が世界化する

「合理性」は「抽象化」に向かう「合理性」の追求は個別状況や人間関係などを捨象していきます。「近代科学」は、例えば三角形は線の太さを考えない、物体の落下でも空気摩擦を考えないなど、「抽象化の論理」によって急激に発達しました。

「論理と数学との合体は、古代ギリシャにおいて実現される。これこそ実に、世界史における画期的大事件であり、数学の無限の発達を保証するものであった。

 資本主義とともに発達を遂げることになる近代数学の神髄は論理と一体化したことにあった。実はこのことはギリシャ数学に端を発する特徴であって、他の高度文明諸社会にも見られる現象ではない。」(小室直樹『数学嫌いな人のための数学 数学原論』)

「中国の数学は実用性と密着したものであった。……ギリシャのユークリッド幾何学に見られるような論証性は、中国の数学には欠如していた。」(薮内清『中国の数学』)

「「本来の論理」という言葉を使った。そして、数学が「本来の論理」のみを使用した学問に成長したことは画期的であり、このことが数学の偉大な発達をもたらし、近代科学に基礎を与えたとも述べた。では、「本来の論理」とは何か。それは、アリストテレス(Aristotle 前三八四~前三二二)の形式論理学(formal logic)である。

 この体系はギリシャ、ヘレニズム世界、ローマ帝国、サラセン帝国、中世ヨーロッパなどにおいて論理学の模範、いや論理学そのものとみなされ近代に及ぶ。

 一九世紀末、形式論理学は、記号論理学(symbolic logic)、すなわち数学的論理学(mathematical logic)に発展した。

 形式論理学は、また、形而上学の一種として、マルクスから弁証法をもって批判された。しかも、アリストテレスの形式論理学は曠古(こうこ、空前)の完成度を見せるものであって、中国の論理学といえども比べものにならない。

 曖昧模糊(あいまいもこ)たるところを残さず、この論理学を用いれば、真偽の判定が一義的にできるところに未曾有(みぞう)の強味を有する。この点において、中国の論理学とも比較にならない。」(小室直樹『数学嫌いな人のための数学 数学原論』)

「現在の経済学は数学と結合した(あるいは比喩的に数学と結婚した)が、それが可能になったのは、物理学が数学と結合したのを同じ理由によるのです。すなわち、物理学の諸変数(変位、速度、加速度など)は抽象性を獲得した、ということである。古代ヘレニズムにおいて、幾何学が数学(形式論理学)と結合した。幾何学の諸図形(点、直線、円、それらが作る諸図形)が抽象性を獲得したからである。

 直線とは、太さ(幅)が全くなくて長さだけがある図形である。こんな図形は抽象の産物であって、実在し得るものでないことは言うまでもない。点に至っては、その在り場所だけがあって大きさは全くない!抽象の産物のみによって作られるユークリッド幾何学の諸図形は、もちろん、抽象の産物にすぎない。これらの抽象の産物にすぎない諸図形と形式論理学とから、ユークリッドは壮大な幾何学原論を作り上げたのです。

 物理学が高度の抽象性を獲得したことを理解するための恰好の例は、質点(mass point)である。質点とは、大きさが全くなくて、質量を有する点のことであるとされる。質点が実在しないことは明白である。もし実在したとすれば、質点の比重は無限大となる。こんな物質が実在するわけがないではないか。しかも、ニュートン力学は質点の力学から始まる。一質点のみが実在して、その他のものは何も存在しない模型から議論を始めるから、模型構築法(model building)に少しも関心のない人にはナンセンスに見えるのです。

 しかし、物理学は、抽象的な模型構築法を活用したので、数学の全面的使用が可能となり急速な発達を遂げることができました。諸学問の手本となり、自然科学の多くと、いくらかの社会科学は物理学にならって長足の進歩を遂げたのです。

 社会科学で、抽象的な模型構築法を活用し、数学の全面的使用が可能となり、長足の進歩を遂げたのは経済学なのです。」(小室直樹『数学嫌いな人のための数学 数学原論』)

「抽象化」は「普遍化」「一般化」に向かう「目的合理性」「形式合理性」に至り、より普遍的・一般的になります。例えば、数学記号音楽の楽譜は世界のどこでも共通認識できるわけです。かくして、数学ではユークリッド幾何学から非ユークリッド幾何学が生まれ、物理学ではニュートンの古典力学からアインシュタインの相対性理論ボーア以降の量子力学が生まれてきて、より普遍的・一般的になったわけです。社会諸科学の中では経済学理論で、心理学実験で、より普遍的・一般的な科学となりました。元々は経済学も心理学も哲学の一部だったのです。

「ロバチェフスキー(Nicolai Ivanovich Lobachevskii 非ユークリッド幾何学の創始者。一七九二~一八五六年)の業績は、数学革命としか言いようがない。いや、まさしく、科学革命と呼ぶのにふさわしい一大革命であった。ロバチェフスキーこそ、数学の、いや科学のコペルニクスと呼ぶべきか。数学・科学の研究法が一変したのであった。

 この数学革命・科学革命が近代資本主義・近代デモクラシーを生むことになった。

 数学も科学も、それまでは、客観的に存在する真理を学者が発見するという立場で研究されてきていた。ユークリッドの幾何学原論が模範であり、自明(self-evident)な公理から、形式論理学だけを用いて定理を導き出す方法が学問の理想であると看做(みな)されてきていた。

 その公理からの論理演繹(えんえき)法は、あまりにも見事であったので、学者は誰でも、これこそ完全な理論であるとして完全理論(complete theory)と呼んだ。

 しかし、ロバチェスキーは、このイデオロギー(確固たる学問教と呼んでもいい!)に、真っ向から挑戦して、このイデオロギーを転覆させたのであった。

 ロバチェフスキーが、背理法を用いて非ユークリッド幾何学を建設して以来、自明の真理であると看做されてきた公理(the axiom)は、仮定(a hypothesis)にすぎなくなった。

 学者の任務は、真理の発見ではなく、仮定を要請する(postulate)ことになった。

 つまり、ロバチェフスキー革命によって、数学者、科学者は、真理発見者を辞めて、模型構築者(model builder モデル・ビルダー)に変身したのであった。

 伝統主義(traditionalismus, traditionalism)は、一気に打倒されて、近代資本主義、近代デモクラシーへの道は開かれた。」(小室直樹『数学嫌いな人のための数学 数学原論』)

「長い鎖国の末に欧米資本主義国(主として、ドイツとフランス)の法典を真似て基礎的法典(憲法、民法、商法、刑法、民事訴訟法、刑事訴訟法)を作って近代国家として発足した日本は、近代資本主義国家の法律の論理の緻密(ちみつ)さに驚いた。近代資本主義国の法律は、論理としてアリストテレスの形式論理学を用いているのである。西洋諸国の法律も、はじめから形式論理学を用いていたわけではなかったが、近代資本主義に至って法律の論理が形式論理学(formal logic)に進化していったのである。

 形式論理学に依れば、判決(判断の一種である)は、勝つか負けるか(刑事判決ならば、検事が勝つ〔有罪〕か負けるか〔無罪〕か)のいずれしかない。勝つと同時に空けるということもなければ(矛盾律)、勝つと負けるの中間もなければ、勝つ、負ける以外の判決もない(排中律)のである。

 最後に繰り返しておこう。形式論理学とは、以下の三つが極意である。

同一律 AはAである。

矛盾律 AはBである。AはBでない。これら二つの命題が成立することはできない。ともに成立しないこともできない。

排中律 矛盾の中間はない。」(小室直樹『数学嫌いな人のための数学 数学原論』)

「普遍化」は「教科書化」によって社会的再生産の軌道に乗る~数学を初めとする自然科学は「標準教科書」によって社会的に定着し、人類共通の認識・財産として次世代に引き継がれていきます。例えば、数学では初等数学(算数)から高等数学まで(少なくとも中学・高校の数学まで)、誰でも体系的に学べるのは標準的な「教科書」が確立されているからで、もしも17、18歳の高校生がタイムマシンで500年前の世界に行ったとしたら、「微分・積分」を使いこなすのを見て、誰もが「天才」扱いされることでしょう。無限や極限の概念を使い、曲線で囲まれた図形の面積を導出するなど、それこそライプニッツやニュートンといった天才達が一生かかって編み出した知識体系なのであって、それを現代の高校生はたった1時間でも学んでしまうのです。社会科学の中でこれに成功したのは、数学を本格的に導入した経済学のみであり、「標準教科書」の嚆矢は古典派経済学とケインズ経済学を統合して「新古典派総合」を打ち立てたポール・サミュエルソンの『経済学』です。ここに教育による社会的再生産が確立するわけです。ちなみにイギリスの法廷では、裁判官はプラチナブロンドのかつらをかぶることで有名ですが、イギリス法系にあるフィジーやスリランカでも同様にかつらをかぶっています。すなわち、ここでもイギリス法教育がイギリス法圏に「慣習」を教育・再生産しているわけです。

「一つの学問領域が「科学」として社会の認知を受け、研究の裾野を広げるには、その領域における理論の基礎と分析の手法を体系的に編んだテキストが不可欠である。先人達が生み出した理論の一つ一つ、そこで戦わされた議論の数々。その本質と真価を見極め、根幹と枝葉とに再構成し、大樹の輪郭を入門者にも分かり易く提示する――。これは新しい理論を生み出す事にも匹敵する(否、それ以上の)難業と言っても過言ではない。

 その難業を、経済学の分野で成し遂げたのが天才サムエルソンである。サムエルソン博士が『経済学』の初版を上梓したのは一九四八年。経済学は二〇〇年以上の歴史を持つが、入門者が体系的なテキストで学べるようになったのは、実はここ半世紀の事なのである。」(小室直樹『経済思想ゼミナール 経済学をめぐる巨匠たち』)

「私の学説がもし分かり難いと言う人がいれば、サムエルソン博士の『経済学』を一読する事を勧める。私の説を私以上に良く理解している人がいるとすれば、それはサムエルソン博士である。」(ケインズ主義を激しく批判したフリードマン)

「自分が経済学のテキストを書くことができさえすれば、国家の法律や進歩的な条約の文章を誰が書こうがかまわない。」(ポール・サミュエルソン)

参考文献:

『数学嫌いな人のための数学 数学原論』(小室直樹、東洋経済新報社)

『経済思想ゼミナール 経済学をめぐる巨匠たち』(小室直樹、ダイヤモンド社)

『中国の数学』(薮内清、岩波新書)

『日本の司法文化』(佐々木知子、文藝春秋)

『マンキュー経済学Ⅰミクロ編』(N・グレゴリー・マンキュー、東洋経済新報社)



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「近代の論理~社会科学のエッセンス~」

(4)近代ヨーロッパが世界の「覇者」となった秘密

「市民革命」と「産業革命」が「近代社会」を形成した

「民主主義」は「過程」(プロセス)であって、「完成された状態」ではない「民主化運動」「民主化革命」といった言葉に代表されるように、民主主義はそこに到達すれば理想的な社会が実現するといった到達目標のように思われがちですが、これは誤解です。民主主義は不断の努力によって維持される「永遠のプロセス」なのです。

「民主主義をめざしての日々の努力の中に、はじめて民主主義は見いだされる。」(丸山眞男)

「イギリスの長い民主主義史の中で、最も立派な首相は誰かというアンケートをイギリス人に行なえば、おそらく第1位に当選するのはディズレーリでしょう。その次に来るのが、サッチャーかチャーチルかは意見が分かれるでしょうが、およそまともな教養人ならディズレーリをトップにすることは、まず間違いない。

 では、いったいディズレーリのどこが偉かったのか。…

 それは彼こそが、イギリス議会政治の基本ルールを確立した人物だからです。…

 ディズレーリの(穀物法をめぐる)大演説は、議会政治に新たなルールを追加しました。

 まず第1は「選挙公約はかならず守るべし」ということです。

 もし、選挙公約を変えるのであれば、まず代議士全員が辞職し、ふたたび選挙に討って出て、新しい公約を選挙民に問わなければならない。それをやるだけの度胸がなければ、いさぎよく下野すべきである。君主の信任があっても、選挙民を裏切ったのでは首相になれないというわけです。

 第2に「他人の公約を盗むな」ということ。これはあらためて説明するまでもありません。

 ディズレーリが作った第3のルールは「議会における論争によって、すべてを決する」というものです。

 ディズレーリは、あくまでも議会での論戦でピール(首相)を圧倒したから勝った。ただただ言論の力のみで、首相を論破した。その結果、ピールを支持する声はなくなり、多数派のピール内閣も倒れた。ディズレーリは多数派工作をして勝ったのではないのです。

 それまでのイギリスの議会政治では「しょせん政治は数だ。数はカネで集められる」という考えがまかり通っていました。イギリス最初の首相と言われるウォルポールはその代表格で、あり余る資金力にものを言わせて、多数派工作をしたことで有名です。

 しかし、ディズレーリの時代となると「数は弁論の力で獲得するものだ」という思想に変わっていった。それを象徴するのが、このディズレーリ―ピール論争なのです。

 英国憲法史においては「ヴィクトリア時代、英国憲法が完成した」と言われます。

 その理由は他でもありません。

 ディズレーリによって、この3つのルールが確立したからです。だからこそ、ディズレーリは最高の政治家と今でも尊敬されているわけです。」(小室直樹『日本人のための憲法原論』)

「イギリス革命」「アメリカ独立革命」「フランス革命」に見られる「自由原理」と「平等原理」王権神授説によって理論的に支えられた絶対王政を打ち倒すべく、社会契約説による市民革命により「近代民主主義」が確立・推進され、「近代市民社会」が実現しました。ちなみにピューリタン革命名誉革命からなるイギリス革命アメリカ独立革命「信仰の自由」を原点に持つ「自由原理」に基づく市民革命であり、「自由民主主義」を生み出しました。これに対して、フランス革命「平等原理」に基づく市民革命で、その直系とも言うべきロシア革命では、「平等原理」をさらに徹底させて共産主義を生み出しました。共産主義も「民主主義」を主張し、共産党一党独裁「民主集中制」という民主主義であると位置づけますが、これは「プロレタリアート民主主義」と呼ばれるものです。そこでは資本家や地主などの資本主義者達の「人権」は保障されません。キリスト教の本来の思想からすれば、これらは「兄弟主義的民主主義」「家庭的民主主義」として統合されるべきものでしょう。自由意志を持つ人間は親なる神の前では平等ですが、兄弟姉妹の中にも秩序と格位はあるわけです。個人の自由も尊重されると同時に、無制限に絶対視されるわけでもないのです。同様に性別、人種、民族、宗教、文化の違いなども個性として尊重されると同時に、無制限に絶対視されるわけでもないのです。これを実現させるのが、フランス革命の3つのスローガン「自由・平等・博愛」のうち、取り残された感のある3つ目の「博愛原理」に基づく市民革命であると言えるかもしれません。

「英語のレボリューションは漢字に直すと「革命」ですが、中国史における「易姓革命」(えきせいかくめい)では王朝交替が起きても変わるのは、文字どおり、皇帝の姓だけです。社会の体制そのものは、本質的には変わらない。それは異民族が皇帝になった元や清のケースにおいても、例外ではありません。皇帝を殺した人が、次の皇帝になる。その繰り返しが中国史です。

 近代ヨーロッパにおけるレボリューションは違います。フランス革命でも、ロシア革命でも、レボリューションとは旧体制の否定を意味します。同じ「革命」でも、中国とヨーロッパではまったく中身が異なるというわけです。

 では、中世の伝統主義的社会をひっくり返したヨーロッパの人たちは革命の後に、どんんな社会を次に作ろうとしたのか。彼らは、どんなビジョンをもって革命に臨んだのか。

 そこで、大きな影響を与えたのが、ジョン・ロックの社会契約説でした。中世を終わらせたのが予定説だとすれば、ロックの思想はヨーロッパ近代の基礎を作ったものと言えるでしょう。この2つの思想が揃って初めて、近代民主主義は生まれたのです。」(小室直樹『日本人のための憲法原論』)

「産業革命」科学技術の発達により、工業生産力が飛躍的に増大し、「近代資本主義」を推進させていきます。ここで注意しなければならないことは、「産業革命」が資本主義を生んだのではなく、資本主義が産業革命を生んだということです。問屋制家内工業工場制手工業工場制機械工業マニュファクチュア)という変遷の中で、目的合理性に立って利潤追求を進めていく資本主義「分業と協働」による生産様式を生み出し、さらに機械化によって生産効率を上げていきます。こうした工業化の進展が従来の農業中心主義重農主義)や商業中心主義重商主義)に見られないもので、「産業革命」の核心となるものです。かくして産業革命によって生産力が格段に向上すると、人類がそれ以前に産み出した以上の富を産み出すこととなり、より多くの人口も養えるようになって、若干のタイムラグをもって人口が急増していきます。かくして原料供給地の確保に加えて、国内市場で消化しきれないため、海外市場の拡大を求めて「帝国主義」が成立し、アジア・アフリカ地域などイスラーム圏や東洋を広く侵食していくことになるのです。

第1次産業革命~18世紀末、人間の労働力に変わり、水蒸気を動力源とした機械を使った製造が導入(機械化)されました。工場制という新しいシステムにより、社会が急速に工業化したのです。

第2次産業革命~20世紀初頭、工場内に電気という動力源が導入され、作業の分業とベルトコンベアの流れ作業のシステムによって、大量生産が可能になりました。

第3次産業革命~1970年代、工場内に産業用ロボット工作機械が人間に代わって導入され、ICT(Information and Communication Technology、情報通信技術)を通じて急激な情報処理の発展が行われ、精巧な自動化が可能になりました。

第4次産業革命IoT(Internet of Things、モノのインターネット)・AI人工知能)・ビックデータなどを活用することにより、あらゆる産業分野で「デジタル化」「コンピューター化」「ネットワーク化」「オートメーション化」が進行し、Society 5.0の実現に直結します。

Society 1.0狩猟社会。人が狩りをして生活する社会。

Society 2.0農耕社会。田畑を耕すなど、食糧を育てて収穫することで安定した生活をする社会。

Society 3.0工業社会。機械によって規格品を大量生産するなど、工業化が進んだ社会。

Society 4.0情報社会。インターネットの普及により、情報の伝達や処理が経済の中心となった社会。

Society 5.0超スマート社会。2016年に閣議決定された「第5期科学技術基本計画」の中で、日本が目指すべき未来社会として提唱されました。IoTロボットAIビッグデータなどの技術を駆使して、仮想空間と現実社会を高度に融合したシステムで発展する社会。

スマートシティ~街中に設置したセンサーやカメラなどからデータを収集し、AIによる分析を経て、社会インフラや施設のマネジメントの最適化を図ることで、都市が抱える諸問題を解決。さらに新たな価値を生みだしていく「持続可能な都市」のことです。

「近代資本主義の発展は、資本主義に徹底的に反対する経済思想が公然と支配してきたような、そういう地域でなければありえなかった。・・・

 通常の考え方では、まず商業が発達し、そして、その商業やその担い手である商人たちを内面から動かしている営利精神、営利原理といったものが社会の到るところへしだいに浸透していくと、その結果として近代の資本主義が生まれてくることになるのだ、とされている。しかし、歴史上の事実はけっしてそうはなっていない。」(大塚久雄)

参考文献:

『日本人のための憲法原論』(小室直樹、集英社インターナショナル)

『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(マックス・ヴェーバー、岩波文庫)

『社会科学における人間』(大塚久雄、岩波新書)

『社会科学の方法』(大塚久雄、岩波新書)

『恋愛と贅沢と資本主義』(ヴェルナー・ゾンバルト、講談社学術文庫)



