日韓中三国比較文化論



「日韓中三国比較文化論➀」

1、「大人」中国の度量と面子~「華僑ネットワーク」の持つ可能性➀

「中国文化」~「塩味」、ザーサイ、「錦上添花」(スイカに砂糖をかける)、椅子。感情を剥き出しにする強い個性を表現し、自己を抑制しない気質。絶対的イデオロギーが支配する「イデオロギー社会」(儒教、血縁主義、社会主義)。石の文化。偶数文化。大陸文化。中華思想。「教える」文化。「ユダヤ人ネットワーク」に匹敵する「華僑ネットワーク」。

「三国の文語に関するわたしの個人的な感じとしては、中国語がもっとも華麗で洒落ている。それは中国語が何よりも文語的体質を備えているからであり、豊富な四字熟語と互いに前後が呼応しあう対句が特異な機能を働かせるからである。

相対的に会話体機能が強い日本語・韓国語は、華麗な中国語に比べて繊細ではあるが、どこか貧弱で、さほど素晴らしいとは思えない。幸いにも数多くの漢字語と近代的な外来語・ローマ字単語などが併用され洗練された感じはする。」

(金文学『日本人・中国人・韓国人―新東洋三国比較文化論』)


「それならば中国女性はいかなる美人だろうか?中国美人は顔や胸よりも脚の管理に何よりも神経を使うのが特徴である。いにしえから中国人は畳やオンドルではなく、椅子や寝台で主に生活してきたために、東洋三国の女性のうちでは脚がもっとも長くすらっとしており、これが中国美人を創造するのに一役買っているのだ。」

(金文学『日本人・中国人・韓国人―新東洋三国比較文化論』)


「疾風怒濤の季節もとうに過ぎ去った七一年の夏の終りか秋の初め、ふと思いついて、本棚の隅から『世説新語』なる書物を取り出し、埃を払って読み始めた。これがなんとも面白く、私はたちまち夢中になった。久しぶりに味わう快感であった。

 『世説新語』は五世紀中頃、南朝劉宋の時代に編纂された魏晋の貴族のエピソード集である。ここには乱世のただなかに生きながら、老荘思想の「無為自然」の理念をモットーとして、独特のライフスタイルを誇示し、机上の空論たる清談に寝食を忘れて熱中する人々の姿が、多角な角度から活写されている。奇人・変人続出の『世説新語』のエピソード群は無類に面白く、かてて加えて、ちょっとした会話にもひねりをきかさずにはおかない、彼らのレトリック狂いは、1『文心雕龍(ぶんしんちょうりゅう)』を通じて、嫌というほど中国式レトリックの何たるかを叩き込まれた私にとって、共感するところ大、すこぶる身近なものに思われた。

 この六朝貴族版「敗れざる者たち」の群像をいきいきと描く、『世説新語』を繰り返し読むうち、私は勉強は楽しんでやるものだと、改めて痛感した。なるほど、『文心雕龍』も*2曹植もすこぶる面白く読んだけれども、論文を書くときには、どこか義務感がつきまとい、だんだん興ざめしてしまった。論文を書くときの定番のセオリーから解放され、面白いものを発見した喜びがそのまま伝わるような、そんな文章を書いてみたい。そう思いながらそのころあった中国文学の同人誌に、「『世説新語』の人々」と題する小さな文章を書いた。書き終えたあと、実にのびのびと楽しい気分になった。疾風怒濤の季節をそれなりに懸命に生きるうち、私の意識のなかで、中国文学の論文はかくあらねばならぬという重石が、すっぽりはずれたものと見える。中国文学はなんでもありで面白い。自由自在に面白くやれそうだと、『世説新語』をためつすがめつしながら、初めて実感したのであった。」

(井波律子『学問はおもしろい』所収「叩けよ、さらば開かれん」)


*1『文心雕龍』…魏晋南北朝の南朝梁の時代に、劉勰(りゅうきょう)(四六五?~五一八)という人物によって著された、文学理論の大著。筆者はこの書を卒論のテーマにした。

*2曹植…『三国志』の英雄曹操の息子で、杜甫以前の中国最大の詩人と目される。筆者は曹植を修士論文のテーマとし、以後、『三国志』に長く取り組むこととなる。


「私は十九歳にもなってから中国語を始めたのに、中国の人から「なんて上手なのか」と大げさにほめてもらうことがよくあり、有頂天になりつつ、いったいなぜかと冷静に考えてみたところ、どうやら二つの理由があるようなのだ。

 第一に、中国語が包容力のある言葉だということ。

 そもそもの成り立ちからして、各地方出身者の意思疎通という目的をはっきり持っているので、中国人の耳は、減点方式ではなく、加点方式で相手の言葉を聞く。つまり、「あっ、間違った」「また訛ってる」と、欠点をあげつらうような、意地悪な聞き方をしない。反対に、「たぶんこうだ」「きっとそういう意味だろう」と、聞き手が積極的にコミュニケーションに関与してくるのだ。

 これは日本語と大きく違う。私はいつだって、この話になると、大正時代の関東大震災で起きた事件を思い起こす。朝鮮人らしき人をつかまえては、濁音の入った言葉を喋るように強要し、発音が日本風でなければ、いきなり井戸に投げ込んだという集団ヒステリーのエピソードだ。どうしてそんな恐ろしい事件が起きたのか。理由はいろいろあるだろうが、日本語の排他性がいかんなく発揮されたケースであることは間違いない。

 日本語は基本的にムラの言葉、身内とよそ者を判別するために機能する内輪の言葉としての性格が、今にいたるまで非常につよい。メンバーズオンリーのシークレットコードといおうか。

 だから、何十年も日本語を勉強して、日本に暮らし、日本の大学で教えている華人の先生であっても、外国生まれであるというだけで、「一度として日本人と間違えられたことがない」と嘆くことになる。かつて早稲田の法学部でスペイン語を教えていらしたある先生は、「日本人とまったく同じように話していても、中学生くらいの子どもから言葉遣いを直されたりする」とたいへん立腹されていた。いずれも、ほんのわずかの違いをあばきたてずにはおかない日本語という言語の性質による。

 言語の性質といっても、おそらくは言語心理学の領域に属するテーマだろう。というのも、日本人である私の耳には、やはり華人の先生の話す日本語が日本人とまったく同じようには聞こえないという点が一つ。

 もう一つは、私が中国語を話していると、「ずいぶん日本語が上手なんですね」とほめてくる日本人が珍しくないのである。「中国語が」ではなく「日本語が」。自慢するわけじゃないが、親の代から東京生まれの東京育ち、標準語が訛っているとしたら東京訛りの私である。それなのに、在広州日本国総領事館の職員も原宿の日本料理屋のウエイターも、口を揃えて「日本語が上手ですね」ときたもんだ。それはつまり「中国人にしては」という意味だろう。どうして当たり前に日本語を話している日本人をつかまえて中国人と間違えるのか。中国語を話したくらいで。しかも総領事館ではパスポートまでかざしていたというのに。

 つまりこれが、言語を巡る日本人の排他性ということなのだ。外国語を話しているだけで、自動的によそ者として認識されてしまうのである。

 それにひきかえ、ほんの数年、中国語を学んだだけの外国人が、どれほどしばしば「なんて上手なのか」と持ち上げられ、「中国人と同じじゃないか」と仲間扱いされることだろう。そこには中国人の寛容さということもたしかにあるが、一番重要なのは、中国語自体が非常に包容力のある言葉だという点であろう。」

(新井一二三『中国語はおもしろい』)



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「日韓中三国比較文化論②」

「大人」中国の度量と面子~「華僑ネットワーク」の持つ可能性②

「日本人の資質を日本列島という日本的風土で説明することも不可能なことではない。台風の定期的に来襲する地域に育った住民とそうでない地域に育った住民の気質の違いが、まず目につく。春夏秋冬の季節のはっきりした温暖な地域に育った人たちと、熱帯や寒帯に育った人たちの生活態度が異なることは当たり前のことである。また周囲を海に囲まれて島に育った人と、陸続きで絶えず戦乱にまき込まれた国に育った人とでは、外敵から受ける影響や外敵から自分たちを守る知恵に格段の差があることも充分に肯けることであろう。

 そういった意味では、イギリス人のおかれた位置と日本人のおかれた位置はよく似ているが、両者の国民性がよく似ているとはとてもいえない。同じように、ヨーロッパ人と中国人が似ているともいえない。やはりそれぞれの土地にそれぞれの風土的な特徴があり、また異なる社会環境と歴史がある。日本人は海に囲まれた島国に育っていることは間違いないけれども、文化的にはずっと中国からの一方的な輸入国であった。形の上では士農工商という区別も一通りできているが、細かいところを観察すると、中国の士は同じ士でも士大夫の士であり、隋唐の昔から官僚制度が発達し、今日でもその伝統が色濃く残っている。日本の士は武士の士であって、武力を持って天下国家を手に入れた連中がつい明治維新になる直前まで日本の国を統治してきた。権力は世襲によって受け継がれ、中国のように考試(試験)によって入れかえを強要されてはいない。

 どちらにも支配階級はあったが、世襲制の武士と、考試制の官僚では中身が大きく違う。大ざっぱな言い方だが、両者の間にはお役人と武士の違いがあり、それが西力東漸のプロセスで崩壊して一方は中華民国、続いて中華人民共和国になり、もう一方では今日のような日本の国ができあがった。そのプロセスで、両者の間できわ立った違いが生じたとすれば、それは中国人が士農工商の商の分野で次第に頭角を現わすようになったのに対して、日本人は工の分野でその才能を発揮するようになったことであろう。中国人を商人的性格の持ち主ととらえれば、わかりやすいように、日本人を職人気質の持ち主ととらえれば、日本の社会の成り立ち方や日本の経済の発展ぶりが容易に理解できる。