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「近代の論理~社会科学のエッセンス~」

(4)近代ヨーロッパが世界の「覇者」となった秘密

「契約思想」「革命思想」「選民思想」がもたらしたもの

「近代民主主義」の大前提は「契約」を守ること~ヨーロッパだけに「契約とは言葉である」という概念が生れてきました。「契約」の特徴は「成文化されていること」「文章で書かれていること」にあり、「契約を守る」とは「契約を文面通りに守ること」を意味します。すなわち、契約を守ったか、破ったかが「一義的に確定」し、「二分法的に判定」し得るものでなければならないので、これは「集合論」の思想と言ってよいでしょう。もちろん、英国憲法のように成文化されていない、慣習法上の契約もあり得ますが、内容は一義的でなければならないのです。

「資本主義にしても、民主主義にしても、その根っこを掘っていけば、かならずキリスト教に突き当たる。

 キリスト教の「神」があって初めて、人間は平等だという観念が生まれたのだし、また労働こそが救済になるという考えがなければ、資本主義は生まれてこなかった。

 それだけでも日本人にとって、いろいろと考えさせられるわけですが、実はこれ以外にも大きな問題があるのです。

 それは契約という概念です。この単語は、民主主義にとっても資本主義にとっても欠かすことのできないものなのですが、これもまた聖書から生まれた考えなのです。

 はたして日本人は民主主義、資本主義を理解し、体得しているのか。そのゆゆしい問題を考えるうえで、契約は避けて通ることができない問題です。」(小室直樹『日本人のための憲法原論』)

ユダヤ教・キリスト教は「契約の宗教」である~神と人との「タテの契約」を人間同士の「ヨコの契約」に応用したことから、「契約の絶対性」という概念が出て来ます。そして、「社会契約」の元祖となったのが、ピルグリム・ファーザーズがアメリカに渡る船の中で交わした契約書「ピルグリム・コンパクト」「メイフラワー契約」です。

「旧約聖書とは要するに、神様との契約を破ったら、どんなひどい目に遭うかという、その実例が「これでもか、これでもか」と書いてある本なのです。したがって旧約聖書の教えというのは、「こんな目に遭いたくなければ、神様との契約を守りなさい」という1点、ただそれだけなのです。

――つまり「契約教」なんですか。

 ご承知のとおり、旧約聖書に登場するのは古代イスラエルの人々です。したがって、旧約聖書に書かれている契約とは、このイスラエルの民と神様との契約です。

 この契約をのちに改訂したのが、キリスト教の創始者であるイエスです。

 なにしろ神様との契約ですから、人間が一方的に契約改訂することができません。しかしイエスは神(「神の子」)とされていますから、神様と人間との契約を変えることができた。

 詳しい話は省きますが、イエスは十字架にかかることで、神様との契約を改訂して新しい宗教、つまりキリスト教を打ち立てます。それにともなって、新しい聖典が作られた。それが新約聖書です。「新約」というのは、新しい契約という意味です。

 したがって、旧約聖書を聖典とするユダヤ教も「契約の宗教」ですが、キリスト教もまた「契約の宗教」。契約の内容は異なりますが、ともに契約がその中心にあるというわけです。」(小室直樹『日本人のための憲法原論』)

「話を民主主義に戻せば、ヨーロッパやアメリカでロックの社会契約説が広く受け容れられたというのは、こうした聖書の文化が欧米に根付いていたからに他なりません。

 すなわち、「神との契約は絶対に守るべきものである」という概念が、聖書を通じて教えられていたからこそ、欧米の人たちは人間同士が結ぶ契約についても、やはり同じように守らなければならないと考えたというわけです。

 また、聖書においてモーゼに与えられた律法などを見て、「契約とは言葉で定義するものだ」という考えを持つようになった。

 企業同士が契約書を交わす際に、とても読み切れないほど詳細な規定を設けるというのも、その模範は聖書に書いてあるというわけです。

 こうした聖書の文化が根底にあるからこそ、欧米人は人間関係を結ぶ際にも、まず契約を作ろうと考えるようになった。そしてまた、国家と人民の間でも憲法という契約を作ることにした。

 聖書に書かれている神と人間との契約は、言うなれば「タテの契約」ですが、それを人間対人間の「ヨコの契約」に応用しようと考えた。

 中世の騎士たちが、王と契約を結ぶことにしたのも、聖書というお手本があったからなのです。

 ちなみに、17世紀初頭にアメリカ大陸に移住したピルグリムたちもまた、アメリカに渡る船の中で契約書を交わしています。

 いわゆる「ピルグリム・コンパクト」と呼ばれるものですが、この契約において、最初の植民者たちは新天地アメリカでのルールを定めたというわけですが、これなどは、まさに社会契約の元祖とも言うべきものでしょう。」(小室直樹『日本人のための憲法原論』)

イスラーム教における「イン・シャー・アッラー」アッラーの思し召しによって)~イスラーム教においては、神との「契約」においてさえ情状酌量が許されるので、「人間同士の契約も絶対である」という観念が生れません。したがって、「近代民主主義」も「近代資本主義」も成立しないのです。

「イスラムの神様の寛容さを、象徴的に表わしているのが、例の「イン・シャー・アッラー」(アッラーの思し召しによって)という言葉です。

 イスラム教徒が何か悪いことをして反省する際には、同時に「アッラーの思し召しによって」、どうぞお許しいただけませんかと神様のお慈悲を願う。するとアッラーはまことに寛大な神様ですから、「これからは気を付けろよ」と許して下さる。

 神との契約においてさえ情状酌量が許されるのですから、ましてや人間同士の契約、それも異教徒の欧米人や日本人との契約なんて、そんなに一所懸命守るわけがありません。…

 イスラム教は、マホメッドがユダヤ教やキリスト教の欠点を徹底的に研究して作りあげた宗教ですから、その意味で、ひじょうによくできた教えだと言えます。世界的に見ると、イスラム教の信者が今、最も増えているのだそうですが、それも当然のことです。

 しかし、そのイスラム教を信じているかぎりは「人間同士の契約も絶対である」という観念は生まれない。したがって、近代資本主義も近代民主主義も成立しない。そこが現代イスラム教の抱えている最大の問題と言えるでしょう。」(小室直樹『日本人のための憲法原論』)

「契約更改」は「革命」となる~ユダヤ・キリスト教的「契約思想」「革命思想」を生みます。なぜなら、「神との契約が変われば、当然、社会法則(政治法則、経済法則も含む)は変わる」と考えられるからです。ユダヤ人マルクスの「革命思想」もユダヤ教的なのです。さらにマルクス主義にはカルヴァン的な「予定説」もあり、「選民思想」も含んでいますので、戦闘的な「唯物無神論」がユダヤ・キリスト教的伝統の中から生まれてきたことがよく分かります。

ユダヤ教史観「神との契約が更改されることで歴史が全く変わる」と考える歴史観です。中国歴史観「歴史法則は古今東西を通じて一貫している」と考え、良い政治をするためには歴史に学べばよく、歴史に名を残すことを個人の救済として、中国的殉教(歴史の範例となるために死ぬ)すら生んだのと対照的な考え方です。ヘーゲルは中国を「持続の帝国」と呼んだように、2000年経っても何回易姓革命を繰り返しても、社会構造も社会組織も規範も変化せず、統治機構も階層構成もほとんど変わらず、法律も本質的には変化せず、制度革命ですらないため、「歴史を見れば中国(中国人の基本的行動様式=エートス)が分かる」と言われますが、ユダヤ教史観によれば、神との契約(命令)が変われば社会法則が全く変わることになります。後にユダヤ人のマルクスが唯物史観を確立しますが、マルクス史観ユダヤ教史観にそっくりの進歩史観線型進化論で、原始共産制奴隷制封建制資本主義社会主義共産主義へと直線的に変化し、前段階から後段階への進化は「革命」によりますが、これはユダヤ教史観における「契約更改」に該当します。

「選民思想」は特別な使命感、召命観を生む洪水審判を経た義人ノアの10代後の子孫であるアブラハムは、神の命令を受けて、メソポタミア地方のウルからカナン(現在のパレスチナ)へ移住し、正妻サラとの子がイサク、イサクの子がヤコブで、ヤコブが「イスラエル」勝利した者)の称号を得て、その子孫がイスラエル人となり、アブラハムとつかえめハガルとの子がイシマエルで、その子孫がアラブ人となりました。ユダヤ教キリスト教イスラーム教において「信仰の祖」と呼ばれます。こうした原点を持つイスラエル人は自らを神から選ばれた民族であると信じ、唯一絶対の人格神ヤハウェから与えられた律法に従うことで、神から祝福が与えられ、救済される(契約思想)という信仰を持ちます。これがユダヤ教の特徴ですが、プロテスタントの「予定説」マルクス主義も強烈な「選民思想」「選ばれし者」)を持ちます。

「たしかにアブラハムに対して、神様は「お前の子孫にカナンの地と永遠の繁栄を与えよう」と約束をした。

 しかし、その約束は無条件に与えられたものではありません。あくまでも神との契約を遵守するかぎりにおいて、という条件付きです。つまり、契約なのです。

 ところが、古代のイスラエル人たちは、その契約を守らなかった。その結果、神から皆殺しにはされなかったものの、約束の土地を失い、バビロニアの奴隷になった。そこで旧約聖書は「この教訓を絶対に忘れてはならない」と伝えているわけです。

 ちなみに、イスラエル人がユダヤ人になったのは、このバビロン捕囚からです。

 バビロニアの奴隷になったイスラエルの人たちは、「なぜ自分たちは、こんな目に遭っているのだろうか」と考えた。そして過去の歴史を振り返ってみたら、自分たちが神様との契約を無視したからだということに気付いた。

 そこで彼らは過去の失敗の歴史を旧約聖書という形に集約し、今後は神と結んだ契約、いわゆる「律法」をきちんと守ろうと考えた。そうしれば、神様はもう1度、イスラエルの民にカナンの地を与えてくださるのではないかというわけです。

 実は、これこそがユダヤ教の原点です。

 ユダヤ教は古代イスラエル人の信仰をベースにしていますが、それだけではありません。神との契約を無視した苦い教訓があって初めて、あの強固なユダヤ教の信仰が生まれた。

 同様に、古代イスラエル人が、そのままユダヤ人になったのでもありません。

 バビロン捕囚という体験によって、古代イスラエル人は、ユダヤ人へと変身した。マックス・ヴェーバー流に言えば、民族全体のエートスがバビロン捕囚によって変換したというわけです。

 エートスが変わったユダヤ人は、かつてのイスラエルの民とは見違えるほどになりました。

 古代イスラエルの人々は、不信心でグータラで、すぐに昔のことを忘れてしまう連中でした。

 しかし、ユダヤ人は違います。彼らはどの土地に住もうとも、信仰を捨てずに生きつづける。そして、つねに神との契約に基づいて、自分の生活を律していく。ユダヤ人がそんな民族になったのは、バビロン捕囚という苦い体験があったからです。」(小室直樹『日本人のための憲法原論』)

「20世紀の世界を動かしたマルクス思想は、本質的に予定説である。マルクスは資本主義の崩壊は必然であって、その後に「労働者の楽園」が来るとしたが、これはまさに予定説ではないか。もちろん、この場合、「救済」されるのはマルクス信者に限られるというわけである。だがマルクスの予定説は、ソ連の崩壊によって力を失った。これに対して、カルヴァンの思想は回り回ってアメリカ合衆国を作ったわけだから、やはり本家本元は強い。」(小室直樹『日本人のための憲法原論』)

参考文献:

『日本人のための憲法原論』(小室直樹、集英社インターナショナル)

『日本人のためのイスラム原論』(小室直樹、集英社インターナショナル)

『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(マックス・ヴェーバー、岩波文庫)



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「近代の論理~社会科学のエッセンス~」

(4)近代ヨーロッパが世界の「覇者」となった秘密

「帝国主義」が「世界大戦」を生み出した

ヨーロッパの論争技術「国際法」ドイツ三十年戦争(1618~1648年)後のウェストファリア条約によって、主権国家の概念や国際秩序が初めて形成されますが、こうした中で自然法ローマ法の伝統の中から国際法が発達していきます。この理論を体系化したのは、『戦争と平和の法』を著したオランダのグロティウス(1583~1645年)です。

 「国際法」の中心は「戦時国際法」であり、戦争の惨禍を少しでも軽減することを目的として発達し、各主権国家は国際法を手段として相手国の戦争行為を批判するようになります。すなわち、国際法は国家間の国際的論争の方法として盛んに用いられるようになるのです。

  古代ギリシャのアテネではデモクラシーと裁判が発達したため、「論争の技術」として討論が普及し、論理が完成されて「形式論理学」に至りましたが、ヨーロッパでは「近代国際法」がこれを受け継いで、論争の技術をさらに発達させていくのです。

「そもそも近代国際社会においては、すべての国は「主権国家」として同格であるというのが大原則です。つまり国家は平等である。

 もちろん、いくら国際社会が平等だからといって、そこにはおのずから限界はあります。やはり小さな国は大きな国の顔色が気になるでしょうし、また国家同士で結んだ条約は守らなければなりません。しかし、基本的には国家はみな対等であるというのがヨーロッパ国際法の建前なのです。

 といっても、以上の話はすべて20世紀後半、第2次世界大戦が終わってからの「常識」です。

 それ以前の国際社会においては、すべての国が平等であるなどという考えはどこにも実現されていなかった。

 そもそも国際法という概念はヨーロッパ大陸で生まれたルールです。したがって、当初の国際法は、ヨーロッパとアメリカ大陸の白人国家以外には適用されなかった。

 つまり、白人たちが「野蛮」だと認めた地域では、国際法のルールはまったく関係なかった。だから住民を皆殺しにするのも、彼らの財産を略奪するのも合法、住民を奴隷として売り飛ばすのも合法。何をやっても合法であると考えられていたわけです。

 こうして白人たちは地球上のありとあらゆる場所を略奪し、植民地にしていったわけですが、やがて彼らは中国などの、文明国家と接触するようになります。さて、こうした異種の文明国と出会ったときに、ヨーロッパ人も困った。

 というのは、さすがにヨーロッパ人から見て中国の王朝を「野蛮国」とまでは断定できない。ヨーロッパより中国のほうが優れている点はいくつもある。さりとて、対等の主権国家と見なすのも癪である。

 そこで彼らが考えたのが「半主権国家」「半独立国」などという、いかがわしい概念です。…

 彼らの論理によれば、中国のように、いかに文明の程度が高かろうと主権国家とは認められない。問題は資本主義の発達であるというのです。

 資本主義がひとかけらもなければ、どんな文明国でも主権国家ではない。いや、国家ですらないと考えた。したがって、そういう「無主権」の国に対しては、住民を虐殺するのも奴隷にして売り飛ばすのも勝手である。また、もし、その国の資本主義が中途半端なものであれば、その国は半独立国、半主権国家と考えたのです。」(小室直樹『日本人のための憲法原論』)        

「近代国際法」は「主権国家」を前提として作られた慣習法である国際法では「事情変更の原則」が適用されます。これに対して、国際法以外の法律廃止になるまで有効です。例えば、日独伊三国軍事同盟は成文化された条約なので、明確な国際法として各国を当然法的に拘束するわけですが、廃棄手続きを一切取っていません。しかし、これが戦後も有効だと考えている人は一人もいないでしょう。国際法は慣習法であり、「条文に書いてあるからといって有効とは限らない」ということの証左です。その法的精神リーガル・マインド)が国民の間に浸透し、定着していないと、条文に書いてあっても現実的には意味がないわけです。ちなみに「憲法」も「国際法」同様、「慣習法」なので、条文が事実上空文になることがあります。日本国憲法第9条が良い例でしょう。

「憲法は公式に廃止を宣言されなくても死んでしまうことがあるのです。

 その最たる例は、ドイツのワイマール憲法でしょう。

 ご承知のとおり、第1次大戦でドイツは敗れるのですが、このときドイツ革命がおきて、皇帝ウィルヘルム2世は亡命してしまいます。この結果、ドイツにはワイマール共和国が誕生します。このときの話をすればキリがありませんが、そこでできたのがワイマール憲法です。

 このワイマール憲法は当時、「世界で最も進んだ憲法」と言われていました。たしかに、その条文は時代の先端を行くものでした。国民主権が導入され、大統領は直接選挙で選ぶことになりましたし、また基本的人権についても、労働者の「社会権」が保障されるなど、ひじょうに先進的な内容だと評価が高かった。「ドイツの憲法こそが、20世紀の憲法の手本だ」などと言われたものです。

 ところが、そのワイマール憲法はあっさり死んでしまいます。

 その下手人というか、主人公になったのは、言うまでもありません、ヒトラーです。

 といっても、ヒトラーはワイマール憲法にはいっさい手を触れていません。廃止していないのです。

 そもそもヒトラー率いるナチスは、政権を取るまでワイマール憲法に従って行動しています。ナチスは憲法に従って国会選挙で勝利を収めて、1932年、第一党になります。ヒトラーが1933年1月30日、首相に就任したのも憲法規定に基づいた、合法的なことでした。つまり、このときはまだワイマール憲法は生きていたと言えるでしょう。

 では、ワイマール憲法はいつ死んだのか。

 それは1933年3月23日のことである、というのが多くの憲法学者の意見です。この日、ドイツの議会ではひじょうに重要な法案が可決されました。それが「全権委任法」(授権法、翌日公布・施行)です。

 この法は、法律を制定する権利、つまり立法権を政府にすべて与えるというものでした。本来、法律の制定権は立法府である議会のものであって、行政府のものではありません。これは議会政治の基本中の基本と言うべきこと。どの憲法もその趣旨で作られています。

 ところが、この全権委任法によって議会は立法権をヒトラーに譲り渡してしまった。この結果、彼は自分の望むとおりに法律を作り、それを執行することができるようになりました。この全権委任法の後ろ盾があるから、彼は「合法的」にドイツの独裁者になれたというわけです。

 さて、こうした状況に対して、憲法学者はどう考えるか。ここが大切なところです。

 憲法学者は「全権委任法はワイマール憲法違反だから、無効である」とは考えない。実際のところ、違憲だろうが何だろうが、現実にこの法律によってヒトラーはドイツの独裁者になっているのですから、そんな議論は無意味です。

 ですから憲法の専門家は「1933年3月23日をもって、ワイマール憲法は死んだ」と考える。ヒトラーはワイマール憲法を1度も廃止していないけれども、この日、ワイマール憲法は実質上、廃止されたと見るのです。

 このワイマール憲法の例が示唆しているのは、とても大事なことです。

それは堅い言い方をすれば、「憲法は成文法ではなく、本質的には慣習法である」という事実です。

みなさんはおそらく学校の社会科の授業で、「イギリスの憲法は慣習法であり、日本やアメリカの憲法は成文法だ」と習ったことでしょう。

たしかに、イギリスには日本のような「大英帝国憲法」などというまとまった条文はどこにもありません。イギリスの長い歴史から生まれた、さまざまな慣習や法律、あるいは歴史的文書が渾然一体となって「イギリスの憲法」を作っています。

これに対して、日本やアメリカの場合、国の最高法として定められた成文の憲法があります。

しかし、たとえ「憲法」と題された法律があったとしても、憲法は本質的に慣習法なのです。大事なのは法の文面ではなく、慣習にあるのです。

つまり、たとえ憲法が廃止されなくても、憲法の精神が無視されているのであれば、その憲法は実質的な効力を失った、つまり「死んでいる」と見るのが憲法学の考え方なのです。

だからヒトラーが政権を取って、全権委任法が制定されたら、そこで憲法は死んだと考える。憲法の精神が行なわれなくなった時点で、その憲法は無効になったというわけです。」(小室直樹『日本人のための憲法原論』)

近代の政治・経済のターニング・ポイントは「市民革命」と「産業革命」~近代において、今日の民主主義社会を産み出した「市民革命」資本主義社会を大きく前進させた「産業革命」は決定的な転換点と言えます。近代における国家観としては、国家は軍事・外交など最小限の機能に限定されるべきで、特に国民の経済生活に干渉すべきではないという「夜警国家論」が主流となります。これは古典派経済学「自由放任」レッセ・フェール)に対応するものです。ところが、この自由放任の政治・経済は必然的に弱肉強食の世界観となるため、「帝国主義」を産み出して「世界大戦」を引き起こし、いつまで経っても最適解に移行しない「世界恐慌」に行き着いたのです。

現代の政治・経済のターニング・ポイントは「世界大戦」と「世界恐慌」~現代においては、戦争のあり方や国際システムから時代精神に至るまで、全てを塗り替えたと言っても過言ではない「世界大戦」と、従来の古典派経済学ミクロ経済学として、新たにマクロ経済学を産み出して、国家による経済政策の重要性を理論化したケインズ経済学の契機となった「世界恐慌」が決定的な転換点と言えます。

帝国主義~19世紀末以降に顕著になった、資本主義列強による植民地や勢力圏拡大を目指す膨張政策を言います。これは資本主義の展開過程で形成された独占資本が国家権力と結びついて国家独占資本主義が形成され、原料・資源、商品の市場、資本の投下先を国家的規模で拡張するため植民地獲得競争が激化したことが第一の要因と考えられます。かくして「世界政策」を掲げる列強間の抗争が激化し、軍備が増強され、1914年に第一次世界大戦が勃発しました。ちなみに1917年に始まるロシア革命を主導し、資本主義を打ち倒して社会主義共産主義を実現しようとしたレーニン『帝国主義論』(1916年)で帝国主義を分析し、その特徴として次の5つを挙げています。

①生産と資本の集中・集積による独占の形成

②産業資本と銀行資本の融合による金融資本の成立

③商品輸出に代わって資本輸出の増大

④国際カルテルによる世界市場の分割

⑤帝国主義列強による植民地分割の完了

世界大戦帝国主義国家ドイツオーストリアを中心とした「三国同盟」「3B政策」(ベルリン、ビザンティウム、バグダード)「パン=ゲルマン主義」の陣営とイギリスフランスロシアを中心とした「三国協商」「3C政策」(カイロ、ケープタウン、カルカッタ)「パン=スラヴ主義」の陣営に分かれ、人類最初の世界戦争である第一次世界大戦が起きました。従来の戦争と違って軍事力の優劣にとどまらず、経済・技術・国民などが総動員される総力戦となり、飛行機・潜水艦・毒ガスなどの新しい武器も出現し、戦争の形態を一変させました。この大戦によってドイツ帝国・オーストリア=ハンガリー帝国・ロシア帝国・オスマン帝国などは消滅し、従来の「勢力均衡」に代わる新たな国際政治の枠組としての「集団安全保障」が採用され、「国際連盟」が発足しました。

「ティリーは、千年の国家形成の歴史をたどり、国家形態が「資本化強制」型国家あるいは主権国家、さらには国民国家へと収斂していった要因は、戦争であったことを明らかにした。戦争が国家を生み、国家が戦争を生むのである。

国家とは、一定の軌道をもった大規模な集団行動、すなわち「ゴーイング・コンサーン」であるが、その軌道の大幅な変更はもっぱら国際環境の圧力によってなされる。とりわけ戦争という実存的危機を伴う国際的圧力は、国家という集団行動の形態にきわめて大きな影響を及ぼす。

言い換えれば、国家は、戦争を勝ち抜くために、国内の資源を大規模かつ効率的に動員しようとする。そして、その資源動員を可能とすべく、新たな国家体制を構築していくのである。「資本化強制」型国家、主権国家、とりわけ国民国家は、戦争のための資源動員に最も適した国家体制として発明されたものであり、地政学的な闘争が繰り返されていく中で、他の諸国家によってモデルとして模倣されていった。こうして統治形態は、国民国家へと収斂していったのである。

戦争による大規模な資源動員からは、国家体制だけでなく、さまざまな技術や制度が産み落とされた。

大量生産方式、鉄道、航空機、ロケット、人工衛星、原子力エネルギー、コンピューター、インターネットといった技術、国民通貨、中央銀行、累進課税、福祉国家、「大きな政府」、財政出動、公式統計、国民経済計算といった制度は、いずれも戦争あるいは戦争準備を起源としている。今日、我々の生活を支えている技術や制度の起源は、どれも血塗られている。我々の経済的繁栄は、先人の流した大量の血で贖われているのである。

技術や制度のみならず、思想もまた、地政学的対立によって形成されている。

たとえば、一七~一八世紀のヨーロッパにおける地政学的緊張から重商主義という思想が生まれたが、重商主義は経済学の起源である。あるいはイギリスの立憲主義や自由主義は、島国という地政学的環境に守られ、育まれた。二〇世紀に進んだ平等化や民主化は、二度にわたる世界大戦による総動員が契機となっている。ナショナリズムと戦争の縁の深さについては、言うまでもないであろう。

戦争や戦争準備を起源とし、戦争目的の資源動員の中で生み出された技術や制度あるいは思想は、戦争終結後も*経路依存性に従って持続し、「民政化」あるいは「スピン・オフ」されて、平時における資源動員に活用されることとなる。

「民政化」という現象の技術における典型例は、原子力エネルギーである。原子力エネルギーは、元来、核兵器として開発されたものであるから、原子力発電は「原子力の平和利用」と称されるのである。ならば、大量生産方式、鉄道、航空機、人工衛星、コンピューター、インターネットもまた、軍事技術の「平和利用」なのであろう。

あるいは福祉国家は、強壮な兵士の育成という戦時中の政策が、戦後に民政化されたものであった。福祉国家とは、国家総動員体制の「平和利用」なのである。

 経済政策というのもまた、戦争目的の資源動員の民政化あるいは平和利用であると言える。とりわけケインズ主義的なマクロ経済政策とは、二つの世界大戦における国家による大規模な資源の総動員が、物価水準に影響を与え、失業を劇的に解消したという経験を経て誕生したものであった。」(中野剛志『富国と強兵 地政経済学序説』)

*経路依存性…キーボードの配列、鉄道の線路の幅などのような既存の環境が、後代の社会に影響を与えること。

参考文献:

『日本人のための憲法原論』(小室直樹、集英社インターナショナル)

『富国と強兵 地政経済学序説』(中野剛志、東洋経済新報社)



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「近代の論理~社会科学のエッセンス~」

(5)イスラーム圏と東洋の「近代化」の困難

「近代化」とは畢竟「西洋化」「キリスト教化」に他ならない

「イラン革命」の原因はパフレヴィ―2世の近代化政策・西洋化政策イスラーム世界における拠点国家は、「アラブの盟主」エジプト聖地メッカ・メジナを抱え、世界中のムスリムにとって「信仰の祖国」であるサウジアラビアシーア派の中心であるイランケマル・アタチュルク以来、イスラーム世界の政治的指導者スルタン宗教的指導者カリフも廃止して、近代西欧型の世俗化政策を取り、NATOに加盟して、EU加盟を目指すトルコ共和国の4つですが、この中で1979年に「イラン革命」が起き、第2次オイル・ショックが起きるほど、世界に衝撃を与えました。

  イラン国王パフレヴィ―2世は父である先代のレザー・シャーの退位により即位し、1963年に「白色革命」を起こして、アメリカの援助による近代化を行なっていたのですが、国外追放され、フランスにいたシーア派指導者でウラマーイスラーム法学者)のホメイニが帰国し、イラン革命を主導してイラン=イスラーム共和国を成立させるのです。パフレヴィ―2世時代のイランでは、独裁政治で秘密警察による弾圧・拷問が日常茶飯事のように行われ、欧米のメジャーと国王のみが儲けて、国民は猛烈なインフレ下で生活苦にあえぐという社会状況でしたが、それだけなら世界中の独裁者が今でも似たようなことをしており、その度に革命が起きるわけではありません。イラン革命の真の原因は、パフレヴィ―2世がイスラーム社会の伝統をふみににじる改革を次々と行い、クルアーンの教えを無視したと捉えられたからなのです。

 ちなみに「シーア」とは「党派」の意味で、「シーア=アリー」アリーの党派)が略された呼称です。ムハンマドの従弟にして、ムハンマドの娘婿でもある第4代カリフであるアリーとその子孫のみイマーム(指導者)とします。現行の政治的権力者の正統性を認める多数派スンナ派に対して、「血統による世襲」を主張する立場で、ムスリムの約1割を占めます。しかし、血統は12代で絶えたため、第12代イマームは「隠れイマーム」とされ、やがて最後の審判を受ける終末が来ると、「救世主」マフディ)として再臨するという再臨信仰が生まれました。

「カージャール朝廃止の機会をねらうレザー・シャーは、一九二四年秋から共和制運動を起こした。これは、前年に建国が宣言されたトルコ共和国にならって、彼の主導でイランにも世俗的な近代国家をつくろうとするものであった。成功したあかつきには、尊敬してやまないアタチュルクにならって、レザー・シャーが大統領の座につくはずであった。

 しかし、この共和制運動は、彼の思惑をこえて別な方向に展開していった。シーア派ウラマーが共和制に反対する声をあげたからである。イランのウラマーは、トルコでカリフ制が廃止された結果、イスラームがないがしろにされ、ウラマーの力が削がれたことを知っていた。共和制樹立によって同じような状況がイランに生じることを、ウラマーは恐れていたのである。

 レザー・シャーは、このウラマーを先頭にした共和制反対運動を巧みに誘導し、ついには彼自身を大統領にではなく国王にすえる王制運動にすりかえていった。そして、一九二五年、共和制運動は換骨奪胎されパフラビー王朝が成立した。」(坂本勉+鈴木薫編『新書イスラームの世界史③ イスラーム復興はなるか』)

「彼は、王朝の権威を高めることに腐心し、イランの人々のあいだに国民意識を産み出しながら近代的で中央集権的な国民国家をつくることにたゆみなく取り組んでいったのである。

 この点でレザー・シャーは、じつに有能な近代化の旗手であった。彼のしようとしたことは、イラン社会に圧倒的な影響力をもつシーア派ウラマーの力を削いで世俗化をすすめ、イスラーム共同体に収斂する人々の帰属意識を、新しい国家のほうにふり向かせることであった。このため、イスラーム文化にかわってアケメネス朝やササン朝等の古代ペルシア文化の栄光が称揚され、ペルシア語の言語改革運動が熱心にすすめられた。

 イランの人々は、口語のレヴェルでみると、エスニック集団ごとにことなる種々の言葉を使っていた。大別するとイラン系とトルコ系に分けられ、前者にペルシア語、クルド語などを使う人々がおり、後者にアゼルバイジャン語、カシュガーイー語などをしゃべる人々がいた。

 知識人のあいだでは昔からペルシア語が文語、行政用語、文学語として共通語の機能をはたしていたが、大方の人々はそれぞれが帰属するエスニック集団の言葉を優先して使い、ペルシア語が十分に浸透しているとはいえなかった。レザー・シャーはこの現状をあらため、学校教育でペルシア語を周知徹底させ、これをつうじて雑多なエスニック集団をこえる国民意識をうえつけていこうとした。

 ただし、言語ナショナリズムの手段として使われるペルシア語は、旧態依然たる昔のそれであってはならなかった。語彙の八割ちかくを占めていたアラビア語起源の単語が排除され、ペルシア精神が投影する大和言葉がそれに置き換えられていった。文献テキストとしては、*1フィルドゥスィーの『シャー・ナーメ(王書)』、*2オマル・ハイヤーム、*3サアディ―、*4ハーフェズなどの非宗教的な英雄叙事詩、抒情詩がもてはやされた。

 レザー・シャーの言語ナショナリズム政策は、多様なエスニック集団とシーア派共同体とに対して強い共同体意識をもってきたイラン民衆のあいだに「国民」意識をうえつけ、イランを中央集権的な世俗国家に変えていこうとするものであった。

 しかし、言語・文化の強制的な画一化、脱宗教化政策がすすめばすすむほど、ナショナリズムに対する反発を強まった。ペルシア語を母語としないアゼルバイジャン、クルドの人々は、パフラビー王朝時代をつうじて、文化的自治の要求をかかげながら政治的な分離運動を展開し、体制に挑戦しつづけた。」(坂本勉+鈴木薫編『新書イスラームの世界史③ イスラーム復興はなるか』)

*1フィルドゥスィーの『シャー・ナーメ(王書)』…10~11世紀イランの詩人・歴史家フィルドゥスィーがペルシア語で作詩したイラン最大の民族叙事詩。古代ペルシアの神話、伝説、歴史の集大成であり、最初の王カユーマルスからサーサーン朝滅亡に至る、4王朝歴代50人の王の治世が述べられています。

*2オマル・ハイヤーム…11~12世紀イランの学者・詩人。詩集『ルバイヤート』(四行詩集)は、イラン文学史上の最も重要な作品として知られています。

*3サアディ―…13世紀イランの詩人・散文家。「修辞技法の巨匠」と評され、ペルシア語の代表的な散文作品とされる『ゴレスターン』(薔薇園)と詩集『ブースターン』(果樹園)が代表作です。

*4ハーフェズ…14世紀イランの詩人。後に編纂された『ハーフェズ詩集』は東西の文化に影響を与え、例えばドイツを代表する文豪ゲーテは晩年、ハーフェズの詩に感銘を受け、『西東詩集』を著しています。

イスラーム教は「近代化」出来ない~学問、文化、商業などほとんど全ての分野において、イスラーム圏はヨーロッパを凌駕していましたが、「近代ヨーロッパ」の出現によって、立場は完全に逆転しました。しかし、「近代ヨーロッパ」がその特徴として持つ「近代国家」「近代法」「近代民主主義」「近代資本主義」のいずれもイスラーム教になじまないのです。

「いまだに中国でもアラブでも近代資本主義も近代民主主義も生まれていません。その原因を探っていけば、人間同士の「契約の絶対」がないという問題にぶち当たる。契約こそ、民主主義や資本主義を支える基礎中の基礎なのです。」(小室直樹『日本人のための憲法原論』)

「近代的な契約思想、すなわち人間同士の契約が絶対であるという思想はキリスト教が産み出したものであって、ユダヤ教からは生まれなかった。この点は重要なので、一言だけ。「信仰のみ」を掲げて律法を否定したキリスト教とちがって、ユダヤ教では割礼や、食物のタブーに代表される律法を重んじる。そのためユダヤ教は世界宗教になりえなかったのだが、まさにそれゆえにユダヤ教では「タテの契約」が「ヨコの契約」に転化することもなかった。またユダヤ教の本質は因果律で、予定説でなかったことも重要である。」(小室直樹『日本人のための憲法原論』)

「ホメーイニーの革命は、一九二五年以来パフラビー王朝がすすめてきたイラン・ナショナリズムにもとづく世俗主義的な国民国家の体制に対して、異議申し立てをおこなったものでった。このかぎりにおいて、彼は民主主義を否定している。しかし、社会主義に対しても、これを頑としてしりぞける。彼がおこなおうとしたことは、イスラームの原理のもとづき、まったく新しい国家・社会をつくっていこうとする大胆な実験であった。

 ホメーイニーの登場とイラン革命の成就によって、前章までに述べてきた、第一次世界大戦直後の時期にその輪郭がつくられた国民国家の体制は、くさびを打ちこまれた。このような社会運動は、イラン一国だけにとどまるものではない。ほかの地域でも同じように体制自体の動揺・破綻・崩壊がすすんでいる。それはトルコやアラブ諸地域においては、ナショナリズムにもとづく国民国家の体制のゆきづまりとしてあらわれ、中央アジアやザカフカスでは、社会主義体制からの訣別というかたちをとった。

 このような体制変革にエネルギーをあたえているのは、いうまでもなくイスラームであろう。現代のそれは、いままで中東イスラーム世界の各地域でおこなわれてきた改革運動とは、まったく質をことにしている。一八世紀末以来、近代ヨーロッパ文明の圧倒的な力をほこる政治・経済システムのなかに巻きこまれることになった中東イスラーム世界は、その伝統的な価値をヨーロッパ的なものにいかに調和させていくかに腐心しながら改革をおこなってきた。この過程においてイスラームの役割はしだいに本来の政治的・社会的な規制力を失い、個人の信仰の領域にせばめられて単なる「宗教」になってしまった。

 しかし、いまやイスラームは失地を回復し、新しい活力をえて復興しようとしている。ヨーロッパ的な政治・法・社会のシステムに毒され、妥協をくり返してきた従来の世俗主義・モダニズムの体制を見直し、根本原理にたち戻って変革していこうとする動きが出てきた。イスラーム復興運動、原理主義運動などとよばれるものがそれである。」(坂本勉+鈴木薫編『新書イスラームの世界史③ イスラーム復興はなるか』)

「伝統主義」の呪縛「伝統主義」社会では「永遠の昨日」が今も生き続けています。例えばイスラーム社会では、アッラーが預言者ムハンマドに語った日の如く、イスラーム法が民衆の心をしっかりとつかんで離さないのです。そして、イスラーム社会のみならず、「持続の帝国」中国も、「封建制と資本主義と社会主義の混交経済」とされる日本でも、「伝統主義」の力は無視出来ないのです。したがって、こうした伝統主義の変革がイスラーム社会、中国、日本などでは大きなカギを握ると言えるでしょう。

「イラン革命がわれわれを驚かしたのは、ホメイニーを頂点とするウラマーたちが政治の表舞台に登場してきたことであった。ウラマーというとすぐに思い浮かぶのは、礼拝の導師、神学校の先生、法律家といったイメージであるが、イラン革命におけるウラマーは、戦闘的・行動的な政治集団にさま変わりしたそれである。

 このようにウラマーが書斎の知識人から政治的人間に変身し、指導性を発揮しているところに、いまのシーア派原理主義の特徴が出ている。一言でいえば、ウラマーをつうじてイスラーム法の原理を政治的に実現していこうということである。

 イスラーム法の原理を貫徹させていくには、さまざまなやり方がある。*1ワッハーブ派のように、コーランや*2スンナに頑固なまでに依拠して法を引き出すという方法もあれば、リビアのように、それをさらにおしすすめコーランだけを法源にしようとする極端な方法もある。

 しかし、今世紀初頭以来、イスラーム法をヨーロッパ的な立憲制に適合させてきたイランでは、一挙に厳格なイスラーム法の体系に戻していくなど不可能であった。そこで、従来の立憲制の枠組みは残し、肝心かなめのところをウラマーがおさえてイスラーム法の原理をなんとか貫徹させようというのが、イランのシーア派原理主義者のもくろみであった。

 ホメイニーが権限においては立法・行政・司法の三権の長にまさる最高指導者の地位に就任し、議会で審議された法律が有力ウラマーによって構成させる憲法擁護評議会の清さを経なければ発効しないといった制度は、以上のような発想から出ているのである。

 イランのシーア派原理主義は、ウラマーに政治権力を思いきって託したという点で、きわめて特異なイスラーム的システムをつくりあげたといえよう。

 これを復古的であるとかアナクロニズムであると決めつける人がいるが、ウラマーの政治性の獲得という現象は、中世への回帰などでは絶対になく、むしろ現代をむかえて発展したシーア派政治思想の結果としてとらえるのが正しい。また、現代においてもなお社会的に未分化な状態にあり、信頼するにたる近代的エリートを生みだせないでいるイランが、苦渋のなかから出した結論と考えることもできよう。

 ウラマーに政治的権威を認めようという考え方は、一八六〇年代ごろからシーア派社会のなかで芽生えていた。しかし、それを発展させ、理論として確立したのは、ひとえにホメイニーの功績である。

 彼は、パフラビー朝のモハンマド・レザー・シャーが推進した農地改革をはじめとする一連の近代化改革、いわゆる白色革命に反対する闘争に身を投じるなかで、ウラマーのはたすべき政治的役割の重要性に気づいた。一九七〇年代初頭、亡命先のイラクで『法学者(ウラマー)の統治論』をあらわし、ウラマーにはイマームお隠れのあいだ、信徒を政治的領域において指導できる権限があると説いた。従来認められていた信徒に対するウラマーの精神的な指導を、政治的な領域にまでひろげ明示したのが、ホメイニーの理論であった。」(坂本勉+鈴木薫編『新書イスラームの世界史③ イスラーム復興はなるか』)