 一口でいえば、日本人は職人的気質の国民であり、中国人は商人的性格の国民である。職人は自分の仕事とか、仕事の出来栄えに対しては一家言を持っているが、それ以外のことについてはほとんど意見を吐かない。国際会議に出ている日本人の演説をきいて、日本人には主体性がないとか、自己主張がないという批判をよくきくが、職人に自己主張を期待するのはないものねだりであろう。職人は政治や外交についてはもともと関心がないし、意見もない。その代わり自分の守備範囲内の物のつくり方やできあがった製品の完成度に関しては、仕事熱心なだけに一家言も二家言も持っている。

 職人だから出しゃばらない。何事も親方の意見を尊重する。国際舞台においても、同じことがいえる。その代わり仕事の上ではよく勉強する。研究熱心でもある。同業者のやっていることにはふだんから気をつけているし、人のやっていることでもこれはいいと思えば、すぐにも取り入れる。自分が工夫したことでも惜しまずに人に教えるし、会社の金儲けのために応用する。だから、料理人でも、大工でも、機械工でも、コンピュータ技術者でも、世間を驚かすような大発明は滅多にやらないけれども、小さな改良や手直しを怠らないので、消費者が喜んでくれるような商品が次々とできてくる。

 小さな改良だからといってバカにしてはいけない。学問的にすぐれた画期的な大発明と、たゆまざる努力の集積である商品づくりと、どちらがお金になるかといえば、それは商品づくりである。日本が世界の金持ち国にのしあがった理由もそこにある。では職人の国と商人の国とどちらが有利であるかというと、こればかりは一長一短あって何ともいえない。

 日本人と競争して勝とうと思えば、どこの国でも、日本人よりもっとすぐれた職人を大量に訓練する以外に方法がない。そんなことはアメリカ人にも到底できない。中国人にもむずかしいだろう。その代わり、中国人には商才があるから、すぐれた職人のつくった商人を右から左に売ることによって利潤をあげることができる。また自分らで一級品をつくることはできないかもしれないが、それに似たような商品をうんと安いコストで、大量に生産することならできる。商才さえあれば、人はメシのタネに困らないものである。

 もちろん、職人もメシのタネには困らない。「宵越しの金は持たない」江戸っ子は、簡単にいえば職人のことである。どうして江戸っ子が宵越しの金を持たないですんだかというと、夜が明けると必ず仕事があって日銭(ひぜに)に困ることがなかったからである。明治以降、日本には会社ができて、会社が藩の役割を果たすようになった。戦後になると、社会全体が会社の連合体みたいな組織に昇華した。会社の中における社員の一人一人は職人気質だが、心情的にはサムライの集団である。根が職人だから親方のいうことをよくきく。しかし、心情的にはサムライだから、利益の追求をしながら、*1ゲゼルシャフトというより、*2ゲマインシャフトの体質を持っている。こういう集団が物づくりに励めば、その右に出る者はいないのは当たり前だろう。滅私奉公、生命を賭けて良い商品をつくり、利益の追求をするのだから。」

(邱永漢『中国人と日本人』)

*1ゲゼルシャフト…教育機能に特化した学校組織や生産機能に特化した企業組織など、共通の目的や利益を求めるために人為的に創られた集団。機能集団、利益社会。

*2ゲマインシャフト…家族集団、仲間集団、地域集団などの地縁や血縁に基づいて自然に成立している集団。共同体組織、共同社会。


「セールスらしいセールスをやったことのないヨーロッパやアメリカのメーカーがいくら日本人を批判してもあまりピンとこない。日本が閉鎖社会というのなら、まず日本国内でセールスをやってみてから言ったらどうだろうかと反論の一つもしたくなる。その点、日本人は基本的に職人だから、自分らのつくった物を自分らで売りに行く。商社や貿易商に代理をたのむことはあるが、その場合でも、自分らが必要としている原料や素材を仕入れてもらうか、つくりあげた製品を売ってもらうか、のどちらかである。日本人があまり商売人でない証拠に、商社でさえも、外国の商品を別の外国に売る商売にはほとんど携わっていない。

 もちろん、日本人が自分らのつくった商品を売り込むことについて仕事熱心なことはまぎれもない。海外に駐在する日本人が夜討ち朝駆けをいとわず、働きまくるのも定評のあるところである。その結果、自分らの領域がみるみるおかされるようになると、さすがのアメリカ人も肩をすぼめて競争を断念するようになり、「エコノミック・アニマル」という呼称を日本人に進呈するようになった。日本人が商売熱心なことは誰しも認めるところだが、はたして日本人がエコノミック・アニマルの名に値するかということになると、私には少しばかり異存がある。もしアニマルを単独行動する動物と群棲する動物に分類するとすれば、日本人は、グループ・アニマルと呼んでもおかしくない。グループで協力をして素晴らしい商品をつくり出す。それを世に送り出すことを経済的合理主義というのなら、日本人は経済的合理主義の追求者であることは間違いない。

 しかし、日本人はソロバン高くて打算的かときかれたら、答えはノーであろう。すぐお隣の中国人と比べても、日本人はずっと計算にうといし、利害打算で行動することも少ない。たとえば、日本には人材のスカウト業がない。そういう試みが全くないわけではないが、引き抜きをやっても応じない人が多い。一億円を目の前に並べられても、「お志は有難いのですが、いまの会社に恩義もありますし、居心地も結構よろしいですから」と断った例を私は知っている。自分らのつくった物を売ることには日本人は熱心だが、自分自身を売り込むことにはそれほど熱心ではないのである。それに比べると、中国人はお金に敏感で、その行動の動機はほとんど九〇%までがお金であると思ってもそんなに間違っていない。

 中国人社会では社会全体がソロバンずくでできているから、引き抜くほうも当り前と思っているし、引き抜きに応ずるほうも臆面もない。それをやられたくないと思えば、ふだんからそうした場面も想定して、重要な幹部は株主の一員に加えるとか、何らかの利益でしばりつけておかなければならない。何とも味気ない話と思うかもしれないが、世の中がそういう具合にできている以上、それなりの対策が必要になる。とてもたいへんなことのようであっても、お金で大半のことが片づいてしまうのだからかえって御しやすい面もあるのである。

 かつてアダム・スミスは、人間はお金を動機にして行動するものだという想定のもとに、ホモ・エコノミクスというコンセプトをつくりあげた。このコンセプトをもとにして今日の経済学ができあがったと言ってもよい。私は中国人の行動を見ていて、もしかしたら、アダム・スミスは中国人をモデルにしてホモ・エコノミクスというコンセプトを得たのではないかと思っている。もし日本人がエコノミック・アニマルだとしたら、さしずめ中国人はホモ・エコノミクス以外の何者でもないだろう。それほど中国人は経済人間であり、お金を行動の基準にして生きているようなところがある。」

(邱永漢『中国人と日本人』)



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「日韓中三国比較文化論③」

2、「義人」韓国の深情と適当さ~「教育大国」の底力と進取の気性➀

「韓国文化」~「辛味」、コチュジャン、「錦上添花」(スイカに砂糖をかける)、オンドル。感情を剥き出しにする強い個性を表現し、自己を抑制しない気質。絶対的イデオロギーが支配する「イデオロギー社会」(儒教、血縁主義)。土の文化。奇数文化。半島文化。「ウリナラ」(我々の国)思想。「教える」文化。留学のために「教育移民」も辞さない教育熱。移民後、3年で家が建たないと無能とされる勤勉さと進取の気性。

「日本人は『韓国系美人がいちばん美しい!』とまるで口癖のように言う。顔はやっぱり韓国女性が美しいと称賛するのだ。しかしこれは何も韓国人をおだてたり、耳に心地よく響かせようとするお世辞ではなく、心底から出てくる言葉のようだ。・・・

日本人には普遍的に韓国美人がいちばん美しいという定評がある。肌にしても韓国系女性が東洋のみならず世界的にもいちばん質が高いという、神話ならぬ神話が日本社会の中に広く知れ渡っている。ところがわたしは、きめ細やかな肌が白く柔らかくという話には納得がいくが、韓国美人がもっとも美しいという話は必ずしも承認できるわけではない。・・・

まずわたしは韓国女性がきれいに見えるのは、それだけ美容に神経を使い、化粧を一所懸命にするからだと思う。

日本の伝統的な芸妓や歌舞伎役者の厚くべったりと白塗りをしたかのような顔を見て、日本女性の化粧も濃いのだろうと錯覚することが多いが、実際日本女性は厚化粧を嫌っている。厚化粧が好きなのはむしろ韓国女性のほうだ。韓国女性の化粧への情熱は、東洋三国の中ではダントツだ。わたしはこんにちまで幼い少女から六十代以上のお婆さんに至るまで、あるいは家庭の主婦からOLまで、おびただしい数の韓国女性を見てきた。その誰もが一様にたいへんな情熱を傾けることが最大の特徴である。

いわば韓国社会には『美人』、つまり顔がきれいであることを非常に意識して、美人であることを一つの価値として高く評価してくれる社会的雰囲気があるようだ。日本にもそのような社会的雰囲気があるにはあるが、きわめて微弱である。

韓国には『女は顔がきれいでなければならない』という観念すらあるほどだ。それゆえ女性であれば誰もが化粧を怠ることなく、見かけを取り繕うのに特別な情熱を傾けるわけだ。何としてでもまずい部分を隠し、秀でた部分を目立たせようとする努力の仕掛けが、まさしく濃い化粧術だといえる。わたしはこれを文字通り『濃粧型』と名付けたい。

これと対照的に日本は『淡粧型』となる。化粧をするかしないかぐらいにさらりとする。まずい部分を特別に化粧で覆い隠したり、秀でた部分を目立たせようとする努力はあまりしないようだ。

韓国女性は容貌に対する弱点を隠しとおせないときは、必ず整形手術をするという話まである。ブスはきれいに見せようと整形手術をして、美人はさらに個性溢れる容貌へと変身するために、何の躊躇もなく整形外科のもとに駆け込む。」

(金文学『日本人・中国人・韓国人―新東洋三国比較文化論』)