*1ワッハーブ派…18世紀半ばアラビアで起こったイスラーム教改革派で、神秘主義(スーフィズム)や聖者崇拝を否定し、ムハンマド時代の厳格な一神教信仰に戻ることを主張し、現代のイスラーム原理主義運動に影響を与えました。アラビア半島中部の豪族サウード家と結び、19世紀にはワッハーブ王国を築きましたが、エジプト総督ムハンマド=アリーに敗れて消滅しました。20世紀に復活し、イブン=サウードのサウジアラビア建国を助け、現在でもサウジアラビアの国教になっています。

*2スンナ…預言者ムハンマドの言行録「伝承」(ハディース)をまとめたもので、イスラーム教における第一法源であるクルアーンに次ぐ第二法源です。

「戦前の日本で、天皇および皇室が神格化されたことについては、いろいろなことが言われています。反動、ファッショ、封建的とさまざまなレッテルが貼られていますが、そうした既成のレッテルで片付けたのでは、明治の日本がやろうとしたことは分からない。

 明治政府がやろうとしたのは、キリスト教の代替物としての宗教を作ることにありました。ヨーロッパがキリスト教の力によってデモクラシー国家になったように、日本は独自の宗教をもってデモクラシー国家になる。そのために行なわれたのが、天皇の神格化です。

 史上、どこの国が近代化のために宗教を作ろうと考えたでしょう。こんな国はどこにもありません。その意味では、明治の日本がやったことは空前絶後です。

 しかし、もし明治日本が天皇を神格化せずに、単に制度や法律だけを輸入して近代化しようとしたら、どんな結果になったか。

 それは考えるまでもない。大失敗に終わっていたでしょう。

 その実例は20世紀の歴史に無数に残されています。

 第2次大戦後、世界中で有色人種の国家が誕生しましたが、そのうち、どれだけの国が民主主義の国になれたか。また、平等な社会がそこに誕生したか。

 言うまでもありません。そのほとんどが無惨な失敗に終わりました。すぐに独裁者が現われて、前時代の階級制度も温存されたまま。

 近代資本主義の精神、近代デモクラシーの精神がなければ、制度や法律をいくら整えても、近代国家にはなれないのです。

 それに比べれば、明治の近代化は大成功といえます。

 もちろん、欠点をあげつらえばキリがない。「一視同仁」と言っても、現に差別が残ったではないかと言う人もあるでしょう。たしかに、それは事実です。

 しかし、明治の日本は江戸時代の日本とはまったく別の社会になった。これだけは間違いなく言えます。

 現にあの横暴な西洋諸国でさえ、日本を近代国家の一員として認め、明治27年(1894)から不平等条約も改訂されはじめました。その事実は誰にも否定できません。これを成功と言わずして、何と言いましょう。」(小室直樹『日本人のための憲法原論』)

「日本の天皇は神である。」(明治4年、1871年に行なわれた廃藩置県を見て、英国駐日公使パークスが述べた言葉)

「ヨーロッパにおける憲法は、いずれも歴史の中で作られてきたものであって、どれも一朝一夕にできたものではない。しかるに、我が国ではそうした歴史抜きで憲法を作らなければならない。ゆえに、この憲法を制定するに当たっては、まず我が国の『機軸』を定めなければならない。……ヨーロッパにおいて、その『機軸』となったものは宗教である。ところが、日本においては『機軸』となるべき宗教がどこにもない。」(枢密院での帝国憲法草案審議の冒頭での伊藤博文の演説)

「さて、その伊藤は憲法を作るに当たって、宗教という機軸が必要だということに思い至ったわけですが、その機軸となるべき宗教とは何か。

 伊藤はその答えを、この枢密院会議で明確に述べています。

「我が国にありて機軸となすべきは、ひとり皇室あるのみ」

 すなわち、天皇教こそが近代日本を作るための機軸だというわけです。

 彼はこの演説で明確に「既存の仏教や神道、あるいは儒教は、日本の新しい憲法の土台にはなりえない」と述べています。

 これはまことに正しい指摘です。

 江戸時代、仏教はすでに葬式仏教になっていますし、伝統的な神道にはキリスト教のよな「神学」はありません。さらに中国の儒教は、日本では宗教性が抜けてしまっています。したがって、どうやっても既成の宗教では間に合わない。

 そこで伊藤は江戸幕末を風靡した尊王思想を、新政府の宗教にすることで日本を近代化、つまりデモクラシー化、資本主義化するというアイデアを思い付いた。

 この伊藤のもくろみは、見事に的中しました。

 すでに述べたように、教育勅語などを通じて、日本人は挙げて「天皇の赤子(せきし)」という意識を持つようになりました。近代日本人は西洋人と同じように、「日本人は平等である」と信じるようになった。かくして日本は近代国家への道を歩むようになったというわけです。」(小室直樹『日本人のための憲法原論』)

参考文献:

『新書イスラームの世界史③ イスラーム復興はなるか』(坂本勉+鈴木薫編、講談社現代新書)

『日本人のためのイスラム原論』(小室直樹、集英社インターナショナル)

『日本人のための憲法原論』(小室直樹、集英社インターナショナル)



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「近代の論理~社会科学のエッセンス~」

(5)イスラーム圏と東洋の「近代化」の困難

一元的な「イスラーム法の社会」と二元的な「キリスト教の論理」

イスラーム教は「規範宗教」であり、キリスト教は「無規範宗教」である~イスラーム教徒(ムスリム)にとって「六信五行」は基本的義務であり、「六信」とは天使啓典預言者来世天命の6つを信じることで、「五行」とは信仰告白礼拝喜捨断食巡礼の行いをすることです。これに対して、キリスト教徒にとっては内面的な「信仰」のみが問題とされ、外面的行動に対する「規範」が無いのです。

 ちなみにユダヤ教徒・キリスト教徒はこの「六信」を受け入れるはずで、イスラーム教の観点からすればユダヤ教徒・キリスト教徒は信仰的には全員ムスリムということになりますつまり、「五行」という生活実践にまでは至っていない段階とみなしているのです。イスラーム教ではアダムノアアブラハムモーセイエスムハンマド六大預言者として位置づけられ、自らを「最後の預言者」と位置づけたムハンマドは先行するユダヤ教・キリスト教を実によく研究していたとされます。

「アフリカでいま、イスラム教徒が大変な勢いで増えているそうだ。とにかくわかりやすく効験あらたかな宗教であるから、ロシアなどでもますます広まるであろう。

 歴史上、大変印象的なことは、イスラム教化した仏教に変わったという事例が一つもないことである。逆の例は非常に多く、西域(シルクロード)諸国は、昔は仏教国であったが、みんなイスラム教に改宗した。

 キリスト教国がイスラム教国になった国は多いけれど、その逆は中世までは少なかった。

 「原罪をイエスが贖罪した」などという不可解な教義や、「空」の、「唯識」の、といった理屈は一切ない。昔のアフリカなどでキリスト教がイスラム教取って代わられたというのは割と普通のことだったのである。」(小室直樹『日本人のための宗教原論』)

ムスリム~イスラーム教の信徒。イスラーム教では徹底した平等主義を取っており、聖職者階級はありません。こうした神の前に国王も乞食も等しく同じという平等主義は、伝統的身分制差別が激しい国(カースト制のあるインドなど)にイスラーム教が浸透する要因ともなりました。

信仰告白シャハーダ)~「アッラーの他に神はなし、ムハンマドは神の使徒なり」の聖句を唱えます。

礼拝サラート)~1日5回、メッカカーバ神殿)の方向(キブラ)に向かって祈りを捧げます。金曜日の正午は最寄りのモスク(イスラーム教の礼拝堂)で集団礼拝です。礼拝への呼び掛けをアザーンと言い、ユダヤ教のラッパ、キリスト教の鐘と同じような役割をしていますが、肉声で行われることに特徴があり、「神は偉大なり」という意味の「アッラーフ・アクバル」の4度の繰り返しから始まります。

断食サウム)~ヒジュラ暦(イスラーム暦)の9月(ラマダーン)に1か月間、日の出から日没まで、食物はもちろん、水までも飲んではならないとされます。

喜捨ザカート)~貧しい人への救貧税。財産の一定の割合を教団に納めます。

巡礼ハッジ)~生涯に一度、ヒジュラ暦の第12月に聖地メッカのカーバ神殿に礼拝に行くこと。ただし、経済的・体力的に余裕のない者は免除されます。

シャリーア『クルアーン』『ハディース』(ムハンマドの言行録)、スンナ(ムハンマドの慣行)、キヤース(『クルアーン』と『ハディース』から導き出される類推)、イジュマー(イスラーム法学者による合意)などを根拠にしたイスラーム法。豚肉を食べることや酒を飲むことを禁じるなど、食生活に様々な制限を設けています。また、シャリーアは結婚や相続など、ムスリムの生活全般の規則を定めており、シャリーアを守って生きることが神への信仰の体現であるとされます。

イスラーム教の十法源「イスラーム法」「規範の集合」であり、イスラーム社会では「宗教法」「社会法」となります。

(1)第一法源(最高の法源、法の基準)=『クルアーン』~唯一神アッラーの啓示で、天使ガブリエルによってムハンマドに示され、アラビア語で表現されたもので、神の言葉である『クルアーン』こそが「最大の奇跡」とされます。

(2)第二法源スンナ。預言者ムハンマドの言行録(伝承)これをまとめたものが『ハディース』です。

(3)第三法源イジュマー決断合意。ムハンマド死後において、その時代のムスリムの中でイジュティハード(法解釈)を行う資格を持つムジュタヒドによる全員一致の意見です。

(4)第四法源キヤース類推解釈。『クルアーン』と『ハディース』から導き出される類推

(5)第五法源イスティフサーン~情状酌量。

(6)第六法源無記の福利~規範定立の意図。

(7)第七法源慣習

(8)第八法源イスティスハーブ~併存していると考えること。判断の存続。

(9)第九法源イスラーム前の法

(10)第十法源教友の意見

「イスラム教は、「宗教の戒律」と「社会の規範」と「国家の法律」が全く一致する。つまり、人々の生活の規範がすべて矛盾なく連関するからで、こういう宗教は、原始宗教を別にすれば、他にはユダヤ教以外には見当たらない。」(小室直樹『日本人のための宗教原論』)

「イスラム教の場合には必ず行動と関係する。イスラム教における理想的な政治というのは、イスラム教の『コーラン』の学者が専制政治を行うのが政治の理想なのだ。なにしろ、「宗教の戒律」、「社会の規範」、「国家の法律」が一致しているのだから、これも当然なのである。」(小室直樹『日本人のための宗教原論』)

「イスラム諸国は、ヨーロッパ先進国を手本にして、いくたびも近代化を試みた。しかし、そのたびに失敗を繰り返した。

 失敗の理由は、近代化の改革において徹底を欠くからである。ヨーロッパの近代資本主義、憲法はじめ近代法、代議政体はじめ近代政治制度などは、すべてキリスト教文明が産み出したものである。ゆえに、近代化を徹底させるためには、イスラムの諸制度をキリスト教化しなければならない。キリスト教が生んだ諸制度と同型(isomorphic)なものに大改造しなければならないのである。

 この諸制度のキリスト教化という大手術は、無宗教国家である日本のような国ならばできる。が、イスラム教国では、諸制度のキリスト教化は途方もなく困難、あるいは不可能である。なぜなら、イスラム教国においては、法律も社会倫理、道徳もすべて宗教に由来する。経済も社会・政治の諸制度も、宗教と分かちがたく絡みあっているのである。

 ゆえに、諸制度のみをキリスト教的に改造することは絶望的に困難である。」(小室直樹『日本人のための宗教原論』)

「ここで誰もが抱く疑問がある。なにゆえにそれほど精緻であったイスラム教が近代国家を作れず、矛盾に満ちたキリスト教が近代の覇者たりえたのか。これはまさに、その宗教体系ゆえに起きた。

 答えから先にいえば、近代国家を形成するにあたり、イスラム教には決定的な弱点があった。それは、マホメットが最後の預言者であったことである。

 したがって、新しい預言者が出てきて、マホメットが決めたことを改訂するわけにはいかない。つまり、神との契約の更改・新約はありえない。未決事項の細目補充は可能だが、変更は不可能。このような教義から、イスラムにおいては、法は発見すべきものとなり、新しい立法という考えは出にくくなった。必然的に中世の特徴である伝統主義社会が形成され、そこを脱却できる論拠を持ちえなかった。これが、イスラムが近代を作れなかった最大の理由である。

 では今度は逆に、キリスト教は、なぜ近代を作りえたか。…

 神は絶対である。人間社会の是非、善悪など一切拘泥しない。カルヴァンなどは、人間が神の律すべき社会の法則を考えるだけでも神に対する冒瀆とまで主張する。他方、神が許可したのであれば、法律や世の中のしきたりも自由に変更しうる。これが、キリスト教の法に対する考え方である。

 そこへ持ってきて、カルヴァンらに代表されるプロテスタントは、予定説による。世の中には選ばれざる者と選ばれし者がおり、我々だけが神に選ばれた、という確信を持っていた。ゆえに、神の御心に適う法律は作ることができると確信した。そして、神に選ばれた者は正しい法律を作ることができると確信するに至ったのである。そこで、新しい法律がプロテスタントの手により出現することとなった。

 伝統を打ち破ることができないイスラム教では、伝統に反する立法は原理的に不可能であったが、キリスト教では、神が赦したまえば可能であった。これが、キリスト教が近代を作り、イスラム教が作れなかった、根本的理由である。」(小室直樹『日本人のための宗教原論』)

「イスラーム共同体」と「イスラームの連帯」『クルアーン』世界共通のアラビア語であり、「イスラーム共同体」ウンマ)は国籍、人種、身分も超越する独特の「連帯」ソリダリテ)を持ちます。

ウラマーイスラーム法学者)~イスラームにおける知識人のこと。イスラーム教には聖職者がおらず、人間は全て俗人で、世俗法即宗教法なので、ウラマーが宗教、法律、神学の問題について最終的な決定権を持ち、イスラーム教徒の社会生活を様々な面から規定する役割を果しました。実際にウラマーを形づくるのは、神学校(マドラサ)の教授、モスクの役職者、カーディー(裁判官)ら実際の法運用に携わる者達、在野の学者達です。

ウンマイスラーム共同体)~ムハンマドは、血縁関係に基づく従来のアラブの部族社会に対して、信仰によって結ばれたイスラーム共同体ウンマ)の構築を唱えました。ウンマの中ではイスラーム法に基づいて善悪の区別ができ、部族や民族の違いに関係なく、同じ神への信仰に生きる信徒達は互いに平等な関係で結ばれています。

「イスラーム文明は、イスラームとアラビア語を基礎に、イラン人、シリア人、エジプト人、トルコ人、ベルベル人などの協力を得てつくりあげられた融合文明である。「知識を求めよ。たとえ中国であろうとも」という預言者ムハンマドの言葉どおり、ムスリムはギリシア文明、ビザンツ文明、イラン文明、インド文明、中国文明などの遺産を積極的に吸収しようとした。ギリシアの医学や哲学を継承・発展させ、またインドから十進法とゼロの観念を学んで高度な数学の成果を生みだしたことは、その最も偉大な貢献といってよいであろう。

 アラブ人は、民族にはそれぞれ固有な特徴があると考えていた。たとえば、「中国人は技術に、ギリシア人は哲学と文学に、アラブ人は詩と宗教に、ペルシア人は王権と政治にすぐれ、またトルコ人は特に戦闘技術にすぐれている」という。ここには、各民族をその才能に応じて活用しようとする、合理的で、しかも現実的なものの考え方が実によくしめされている。

 アラブ人が異文化との対話をこのように柔軟におこなうことができたのは、イスラームとアラビア語という二つの堅固な枠組みがあったからであろう。その後イスラーム世界には、イラン・イスラーム文明、トルコ・イスラーム文明、インド・イスラーム文明など、各民族に固有なイスラーム文明がつぎつぎと誕生するが、その場合にもイスラームはこれらの文明に統一性をあたえるうえで大きな役割をはたしつづけた。

 古代オリエント世界と地中海世界を統合したイスラーム世界の出現は、その後の世界史の展開を大きく変える結果をもたらした。西ヨーロッパが封建制の時代をむかえて、統一国家をつくるべくもなかった時代に、イスラーム世界では広大な地域を統合する巨大国家が建設され、その保護のもとで高度に洗練された都市文明を生みだしたことが、世界史の展開をリードする要因となった。このことを少し具体的に考えてみよう。

 八世紀以降イスラーム世界の拡大につれて、中央アジアやインド・東南アジアにはイスラーム国家がつぎつぎと樹立された。さらにイスラーム文化の影響は、ムスリム商人の活動によって中国やアフリカ大陸の内陸部にまでおよんだ。それまでこれらの地域は、仏教やヒンドゥー教、あるいは木石に神々が宿るとするシャーマニズムの世界であったが、イスラームの浸透によって、西アジアのイスラーム教徒と信仰や政治意識を共有する人々が登場することになった。このことの意味は決して小さくはない。儀礼や生活態度が根本的に変化し、経済的にも西アジアの都市と緊密な関係を結ぶようになったからである。一方、イスラーム文化の熱心な受容にもかかわらず、ヨーロッパのキリスト教徒はイスラームに対して抜きがたい敵愾心と偏見を抱き続けた。

ムハンマドを好色な偽預言者であるとし、ムスリムをキリスト教文明の辺境にすむ野蛮人(サラセン)とみなす考えは、二〇世紀はじめにいたるまでヨーロッパ人の常識として受け継がれてきたのである。」(坂本勉+鈴木薫編『新書イスラームの世界史① 都市の文明イスラーム』)

キリスト教における律法の内面化~イエスはモーセの十戒の「殺してはならない」という戒めについて、実際に殺さなくても、他者に対して腹を立てれば、それは人を殺したのと同じになると述べ、律法を真に内面化することが本来の信仰のあり方だとしました。「姦淫をしてはならない」という戒めについても、行為をしなければ罪にならないのではなく、内面が問題だとしました。これが「外的規範の内的規範化」であり、キリスト教が世界化する一因となりました。日本文化においても、仏教の戒律(外的規範)をどんどん骨抜きにして肉食妻帯したり、本来先祖崇拝の宗教であった儒教を学問・教育として受容したりしていますが、食物タブーなどの強固な外的規範を持つユダヤ教・イスラーム教が入りにくいのに対して、内的規範が主のキリスト教は受容しやすかった面もあります。

「ユダヤ教、イスラム教においては、神との契約は、戒律、規範、法律の基本となる。(宗教の)戒律と(社会の)規範と(国家の)法律とが同一でるユダヤ教やイスラム教とは全く違って、キリスト教の啓典である『福音書』には、全く規範(norm 戒律、倫理道徳)を欠いている。

 『福音書』に記された神の命令は、すべてが人間の心の持ち方、考え方、心構え、良心に対する命令であって、外面的行動に関する命令は一つもない。いい換えれば、キリスト教に規範(戒律、倫理道徳)はないのである。」(小室直樹『日本人のための宗教原論』)

「パウロは「(イスラエル人は熱心であったが)その熱心は、彼らの無知のゆえに、間違う方向に向けられている」(「ローマ人への手紙」第十章 二)という例を挙げて説明している。つまり、自力で律法を守る行動をしようとしても、それは義(ただ)しいことではないというのである。

 というのは、「人が神の前に義しい者とされる方法を神御自身が提供して下さったのに、彼らはそれを認めることも、それに従うこともせず、ひたすら自分の力で神の前に義しい者として立とうと努めているからである」(同右 第十章 三)

 パウロは、人間の外面的行動(行為)と内面的行動(内心)とを峻別した。

 ユダヤ教、イスラム教における法律と戒律の一致とは全く異なる、この内外の峻別があればこそ、キリスト教はローマ帝国下で生き延びることができることになった。さもなくば、キリスト教は弾圧の前に、あえなく消え去っていたであろう。

 人間の内外の峻別は、後世、近代デモクラシー発祥の前提となった。近代デモクラシーはいくつかの自由が確保されることによって成立する。これらの諸自由のなかでも、一番大切なのが良心の自由(信仰の自由)である。良心の自由が確保されれば、その他の諸自由は次々と成立してくる。これは歴史が示すとおりである。しかし、根本である良心の自由が確立されていないことには、他の諸自由は、根本がゆらいでいるので根無し草になりかねない。これまた歴史の証明しているところである。

 また、資本主義の精神(The Spirit of Capitalism, Der Geist des Kapitalismus)が生成され、発育してゆくためにも、人間行動の内外が峻別されていることが肝要である。人間の内外が峻別され、外面の行動から人間の内面の自由(良心)が切り離されていれば、いかなる宗教の下においても資本主義的な目的合理的行動は成立しうる。プロテスタントでもカトリックでも、はたまたあるいは……日本教であっても、目的合理的行動は構成されうるのである。

 このように、パウロによる人間行動における内外の峻別は、ローマ帝国において世界宗教としてのキリスト教の発展の基を築いただけではない。右に論じたように、歴史的に見ても後世に大きな影響を及ぼすことにもなった。」(小室直樹『日本人のための宗教原論』)

「キリスト教の本質として、物事の倫理規範は人間の外面ではなく内面にあるとしている。内面において、労働は救済だと念じて行うかどうかが大事なのであり、その結果は問われない。秘蹟や免罪符をルターが否定したのは、内面的な動機と関係なしに、儀礼によって救済されるとしたからで、金を取った、という結果を責めているわけではない。

 この内面的、外面的という二分法的思考法が、キリスト教と資本主義を語るうえでのキーポイントである。

 パウロはキリスト教において最重要人物の一人であるが、最大の功績は、人間の内面と外面は全く違うということ、すなわち、内面と外面の二分法を明らかにしたことである。パウロのこの大独創がなければ、キリスト教は世界宗教たりえないどころか、生き残ることすらできなかったと、マックス・ヴェーバーはいっている。

 原始キリスト教は、ローマの法律に反するとの理由で大弾圧を被った。生き残る五ためにパウロが採った方策が、この二分法である。ローマの市民は、外面的にはローマの法律どおりに行動し、内面においてはキリスト教徒たれ、と人間の内面と外面、すなわち信仰と行動を峻別した。

 キリスト教には法も規範もないので、こういう側面を元々持っているのだが、特に強調して誰でもわかる形で解説したのがパウロである。それゆえに、キリスト教はパウロ教だともいわれている。

 キリスト教が資本主義を生み出す原動力になった理由は、まさにこの二分法にある。

 キリスト教では、この二分法によって、信仰と人間の行動を全く別個にしているため、信仰を変えることなく、外面的行動を変えることができた。

 資本主義を成立させるための、法律、規範、人々の行動様式(エトス)は、すべてこの外面的行動だけを規制している。例えば、資本主義国の「憲法」は「良心の自由」を確実に保証し、国家権力や、それ以外の権力が人間の内面に侵入することを絶対に拒否している。このゆえに、宗教の自由は確保されているのである。

 しかし、イスラム教のように人間の内面と外面が密接に絡みあっているような宗教ではこうはいかない。イスラム法が資本主義と矛盾したときにはどうなる。イスラム法が優先されれば、資本主義の法律は機能しなくなるかもしれない。現に、トルコにおいてはケマル・アタチュルク以前のイスラム法で、一日に五回もの拝礼を要求していた。これでは、資本主義の活動は著しく阻害される。

 また、「イン・シャー・アッラー(アッラーの思し召しによって)」という思想は、資本主義的約束不履行のための慣用句のように、資本主義諸国ビジネスマンには思われているだろう。

 人間同士の契約が絶対でなければ、資本主義は機能しえない。ビジネスの場で、「イン・シャー・アッラー」が資本主義法に優先されれば、商品と資本は流通しなくなり、企業は動けなくなる。

 このように、資本主義とデモクラシーと近代法とが成立し、機能するためには、パウロ的な、人間の外面と内面、行動と内心とを峻別する二分法がどうしても必要だったのである。

 欧米諸国の真似をして近代法を作っても、キリスト教的な法律やキリスト教的な政治制度は、イスラム法と衝突して動かなくなってしまう。

 まさにこのことが、中世を制覇したイスラム教が資本主義全盛の現代社会で遅れをとった理由なのである。」(小室直樹『日本人のための宗教原論』)

参考文献:

『日本人のための宗教原論』(小室直樹、徳間書店)

『日本人のためのイスラム原論』(小室直樹、集英社インターナショナル)

『イスラムの法 法源と理論』(アブドル=ワッハーブ・ハッラーフ著、中村廣治郎、東京大学出版会)

『新書イスラームの世界史① 都市の文明イスラーム』(坂本勉+鈴木薫編、講談社現代新書)



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「近代の論理~社会科学のエッセンス~」

(5)イスラーム圏と東洋の「近代化」の困難

西洋的「絶対神」の排他的独善性と東洋的「人格神」の包括的多様性

「一神教」の絶対性は「集合論」的「二分法」の論理を持つ有神論無神論(反神論)、選民異教徒正統異端といった二分法は共存できないものであり、「一神教」の絶対性から生じます。

正統と異端「三位一体論」とは、父なる神・子なるイエス・聖霊は一体であるという考えです。アタナシウス派が唱え、325年のニカイア公会議で正統な教義と認められました。これに疑義を唱えたアリウス派は異端とされ、ローマ帝国周辺のゲルマン民族に布教していきました。三位一体論には、イエス自身がゲッセマネの祈りで神に痛切祈祷を捧げているように、「神が自分自身に祈るのか」といった問題や、神が十字架につくという「天父受苦説」といった問題がありますが、これは「罪人を救えるのは全知全能である神のみ」という贖罪論的要請から生まれたもので、イエス自身の言説にあるものではありません。ニカイア公会議で採択され、コンスタンティノポリス公会議で修正されたものを「ニカイア・コンスタンティノポリス信条」と言います。これによってイエス=神という図式が確立され、さらにイエスにおいて神性と人性はどのように統合されているのかというキリスト論の問題が起こり、カルケドン公会議において、イエスにおいて神性と人性は一体不可分という「カルケドン信条」が採択されました。かくして、このニカイア・コンスタンティノポリス信条とカルケドン信条を受け入れるもの正統疑義をさしはさむの異端とされてきました。キリスト教における正統か異端かは、実はイエスの言説に合致するかどうかではなく、宗教会議で神学的に決定されてきたのです。

 ちなみに、エフェソス公会議でもキリスト論が問題となり、イエスにおける神性と人性を分離し、マリア「神の母」ではなく、「人の母」としたネストリウス派が異端とされたので、ネストリウス派はシリアから東方に伝わり、唐代中国に至って景教(秦教)と呼ばれるようになり、大秦景教流行中国碑(大秦=ローマ)に記録されているように、祆教(けんきょう、ゾロアスター教拝火教)、摩尼教マニ教、明教)と共に西方伝来の三夷教として栄えます。

「三位一体論」と「キリスト論」がキリスト教を排他的独善性へと追いやった~「イエス=神」にすると宗教融和は出来なくなます。また、「父性原理」「厳愛」に対する補完作用から「母性原理」「慈愛」を代表する「マリア信仰」が生れました。

三位一体論~アレクサンドリアの司祭アリウスオリゲネス従属説を徹底させ、キリストの人間性を重視して神と同一視することを否定し、神の唯一性・超越を強調します。4世紀にアリウス主義が隆盛になると、三位一体論が最も激しい対立を生み出し、325年のニカイア会議において、キリストは神ではなく、「神に類似」とするアリウス異端とされ、キリストは「神と同質」とするアタナシウス正統とされて、三位一体論の教理が確立しました。ニカイア信条の三位一体論はカッパドキアの三教父と呼ばれるバシリオス、ニッサのグレゴリオス、ナジアンゾスのグレゴリオスによって完成され、東方教会にも受け入れられますが、さらに381年のコンスタンティノポリス会議で、子は「生まれ」、聖霊は「出る」とするカッパドキアの教父の説が取り入れられてニカイア・コンスタンティノポリス信条が決議されました。かくして、キリストの完全な神性についての教義確立によって三位一体論争は終息し、次にキリストにおける神性と人間性との関係というキリスト論の問題に移行します。

キリスト論アリウスは、子は神以下の被造物であるから人間性との統合は容易であるとし、アタナシウスは、キリストは神にして同時に人間であり、両者の結合から一人格をなすと主張していました。これはアレクサンドリア学派とシリアのアンテオケ学派との間で論争となり、アレクサンドリア学派アポリナリオスはキリストの肉体は人間の肉体であったが、ヌース)神の霊ロゴス)であったとしましたが、これだと神性は完全に保たれても人性は部分的となり、完全な人間性を備えていないので人間を救済できないとして、コンスタンティノポリス会議異端とされました。一方、キリストの神性と人性を明確に区別するアンテオケ学派ネストリウスは、キリストは道徳的服従の完成した模範としてキリストの神性に対する信仰を弱め、神と人とが機械的に連結しているとすると共に、マリアに対する「神の母」という伝統的な呼称を退けたため、431年のエフェソス公会議で排斥されます。最終的に451年のカルケドン公会議で、人間の霊を持たないキリストは真に人間とは言えず、また機械的に連結しているキリストは結局神ではなく、神を背負った人間でしかないとして、アポリナリオスネストリウス異端とされ、キリストが「一つのペルソナ(位格)の中に二つの性質」を持つものとして両極端を排斥したカルケドン信条を決議し、キリスト論論争に一応の決着をつけます。このニカイア・コンスタンティノポリス信条とカルケドン信条によって古代におけるキリスト教の教義が確立し、カトリック教会統一となります。

ローマ・カトリック「ペテロの後継者」ローマ教皇を中心とするキリスト教の最大教派。「カトリック」「普遍」という意味です。聖母マリア信仰を持ちますが、これは旧約「裁きの神」の系譜と「天の父」「神のひとり子イエス」といった男性原理父性原理に対して、女性原理母性原理でこれを補おうとしたものと考えられています。

 後にヨーロッパでプロテスタント運動が起こり、人口の3分の1を失ったため、ローマ・カトリックは失地回復の新天地としてアジアや中南米に盛んに宣教を行い、特に明・清代の中国ではカトリック系修道会であるイエズス会がイタリアの大学で近代科学を学んで、まず西学としてこれを伝え、その天文暦学・地理学・医薬学・兵器などの威力を知らしめた上で、自らを西方の儒者である西儒として、西学の背景としてのキリスト教を西教天主教カトリックプロテスタント基督教と表記します)として教えたため、爆発的に広がりました。清朝黄金時代を現出した康熙帝に至っては、自らユークリッド幾何学を学んで、皇子達に講義するほどで、キリスト教に対する理解もあり、そのまま行けば、人口1億人のキリスト教国家が誕生する可能性がありました。

 日本にキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルヴァリニャーニらもイエズス会で、セミナリオ(小神学校)、ノビシャド(修練院)、コレジオ(大神学校)などを設置して、ラテン語、日本語、哲学・神学、自然科学、音楽、美術、演劇、体育と日本の古典を必修科目として学習させており、当時の日本の人口約1,000万人のうち、40万~60万人がキリスト教徒となったとされます。やがて、ザビエルは日本人の深層心理にある中国崇拝に気がつき、中国でキリスト教が広まれば日本伝道は容易になると考えて、中国伝道に出発しますが、その途上で没します。

 ところで、イエズス会が中国の祭天の儀孔子礼拝祖先崇拝の儀式(典礼)を尊重したのに対し、同じくカトリック系修道会であるドミニコ会フランシスコ会が「これは偶像崇拝である」とローマ教皇に訴えたため、中国の伝統文化を真っ向から否定することとなり、「典礼問題」が発生しました。かくして、康熙帝イエズス会以外の布教を禁止し、続く雍正帝キリスト教の全面禁止となり、中国のキリスト教化は挫折します。キリスト教中国となる次のチャンスは、清朝末期の洪秀全による太平天国運動ですが、これも清朝の利権につられた英米軍によってつぶされ、やがて、太平天国運動に革命運動を学んだ毛沢東によって、中国は唯物無神論的共産主義の国となります。

東方正教会ギリシア正教とも言います。ロシア正教ウクライナ正教のように伝わった国の名前が付きますが、日本ではハリストス正教会と言います。「正教」(オーソドックス)は「正統」の意味です。ニカイア、コンスタンティノポリス、カルケドンなど、主要な公会議は全て東方で行われているように、元々ギリシア以来の豊かな精神的伝統を持つ東方教会の方が、現実的で実際的な西方教会よりも権威がありました。この東方教会の伝統ローマ第二のローマであるコンスタンティノープル(コンスタンティノポリス、ビザンチウム、現在のイスタンブル)に次ぐ第三のローマとしてモスクワを位置づけ、東ローマ帝国を継承したモスクワ大公国により、ロシア正教に受け継がれています。ロシア正教にはローマ・カトリックの制度的信仰ともプロテスタントの倫理性とも違う、素朴で情緒的な信仰があり、トルストイの童話やドストエフスキーの内面をえぐるような作品にもロシア正教の世界が伺えます。日本ではなじみが薄いようですが、明治維新以後、プロテスタントと共にロシア正教が浸透し、ローマ・カトリック、プロテスタントに次ぐ第三教派を形成しました。ローマ・カトリック典礼問題を起こして、その排他的独善性が問題になったのに対し、ロシア正教は鐘が無ければ寺の梵鐘を使い、乳香が無ければ線香を使うなどして、キリスト教の定着という点で画期的な成果を収めました。また、トルストイやドストエフスキーの小説を通して、文学から知識人に浸透したという特徴もあります。与謝野晶子日露戦争で戦地に向かった弟に対する思いを歌った詩「君死に給ふことなかれ」も、トルストイが英紙「タイムズ」に発表した日露戦争批判の長大な論文への「返歌」だとされます。しかしながら、世界初の共産主義革命であるロシア革命により、ロシアからの人的供給が絶え、日本におけるロシア正教の勢力は激減します。

東洋的「自然」は「調和」「共生」の母体「人格神」との「人格的交わり」東洋で育まれ、「人類は一家、世界は皆兄弟姉妹」といった家庭的・家族的価値観も生じやすいのです。西洋では「神と人との断絶」「絶対なる神と塵芥に等しい人間」という神観人間観が強く、峻烈な「正義」観が形成されやすいのですが、ユダヤ教キリスト教イスラーム教も同じ神を信じる「三兄弟」(長男・次男・三男)みたいなものなのです。

「オスマン文化の発展と成熟を支えた要因の一つは、東西交易の繁栄であった。オスマン帝国は、北のアナトリア、南のシリア・エジプトという、当時のユーラシアの東西交易の二大センターを押さえていったため、一五世紀から一六世紀後半にかけて、屈指の経済大国であった。

 東西交易は、豊かな税収をもたらす。そしてこの国際貿易の重要性が、オスマン帝国を、異国からの商人・旅人たちを歓迎する開かれた帝国にしたのである。

 異国から来た人々にも開かれたオスマン帝国の社会は、西欧人が創り出したイメージとは反対に、同時代の西欧と比較しても、はるかに開かれた社会であったといえよう。

 近代西欧を見なれた我々にとって、西欧社会は開放的で合理的な社会だというイメージが定着している。そして、キリスト教も、合理的で寛容な宗教というイメージされがちである。これに対し、イスラム世界は閉鎖的で非合理的な社会であり、イスラムは不寛容な宗教だというイメージが強い。しかし、歴史的現実においては、少なくとも中世から初期近代までは、実態はむしろ逆であった。 

 中世西欧がキリスト教によって、厳しくしばられた社会だったことはよく知られていよう。しかも当時のキリスト教は、異教徒に対しては非常に不寛容であった。一一世紀末から、十字軍運動の開始と表裏をなして、外でのムスリムへの敵意は、内ではユダヤ教徒に向けられた。キリスト教徒民衆が蜂起してユダヤ教徒を虐殺する事件も見られるようになり、ユダヤ教徒を隔離するゲットーの形成も進んでいった。

 一五世紀以降になると、特に、キリスト教徒によるムスリムに対する失地回復運動である、レコンキスタの進んだイベリア半島において、その動きはさらに活性化された。それまではムスリムの支配の下に安全に暮らしてきたスペインのユダヤ教徒(セファルディム)も、厳しく迫害されるようになった。

 この時、迫害に耐えかねたセファルディムが安住の地として大量に移住した先が、オスマン帝国だった。オスマン帝国も、彼らをあたたかく受け入れた。オスマン帝国臣民となったセファルディムたちの期待は、裏切られなかった。彼らは、近代に入るまで、安全な生活を楽しんだ。

 ノーベル文学賞受賞者であるオーストリアのエリアス・カネッティも、彼らの子孫の一人である。彼は、かつてはオスマン領だったブルガリアのルスチュクに生まれ、ユダヤ人差別のことをまったく知らずに育った。スイスの学校に入ってはじめて自分が差別される存在であることを知ったと、その自伝で述べている。

 最盛期のオスマン帝国の領土は、アナトリアとバルカンを中核に、現在のイランとモロッコを除く中東のほぼ大部分におよんでいた。

 現在この地域は、民族紛争と宗教紛争の巣窟と化している。民族紛争のるつぼとなってしまった旧ユーゴスラヴィア、アラブ人とクルド人の抗争の場と化したイラク、宗派紛争の代表例となってしまったレバノン、そしてイスラエルとパレスチナ人の闘争の続くパレスチナ。これらはすべて、かつてはオスマン帝国の領土の一部であった。

 それにもかかわらず、少なくとも前近代のオスマン帝国は、決して激しい宗教紛争・民族紛争のるつぼではなかった。確かに当時も差別と反目もあったであろう。小さな紛争もまたあったであろう。しかし、そのような火種が果てしない紛争の連鎖へと拡大していくことを、防ぎうるような仕組が成立していたのである。

 それは、民族も宗教も異にする多種多様な人々を、ゆるやかに一つの政治社会の中に包み込む、統合と共存のシステムであった。

 そこでは、イスラム教徒だけではなく、キリスト教徒もユダヤ教徒もが、独自の宗教を信奉することが尊重されていた。町々には、イスラムのモスクのほかに、キリスト教会やユダヤ教のシナゴーグがそびえ立っていた。

 また、支配者の言葉であるトルコ語だけではなく、言語を異にする諸民族は自らの母語を使って生活し、著作し、出版することに何の差しつかえもなかった。

 民族紛争と宗教紛争の活断層のような地域をおおいながら、オスマン帝国が驚くほど長期にわたって存続しえた秘密の一半は、このゆるやかな統合と共存のシステムにあった。

 そのシステムがいかに優れていたものであったかは、オスマン家の支配が六百数十年も続いたことが証明している。ビザンツ帝国が一千年続いたといっても、内部では多くの王朝が交替している。

 イスラム世界の歴史においても、これほどの超大国で長期に存続しえたのは、アッバース朝の五〇〇年だけである。一四世紀イスラム世界の大歴史哲学者イブン・ハルドゥーンが「国家の寿命は、通例三代一二〇年をこえない」と喝破したほどに有為転変の激しいイスラム世界では、オスマン帝国は稀有の例外となっているのである。」(鈴木董『オスマン帝国』)

参考文献:

『キリスト教思想史入門』(金子晴男、日本基督教団出版局)

『日本人のための宗教原論』(小室直樹、徳間書店)

『日本人のためのイスラム原論』(小室直樹、集英社インターナショナル)

『オスマン帝国』(鈴木董、講談社現代新書)