「中国と韓国の母親たちは子供の勉強、学力に対する執着度が相当高く、いつでもどこでも『一等』をとらねばならず、他人に負けてはならないという『第一主義』、絶対的期待が強い。反面、日本の母親たちは学力や勉強よりも日常生活の習慣、とくに公衆道徳、礼儀礼節、独立能力の育成に力を注ぐといえる。」

(金文学『日本人・中国人・韓国人―新東洋三国比較文化論』)


「日本語のあいさつに「いいお天気ですねえ」というのがありますが、これも韓国語にはありません。日本は雨が非常に多く、365日のうちで東京と大阪で1mm以上の雨が降った日を数えたら、年間191日もあったと新聞にありました。言ってみれば、1年の半分以上が雨です。こんな気候の日本ですから、晴れる日が待ち遠しく、それが「いいお天気ですね」というあいさつになるのだと思います。

 私がNHKの国際局でアナウンサーをしていたころ、よく地方との中継放送がありました、「それではここで広島につないでみましょう」と言って広島が出ると、横にいるディレクターが「天気を聞け、天気を聞け」とせかします。「東京は肌寒いお天気ですが、広島はどうですか」と聞くと、「広島はぽかぽかして暖かいですよ」と返事が返ってきて、おさまるわけです。次にソウルとの中継になるのですが、またディレクターが「天気を聞け」と言います。「お天気はどうですか」「ソウルの空は青く晴れ渡っています」とのやりとりの後、さらにリスナーとつながると、ディレクターがまた「天気を聞け」と言うのです。日本人が聞いている分には問題ないのですが、韓国人には異様に聞こえるのでしょう。後から手紙が来ます。「日本人はどうしてそんなに天気のことを気にするのですか」。

 韓国人が天気を人に聞くときは「いつ晴れるか」ではなく「いつ雨が降るか」が気になって聞くのです。年間降水量が日本の半分の韓国では、この聞き方が自然なのです。一方、晴れる日が待ち遠しい日本では、「晴れ」はすばらしいことなので、晴れた日を表す言葉が実に豊富です。「日本晴れ」に始まって、「五月晴れ」「秋晴れ」「夕晴れ」に「天晴(あっぱれ)」。また、「晴れ晴れとした表情」とか「晴れて2人は結ばれた」などという表現もあり、晴れることが最高の幸福を表しているかのようです。こういう表現は、韓国語には見られません。日本独特の気候から生まれた言葉だと思います。

 気候といえば、日本人はあいさつや生活だけでなく、その性格まで天気から実に大きな影響を受けているようです。これもNHKにいたときのことですが、解説番組で、日本人は世界一辛抱強い国民ではないかという話がありました。信号が待ちきれずに、横の信号が黄色になったらもう渡りはじめる人もいるので、私はそのとおりだなと思いながら、これを韓国語に翻訳しました。

 そのころ、駅までバスで20分ほどのところに引っ越したのですが、冬の寒い日にバスを待っていても、なかなか来ないのです。そんなとき、私はイライラして、すぐにタクシーに乗って帰ったりしたものです。しかし、他の人たちをよく見てみると、みんな黙ってじーっとバスを待っています。韓国人に比べれば、はるかに辛抱強い。そのときから、日本人の辛抱強さに目をやり始めたところ、反対に日本人は世界一せっかちな民族ではないかとさえ思うようになりました。

 日本では子供のときから、我慢しろ、辛抱しろと育てられ、しつけられることもあって、我慢するということが日本人の基本になっているように思いますが、これは、しつけとか教育と言う以前に、私は気候の影響だと思っています。たとえば梅雨は日本人には避けられないわけで、エアコンなどがなかったころは、窓を開けて、うちわで扇(あお)ぐぐらいしかなかったわけです。窓を開けても風が吹いてくれなければ、あきらめてじっと我慢するしかありません。中には、梅雨時になったら雨戸を閉めて、電気をつけて本を読むのが楽しいという人もいるわけです。だから我慢強さは韓国人には真似できないというのが私の持論です。

 韓国ではどうかというと、どんなに暑いときでも、日向(ひなた)から逃れて木陰や家の中に入ると涼しいのです。逃げ場があるわけです。それで韓国人は何かにつけて逃げ場を求めながらキョロキョロと生活しているのです。

(金裕鴻『韓国がわかる。ハングルは楽しい!』)


「東海の小島の磯の白砂に

 われ泣きぬれて

 蟹とたはむる

 石川啄木のこの短歌は、日本文学をよく知らない韓国人にも広く知られています。しかも反日感情の強い人々にも愛誦されているものです。あながち帝国主義的な侵略性が内包されていない、という理由からだけではなさそうです。島流しにあったような、ひとりぼっちの悲しみは、なにも日本人特有の感情とはいえないでしょう。啄木のセンチメンタリズムは、日本人よりはむしろ国を喪った植民地時代の韓国人に大いにアピールする力があったのかもしれません。

 それなのに、啄木のこの短歌は依然として玄界灘ほどの距離があり、そのため絶対に韓国の詩にはなりえない日本人の詩という感じがします。三十一音のこの短い歌のなかには、日本特有の語彙や民族的な差異を感じさせるなにか特別な歴史的・社会的背景は見受けられません。しいていうなら、島国の地理的な特性を間接的にあらわしたその歌の舞台を指摘もできましょうが、なにも小島は日本だけのものとはいえません。韓国も半島ですから、そういう小島は無数にあり、すこしも目新しい歌の舞台ではありません。

 とすると、いったい何がこの歌を日本的なものと感じさせるのでしょうか。すでにのべたように、それは単語の持つ個々の意味や、それが表現している表面的な情緒の差異から来るものではありません。この歌を形成している構造、もうすこし直截にいえば、構文上の特性のため、といえましょう。その証拠に啄木のこの歌を韓国語に訳すときに、最大の難点となるのは、「の」が重複している点です。

 「東海の小島の磯の白砂に…」のくだりには、なんと「の」がサンドイッチのように三重に重なっています。四つの名詞が「の」の助詞だけで連結されている、そういう奇怪の文章は、韓国の場合、散文にしても詩にしても、どこにも見あたりません。ですからこの短歌を韓国語に訳すには、その構文形式そのものを変えないわけにはいかないのです。そうなると、それはもはや詩ではなくなります。

 これまで韓国語と日本語の統辞構造はほぼ同じだから、別に問題にならないと考えられてきました。ただ両国の言語はその語彙が異なるだけで、言語の特色もおもにこの点から考察されてきただけでした。つまり、単語さえ置きかえれば、日本語は韓国語になり、韓国語は日本語になる。その点、同じ外国語でも、英語のような印欧語や中国語に対するときとは違ってくる、ということです。しかし、啄木の歌に見られるように、個々の語彙よりはそれをつなぐ構文上の形態が、ときおり違った特性を示していることに注目しなければなりません。

 ひところ、日本語をよく知らぬ韓国の若者の間で流行ったジョークのひとつにも、そういう点を直感的に表現したものがあります。日本の時計はいくら精巧に作っても、韓国製のよりいつも数分ずつ遅れるというのが、それです。韓国製は「チクタク、チクタク」と時を刻むのに、日本製は「チクのタクの、チクのタクの」といっているからだというのです。

 この冗談は、日本人が片言の韓国語を話すとき、語と語の間に韓国語には不必要な「の」をよくはさむことから来たものですけれど、韓国語と日本語の差異を、たんなる語彙のレベルでなく統辞的な特徴として捉えた、大衆的な直感力の産物であるともいえます。その構文上の違いを端的に示しているのが、この「の」の助詞法なのです。ですから、「東海の……」の啄木の短歌を知らない子供たちの間でも、韓国語に「の」をくっつけて話すだけで、それが日本語のマネとして通用しているほどです。

 実証的にいってそうです。日本語では「ほしひかり」とはいいません。「ほしのひかり」であり、「ホタルのひかり」であり、「むしのこえ」です。しかし、韓国語では「별(ビョル、星)의(ウィ、の)빛(ピッ、光)」とは絶対にいわず「の(의)」をとってただ「ホシヒカリ(별빛)」といいます。「ホタルのひかり」「むしのこえ」にしても同様です。」

(李御寧『「縮み」志向の日本人』)



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「日韓中三国比較文化論④」

2、「義人」韓国の深情と適当さ~「教育大国」の底力と進取の気性②

「ワサビと唐辛子は、それぞれ日本と韓国を代表する香辛料である。

 以前にも書いたことがあるが、このふたつの香辛料が人体に及ぼす作用は、実に見事に両国の国民性を物語っていて、感心させられてしまう。

 私は、たまたま日本のテレビ番組を見ていてそのことを知ったのだが、そこでは、ワサビを食べたときと、唐辛子を食べたときの体内の血液循環のあり方を中心に、次のような違いがみられるとb紹介されていた。

 ワサビを食べたときの血液は、とくに心臓のほうへの偏(かたよ)りをみせる。そのため、鎮静作用が働いて、精神に落ち着きをもたらしてくれる。一方、唐辛子を食べたときの血液は、ワサビの場合とは違って、頭部のほうへの偏りをみせる。それが神経に刺激を与え、血液の循環をよくすると同時に、精神的に興奮しやすい作用を生み出している、というのだ。

 私は、思わず「なるほど」とうなずいたものである。

「物静かな日本人」に対して「カッカとしやすい韓国人」。

「鎮静」を好む日本に対して、「興奮」を好む韓国……。たしかに、そんな対比のできそうな両国の国民性は、香辛料の好みにまで及んでいる、ということなのだろうか。

 ワサビも唐辛子、「辛い」ということでは同じだが、辛さの質には大きな違いがある。

 ワサビは、身体の内側にジーンと染(し)みわたるような辛さ。唐辛子は、頭のてっぺんからカーッと立ちのぼるような辛さ。「吸収」と「発散」のイメージなのだ。

 ワサビの辛さに耐えているスタイルは、下を向いてきつく目をつむり、目頭を親指と人差し指で押さえて、唇を固く締めつけるように口を結び、「ウーン」と唸(うな)る、といったあんばい。

 唐辛子の場合は、目も口もカッと開いて舌を出し、息をハーハーと吐くという感じ。

 ワサビでは辛さを抱きかかえるようにして身を閉じるが、唐辛子では、辛さを発散させようとして身を開く。

 ワサビは、辛いという体感を内部に受け入れさせようと働き、唐辛子は辛いという体感を外部に出させようと働く。

 この働きが、それぞれの「食」の楽しみを生み出しているようにも思える。

 私には、そこが面白い。ここでもまた、両国の国民性の違いが巧(たく)みに語られているような感じがするからである。

 ワサビの辛さは「受け身」の姿勢を、唐辛子の辛さは「能動」の姿勢をイメージさせる。

 実際、日本人は、つねに自分を「受け身の立場」に置こうとする傾向が強いし、韓国人は、つねに自分が「能動の位置」に立とうとする傾向が強い。まさに正反対なのである。

 もうひとつ、ワサビの辛さは鼻にツンと来て涙が出るが、それは一瞬で消え去る。一方、唐辛子の辛さのほうは、料理を全部食べ終わった後でも、まだ汗が引かないほど長続きする。

 これも淡泊であっさりした日本人と、粘り強く持続力のある韓国人を象徴しているかのようだ。そんな具合に、ワサビと唐辛子に重ねた日韓の話は尽きない。」

(呉善花『ワサビの日本人と唐辛子の韓国人』)


「自宅に遊びに来た日本人の友人と、お茶を飲みながらテレビを見ていると、たまたま広島アジア大会の日本対韓国の女子バレーボールの試合(一九九四年一〇月六日)が始まった。

 両国とも二セットずつを取り、ゲームは勝負を懸(か)けた第五セットへともつれこんだ。

 それまでは、「どちらもよくやるわね」などと余裕をみせていたものの、ここまでくると、二人とも興奮を隠せない。

 私も彼女も「ガンバレ、ガンバレ」と、自分の国のチームを必死になって応援する。

 この、彼女との応援合戦が面白かった。

 熱の入ってきた私は、「イギョラ、イギョラ(勝て、勝て)」と韓国語で声を張り上げ、彼女のほうも力が入っている様子、ところが、彼女は、「ガンバレ」からやがて「負けるな」と応援しだしたのである。

「負けるな」って?そんな気の抜けた応援ってあるのかなと思っていると、彼女はさらに、両手のこぶしを握(にぎ)りしめながら、「勝たせて!」と叫(さけ)んでいる。

 試合が終わってから、彼女に聞いてみた。

「韓国ではイギョラ、つまり『勝て』って応援するけど、日本では『負けるな』って応援するの?そんな消極的な言い方で、力は入るの?」

「そうか、あなたが叫んでたのは『勝て』なのか。日本では、まず『勝て』とは応援しないと思うなあ。『負けるな』のほうがお腹にぐっと力が入るもの」

 へえー、力が入るのか、と感心しながら、それから……と、また私は聞いた。

「あなた、『勝たせて!』って叫んでたでしょう、あれは誰に向かって言ってるの?」

「誰って……韓国のチームにとか、神様にとか?とくにそういう意識はないけど、まあ何かに祈るような気持ちなのね」

 なるほど、彼女もやっぱり日本人なんだなあと、当り前のことにいまさらながら感心してしまった。

 自分が応援するチームに勝たせたいわけだから、「勝て」と応援するのが自然でしょ?「負けるな」なんて、いかにも弱気だし、「勝たせて!」となると、もう応援放棄と同じじゃないの、というのが私の率直な感想。

 そう言うと、彼女も「たしかにそう言われればそうねえ」と不思議がっている。

 こちらが「勝て」と応援しているのに、「負けるな」と返される、なんだか拍子抜けしてしまう。「勝て」と「勝て」のぶつかり合いであってこそ、応援合戦になろうというもの。

「負けるな」とこられると、受け身一方の弱い者に対しているみたいで、なんだかガックリきてしまうのだ。

 私と彼女の応援合戦に象徴的に表れているように、日本人は、「勝て」という具合に、攻撃的な姿勢に出ずに、スッと「負けるな」と受け身に回る。

 “自分の意志をあらわにして、相手の意志と対抗する”ことを避けようとする、そういう感じなのである。

 日本人と話をしていると、そんな表現に出会うのはしょっちゅうのことだ。そういう中でも、最も象徴的なのが、日本人の受け身形の多用である。

 韓国語には、そもそも受け身形の語法がないから、特にそう感じることにもなるのだが、日本語ほど受け身形を多用する言葉はない。また、西洋の言葉には受け身形があるけれど、日本語のように頻繁に使われることはない。

 日本語の受け身形については、『スカートの風』(三交社刊)でも述べたことがあるが、たとえば、「あなたにそう言われるとつらい」といった言い方。

 こういう言い方は、日本語独特のものではないかと思う。韓国語の場合は「言う」の受け身形がないから、「あなたがそう言うとつらい」と能動形になる。他の国でも、まずここは能動形を使うのが普通だろう。

「あなたがそう言うとつらい」と言えば、どこか「だから、あなたが悪い」というニュアンスを含むから、やや大げさに言えば、相手の意志と自分の意志が対抗関係に入ってしまう。それを「あなたにそう言われるとつらい」と言えば、そのへんはグッとソフトになってくる。

 また「泥棒に入られた」という言い方。これも日本語特有の使い方である。

 泥棒が悪いというよりも、入られた自分に問題があるというニュアンスなのである。韓国語ではもちろんのこと、英語でも「泥棒が私の家に入った」と、泥棒を主語にして使うのが普通だ。

「亭主に逃げられた」でも「女房に逃げられた」でも同じこと。

 日本語では、なぜ、逃げた相手を主語にして、相手を非難するような言い方をしないのか、私はずっと不思議でならなかった。」

(呉善花『ワサビの日本人と唐辛子の韓国人』)



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「日韓中三国比較文化論⑤」

2、「義人」韓国の深情と適当さ~「教育大国」の底力と進取の気性③

「日本人に顕著な受け身姿勢は、言葉の用法だけではなく、発想そのものについても言うことができる。

 たとえば、謙遜(けんそん)の姿勢を示そうとする場合、しばしば出てくるのが「お蔭(かげ)さま」という発想。

 誰がみても、その人個人の力で目的を達成したと思えるのに、その人自身は「みなさんのお蔭でなし遂(と)げることができました」とか「まわりの力のお蔭です」という受け身の位置に立とうとする。もちろん、そのように謙遜した言い方はどこの国にもある。ただ、日本人の場合は、外国人からみれば「ちょっと言いすぎ」と思えるほど多用されるのだ。

 久し振りに会った日本人ビジネスマンに私が聞く。

「お仕事のほうはどうですか?」

「いや、お蔭さまで……」

 この場合の「お蔭」は私の力なのか、会社の周囲の力なのか、景気のせいなのか、それとも神さまなのか、いつもはっきりしていない。そこに、「お蔭」という言葉の独特な働きがある。

 韓国語には「お蔭」という言葉はないが、「徳鐸(とくたく)で(徳鐸を得て)」というのがある。

 徳鐸とは恵や恩沢(おんたく)の意味だが、それは具体的な他者から得られるもので、日本語の「お蔭」のように、目に見えない得体の知れない力までは含んでいない。それに、日本人のように、まるで自己を否定するような言い方はなく、逆に自力を強調することのほうが多い。

 韓国でも「熟した稲は頭を下げる」(穂を垂(た)れる)と言うし、謙遜の美徳を強調する。

 しかし、日本人のように何か全面的に自分を否定したような言い方をされると、こちらのほうが心苦しくなってしまう。

 韓国人ならば、自分の力を誇(ほこ)ってくれたほうが安心できるものである。

 韓国人は「日本人のように謙遜しすぎるのは傲慢(ごうまん)だ」とよく言う。韓国人ならば、誰々の力添えがあって、それに自分の努力や能力がプラスされて成功した、というようにバランスを取るものだ。しかし、日本人の言い方では、ほとんど一方的に「お蔭」が強調される言い方となる。それが韓国人の目には、かえって傲慢と映(うつ)るのである。

 あるとき、知り合いの日本人ビジネスマンに、こんなふうに聞いてみたことがある。

「Aさんは自分の能力をアピールすることをまったくしませんね。だから、BさんやCさんなどは、あなたがすごい実力の持ち主だなんて、まったく気がついていませんよ。そういうことって、悔(くや)しいとは思いませんか?」

 Aさんは、さまざまな事業プロジェクトを立案して、数々の成功を収めている優秀な企画マンで、多方面にわたって百科事典なみの知識のある人だ。長いつき合いなのだが、Aさんは私の前でも他人の前でも、いつも必要以上のことを話さず、自分の業績を話すにしても、実に客観的なのである。

 私は「あれでは、Aさんの能力がどれだけのものかを、まわりの人たちに知ってもらえないだろう、そういう意味では損しているのではないか」と、いつも思っていた。

 Aさんは、私の質問にキョトンとした顔をしてから、こんなふうに答えた。

「そう言っていただけると嬉(うれ)しいですけどね。日本の社会はネットワーク社会だから、能力のある人間なのかどうかは、まわりが決めることなんですよ。ほんとうに力があるんなら、それは、わかる人にはわかってるわけですから……」

 自分の力があるのかどうかは、まわりが決めること。

 それならば、力を認めたまわりの者が褒(ほ)めてあげればいいかと言えば、これも限度を考えて褒めなくてはならない。ひとつには、本人が恐縮するからだが、褒めすぎると失礼になるからでもある。

 この、どこまでが相手を恐縮させ、どこからが失礼にあたるかの判断がむずかしい。

 ある女性と初めて会った席で、飛び抜けて綺麗(きれい)な人だったので、私は「とても美しい方ですね」と声をかけた。彼女はニッコリと笑って、ひとこと「ありがとうございます」と軽く頭を下げる。私としては、これではまだ足りない気分で、あなたのような人ならどうとかこうとか、いろいろ言うと、彼女はパッと話題を切り換えてしまう。その後、何を言ったいいか迷ってしまったことがある。

 これに似た経験は、ほかにもたくさんある。

 日本人は、褒められすぎることによって、”相手との差”ができてしまうことが嫌なのだ。また、自分だけが褒められるとなると、周囲から自分浮いてしまい、仲間の輪から外(はず)れることにもなりかねない。

 謙虚な態度は美しいが、自分の力を誇示する態度は醜(みにく)いものだ……。そんな美意識はどんな民族にもある。でも、日本人の場合には、それをいちいち謙虚と言っていては、きりがないほどだ。

 日本では、それをとくによい態度というよりは、むしろ普通の態度なのである。

(呉善花『ワサビの日本人と唐辛子(とうがらし)の韓国人』)」


「そもそも、「お蔭」という言葉はどこからきているのだろうか?