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「近代の論理~社会科学のエッセンス~」

(6)「近代」なくして「現代」なし

「近代」は人類歴史における「アイス・ブレーク」期

「人口」「科学技術」「生産力」「文化」といった多分野において、「近代」は一大変革期であった「現代」社会は「近代」社会の直系です。近代は「ナショナリズム」を生み出し、「理性」に基づく個人主義を根本に持ちます。現代は「グローバリズム」を生み出し、「共感」に基づく共生主義への可能性を持っています。こうした「近代」の特性から「現代」への変遷は、大学入試における最頻出重要分野の1つでもあります。

【早稲田大学商学部2018年度出題

「西暦一〇〇〇年頃から千年の歴史の中で、封建領主、教会、都市国家、帝国など、さまざまな統治形態が登場したが、一七世紀頃から「主権国家」が最も有力な統治形態として優位を占めるようになり、その主権国家は一九世紀頃から「国民国家」へと収斂していくようになった。

 この国家の形成の歴史は、チャールズ・ティリーの言う「強制集約」型と「資本集約」型(あるいはウィリアム・マクニールの用語に従えば「指令志向」型と「市場志向」型)という二種類の社会関係の様式が、「資本化強制」型へと総合し、収斂していく過程として解釈することができる。

「強制集約」型国家は、もっぱら強制力を伴う指令によって資源を動員する。「資本集約」型国家は、もっぱら市場を通じて資源を動員する。これに対して、「資本化強制」型国家は、国家の強制的な指令が市場を介した経済活動に影響を及ぼすことで資源を動員する。これにより、「資本化強制」型国家は、「強制集約」型国家や「資本集約」型国家よりも効率的かつ大規模に資源を動員することができるようになった。その結果、国家の資源動員の能力が強化されたのみならず、市場経済も著しく発達することになり、「資本化強制」型国家はますます強力になり、国家間の闘争を勝ち抜いていったのである。

この「資本化強制」型国家こそが「主権国家」なのであり、そのより発達した形態としての「国民国家」なのである。統治形態が国民国家へと収斂していったのは、それが資源動員において最も高い能力を有していたからなのである。そして、国家の指令が市場に及ぼす「資本化強制」型国家の資源動員とは、今日、「経済政策」として理解されているものにほかならない。

「資本化強制」型国家の権力が強大であるのは、それが「インフラストラクチャー的権力」であることによる。一方的な指令によって人民を動員する「強制集約」型国家の「専制的権力」とは異なり、「インフラストラクチャー的権力」は、制度を通じて市民社会と交流・調整しつつ、資源を動員する。その制度には、共通の言語、宗教、通貨、法制度、あるいはシティズンシップが含まれる。「資本化強制」型国家は、こうした制度を介して市民社会や市場と有機的な相互依存関係を形成することで、専制的権力よりも大規模かつ効率的な資源動員を可能とするのである。

インフラストラクチャー的権力は、制度を一元的に管理できる中央集権的な公的権力の存在を必要とするが、領域国家は、領土内において公的権力の一元化・中央集権化を可能とするものである。それゆえ、インフラストラクチャー的権力を行使する「資本化強制」型国家は、領域国家の形態をとる。近代国家の基本的な法的・政治的制度や経済制度が領土の制約を受けるのは、そのためである。

また「資本化強制」型国家のインフラストラクチャー的権力は、「強制」と「資本」、あるいは「指令志向型」と「市場志向型」のハイブリッドであり、国家と市場の相互浸透という構造を有しているが、このハイブリッドの構造の相似形は、今日の資本主義経済におけるさまざまな制度の中にも見出すことができる。

たとえば、国民通貨は、国定信用貨幣論が明らかにするように、民間の信用取引から貨幣が供給されるという内生的貨幣供給論と、貨幣は国家の産物であるという外生的な表券主義のハイブリッドである。あるいは、中央銀行という組織は半官半民であり、民間の信用貨幣による支払い決済システムに国家が参入したものである。国債もまた、国家財政が民間金融市場に参入し、浸透したものと解することができる。

国民通貨、中央銀行、国債といった制度は、国家のマクロ経済運営にとって不可欠な政策手段であるが、いずれも国家と市場のハイブリッドの構造を有している。国家の経済における強力なインフラストラクチャー的権力は、これらの制度のハイブリッドな構造から生じているのである。

こうして国家は、財政金融政策によって、資本主義の不安定な動態を制御できるようになった。特に第二次世界大戦後になると、ケインズ主義的なマクロ経済運営によって安定化した資本主義は、飛躍的な発達を遂げることになった。

資本主義の発展は、理論的に言っても、あるいは歴史的に見ても、国民通貨、中央銀行、国債といった制度がなければあり得なかった。クナップが言ったように、資本主義は国家が育てたものである。」(中野剛志『富国と強兵 地政経済学序説』)

【早稲田大学社会科学部2018 年度出題】

「二一世紀の世界は、カントやヘーゲルが生きた時代の世界と大きく異なった構造をしている。むかしもいまもともに国民国家を基礎とし、国家が集まって国際社会をつくっているが、その集まりかたやつくりかたはまったく異なっている。国家について考えることが政治について考えることに等しいとは、もはや言えない。現代世界では、国家を介さない政治、もはや国家には管理できない政治の領域が巨視的にも微視的にも広がっている。だからぼくたちは新しい政治思想を必要としている。

 まずは国家のイメージについて考えてみよう。そもそも国家とは何か。ヘーゲルは国家を市民社会の自己意識だと捉えた。

 ある土地にたくさんの個人が住み、たがいの生産物を交換し、ともに生きる。それが市民社会だが、それだけでは国家は生まれない。なぜならば、彼らは、自分たちがなにをしているかを自覚せず、ただ目のまえの必要性に駆動されて交換しているだけだからである。彼らがその現実について反省し、自分たちがなぜこの他者たちと関わりをもっているのか、その理由を探りアイデンティティの意識が加わることではじめて国家は生まれる。それがヘーゲルの哲学の要である。

 国家とは市民社会の自己意識である。この単純な定義はいまでも大きな示唆を与えてくれるが、もうひとつ同じように注目すべき定義がある。

カントは『永遠平和のために』で、「国家をもった民族」はひとつの人格をもつものと見なしてさしつかえないと記している。

その想定は、たんなる思いつきにとどまらず、カントの議論の要になっていると考えられる。というのも、彼は、複数の国家が国際社会を構成することと複数の人間が市民社会を構成することを類比的に並べ、そこから国際体制論を始めているのだが、そのような類比はそもそも国家を人間と等値しないと成立しないからである。それゆえ、同じ等値は『永遠平和のために』のほかの箇所でも顔を出している。たとえばカントは、永遠平和を目指す国家連合の設立のためには、構成国それぞれがまず共和国にならねばならないと主張する。この規定の意味についてはさまざまな研究があるが、とりあえずここで重要なのは、国家が共和国にならないと国家連合に入れてもらえないというその話は、構造的には、人間が大人にならないと市民社会に入れてもらえないという、ごくありふれた「おまえも大人になれ」的な話と完全に同じかたちをしているということである。カントは、人間が成熟すれば市民社会をつくるように、国家もまた成熟すれば永遠平和をつくると考えた哲学者だった。

カントは国家を人格だと考えた。ヘーゲルは、国家を市民社会の自己意識だと考えた。このふたつの定義を組み合わせると、つぎのイメージが導かれる。人間に身体と精神があるように、*国民国家(ネーション)には市民社会と国家があるというイメージである。ネーションというひとつの「実体」の身体的な側面と精神的な側面、あるいは経済的な側面と政治的な側面、それぞれが市民社会と国家に相当する。

このイメージは、ナショナリズムの時代の世界観をきれいに表現している。ナショナリズムがいつ始まったのか、その規定は研究者により異なるが、大澤真幸『ナショナリズムの由来』によれば、ナショナリズムは、起源こそ絶対王政期に遡るが、本格的に始動したのは、一八世紀末から一九世紀にかけて、まさにカントとヘーゲルが活躍した時代のことである。その時代には、ネーションの単位で政治制度が整備されるとともに、それまでなかば自然に生まれていた徴税や経済の範囲が、「国民経済」という言葉であらたに捉え返されるようにもなった。言語や生活様式を共有する人々が住み、同じ法や警察に支配され、統一の意志のもとで交通網が整備された一定の地理的領域が、政治の単位だけではなく、経済の独立した単位としても認識されるようになったのである。そしてそれは、のちに文化の単位とも見なされるようになった。

カントとヘーゲルはナショナリズムの出発点に立ち会った。それゆえ彼らの国家観は、来るべきナショナリズムの時代における世界観のひな形となった。そこでは、個人でも家族でも部族でもなく、あらたに現れた「ネーション」なる単位こそが、政治と経済と文化の共通の基体と見なされたのだ。

しかしながら、ぼくたちはもはや、以上のような素朴なナショナリズムの時代には生きていない。

ぼくたちはいま、食べるもの、着るもの、見るもの、聴くもの、ほぼすべての商品が、国境を越えて、つまりネーションなど存在しないかのように流通している時代に生きている。ぼくたちは、東京でもニューヨークでもパリでも北京でもドバイでも、どこでも変わらずマクドナルドでハンバーガーを食べ、GAPで服を買い、ショッピングモールでハリウッド映画を観ることができる。あるていど豊かで安全な都市を歩いているかぎり、人々の服装や街頭の広告はほとんど変わらず、ネーションのちがいを意識する必要はほとんどない。言い換えれば、人類社会は、消費という点ではほとんどひとつの社会になりつつある。冷戦後のこの四半世紀でその変化は劇的に進んだ。これからもその変化はますます進むことだろう。ネーションはいまや経済と文化の基体になっているのだ。

にもかかわらず、ここで問題なのは、そんな現代でも、いまだ国境は存在し、ネーションもナショナリズムも存在していることである。それどころか、それらの存在感は逆に増し始めている。去る二〇一六年は、世界各国でグローバリズムへの反発が顕わになった年だった。イギリスはEUからの離脱を決め、アメリカはトランプ大統領を選出した。ヨーロッパの世論は難民の排除に大きく傾いている。日本でも近年は公然と排外主義が語られている。

かつて、ナショナリズムの時代は終わり、これからはグローバリズムの時代が来ると楽観的に語られたことがあった。いまでも情報社会論ではそのような楽観主義が見られる。しかしその「移行」は、かりに未来では実現するとしても、そう簡単に進むものではなさそうである。現実にはこの四半世紀、グローバリズムが高まるとともに、ナショナリズムもまたその反動として力を強めている。そしていまや両者の衝突こそが政治問題となっている。つまりは、世界はいま、一方でますますつながり境界を消しつつあるのに、他方ではますます離れ境界を再構築しようとしているように見える。ぼくたちが生きているのは、カントが夢見た国家連合の時代(ナショナリズムの時代)でもなければ、SF作家やIT起業家が夢見る世界国家の時代(グローバリズムの時代)でもなく、そのふたつの理想ので特徴づけられる時代である。

この分裂はなぜ生じたのだろうか。

ナショナリズムの時代の世界像の意味を、あらためて考えてみよう。そこで、国家と市民社会は、ひとつの実体(ネーション)の精神と身体になぞらえられていた。

ここで精神と身体の対比を、フロイト的な意味での「意識」と「無意識」の対比に、あるいはさらに低俗に、「上半身」と「下半身」の対比に重ねてみる。上半身は思考の場所、下半身は欲望の場所である。だとすれば、国民にとって、国家=政治は思考の場所、市民社会=経済は欲望の場所だと言うことができる。実際、国民は政治の場では政策について理性をもって熟議するし、経済の場では必要と欲望にしたがい自由にモノを購買するものだと見なされている。

国民はふだん、政治の合理的な思考に基づき行動している。少なくともそのつもりになっている。そして他国に見せるのは、カントが言うように国家という顔=人格だけである。けれども、現実にはつねに、市民社会に渦巻く非合理的な欲望に悩まされている。排外主義やヘイトスピーチを想像してみてほしい。したがって、その欲望の管理は、健全な国際秩序を設立するうえで致命的に重要になる。

国民国家(ネーション)は、国家と市民社会、政治と経済、上半身と下半身、意識と無意識のふたつの半身からなっている。カントとヘーゲルは、この前提のうえで、国家が市民社会のうえに立ち、政治の意識が経済の無意識を抑えこんで国際秩序を形成するのが、人倫のあるべきすがただと考えた。

ナショナリズムの時代においては、国家と市民社会、政治と経済、公と私のふたつの半身が合わさり、ひとつの実体=ネーションが構成されていた。だからこそネーションがすべての秩序の基礎となりえた。けれども、二一世紀の世界ではまさにその前提こそが壊れているのである。そしてここで重要なのは、けっしてネーションそのものが壊れたのではなく、ただネーションの統合性が壊れただけだと理解することである。

いまもネーションは生き残っている。政治はいまだにネーションを単位に動いている。政治家は国民から信任を集め、国民のために働いている。そこには厳然とネーションの感覚がある。けれども経済はネーションを単位としていない。商人は世界中の消費者に商品を売り、世界中の消費者から貨幣を集めている。大企業だけでなく、驚くほど小さな企業や個人さえ、いまや国境を越えて商売をしている。そこにネーションの感覚はない。政治の議論はネーション単位で分かれているが、市民の欲望は国境を越えてつながりあっている。それが二一世紀の現実である。

言い換えれば、ぼくたちが生きるこの二一世紀の世界においては、国家と市民社会、政治と経済、思考と欲望は、ナショナリズムとグローバリズムというふたつの原理に導かれ、統合されることなく、それぞれ異なった秩序をつくりがえてしまっているのだ。グローバリズムはナショナリズムを破壊したのではない。それを乗り越えたのでもない。ましてその内部でナショナリズムを生みだしたのでもない。それは、単純に、既存のナショナリズムの体制を温存したまま、それに覆いかぶせるように、まったく異質な別の秩序を張りめぐらせてしまったのである。」(東浩紀『観光客の哲学』)

*国民国家(ネーション)…一つの国に所属しているという意識をもつ人々(=国民)によって構成され、法や行政などの諸制度(=国家)によって統合された、政治的・経済的・文化的な共同体をいう。

【東京大学2021 年度出題】

「「近代化」は、それがどの範囲の人びとを包摂するかによって異なる様相を示す。「第一の近代」と呼ばれる*1フェーズでは、市民権をもつのは一定以上の財産をもつ人にかぎられている。それは、個人の基盤が私的所有におかれており、財の所有者であってはじめて自己自身を所有するという意味での自由を有し、ゆえに市民権を行使することができるとみなされたからである。この制限は徐々に取り払われ、成人男子全員や女性に市民権が拡張されていく。市民権の拡張とともに今度は、社会的所有という考えにもとづき財を再分配する社会保障制度によって、「第一の近代」では排除されていた人びとが包摂され、市民としての権利を享受できるようになる。これがいわゆる福祉国家であり、人びとはそこで健康や安全などの生の基盤を国家によって保障されることになったのである。それでも、理念的には国民全体を包摂するはずの福祉国家の対象から排除される人びとはつねに存在する。

 人類学者が調査してきたなかには、国家を知らない未開社会の人びとだけではなく、すでに国民国家という枠組みに包摂されたなかで生きる人たちもいる。ただそこには、なんらかの理由で国家の論理とは別の仕方で生きている人たちがいて、国家に抗したり、その制度を利用したりしながら生きており、そうした人たちから人類学は大きなインスピレーションを得てきた。ここでは、国家のなかにありながら福祉国家の対象から排除されてきた人びとが形づくる生にまつわる事例を二つ紹介しておこう。

 第一の例は、*2田辺繁治が調査したタイのHIV感染者とエイズを発症した患者による自助グループに関するものである。タイでは一九八〇年代末から九〇年代初頭にかけてHIVの爆発的な感染が起こった。そのなかでタイ国家がとった対策は、感染していない国民の感染予防であり、その結果すでに感染していた者たちは逆に医療機関から排除され、さらには家族や地域社会からも差別され排除されることになった。孤立した感染者・患者たちは互いに見知らぬ間柄であったにもかかわらず、生き延びるために、エイズとはどんなものでそれをいかに治療するか、この病気をもちながらいかに自分の生を保持するかなどをめぐって情報を交換し、徐々に自助グループを形成していった。

 HIVをめぐるさまざまな苦しみや生活上の問題に耳を傾けたり、マッサージをしたりといった相互的なケアのなかで、感染者たちは自身の健康を保つことができたのだ。それは「新たな命の友」と呼ばれ、医学や疫学の知識とは異なる独自の知や実践を生み出していく。そこには非感染者も参加するようになり、ケアを必要とする者とされる者という一元的な関係とも家族とも異なったかたちでの、ケアをとおした親密性にもとづく「ケアのコミュニティ」が形づくられていった。「近代医療全体は人間を徹底的に個人化することによって成立するものであるが、そこに出現したのはその対極としての生のもつ社会性」(田辺)だったのである。

 こうした社会性は、福祉国家における公的医療のまっただなかにも出現しうる。たとえば筆者が調査したイタリアでは、精神障害者は二〇世紀後半にいたるまで精神病院に隔離され、市民権を剥奪され、実質的に福祉国家のに置かれていた。なぜなら精神障碍者は社会的に危険であるとみなされていて、彼らから市民や社会を防衛しなければならないと考えられていたからである。精神病院は治療の場というより、社会を守るための隔離と収容の場であった。

 しかしこうした状況は、精神科医をはじめとする医療スタッフと精神障害をもつ人びとによる改革によって変わっていく。一九六〇年代に始まった反精神病院の動きは一九七八年には精神病院を廃止する法律の制定へと展開し、最終的にイタリア全土の精神病院が閉鎖されるまでに至る。病院での精神医療に取って代わったのは地域での精神保健サービスだった。これは医療の名のもとで病院に収容する代わりに、苦しみを抱える人びとが地域で生きることを集合的に支えようとするものであり、「社会」を中心におく論理から「人間」を中心におく論理への転換であった。精神医療から精神保健へのこうした転換は公的サービスのなかで起こったことであり、それは公的サービスのなかに国家の論理、とりわけ医療を介した管理と統治の論理とは異なる論理が出現したことを意味している。

 その論理は、私的自由の論理というより共同的で公共的な論理であった。たとえば、病院に代わって地域に設けられた精神保健センターで働く医師や看護師らスタッフは、患者のほうがセンターにやってくるのを待つのではなく、自分たちの方から出かけて行く。たとえば、地域に住む若者がひきこもっているような場合、個人の自由の論理にしたがうことで状況を放置すると、結局その若者自身と家族は自分たちではどうすることもできないところまで追い込まれてしまうことになる。そのような事態を回避し、地域における集合的な精神保健の責任をスタッフは負うのである。そこにはたしかに予防的に介入してリスクを管理するという側面がともないはするが、そうした統治の論理を最小化しつつ、苦しむ人びとの傍らに寄り添い彼らの生の道程を共に歩むというケアの論理を最大化しようとするのである。

 二つの人類学的研究から見えてくるのは、個人を基盤にしたものと社会全体を基盤におくものとも異なる共同性の論理である。この論理を、明確に取り出したのが*3アネマリー・モルである。モルはオランダのある街の大学病院の糖尿病の外来診察室でフィールドワークを行い、それにもとづいて実践誌を書いた。そのなかで彼女は、糖尿病をもつ人びとと医師や看護師の協働実践に見られる論理の特徴を「ケアの論理」として、「選択の論理」と対比して取り出してみせた。

 選択の論理は個人主義にもとづくものであるが、その具体的な存在のかたちは市民であり顧客である。この論理の下では患者は顧客となる。医療に従属させられるのではなく、顧客はみずからの欲望にしたがって商品やサービスを主体的に選択する。医師など専門職の役割は適切な情報を提供するだけである。選択はあなたの希望や欲望にしたがってご自由に、というわけだ。これはよい考え方のように見える。ただこの選択の論理の下では、顧客は一人の個人であり、孤独に、しかも自分だけの責任で選択することを強いられる。*4インフォームド・コンセントはその典型的な例である。しかも選択するには自分が何を欲しているかあらかじめ知っている必要があるが、それは本人にとってもそれほど自明ではない。