 目に見えない蔭の力、背景の力なのだろうと思うが、それに尊敬の「お」がついている。さらには「お蔭さま」と「さま」までつくことも多い。とすると、「お蔭」とは何か超越的な聖なる力なのかもしれない。

 元来、「お蔭」といえば「神さまのお蔭」だったようで、そもそも「蔭」という言葉自体に、目に見えない力、父祖などの霊の力などの意味があるという。

 目に見えないということからすれば、「お蔭」は「縁」とも似ている。

 仕事仲間やグループなど、長期の人間関係を必要とする場所では、その結びつきについて、しばしば「何かの縁があった」ということが言われる。それは、会社の上司と部下の間柄でもよく使われているように思う。

 ある日本企業の部長と若手社員と私の三人で食事をする機会があった。用件が終わると、ずいぶんとくつろいだ場となって、あれやこれやの雑談となった。

 そんな中、部長が部下の若手社員を指しながら、こんなふうに言う。

「彼はどうしようもないヤツなんですよ、前の晩飲みすぎて翌日会社をサボることなんかもよくあるんですね。でも、仕事はよくやるし、憎めないヤツでね、彼とはなんか不思議な縁があるんですなあ」

 不思議な縁といっても、とくに何かがあるわけではない。「不思議な縁があってしかるべきだ」ということなのである。

 たまたま同じ会社になったにすぎず、身近なところにいるから仲よくなる可能性が高いのは言うまでもないこと。それなのに、「縁」という言葉と結びつけようとしている。なぜそこまで結びつけようとするのだろうか。

 韓国でも「服の裾が擦(す)れあっても因縁がある」(日本では「袖振りあうも多生の縁」)という話をよくするし、「縁」は大事なものだと言う。

 でも、「縁」と言えばだいたいは男女関係や友人関係などの、個人的な人間関係の場合に多く使う。韓国では、仕事上の関係ではそれほど耳にするものではない。

 日本人は仕事を中心とした人間関係を、あたかも宿命的な出会いによるものかのようにイメージしていると思える。そこに「縁」が感じられてくるのだろうか。

 日本的な終身雇用制のシステムの影響が大きいとは思うが、それよりも、自分が置かれている環境を、できるだけ自然なものとして肯定的に受け入れようとする気持ちのほうが強いと思う。

 「縁」の発想もまた「お蔭」の発想と同じように、運命のように“抵抗しがたい力”に対する受け身志向を示すものだ。ほとんど、目に見えない力に対する信仰、「お蔭」信仰、「縁」信仰と言ってよいものだと思う。

 この“抵抗しがたい力”とはいったい何なんだろうか。

 私はそれを「自然力」だと思っている。この「自然力」に対する日本人の姿勢をよく表わしたものとして、私には次の言葉がとても印象的である。

  「西洋の文明は積極的、進取的かもしれないが、つまり不満足で一生をくらす人の作った文明さ。日本の文明は自分以外の状態を変化させて満足を求めるのじゃない。西洋と大いに違うところは、根本的に周囲の境遇は動かすべからざるものと云う一大仮定の下に発達しているのだ……山があって隣国へ行かれなければ、山を崩すといふ考を起こす代りに、隣国へ行かんでも困らないと云う工夫をする。山を越さなくとも満足だといふ心持ちを養成するのだ」(夏目漱石(なつめそうせき)『吾輩は猫である』)

 ここには、「自然力」に対する徹底した“受け身”の姿勢をみることができる。

 もちろん、「自然力」とは、単に天然自然の力のことだけではない。

 「お蔭」や「縁」のように、何か抗しがたい力や法則のようなものであり、すべてを決定する大きな流れのような力である。

(呉善花『ワサビの日本人と唐辛子(とうがらし)の韓国人』)」



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「日韓中三国比較文化論⑥」

3、「才人」日本の理知と集団性~宗教紛争・民族紛争を免れた稀有のポジション➀

「日本文化」~「酸味」、梅干、「融合調和」(スイカに塩をかける)、畳。自身を適当に抑制しつつ、相手に同調し、協力する融合的気質。絶対的イデオロギーは存在せず、相対的思考が発達した、柔軟性に富んだ社会。木の文化。奇数文化。島国文化。「恥」の文化。「学ぶ」文化。宗教紛争・民族紛争を歴史的に免れているため、「外交大国」になる可能性。

「アメリカの広い家に暮らして、イギリスのロールスロイスを乗り回し、中国人の料理師を雇い、日本の女を妻にする。」

(理想的な人生に関する格言)

「イギリス人が詩を作り、フランス人が作曲して、ドイツ人が演奏して、イタリア人が歌を歌う。そしてアメリカ人が金を出して聴くのだが、日本人は拍手ばかりして何度も『アンコール』を催促するだけ。」

(日本人の模倣文化と創造性の欠如を皮肉ったジョーク)

「日本に初めてやってきた訪問客や来日して間もない韓国人・中国人留学生に日本と日本人の印象を尋ねると、十人中九人は『清潔だ』と答える。・・・韓国と中国には、『あまりにも洗って磨きすぎると福が逃げる』という諺があるが、福が逃げるとその穴から病が侵入してくるという言葉もある。・・・何事にも精密さにこだわり徹底的に消毒しなくては気がすまない日本人の性格が生んだものは、まさに周辺に雑菌ひとつ存在することを許さないような強迫観念だといえる。

中国は国土が広く、気候が多様で強風が吹き荒れるので、環境と清潔さには無感覚だ。『適当に』を好む中国人の考え方は、このような自然状態から生まれたものといえる。清潔さにおいても、ただ『適当に』すればいいという習慣が支配しているために、とりたてて衛生に神経を使うほどの余裕がないのだろう。」

(金文学『日本人・中国人・韓国人―新東洋三国比較文化論』)


「数千を数える世界の言語の中で、日本語の特徴は?他言語の世界から見たら、驚異以外の何物でもない、それが日本語における文字のありようです。人文学の世界では、<書かれたもの>や<書くこと>を<エクリチュール>ということばで表すことがあります。フランス語からとり入れた外来語ですが、文字によって書かれるさまざまな営みを考えるのに、なかなか便利に使われています。

 日本語の世界は、まさにエクリチュールの驚異と言ってよい。文字を用いるありようが、実に多彩、まさに絢爛豪華なゴシック建築とも言えそうな、巨大なエクリチュールの空間となっています。

 仮名、漢字。万葉仮名に変体仮名。アラビアではインド数字と言っている、アラビア数字の1、2、3。ローマ数字のⅠ、Ⅱ、Ⅲ。もひとつおまけに漢数字。ラテン文字、別名ローマ字abc、大文字小文字入り乱れ、忘れてならないギリシャ文字、α(アルファ)、β(ベータ)、γ(ガンマ)、δ(デルタ)の大文字は、聞かれて難しΩ(オメガ)かな。振り仮名、読み仮名、送り仮名。音読み、訓読み、音訓を、並べて読めば、重箱読み、訓音並べて湯桶読み。修行、言行、行脚行く。呉音、漢音、唐宋音。縦書き、横書き、散らし書き。明朝、ゴシック、勘亭流。王羲之、仮名書に、ペン習字。

 仮名や漢字やアラビア数字を用いるだけならともかく、漢字の読みも幾通りもあり、さらに<書>という芸術まであります。

 このように日本語の世界は、およそ文字に関しては、絢爛たる文字の群雄割拠大聖堂(カテドラル)とも言うべき様相を呈しています。上代からの様々な文字の仕様と使用が生き生きと保存されています。日本文字列島はまさに文字のガラパゴス列島と言えるでしょう。おお、誤解なきよう。これは「ガラケー」=「ガラパゴス携帯」などのように卑下して言うのではありません。言ってみれば、文字をめぐる世界遺産が活火山のように今も息づいている驚異の象徴です。」

(野間秀樹『日本語とハングル』)


「よく知られているように、日本語がパワフルな外国語に接触するのは英語が初めてではない。かつて遣隋使、遣唐使を日本に送り込んだ日本は、積極的に中国から知識技術を取り入れた。その際に当然の成り行きとして中国語の波を受けたが、平安中期からは国風文化を開花させ、見事に「和魂漢才」(菅原道真)の思想で切り抜けてみせた。その実績を忘れてはいけない。日本語の懐の深さと消化力はすでに証明済みなのである。

 ここで立ち止まって、日本語が中国語からいかに大きな影響を受けたかを想像してみよう。日本の表記システムは漢文との接触がなければありえなかった。漢字、それから漢字を材料として作られた平仮名とカタカナ。表記法のみならず、現代日本語の語彙のほぼ半数は漢語である。その中で著しく多い音読み二字の漢語を日本人は積極的に取り込み、また明治期には西洋文明を受け入れる目的で新たに創作もしたが、その結果、日本語はどうなったか。亡びも弱体化もせずに、逆に豊かになったのである。また、第二次世界大戦後には英語から多くのカタカナ語が入ったが、それでも日本語はびくともしなかった。

 この史実を思い返すとき、私は二つのことを想起する。

 一つは、決してこちらからは攻撃せず、ひたすら護身を旨とする格闘技、つまり合気道のことだ。向かう相手の力を利用して制御し、身を守る。合気道は、「受けて立ち、そして勝つ」という点で横綱相撲に似ている。

 もう一つ想起するのは名著『梅干と日本刀』(一九七四)で樋口清之が紹介している「堀川の知恵」である。関東大震災クラスの地震が起きて、東京湾に津波が押し寄せるという可能性が現在でも決して小さいものではない。ところが、江戸時代と比べて現在の方が危険だと樋口は指摘するのである。

 江戸時代には、津波という巨大なエネルギーを吸収し、拡散させる素晴らしい仕組みがあった。それが江戸市内の至るところに流れていた「堀川」である。堀川が潮の勢いを吸い取っていたのである。先にあげた合気道の発想となんと似ていることだろう。

 押し寄せる高潮のエネルギーは堀川(例えば築地から歌舞伎座あたりを流れていた「三十間堀川」(さんじっけんほりがわ))をクッションとして引き込み、そうして持ち込まれた海水を今度は速やかに海へ送り返した。堀川は海水の退路でもあったのである(「三十間堀川」とは幅が約三〇間〔約五五m〕あったための命名である)。

 こうした堀川は、「日本人の自然に対する順応の知恵の優れた例」(樋口・前掲書)である。しかし、これらはその後どうなったか。東京にもはや三十間堀川は存在しない。第二次大戦後、交通の便や土地の不足のためと称して埋められてしまったからである。一九五二(昭和二七)年には埋立が完了して、水路としての三十間堀川は完全に消滅してしまった。八丁堀なども同じ運命を辿ったが、こちらはかろうじて東京の地名として残っている。地下鉄日比谷線の駅名でもある。

 堀川の代わりに戦後に登場したのが堤防であるが、樋口は、堤防と堀川を比較して、堀川の方がずっとよかったと結論づける。「堀川を埋めてしまったことのツケが、必ず来るような気がしてならない」からだ。いくら堤防を高くしても、それを越えるほどの高潮が来ないという保証はない。一九九五年に想定マグニチュードを超える地震が兵庫県を襲って阪神高速道路神戸神戸線を倒壊させたことはまだ記憶に新しい。

 ありがたいことに日本語は堤防ではなく柔構造の堀川である。」

(金谷武洋『日本語は亡びない』)



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「日韓中三国比較文化論⑦」

3、「才人」日本の理知と集団性~宗教紛争・民族紛争を免れた稀有のポジション②

「日本人は、論理よりも感情を楽しみ、論理よりも感情をことのほか愛するのである。少なくとも、社会生活において、日本人はインテリを含めて、西欧やインドの人々がするような、日常生活において、論理のゲームを無限に楽しむという習慣をもっていない。

 論理は、本や講義のなかにあり、研究室にあり、弁護士の仕事のなかにあるのであって、サロンや喫茶室や、食卓や酒席には存在しない。そうしたところでは、論理をだせば理屈っぽい話としてさけられ、理屈っぽい人は遠ざけられる。

 ノーベル賞を受賞された朝永(ともなが)博士がいつかこんなことを書いていらした。

ーー外国の物理学者は、食事をしている時でも、酒を飲んでいる時でも、すぐに物理のディスカッションを始め、紙と鉛筆を出して式を書き、まるで何か憑(つ)かれた人という感じで、こちらはとてもついて行けない、と。

私も外国生活になれない頃は、彼らが食事中にも、団欒(だんらん)のサロンでも、たいへん頭脳を使う話をするので、閉口したことである。また反対に、日本に来た外国のインテリは、日本人がお酒を飲みだすと、手をとどかない遠い所に行ってしまう、と取り残される寂しさを味わうのである。

ある中国人は、日本人のこの姿を見るにつけ、あのように無防備で楽しむことができる日本人は羨ましい、といった。あるアメリカ人は、日本の実業家がアメリカの実業家同様忙しいにもかかわらず、ハート・アタックで亡くなる率がずっと少ないのは、馬鹿話のできる酒席の時間というものをもっている故にちがいないと考えている。

論理のない世界に遊ぶーーしかもそれがきわめて容易に日常生活の場で行なわれ、それが公的な関係にd交錯するほど、社会全体のリズムのなかに、その重要な(潜在的とはいえ)部分として位置づけられているーーということは外国人にとっては一つの芸当とみえるかもしれない。日本人にとっては、それは序列のきびしい生活における神経の疲れを癒(いや)すという重要な精神衛生に貢献しているにちがいない。しかし、この論理のない世界というものを、そして、それを社会生活のなかで、これほど機能させるということを、そうした慣習を共有しない人たちに説明することは実にむずかしい。

日本人、日本の社会、日本の文化というものが、外国人に理解できにくい性質をもち、国際性がないのは、実は、こうしたところ――論理より感情が優先し、それが重要な社会的機能をもっているということーにその原因があるのではなかろうかと思われる。」

(中根千枝『タテ社会の人間関係』)


「日本文化のきわめて多くの部分は周囲の異文化から学んだ事柄から成り立っている。学習と記憶は人間の基本的な能力であり、国や民族を単位に考えたとき、文化交流が個人における学習に、文化伝統と呼ばれるものが、記憶にそれぞれ相当するといっていい。日本文化は学ぶことの多い歴史を所有している。学習は誇るべき人間の資質であり、他者を内面から理解することは、さらに尊い人間性の発露である。日本人が中国や朝鮮半島から多くを学んだことは、それだけ他国の文化を深く理解したとも言い換えられる。…

 日本の文化交流の歴史は、とくに前近代についていえば、教えることよりも学ぶことの歴史であった。私はそれを輝ける学習の歴史と呼びたい。同時にそれは誇るべき「記憶」の歴史でもある。中国、韓国でははるか昔に滅びてしまった法相宗、華厳宗、密教など古いタイプの仏教が今日でも宗派として活発な活動を行っていることは驚くべき保存の能力といえる。…

 日本は民族移動の波が比較的穏やかで、徐々に付加される形をとったと考えられるが、文化についても同様で、新しい文化が洪水のように入ってきて過去のすべてを押し流してしまうという形をとらずに、過去のものはそれほど形を損なうことなく保全され、そこに新しいものが付け加わって、新たな主流をなしていくという形をとることが普通であった。たとえていうなら、ちょうど堆積が安定的に行われてきれいな縞目をなしている地層を見るような形に、日本文化は形成されてきたのである。」

(上垣内憲一『日本文化交流小史』)


「日本文化は極東文化の“吹溜(ふきだま)り”といわれる。この日本列島が大陸から分離したのは、人類の記憶にも跡を留めない遠い過去のことであるが、それでも一衣帯水で大陸にそうこの列島には、大陸からたえず人と文物とが渡ってきた。そしてここから先は出ていくところのない、極東文化の終着駅。こうして大陸のさまざまな文物はこの島国というルツボに受容され、そして発酵することになる。

 吹溜りの文化は「多元」の世界である。宗教的にも思想的にも、日本人ほど“寛容”な民族はいないかもしれない。これは、人的交流はたえずあっても、異民族による征服と支配といった経験なしに民族を形成した島嶼(とうしょ)国家の特性で、そうした単一民族という土壌からは、あれかこれか、オール・オア・ナッシングという、二者択一の厳しい論理は育たなかったのである。論理よりも感性の文化が発達したゆえんである。

 しかしそれならば文物の受容がまったく無原則であったかといえば、それなりに「選択的」であったのもまた日本人であろう。室町時代唐絵(からえ)趣味の高揚した時期に、「和尚(おしょう)」と親しみをもって呼ばれ愛された牧谿法常(もっけいほうじょう)の絵は、本場の中国ではそれほど高く評価されてはいなかった。時代をそこまで下げるには及ばない。わが古代国家が手本とした中国王朝の諸制度、なかでも根幹をなす科挙(かきょ)の制はわが律令体制においてはついに根付かなかったし、宦官(かんがん)の制に至ってはこの島に上陸することもなかった。これらが中国皇帝の独裁を支える権力基盤であったことはいうまでもない。それが受容されなかったところに、日本の古代国家の体質が暗示されている。

 多元的であることの帰結ともいえるが、「習合(しゅうごう)的」であるのも日本文化の特質に数えられよう。六世紀の半ばに仏教が伝わって以来、宗教者の課題はつねに神仏習合の問題におかれていたといえるし、古い時代の和魂漢才が西欧文明と接触すれば和魂洋才に変わる。俗ないい方をすれば、これはまさしく餡(あん)パン文化であり、そこにはきわめて現実主義的な文化受容の風土があったといえる。」

(村井康彦『律令制の虚実』)


*科挙…中国における高級官僚を登用するための試験制度。六世紀の隋の時代に初めて導入され、一九〇四年の清朝末期に廃止されるまで、一三〇〇年以上続いた。

*宦官…去勢された男子で、宮廷や貴族の家に仕えた者。後宮女官の監督や宮中の雑役を行った。中国では周代から存在し、王、皇帝の側近にあって外戚(王、皇帝の母親または妃の一族)と並んで政治に関与した。



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「日韓中三国比較文化論⑧」

3、「才人」日本の理知と集団性~宗教紛争・民族紛争を免れた稀有のポジション③

「*1最近、京大名誉教授日沼頼夫(ひぬまよりお)博士が興味深い説を提唱した。氏は生物学者で京大ウイルス研究所の前所長、歴史学者でも考古学者でもない。日沼教授はATLウイルスのキャリアが、東アジアでは日本人にしかいないこと、日本以外では沿海州からサハリンに分散している少数民族に発見されているにすぎず、中国・韓国にはいかに調査しても全くいないことを発見した。

 ATLウイルスがどのようなウイルスかの説明は省く。そしてこれは母から子へと一〇〇パーセント伝わるわけでなく、大体四〇パーセントぐらいしか伝わらない。そこで人口が増えればキャリアの数は次第に少なくなるわけだが、近親部族外婚による混血が進めば、ますます減少していく。白人は今までの調査ではゼロ、中国・韓国もゼロとすると、東アジアではなぜ日本人にだけATLウイルスのキャリアがいるのか、これは日本人の先祖を考える場合、興味深い問題である。