 対してケアの論理の出発点は、人が何を欲しているかではなく、何を必要としているかだる。それを知るには、当人がどういう状況で誰と生活していて、何に困っているか、どのような人的、技術的*5リソースが使えるのか、それを使うことで以前の生活から何を諦めなければならないのかなどを理解しなければならない。重要なのは、選択することではなく、状況を適切に判断することである。

 そのためには感覚や情動が大切で、痛み苦しむ身体の声を無視してたとえば薬によっておさえこもうとするのではなく、身体に深くみこむことが不可欠である。であり予測不可能で苦しみのもとになる身体は、同時に生を享受するための基体でもある。この薬を使うとたとえ痛みが軽減するとしても不快だが、別のやり方だと痛みがあっても気にならず心地よいといった感覚が、ケアの方向性を決める羅針盤になりうる。それゆえケアの論理では、身体を管理するのではなく、身体の世話をしえることに主眼がおかれる。そこではさらに、身体の養生にかかわる道具や機械、他の人との関係性など、かかわるすべてのものについて絶え間なく調整しつづけることも必要となる。つまりケアとは、「ケアをする人」と「ケアをされる人」の二者間での行為なのではなく、家族、関係のある人びと、同じ病気をもつ人、薬、食べ物、道具、機械、場所、環境などのすべてから成る共同的で協働的な作業なのである。それは、人間だけを行為主体と見る世界像ではなく、関係するあらゆるものに行為の力能を見出す生きた世界像につながっている。」(松崎健「ケアと共同性――個人主義を超えて」)

*1 フェーズ…物事の局面・段階。位相。

*2 田辺繁治…一九四三年~。文化人類学者。

*3 アネマリー・モル…一九五八年~。文化人類学者・哲学者。

*4 インフォームド・コンセント…医師が患者に治療方法を説明して同意を得ること。

*5 リソース…資源。資産。

参考文献:

『富国と強兵 地政経済学序説』(中野剛志、東洋経済新報社)

『観光客の哲学』(東浩紀、ゲンロン叢書)

『文化人類学の思考法』(松村圭一郎・中川理・石井美保編、世界思想社)



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「近代の論理~社会科学のエッセンス~」

(6)「近代」なくして「現代」なし

「理性」の限界から「実存」の深淵に直面

理性崇拝・理性信仰が「世界大戦」で「人類レベルの原罪」に直面した~人類は二度の世界大戦で、それまでの楽観的・進歩主義的考えに対して、人間には如何ともし難い「原罪」「業」があることを自覚させられます。戦後、デンマーク語で書かれたキェルケゴール実存主義がドイツ語に翻訳され、「キェルケゴール・ルネッサンス」を生み出し、キリスト教神学においても「自由主義神学」から「新正統主義神学」へと大きな転換が生じます。奇しくも唯物無神論の極致であるマルクス主義も、第一次世界大戦中にレーニンロシア革命を通して現実化しており、第一次世界大戦が大きな転機になったことがうかがえます。

キリスト教思想史の4つのポイント~思想史的には、イエス教からキリスト教を成立させたパウロパウロ教)、キリスト教神学を確立したアウグスティヌスカトリシズム)、近代民主主義・近代資本主義の原点ともなったルタープロテスタンティズム)、楽観的な進歩主義・自由主義を根本からひっくり返したキェルケゴール実存主義)の4人を押さえておけば、キリスト教の変遷がよく分かります。

「私にとって真理であるような真理を発見し、私がそれのために生き、そして死にたいと思うようなイデーを発見することが必要なのだ。いわゆる客観的真理などを探し出してみたところで、それが私に何の役に立つだろう。・・・私に欠けていたのは、完全に人間らしい生活を送るということだった。単に認識の生活を送ることではなかったのだ。かくしてのみ、私は私の思想の展開を客観的と呼ばれるものの上に、否、断じて私自身のものでないものの上に基礎づけることなく、私の実存の最も深い根源とつながるもの、それによって私が神的なものの中にいわば根を下ろして、たとえ全世界が崩れ落ちようとも、それに絡み付いて離れることのないようなものの上に基礎づけることが出来るのだ。」(キェルケゴール、1835年の手記より)

「近代経済学」も合理的「経済人」モデルの限界にぶつかった「限界革命」以後、計量経済学が急激に発達しましたが、合理的「経済人」モデルで全て説明できるわけもなく、複雑系経済学「限定合理性」が提唱されたり、「経済学の巨人」ガルブレイス『不確実性の時代』を著すなど、「不確実性」が次第に取り上げられるようになりました。

【東京都立大学文系前期2020年度出題

「人間の思考は、特定の刺激に対して適切な反応パターンを即座に選択し、しかもその選択パターンを組み合わせ、その結果をシミュレートし、そのパターンを無限に複雑化する。知性と概念もまた、この適応のツールとして成立したのである。

 このように考えるならば、二〇世紀フランスの哲学者、アンリ・ベルクソンが『創造的進化』においてそう語るとおり、人間は「ホモ・サピエンス(知恵ある人)」である以前に、「ホモ・ファーベル(工作する人)」であることになる。人間とは生存するために道具と人間関係を考案し続けることを自然によって宿命づけられた存在なのである。

 概念とは、生命がその適応のために世界を静止した姿で切り取る一つのツールであり、したがってその道具によって生きて流動する本体、つまり世界や生命それ自身を完全に把握することはできないとベルクソンはいう。だとすれば、人間という生命体がその適応のために創り出した技術によって、人間存在を完全に規定したり、人間社会を最終的に包摂することもできないはずである。あえてそれをなそうとすれば、それは手段がそれ自体目的化し、道具が本体を規定し、被造物が創造主に成り代わる倒錯を呼び出すことになろう。

 近代とはまさにこの倒錯を本気で成し遂げようとした時代であったといえる。適応の道具として生まれたにすぎない科学が、その原因であり、その土台である自然や宇宙、ひいては人間存在を解明し尽くすことを目指した。それと同時に、生物の適応の結果として生まれた工業技術が、その生物としての条件から人間を解放し、生きものとしての人間をそれとは違った何かに作り替えたいと願った。両者はともに、自然をその静止した姿のうちにとらえ、生きた躍動を機械的な反復のうちに凍結しようと欲したのだといえよう。」(古賀徹『デザインの哲学は必要か』「序にかえて」)

【東京大学文科前期2013年度出題

「近代科学とは、一七世紀にガリレオやデカルトたちによって開始され、次いでニュートンをもって確立された科学を指している。近代科学が現代科学の基礎となっていることは言うまでもない。近代科学の自然観には、中世までの自然観と比較して、いくつかの重要な特徴がある。

 第一の特徴は、機械論的自然観である。中世までは自然の中には、ある種の目的や意志が宿っていると考えられていたが、近代科学は、自然からそれら精神性をし、定められた法則どおりに動くだけの死せる機械をみなすようになった。

 第二に、原子論的な還元主義である。自然は全て微小な粒子とそれに外から課せられる自然法則からできており、それら原子と法則だけが自然の真の姿であると考えられるようになった。

 ここから第三の特徴として、物心二元論が生じてくる。二元論によれば、身体器官によって捉えられる知覚の世界は、主観の世界である。自然に本来、実在しているのは、色も味もいもない原子以下の微粒子だけである。知覚において光が瞬間に到達するように見えたり、地球が不動に思えたりするのは、主観的に見られているからである。自然の感性的な性格は、自然本来の内在的な性質ではなく、自然をそのように感受し認識する主体の側にある。つまり、心あるいは脳が生み出した性質なのだ。

 真に実在するのは物理学が描き出す世界であり、そこからの物理的な刺激作用は、脳内の推論、記憶、連合、類推などの働きによって、秩序ある経験(知覚世界)へと構成される。つまり、知覚世界は心ないし脳の中に生じた一種のイメージや表象にすぎない。物理学的世界は、人間的な意味に欠けた無情の世界である。

 それに対して、知覚世界は、「使いやすい机」「嫌いな犬」「美しい樹木」「愛すべき人間」などの意味や価値のある日常物に満ちている。しかしこれは、主観が対象にそのように意味づけたからである。こうして物理学が記述する自然の客観的な真の姿と、私たちの主観的表象とは、質的にも、存在の身分としても、まったく異質なものとみなされる。

これが二元論的な認識論である。そこでは、感性によって捉えられる自然の意味や価値は主体によって与えられるとされる。いわば、自然賛美の抒情詩を作る詩人は、いまや人間の精神の素晴らしさを讃える自己賛美を口にしなければならなくなったのである。こうした物心二元論は、物理と心理、身体と心、客観と主観、野生と文化、事実と規範といった言葉の対によって表現されながら、私たちの生活に深く広く浸透している。日本における理系と文系といった学問の区別もそのひとつである。二元論は、没価値の存在と非存在の価値を作り出してしまう。

二元論によれば、自然は、何の個性もない粒子が反復的に自然法則に従っているだけの存在となる。こうした宇宙に完全に欠落しているのは、ある特定の場所や物がもっているはずの個性である。時間的にも空間的にも極微にまで切り詰められた自然は、場所と歴史としての特殊性を奪われる。近代自然科学に含まれる自然観は、自然を分解して利用する道をこれまでにないほどに推進した。最終的に原子の構造を砕いて核分裂のエネルギーを取り出すようになる。自然を分解して(知的に言えば、分析をして)材料として他の場所で利用する。近代科学の自然に対する知的・実践的態度は自然をかみ砕いて栄養として摂取することに比較できる。

近代科学が明らかにしていった自然法則は、自然を改変し操作する強力なテクノロジーとして応用されていった。しかも自然が機械にすぎず、その意味や価値はすべて人間が与えるものにすぎないのならば、自然を徹底的に利用することに躊躇(ちゅうちょ)を覚える必要はない。本当に大切なのは、ただ人間の主観、心だけだからだ。こうした態度の積み重ねが現在の環境問題を生んだ。

だが実は、この自然に対するスタンスは、人間にもあてはめられてきた。むしろその逆に、歴史的に見れば、人間に対する態度が自然に対するスタンスに反映したのかもしれない。近代の人間観は原子論的であり、近代的な自然観と同型である。近代社会は、個人を伝統的共同体のから脱出させ、それまでの地域性や歴史性から自由な主体として約束した。つまり、人間個人から特殊は諸特徴を取り除き、原子のように単独の存在として遊離させ、規則や法に従ってはたらく存在として捉えるのだ。こうした個人概念は、たしかに近代的な個人の自由をもたらし、人権の観念を準備した。

しかし、近代社会に出現した自由で解放された個人は、同時に、ある意味でアイデンティティを失った根無し草であり、誰とも区別のつかない個性を喪失しがちな存在である。そうした誰とも交換可能な、個性のない個人(政治哲学の文脈では「負荷なき個人」と呼ばれる)を基礎として形成された政治理論についても、現在、さまざまな立場から批判が集まっている。物理学の微粒子のように相互に区別できない個人観は、その人のもつ具体的な特徴、歴史的背景、文化的・社会的アイデンティティ、特殊な諸条件を排除することでなりたっている。

だが、そのようなものとして人間を扱うことは、本当に公平で平等なことなのだろうか。いや、それ以前に、近代社会が想定する誰でもない個人は、本当は誰でもないのではなく、どこかで標準的な人間像を想定してはいないだろうか。そこでは、標準的でない人々のニーズは、社会の基本的制度から密かに排除され、不利な立場に追い込まれていないだろうか。実際、マイノリティに属する市民、例えば、女性、少数民族、同性愛者、障害者、少数派の宗教を信仰する人たちのアイデンティティやニーズは、周辺化されて、軽視されてきた。個々人の個性と歴史性を無視した考え方は、ある人が自分の潜在能力を十全に発揮して生きるために要する個別のニーズに応えられない。

近代科学が自然環境にもたらす問題と、これらの従来の原子論的な個人概念から生じる政治的・社会的問題とは同型であり、並行していることを確認してほしい。

自然の話に戻れば、分解して個性をなくして利用するという近代科学の方式によって破壊されるのは、生態系であることは見やすい話である。自然を分解不可能な粒子と自然法則の観点でのみ捉えるならば、自然は利用可能なエネルギー以上のものではないことになる。そうであれば、自然を破壊することなど原理的にありえないことになってしまうはずだ。

しかし、そのようにして分解的に捉えられた自然は、生物の住める自然ではない。自然を原子のような部分に還元しようとする思考法は、さまざまな生物が住んでおり、生物の存在が欠かせない自然の一部ともなっている生態系を無視してきた。

生態系は、そうした自然観によっては捉えられない全体論的存在である。生態系の内部の無機・有機の構成体は、循環的に相互作用しながら、長い時間をかけて個性ある生態系を形成する。エコロジーは博物学を前身としているが、博物学とはまさに「自然史(ナチュラル・ヒストリー)」である。ひとつの生態系は独特の時間性と個性を形成する。そして、そこに棲息(せいそく)する動植物はそれぞれの仕方で適応し、まわりの環境を改造しながら、個性的な生態を営んでいる。自然に対してつねに分解的・分析的な態度をとれば、生態系の個性、歴史性、場所性は見逃されてしまうだろう。これが、環境問題の根底にある近代の二元論的自然観(かつ二元論的人間観・社会観)の弊害なのである。自然破壊によって人間も動物も住めなくなった場所は、そのような考え方がもたらした悲劇的帰結である。」

(河野哲也『意識は実在しない――心・知覚・自由』)

【東京大学文科前期2016年度出題

「ホーフスタッターはこう書いている。

   反知性主義は、思想に対して無条件の敵意をいただく人々によって創作されたものではない。まったく逆である。教育ある者にとって、もっとも有効な敵は中途半端な教育を受けたものであるのと同様に、指折りの反知性主義者は通常、思想に深くかかわっている人びとであり、それもしばしば、陳腐な思想や認知されない思想にとりはかれている。反知性主義に陥る危険のない知識人はほとんどいない。一方、ひたむきな知的情熱に欠ける反知識人もほとんどいない。

(リチャード・ホーフスタッター『アメリカの反知性主義』田村哲夫訳)

 この指摘は私たちが日本における反知性主義について考察する場合でも、つねに念頭に置いておかなければならないものである。反知性主義を駆動しているのは、単なる怠惰や無知ではなく、ほとんどの場合「ひたむきな知的情熱」だからである。

 この言葉はロラン・バルトが「無知」について述べた卓見を思い出させる。バルトによれば、無知とは知識の欠如ではなく、知識に飽和されているせいで未知のものを受け容れることができなくなった状態を言う。実感として、よくわかる。「自分はそれについてはよく知らない」と涼しく認める人は「自説に固執する」ということがない。他人の言うことをとりあえず黙って聴く。聴いて「得心がいったか」「に落ちたか」「気持ちが片付いたか」どうかを自分の内面をみつめて判断する。そのような身体反応をてさしあたりの理非の判断に代えることができる人を私は「知性的な人」だとみなすことにしている。その人においては知性が活発に機能しているように私には思われる。そのような人たちは単に新たな知識や情報を加算しているのではなく、自分の知的な枠組みそのものをそのつど作り替えているからである。知性とはそういうのことを言うのだろうと私は思っている。個人的な定義だが、しばらくこの仮説に基づいて話を進めたい。

 「反知性主義」という言葉からはその逆のものを想像すればよい。反知性主義者たちはしばしば恐ろしいほどに物知りである。一つのトピックについて、手持ちの合切袋(がっさいぶくろ)から、自説を基礎づけるデータやエビデンスや統計数値をいくらでも取り出すことができる。けれども、それをいくら聴かされても、私たちの気持ちがあまり晴れることがないし、解放感を覚えることもない。というのは、この人はあらゆることについて正解をすでに知っているからである。正解をすでに知っている以上、彼らはことの理非の判断を私に委ねる気がない。「あなたが同意しようとしまいと、私の語ることの真理性はいささかも揺るがない」というのが反知性主義者の基本的マナーである。「あなたの同意が得られないようであれば、もう一度勉強して出直してきます」というようなことは残念ながら反知性主義者は決して言ってくれない。彼らは「理非の判断はすでに済んでいる。あなたに代わって私がもう判断を済ませた。だから、あなたが何を考えようと、それによって私の主張することの真理性には何の影響も及ぼさない」と私たちに告げる。そして、そのような言葉は確実に「呪い」として機能し始める。というのは、そういうことを耳元でうるさく言われているうちに、こちらの生きる力がしだいに衰弱してくるからである。「あなたが何を考えようと、何をどう判断しようと、それは理非の判定に関与しない」ということは、「あなたには生きている理由がない」と言われているに等しいからである。

 私は私をそのような気分にさせる人間のことを「反知性的」と見なすことにしている。その人自身は自分のことを「知性的」であると思っているかも知れない。たぶん、思っているだろう。知識も豊かだし、自信たっぷりに語るし、反論されても少しも動じない。でも、やはり私は彼を「知性的」とは呼ばない。それは彼が知性を属人的な資質や能力だと思っているからである。だが、私はそれとは違う考え方をする。

 知性というのは個人に属するものというより、集団的な現象だと考えている。人間は集団として情報を採り入れ、その重要度を衡量し、その意味するところについて仮説を立て、それにどう対処すべきかについての合意形成を行う。その力動的プロセス全体を元気づけ、駆動させる力の全体を「知性」と呼びたいと私は思うのである。

 ある人の話を聴いているうちに、ずっと忘れていた昔のできごとをふと思い出したり、しばらく音信のなかった人に手紙を書きたくなったり、凝った料理が作りたくなったり、家の掃除がしたくなったり、たまっていたアイロンかけをしたくなったりしたら、それは知性が活性化したことの具体的な徴候である。私はそう考えている。「それまで思いつかなかったことがしたくなる」というかたちでの影響を周囲にいる他者たちに及ぼす力のことを、知性と呼びたいと私は思う。

 知性は個人の属性ではなく、集団的にしか発動しない。だから、ある個人が知性的であるかどうかは、その人の個人が私的に所有する知識量や知能指数や演算能力によっては考量できない。そうではなくて、その人がいることによって、その人の発言やふるまいによって、彼の属する集団全体の知的パフォーマンスが、彼がいない場合よりも高まった場合に、事後的にその人は「知性的」な人物だったと判定される。

 個人的な知的能力はずいぶん高いようだが、その人がいるせいで周囲から笑いが消え、疑心暗鬼を生じ、勤労意欲が低下し、誰も創意工夫の提案をしなくなるというようなことは現実にはしばしば起こる。きわめて頻繁に起こっている。その人が活発にご本人の「知力」を発動しているせいで、彼の所属する集団全体の知的パフォーマンスが下がってしまうという場合、私はそういう人を「反知性的」とみなすことにしている。これまでのところ、この基準を適用して人物鑑定を過ったことはない。」

(内田樹「反知性主義者たちの肖像」)

【センター試験2010年度本試験出題

「*1フロイトによれば、*2人間の自己愛は過去に三度ほど大きな痛手をこうむったことがあるという。一度目は、コペルニクスの地動説によって地球が天体宇宙の中心から追放されたときに、二度目は、ダーウィンの進化論によって人類が動物世界の中心から追放されたときに、そして三度目は、フロイト自身の無意識の発見によって自己意識が人間の心的世界の中心から追放されたときに。

 しかしながら実は、人間の自己愛には、すくなくとももうひとつ、フロイトが語らなかった像が秘められている。だが、それがどのような像であるかを語るためには、ここでいささか回り道をして、まずは*3「ヴェニスの商人」について語らなければならない。

 ヴェニスの商人――それは、人類の歴史の中で「*4ノアの洪水以前」から存在していた商業資本主義の体現者のことである。海をはるかへだてた中国やインドやペルシャまで航海をして絹やコショウや絨毯(じゅうたん)を安く買い、ヨーロッパに持ちかえって高く売りさばく。遠隔地とヨーロッパとのあいだに存在する価格の差異が、莫大な利潤としてかれの手元に残ることになる。すなわち、ヴェニスの商人が体現している商業資本主義とは、地理的に離れたふたつの国のあいだの価格の差異を媒介して利潤を生み出す方法である。そこでは、利潤は差異から生まれている。

 だが、経済学という学問は、まさに、このヴェニスの商人を抹殺することから出発した。

  年々の労働こそ、いずれの国においても、年々の生活のために消費されるあらゆる必需品と有用な物資を本源的に供給する基金であり、この必需品と有用な物資は、つねに国民の労働の直接の生産物であるか、またはそれと交換に他の国から輸入したものである。

 『国富論』の冒頭にあるこのアダム・スミスの言葉は、一国の富の増大のためには外国貿易からの利潤を貨幣のかたちで蓄積しなければならないとする、*5重商主義者に対する挑戦状にほかならない。スミスは、一国の富の真の創造者を、遠隔地との価格の差異を媒介して利潤をかせぐ商業資本的活動にではなく、勃興しつつある産業資本主義のもとで汗水たらして労働する人間に見いだしたのである。それは、経済学における「人間主義宣言」であり、これ以後、経済学は「人間」を中心として展開されることになった。

 たとえば、*6リカードや*7マルクスは、スミスのこの人間主義宣言を、あらゆる商品の*8交換価値はその生産に必要な労働量によって規定されるという労働価値説として定式化した。

 実際、リカードやマルクスの眼前で進行しつつあった産業革命は、工場制度による大量生産を可能にし、一人の労働者が生産しうる商品の価値(労働生産性)はその労働者がみずからの生活を維持していくのに必要な消費財の価値(実質賃金率)を大きく上回るようになったのである。労働者が生産するこの*9剰余価値――それが、かれらが見いだした産業資本主義における利潤の源泉なのであった。もちろん、この利潤は産業資本家によって搾取されてしまうのではあるが、リカードやマルクスはその源泉をあくまでも労働する主体としての人間にもとめていたのである。

 だが、産業革命から二百五十年を経た今日、*10ポスト産業資本主義の名のもとに、旧来の産業資本主義の急速な変貌が伝えられている。ポスト産業資本主義――それは、加工食品や繊維製品や機械製品や化学薬品のような実体的な工業生産物にかわって、技術、通信、文化、広告、教育、娯楽といったいわば情報そのものを商品化する新たな資本主義の形態であるという。そして、このポスト産業資本主義といわれる事態の喧騒(けんそう)のなかに、われわれは、ふたたびヴェニスの商人の影を見いだすのである。

 なぜならば、商品としての情報の価値とは、まさに差異そのものが生み出す価値のことだからである。事実、すべての人間が共有している情報とは、その獲得のためにどれだけ労力がかかったとしても、商品としては無価値である。逆に、ある情報が商品として高価に売れるのは、それを利用するひとが他のひととは異なったことが出来るようになるからであり、それはその情報の開発のためにどれほど多くの労働が投入されたかには無関係なのである。

 まさに、ここでも差異が価値を作り出し、したがって、差異が利潤を生み出す。それは、あのヴェニスの商人の資本主義と同じ原理にほかならない。すなわち、このポスト産業資本主義のなかでも、労働する主体としての人間は、商品の価値の創造者としても、一国の富の創造者としても、もはやその場所をもっていないのである。

 いや、さらに言うならば、伝統的な経済学の独壇場であるべきあの産業資本主義社会のなかにおいても、われわれは、抹殺されていたはずのヴェニスの商人の巨大な亡霊を発見しうるのである。

 産業資本主義――それも、実はひとつの遠隔地貿易によって成立している経済機構であったのである。ただし、産業資本義にとっての遠隔地とは、海のかなたの異国ではなく、一国の内側にある農村のことなのである。

 産業資本主義の時代、国内の農村にはいまだに共同体的な扶助の原理によって維持されている多数の人口が滞留していた。そして、この農村における過剰人口の存在が、工場労働者の生産性の飛躍的な上昇にもかかわらず、彼らが受け取る実質賃金率の水準を低く抑えることになったのである。たとえ工場労働者によってその実質賃金率が上昇しはじめても、農村からただちに人口が都市に流れだし、そこでの賃金率を引き下げてしまうのである。

 それゆえ、都市の産業資本家は、都市にいながらにして、あたかも遠隔地交易に従事している商業資本家のように、労働生産性と実質賃金率という二つの異なった価値体系の差異を媒介できることになる。もちろん、そのあいだの差異が、利潤として彼らの手元に残ることになる。これが産業資本主義の利潤創出の秘密であり、それはいかに異質に見えようとも、利潤は差異から生まれてくるというあのヴェニスの商人の資本主義とまったく同じ原理にもとづくものなのである。

 この産業資本主義の利潤創出機構を支えてきた労働生産性と実質賃金率とのあいだの差異は、歴史的に長らく安定していた。農村が膨大な過剰人口を抱えていたからである。そして、この差異の歴史的な安定性が、その背後に「人間」という主体の存在を措定してしまう認識論的錯覚を、商品の*11物神化と名付けた。その意味で、差異性という抽象的な関係の背後にリカードやマルクスが措定してきた主体としての「人間」とは、まさに物神化、いや人神化の産物にほかならないのである。

 差異は差異にすぎない。産業革命から二百五十年、多くの先進資本主義国において、無尽蔵に見えた農村における過剰人口もとうとう枯渇してしまった。実質賃金率が上昇しはじめ、もはや労働生産性と実質賃金率とのあいだの差異を媒介する産業資本主義の原理によっては、利潤を生みだすことが困難になってきたのである。あたえられた差異を媒介するのではなく、みずから媒介すべき差異を意識的に創りだしていかなければ、利潤が生み出せなくなってきたのである。その結果が、差異そのものである情報を商品化していく、現在進行中のポスト産業資本主義という喧騒に満ちた事態にほかならない。

 差異を媒介して利潤を生み出していたヴェニスの商人――あのヴェニスの商人の資本主義こそ、まさに普遍的な資本主義であったのである。そして、「人間」とは、この資本主義の歴史のなかで、一度としてその中心にあったことはなかった。」(岩井克人『二十一世紀の資本主義論』)

*1 フロイト…オーストリアの精神医学者(一八五六~一九三九)。精神分析の創始者として知られています。

*2 人間の自己愛…ここでは、人間の主体性を賛美する人間中心的な考え方を言います。

*3「ヴェニスの商人」…シェークスピアの戯曲『ヴェニスの商人』をふまえています。

*4 ノアの洪水…ノアとその家族が方舟(はこぶね)に乗り、大洪水の難から逃れる、『旧約聖書』に記されたエピソード。 

*5 重商主義…十六世紀から十八世紀にかけて、西ヨーロッパ諸国で支配的であった保護的な経済政策。

*6 リカード…アダム・スミスと並ぶイギリスの経済学者(一七七二~一八二三)。

*7 マルクス…ドイツの経済学者・哲学者・革命家(一八一八~八三年)。資本主義経済を批判的に分析した『資本論』などで知られています。

*8 交換価値…ある商品が他の商品とどれくらいの量的割合で交換できるかという商品価値。貨幣経済では価格として表されます。これに対して、商品が持っている物としての有用性を「使用価値」と言います。

*9 剰余価値…資本主義経済で、労働者が生産過程で作り出した価値から、労働力の価値(賃金)を引いた価値。

*10 ポスト…他の語の上について“~以後”の意を表します。「ポストモダン(脱近代)」「ポスト冷戦」など。

*11 物神化…ある物に固有の神秘的な力を認めて、崇拝の対象にすること。古代宗教における自然物、資本主義における商品や貨幣、あるいは異性の身体の一部やその所有物などに対する崇拝を言います。マルクスは、労働を介して人間と人間との関係が、商品と商品との関係として現れるため、あたかも商品自体が価値を持っているように見えることを「物神化(物象化)」と呼びました。「物神崇拝・呪物崇拝(フェティシズム)」とも言います。

参考文献:

『キリスト教思想史入門』(金子晴男、日本基督教団出版局)

『デザインの哲学は必要か』(古賀徹編、武蔵野美術大学出版局)

『意識は実在しない――心・知覚・自由』(河野哲也、講談社選書メチエ)

『日本の反知性主義』(内田樹編、晶文社)

『二十一世紀の資本主義論』(岩井克人、筑摩書房所収)



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「近代の論理~社会科学のエッセンス~」

(6)「近代」なくして「現代」なし

「還元主義」から「包括主義」へ

西洋「近代」は「還元主義」(リダクショニズム)を生んだ西洋医学還元主義リダクショニズム)の流れにあり、「全体」は「部分」の総和だと考えて治療します。したがって、「病気」に着目し、病因を取り除く・解決するといった「対症療法」が中心になります。これに対して東洋医学「全体」は「全体」として捉える「包括主義」ホーリズム)であるため、「人間の自然治癒力」を高める方向に向かうため、「未病」にも注目し、「医食同源」といった生活改善も重要になってきます。これは予防医学生活習慣病の克服といった観点からも重要です。

「包括主義」(ホーリズム)は東洋も西洋も総合する「西洋」を通過してこそ「東洋」が生きるのです。西洋医学近代科学の成果の一つである解剖生理学に基づき、即効性がありますが、東洋医学陰陽五行理論八卦思想を持ち、哲学的で、どうしても遅効性となります。実は東洋医学にも西洋医学の成果は欠かせないのであって、この両者を統合するのが真の「包括主義」なのです。これは近代経済学においても古典派経済学ミクロ経済学)とケインズ経済学マクロ経済学)は両方必要で、現代物理学でも決定論のニュートンの古典力学を発展させた相対性理論も、非決定論量子力学も両方必要であるのと通じるでしょう。

エキュメニカル運動~400派以上に分かれたキリスト教の教派を超えた結束を目指す教会一致運動超教派運動。さらにはより幅広くキリスト教を含む諸宗教間の対話と協力を目指す運動のことを指す場合もあります。理念的にはエキュメニズム世界教会主義)と言いますが、共産主義神学とも言える解放神学「魂の救いはキリスト教で、社会の救いはマルクス主義で」)の出現に見られるように、唯物無神論の体系である共産主義を克服できず、挫折しました。

第2ヴァチカン公会議~1962~1965年。ローマ教皇ヨハネ23世の下で開かれ、後を継いだパウロ6世によって遂行されたカトリック教会の公会議で、エキュメニカル運動が重要な議題の1つでした。カトリックとプロテスタントの交流という点では評価できるものの、解放神学(共産主義神学)の問題で一致できませんでした。解放神学とは端的に言えば、「魂の救い」キリスト教によるものの、貧困・差別・抑圧などに苦しむ人々の「社会的救い」についてはキリスト教はなすすべもなく、社会分析の理論と実践体系を持つマルクス主義を導入するというものです。これは戦闘的な唯物無神論に基づくマルクス主義をキリスト教が導入するという点で論理破綻であり、総合的社会運動の理論と実践が欠けているというキリスト教の根本問題が浮き彫りになったとも言えます。

WCC世界教会協議会)~1948年に成立した、プロテスタント主導によるエキュメニカル運動の組織。ここでも解放神学の問題があり、そのアジア版である韓国の民衆神学フィリピンの闘争の神学が提起する問題はキリスト教の根本問題につながるもので、逆に教派一致の難しさを明らかにすることになりました。

三教一致(合一)~魏晋南北朝時代から、中国知識人は公的には政治的男性原理に立つ儒教世界善政志向を述べるもの)に生き、私的には生活的女性原理に立つ道教世界養生法不老長寿法民間信仰)に生き、哲学的には仏教的真理を学ぶことが伝統的に行われており、三教一致(合一)が成立していました。これは東洋のエキュメニカル運動と言え、西洋のエキュメニカル運動が挫折していることと対照的です。こうした伝統の中で、仏教の「空」や神通力が老荘思想の「無」の思想や道家思想の呪術信仰を土台として受容され、仏教の組織的体系の影響で宗教としての道教が確立され、荘子思想の強い影響で禅宗が興り道家思想の呪術信仰の影響で念仏による浄土教が興りました。また、儒教でも禅宗の影響で宋学が興り儒教・仏教・道教を総合した新儒学ネオ・コンフューシャニズム)が誕生しています。

①西洋宗教・思想の位置づけ~人間原理キリスト教)、家庭・社会原理ユダヤ教イスラーム教)、自然・世界原理ギリシア哲学近代科学

②東洋宗教・思想の位置づけ~人間原理仏教)、家庭・社会原理儒教)、自然・世界原理道教

【慶應義塾大学文学部2020年度出題

「マイノリティの統合を進める手段だったはずの多文化共生も、二〇〇一年の九・一一事件を転機として、欧米世界で激しいバッシングを受けるようになった。少数派の文化の存在を認める多文化主義によって少数派が甘やかされ、そこから秩序を破壊する原理主義者が育っていったというのである。少数派の側もパターナリスティックな多文化主義秩序を擁護しようとはしなかった。二一世紀に入って多文化主義は左右から批判を受け、その社会規範としての力は一気に弱まった。

 政策としての多文化主義は終わったかもしれない。しかし、統合を求めない多文化主義、あるいは、規模の大小を問わず文化的な集団が互いを尊重して共存する「状態」としての多文化共生を想定することはできないものだろうか。そのような着想を得たのは、筆者が東京の下町で過ごしていたときだった。耳に入る言葉で判断すると商店街を歩くのは日本人が多数派だと思われるが、フィリピン人、ネパール人、パキスタン人、中国人、韓国人、欧米人などの定住者の姿も目立つ。買い物での小銭のやりとりを除いて、地元の人々と移民たちが積極的に交わっている様子はない。よく観察すると、出身地を異にする移民たち同士もそうだ。しかし敵意は感じられない。かといって、互いにまったく関心がないわけでもない。お祭りでサンバの山車が商店街を練り歩くと、少し離れたところから、皆が好奇心たっぷりに眺めている。距離を保ちながらお互いに何かが響くような感覚は、意外に心地よいものである。

 イギリスの植民地官吏J・S・ファーニバルは、『植民地政策と実践』(一九四八年)という本のなかで、東南アジア社会を「複合社会」と特徴づけた。多数派の地元民(たとえばマレー人)、そして少数派のインド人、中国人などは、市場で取引はするけれども、国民的な一体感をもつことはない。「かれらは混じり合うが、結びつかない」のである。植民地社会の底流にはイギリス人の権力者にはわからない結びつきもあっただろうが、分かれて暮らしながら共存するという構図は、現在の東南アジアの国々の都市社会でも見て取ることができる。

 第三章で触れたように、アフリカ大陸では多くの中国人移民が暮らしている。アフリカ人も中国人も、内輪では相手の悪口を言うが、暴力的な対立にまで発展することは多くないし、そもそも中国人の商店には地元の顧客がいるから商売が成立している。逆の構図として、中国の都市に商品を買い付けに来るアフリカ人商人も目立つ。アフリカ人の滞在者は中国人の差別的な振る舞いに怒るが、自分が中国人になりたいと願うわけではない。

 西洋世界の多文化主義は終わったかもしれないが、アフリカやアジアの国民国家のレベルでは、「よそよそしい共存」が成立している空間がある。抽象的な個人の社会契約にもとづいて制度を設計しようとするガバナンスの伝統は、著しく西洋的なものである。ひるがえって非西洋世界の国民国家には、良かれ悪しかれ、移民政策のグランドセオリーは存在しない。恭順しない者は追い出そうと威嚇するが、本当に追い出すとは限らない。そこで生まれる共存の状態は、壊れやすい均衡だとも言える。すなわち平和的な共存も暴力的な排除も、行き当たりばったりなのである。

 このような状態の積極的な側面を理念型として描き出すことはできないだろうか。つまり、抽象的な個人ではなく、多様な人間の存在を前提として、そのような人々が自由に参入し退出するような社会の仕組みを、思考実験として提案することはできないものだろうか。それは、ルソーの野生人の世界に対応するガバナンスの秩序を考えることでもあるだろう。」(峯陽一『2100年の世界地図――アフラシアの時代』)

【慶應義塾大学文学部2020年度出題

「植民地化以前のアフリカや東南アジアには、硬質な中央集権国家はあまり存在していなかった。西洋との接触以前、千年単位の歴史によって形づくられた流動的で分散的な小人口社会の特質は、現代のアフリカ連合(AU)や東南アジア諸国連合(ASEAN)などの地域機構の組織原理にも影響を与えているように思う。かつて欧州連合(EU)は、ギリシアやポルトガルに対して緊縮政策を要求し、組織内の小国を無理矢理締め上げるような態度をとって求心性を弱めたが、こういうスタイルの政治はAUやASEANでは考えられない。境界線にあまりこだわらず、組織内の大国と小国が共存しながら、コンセンサスで物事を決めていく。外から見ているとまどろっこしく、あまり効率的ではないかもしれないが、協調的な枠組みで内部のもめ事を解決していくスタイルは、アフリカと東南アジアの地域機構ではそれなりに定着している。

 西洋世界の多文化主義の実験は破綻したかもしれないが、諦めるのは早すぎる。西洋世界に向けるのと同じだけの実践的、思想的な好奇心をもって、非西洋世界における寛容と共存の実験に目を向けていこう。

 異物を排除せず、人々の多様な結社の動きを妨げず、それらの共存を促進しようとする国は現実に存在しうるだろうか。領域の内部で複数の主権が共存する多元的な国家の構想は、主権国家は単一かつ絶対でなければならないと考える人々を不安にさせるだろう。第二次世界大戦前、ドイツの政治学者カール・シュミットは、『政治的なものの概念』(一九三二年)という著作で多元的国家の構想を排撃し、非常事態における単一の主権者による意思決定を擁護する論陣を張ったものである。

 だが、二一世紀の今日、意思決定システムを分散させ、多様な人々がグループを自主的に結成し、解散し、移動していくという仕組みそのものは、すでに世界の様々な場所で十分に定着している。第二次世界大戦後、「南」の国々に対して国家意思としての介入戦争を何度も主導してきた米国においても、分権的なシステムは規範的な地位を獲得している。米国は五〇の州に強い権限を与えている連邦国家であるが、それだけではない。米国の先端のビジネスモデルそのものが、本章で述べてきた小人口世界の生活様式と似ている多元的で流動的な様式に近づきつつある。

 マサチューセッツ工科大学(MIT)の経営学者トマス・マローンは、人類世界は孤立、分散、自由に特徴づけられる狩猟採集民の世界から、中央集権的な階層社会へと向かい、いま再び分散的なネットワーク社会へと移行しつつあると主張する。「命令と管理」にもとづく厳格な階層制度は軍隊には向いているかもしれないが、情報ネットワーク社会には適合しない。イノベーションを続けて前進しようとすれば、分散的なシステムすなわち関係する者を意思決定に参加させることで一人一人の創造性、主体性、責任感を強め、組織の柔軟性を確保することが必須の条件になる。最新のネットワーク・ビジネスの動きは、人間が遠い昔に手放した自由を取り戻すことでもある。階層社会を解体しても個人が孤立しないのは、印刷物から電信・電話、インターネットへと、情報伝達のコストが劇的に低下したおかげである。

 マローンによれば、これからの指導者に求められるのは、「命令と管理」から「調整と育成」へと組織原理をシフトさせることだという。成員に命令するのではなく、独立して動く自由で小規模なユニットをつなげ、人々の問題解決能力を育てていくのである。軍隊やインフラが消滅するわけではないから、「命令と管理」のシステムが完全に消えることはない。しかし、先端産業の重心は移動していくだろう。「調整と育成」が無政府状態を意味するわけではない。指導者が紛争をおさめ、個人の才能と創造力を生かし、価値観を提示できる組織には、多様な人間が集まり、自生的な秩序が生まれるだろう。小人口世界において優れた指導者がいる首長国に臣民が集まるのと同じロジックである。」(峯陽一『2100年の世界地図――アフラシアの時代』)

参考文献:

『キリスト教思想史入門』(金子晴男、日本基督教団出版局)

『2100年の世界地図――アフラシアの時代』(峯陽一、岩波書店)



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