 さらに興味深いのは、そのキャリアの日本における分布で、全国的に平均しているわけではなく、第一に九州・沖縄に圧倒的に集中していること、第二が離島や海岸地域に大きな密度をもつ地があること、第三に約三十年ほど前のアイヌ人の調査ではその密度が沖縄以上に高かったことである。この南北両端という密度の高い地を除くと、五島・壱岐・対馬・宇和島・紀伊半島の先端部・牡鹿半島・三島・飛島などが高い。いわば日本列島の周辺部が高いわけで、稲作が早く伝播(でんぱん)したと思われる瀬戸内地方や名古屋などが少ない。このことから、縄文人はATLをもっており、稲作を持って来た弥生人にはATLがなく、それとの混血が早かった地方ほどATLのキャリアが少ないという仮説が成り立つ。そしてATLを今も濃厚にもつ地方はほとんどが、現在に至るまで主として漁撈が行われている地方である。これは縄文文化が狩猟と漁撈と採集を基礎としていたことと関連する。そしてその文化圏がいまの日本とほぼ同一である。日本が大陸から切り離されて島になった一万年前を日本の起源とするなら、日本史に於て最も長い期間は、このATLをもつ縄文人の時代である。

 このように見れば、縄文文化が日本文化の基底にあると見てよいであろう。その期間は八千年前後と推定され、その文化圏の中で地方的な小文化圏を形成したが、その細部は省略する。そして共通する点は、生活は採集・狩猟・漁撈によって行われ、*2農耕も牧畜も行われていなかったことであろう。

 ただ土器・住居地・精巧な石器や骨角器等から見ると、その生活水準は必ずしも低かったと思えない。その食料はドングリやトチの実などの木の実を主体にしたという人もいるが、いずれにせよ日本はそれだけ天産物に恵まれた地であったということである。

 面白いのは、日本料理の中には今も縄文料理の食物の名残が数多くあることである。ある料亭で数人の学者と会合していたが、その一人が縄文文化の食物残渣を発掘した話をした。すると別の一人が「では、いまわれわれが食べているものと余り変わりがないのですな」と言った。そこでみなが改めて食卓を見ると、栗・ぎんなん・貝・川魚・沢ガニ・エビなどがあり、みな思わず笑い出した。料理の方法は変わっても、この種の日本の天産物を料理することは昔も今も変わっていない。*3前述の中国人が指摘したように、料理に関する限り、日本人は縄文的であって中国的ではないらしい。

 一体なぜこのような、中国とも韓国とも違う食文化が生じ、それが現代まで継続しているのであろうか。高谷好一(たかやよしかず)氏(京都大学東南アジア研究センター教授)は、ユーラシア大陸の文明生態史的な構造を次のように記す。すなわち中央の砂漠帯の周囲をナラ林、照葉樹林、熱帯多雨林、という三つの単位に分け、日本は照葉樹林に属するからであるとする。面白いことに西ヨーロッパと韓国はナラ林で、ここへ有畜農業が入るとナラ林は破壊されて再生しない。一方カシやシイなどの照葉樹林は食物が豊富で、一度破壊しても二次林として再生し、食糧となるものを多く期待できる。照葉樹林は日本でも減少しているが、国土に対する森林面積の比は今でも日本は世界一であり、この点では昔も今も「森の国」であろう。

 高谷教授は、縄文人はこの林を切り開き「半栽培屋敷園地」を形成して生活していたのであろうと、次のように述べている。

「半栽培屋敷園地というのは次のようなものである。例えば小川にのぞんだ丘陵の端に小集落を作る。縄文期だと、家そのものは竪穴(たてあな)式の草葺(ぶ)きである。集落のまわりだけは照葉樹林が伐(き)り払われていて、そこにクリやドングリそれにイチゴなどが比較的多く生えている。ヤマイモなどもあるかもしれない。これらは意識的に植えたのではないかもしれないが、生活をしているうちに自然にそうなったのである。こうして、暗い照葉樹林の中で、そこだけは明るい林になり、また食糧になるものが多く集中している。これが私の想像する半栽培屋敷園地である。照葉樹林帯でのこの種の生活は一旦確立してしまうとかなり安定したものである。

 私は右に描いた照葉樹林の生活を、ただ空想で言っているのではない。

 照葉樹林のなかでの初期の日本人の生活は豊かな自然に抱かれ、それにすっぽり入り込むようなかたちで行われていた、ということになる」

 その後の日本人の生活は大きく変化しているが、豊かな自然にすっぽり包み込まれるのを好み、縄文式の食文化が根強く日本人に残っているわけであろう。」

(山本七平『日本人とは何か。』より、一部改変)

*1…『新ウイルス物語―日本人の起源を探る』(日沼頼夫、中公新書、一九八六年)

*2…現在では、縄文時代にすでに農耕が行われており、こうした縄文農耕の土台の上に、縄文晩期に水田稲作が朝鮮半島から北九州付近に伝わったことが明らかになっている。

*3…この記述の前に、ある中国人が「日本料理が中国と全く無関係なのに驚いた」「豆腐や味噌は中国伝来ですが、料理そのものの基本は全く違う」と指摘した話が出てくる。


「足利義満の時代はかなり非日本的な要素を持ちながらも、新しい文化を創造しはじめたといえようが、足利義政はそれを完成の域に高め、その後の日本人の芸術趣味を完全に決定したと言ってよい。

 それは日本の芸術・芸能における幽玄(ゆうげん)趣味の確立であり、渋さの発見であった。そして、彼がこの日本趣味を確立するためには「応仁(おうにん)の乱」が必要だったのである。

 畠山氏一族の争いがきっかけとなって、応仁元年(一四六七)、細川勝元と山名宗全(やまなそうぜん)の争いが勃発(ぼっぱつ)し、それぞれの一族や支持大名がそのバック・アップをやったため、天下は細川の東軍と山名の西軍に二分され、両軍合わせて三〇万近い大軍が一一年間にもわたって、主として京都を中心にして争うことになったのである。

 その間に将軍の義政は何をしていたのであろうか。

 事実上、彼は何もしなかったし、また何もできなかった。ただ、対立する細川・山名の間に立って不即不離(ふそくふり)の中立を維持しただけである。細川方も山名方も将軍を自分の味方に引き入れて事を有利に運ぼうとしたが、義政はどちらにもコミットしなかった。

 それで門の外では戦闘が行なわれていたときにも、義政の邸の門内では人々は漢詩を作り、和歌を詠じ、また酒を飲んで宴会をしていた。

 このように、義政は完全に趣味生活によって戦乱を超越してしまったので、細川方も山名方も、将軍義政をチャンスがあれば自分のほうで担(かつ)ぎたいと思うだけで、義政を憎むということはなかった。

 京都を壊滅させた大乱のまっただ中にあって、義政は台風の眼の中のような静かさを維持し、趣味生活を深めていったのだから、結果的には、きわめて巧妙に立ちまわったことになる。

 外に戦乱があったほかに、また家庭内でも義政には面白くないことが多かった。それは義政夫人である日野富子(とみこ)の兄、つまり義政の義兄の勝光(かつみつ)が政治に口を出すし、富子もまた口を出して勝手なことをやるので、富子を新しい邸宅に移して人の出入りを禁止したこともあった。しかし、それも効果がなく、依然として日野家側の介入が止(や)まない。

 それで義政は面倒くさくなって、将軍職を九歳の息子の義尚(よしなお)に譲って、自分は隠居してしまったのである。

 そして応仁の乱が一応終わったころに、前から念願していた東山(ひがしやま)の山麓に自分の理想の風流生活のための建築工事をはじめ、新第(しんてい)を落成させた。

 これが東山山荘、つまり銀閣寺(義政の死後、遺命によって禅寺とした。正式には慈照(じしょう)寺という)のあるところである。それ以後、死ぬまでの七年間、義政はここで風流三昧(ざんまい)の生活をやることになる。

 応仁の乱以前の義政の遊びは豪奢(ごうしゃ)であった。それは義満のものと本質的には同じことであった。

 しかし応仁の乱の間、万事不如意なときに、悶々(もんもん)としながらもひたすら風流に没頭することによって、義政は新しい美を発見したのだった。それは普通の豪奢な美を「金」であるとすれば「銀」に相当するものであった。

 つまり、「燻(いぶ)し銀」の中に、最も高級な美しさを見るという審美感覚が生じたということなのである。

 われわれ重厚信実な友人のことを「燻し銀のような人間だ」と評することがある。

 しかし「燻し銀」というのは、英語で言うとオキシダイズド・シルバーになろう。酸化銀、つまり表面が錆(さ)びたのことなのである。どこの国の人が酸化銀を金よりも美しいと言うだろうか。外国語では、重厚信実な性質のことを「金のようだ」と言って、「酸化銀のようだ」とは言わないのだ。

 「燻し銀」に高級な美を見ることが最終的に義政の到達した境地であった。そこには何もきらきらと光るものはない。すべては光をその中に納(おさ)めてくすんでいるのである。それが美しいというのだ。

 この東山山荘で義政と村田珠光(むらたじゅこう)が茶を通じて知合いになったが、これがいわゆる茶の湯のはじまりであるとされている。

 こうした義政の趣味生活ののちに、日本人は「渋(しぶ)い」という色彩がよくわかるようになった。

「渋い色」とはどんな色か示せと言われても困るが、それは義政が東山にこもってから好きになった色であるとしか言えないであろう。まず「渋い」という言葉を覚え、それから何度か「渋い」と言われる趣味を示している実物を見せられてはじめて、われわれの目には「渋い」色が見えてくるのだ。われわれ日本人は「渋い」という言葉を知っているから、そういう色も見ることができるのである。

金閣寺と銀閣寺はどちらが好きか、あるいはどちらが美しいかと聞かれるならば、平均的外国人ならば躊躇(ちゅうちょ)することなく金閣寺と答えるであろう。しかし日本人の場合はそう簡単にはいかない。銀閣寺の「渋さ」は、金閣寺よりも高い趣味だと思う人が少なくないからである。

政治の世界に対する無力感と、そこからくる懊悩(おうのう)を忘れるために発達した美意識は、われわれ日本人に不思議な魅力を持つのである。そしてこの美意識は、雪舟(せっしゅう)の絵や、宗祇(そうぎ)の連歌などに連(つら)なるものであり、時代が少し下れば芭蕉(ばしょう)に継承されて、われわれまで及んでいるのだ。」

(渡部昇一『日本史から見た日本人 鎌倉編 「日本型」行動原理の確立』)



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「日韓中三国比較文化論⑨」

3、「才人」日本の理知と集団性~宗教紛争・民族紛争を免れた稀有のポジション④

「「茶の湯(ティ・セレモニー)に招待されていろいろ質問したのですが、これはいくら説明しても外国人には理解できないことだと言われました。能を見たときもそうでしたが……」

「これは日本でもよく問題にされます。ある人は、この外国人には理解できないという文化の一面を日本人は貴びかつ誇りに思っているのではないか、といいます。私はそうは思いませんが、説明しようと思うと大変なんです。しかし、説明しようと思うと大変だという点では、外面的には欧米と同じように見える会社や銀行、また政府の組織も同じです。日本の社長は果して決定権を持っているのか、官庁での決定権はだれにあるのか、なぜこういう組織になっているのか、この説明も大変です。日本文化のこういう特徴が形成されたのは大体、室町から戦国にかけての時代でしょう」

「といいますと……」

「大体、足利義満のときから、北条早雲の伊豆攻略までですか。西暦一三六八年から一四九一年までが室町時代で、以後ちょうど百年、秀吉による小田原攻略までが戦国時代でしょう。この時代は混沌としていますが、一面ではルネサンスですかなあ。確かに、この時代、およびこの時代に発生したものを一言で説明するのはむずかしいです。要約すれば、古い日本を一度打ちこわしてばらばらにし、日本式秩序に再構成したような時代です」

 日本史に相当に詳しいあるアメリカ人との問答だが、この種の問答を何回やったことだろう。だが、室町時代史を読めば人は何となく感ずるかもしれない。このような下剋上的エネルギーが噴出して来る世界、古くからの秩序は崩壊し、貨幣が猛威を振るい、すべては混沌として最高の権力者でも明日の運命がわからない世界。その世界では、花の御所や金閣寺を建て、美姫をはべらせて美酒と珍味を味わっても、政治的・経済的心労の絶えない状態から逃れることはできない。

 ところが、ふと何かの拍子に、わずか四畳半一間の陋屋(ろうおく)の真中の炉の傍らで、一人の貧しい老農夫が静かに茶を飲んでいる。たとえ一時(いっとき)でも、ああいう平和な空間の中で、すべてを忘れた状態でいたい、という願望から侘茶(わびちゃ)が生まれる。というのは、あらゆる贅を味わった人間には、これが最高の贅沢だからである。

 これが茶の湯の発生だなどと簡単にはいえないが、日本文化の二面性、能力主義に基づく激しい競争社会と、それから隔離された静寂な空間への希求、同じように、もっとも殺伐なはずの戦国時代に、小笠原流といわれる礼儀作法が日本中に普及し出す。多忙の中の礼儀といった現代にもつづく二面性、これらは、室町文化以降の日本の特徴といえるかもしれない。

 そして混沌の背後にあるものが、一揆と貨幣であった。一揆は個人を自由にし、貨幣は人を大地から遊離させる。その不安定さが逆に安定を求める。この二つが室町時代を特徴づけると言ってよい。

 足利幕府はまことに統治能力のない政府であった。これは、幕府が無能であったというより、地方に根を張った一揆に歯が立たなかったといった方がよい。その点では、大地から切り離されて宙に浮いたような政権であり、それでありながら義満以下の将軍が、質素そのものであった泰時以下の鎌倉幕府の人びとから見れば、驚倒するような豪奢な生活をしていたのは、貨幣を握っていたからであった。

 日本人は極端から極端に走るといわれるが、土地を掌握しても貨幣を管理できないで倒壊した鎌倉幕府の次に出現したのが、貨幣は握っても殆(ほとん)ど領国支配のできない足利幕府であった。」

(山本七平『日本人とは何か。 神話の世界から近代まで、その行動原理を探る』)


「*1蓮如が世を去ったのは明応八年(一四九九年)、その十八年後にヨーロッパで宗教改革が始まり、五十年後の天文十八年(一五四九年)に*2フランシスコ・ザビエルが鹿児島に来た。いわば日本仏教のプロテスタントの、農民戦争の最中である。彼は、いま考えると不思議なほど、知られざる東洋の一民族日本人を高く評価し、鹿児島から次のようにゴアのイエズス会士に書き送っている。「私たちが今までの接触によって知り得た限りでは、この国民が、私の接触した民族の中で一番傑出している」と。

 これは彼の誤解であったのだろうか。キリシタン研究の専門学者H・チ―リスク神父は次のように記されている。

「この初印象は単なる曖昧な感想ではなかった。シャヴィエルは彼独特の鋭い観察力をもって、住民の短所や欠点、または戦国時代の結果であった道徳や宗教の頽廃のこともよくわきまえていた。それにもかかわらず、その根本にある長所と文化的価値を強調し、その上にこそ自分の計画を立てるべきだと知った。彼が特に高く評価したのはおよそ次の三点である。

 第一には、日本は政治的にまた社会的に高度の制度を持っていること。何度もその手紙の中で政治的秩序、あるいは社会の各階級について述べている。

 第二には、すぐれた学問のあること。とりわけ、足利学校、比叡山・高野山などの『大学』を挙げて、これをパリ大学をはじめヨーロッパの一流大学にも匹敵すると書いている。

 第三には、日本人は、男女を問わずほとんどみな読み書きができること。これは、当時のヨーロッパ諸国では庶民階級のほとんどが読み書きができなかったことを考えれば、彼にとって驚くべきことであった。

 このような認識に基づいて彼は野心的なプランを立てた」

 彼の計画はまず京都へ行って全国の支配者である「王」と宮廷の人びとと会って伝道し、「上から下へ」の浸透をはかることであったが、この計画は当然にうまく行かなかった。「戦国」という空位時代は、実質的に「王なき」時代だったからである。そこで方針を変えて有力な地方領主に働きかけた。

 第二に彼は日本の有名な「大学」に行き、ヨーロッパの大学と連携させ、互いに学者を交換教授のような形で交流させようとした。そして第三が、宗教文学や教理の翻訳・紹介である。

 識字率の高い日本では文書伝道は確かに有効であろう。このザビエルの計画は「キリシタン伝道のみならず、東西両文化の交流にとっても画期的なことであった」とチ―リスク神父は述べておられる。だが、これらを実現するには、彼は余りにも早く世を去った。

 歴史には仮定(イフ)はあり得ないが、もし彼がもう一世紀早く日本に来て、蓮如と伝道競争をしたら、どういう結果を生じたであろうか、と空想すると面白い。というのは、彼の前にも「宗教的空白地帯」という新興農民層があったからである。もちろんそれは当時の政治・経済・文化の中心であった近畿ではなかったが、しだいに生産力を高めてきた地方の農村も、同じ状態だったからである。」

(山本七平『日本人とは何か。 神話の世界から近代まで、その行動原理を探る』)

*1蓮如…一四一五~一四九九。室町時代の浄土真宗の僧。真宗隆盛の基礎を築いた。

*2フランシスコ・ザビエル…一五〇六~一五五二。シャヴィエルとも言う。イスパニアのイエズス会宣教師。一五四九年に渡来し、各地で布教。


「明治三十一(一八九八)年十二月十八日、寒気が一段と厳しさを加えつつあるさなか、東京の上野公園は、時ならぬ賑わいで雑踏していた。数年来、上野公園に建設が進められてきた西郷隆盛の銅像がようやく完成し、この日、その除幕の式典が行われたのである。

 西郷死してすでに二十有余年。この長い歳月がすべてを恩讐の彼方に押し流してしまったのであろうか。

 とはいえ、よく考えてみると、やはりこれは、いささか奇妙な光景と言わなければならない。西郷はたしかに明治維新の最大の功労者の一人であり、死後その国民的人気はいっそう高まった感はあるとはいっても、仮にも士族暴動の指導者として政府に反旗をひるがえし、一切の官位・名誉を剥奪されて、「逆賊」として死んだ人物なのである。もちろん、明治二十二年の憲法発布によってその賊名は除かれ、正三位を追贈されていたものの、そうした人物の銅像が首都東京の玄関口に建設され、しかも、かつて西郷たちが打倒せんとした当の政府を代表する内閣総理大臣山県有朋が祝詞を述べたというのだから……。その山県は西南戦争に際して陸軍卿として、西郷軍討伐の総指揮をとった人物である。

 恐らく、こんな光景は日本以外の国ではめったにお目にかかることが出来ないのではあるまいか。例えば、トロツキーがいかにロシア革命に功労があったといっても、ソ連において、モスクワの中心部にトロツキーの銅像が建設され、その宿敵たるスターリンが除幕式で祝詞を読むなどといった光景が想像出来たであろうか。それだけに、西郷の銅像が建てられたことは、当時日本に住んでいた外国人には大きな驚きだったようである。

「欧州諸国では主権者に叛いた者は斬首したうえ、四肢を切断するのが習慣であった。日本では、明治大帝が西南の役における多数の謀叛人を赦されたうえに、その首領たる西郷の銅像を、上野に建てることを許された。それにはわれわれ外国人も驚いた」

 明治初年、大学南校(東京大学の前身)に奉職していたアメリカ人教師ウィリアム・グリフィスは、このように日本における反逆者に対する寛大な措置に、驚きの感想を洩らしている。」

(鳥海靖『逆賊と元勲の明治』)



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