「生命倫理と死生学の現在」

~人は何のために生まれ、どこに向かっていくのか~



(1)「生殖革命」でゆらぐ「生命の尊厳」という原点

①「生命」は授かるものなのか、作り出すものなのか

②「QOL」(生命の質)の尊重と「生殖革命」の進展

③「SOL」(生命の尊厳)とは何か


(2)「生命倫理」の柱となった「自己決定権」の意義

①ドストエフスキーに見る「生」と「死」の「自己決定権」

②「人格権」としての「自己決定権」の尊重

③「生命倫理」はどこまで確立されたのか


(3)「遺伝子医療」と「人格的アイデンティティー」の相克

①究極の個人情報たる「遺伝情報」の持つ意味

②そもそも「私」とは一体何なのか

③現代医学の最先端「遺伝子医療」の光と闇を知る


(4)「終末期医療」から発達した「死生学」の奥深さ

①「死」が「生」を規定すると見る「死生観」

②「死」を直視せざるを得なくなった「終末期医療」

③「人生論」「人間学」は「死生学」を必要とする


(5)「臨死(ニア・デス)体験」の物語るもの

①科学的研究の対象となった「死後の世界」

②「臨死体験」「近似死体験」の「共通性」は「普遍性」を意味する

③「死」が決定的意味を持つのは人間だけ


(6)「メメント・モリ」と「カルペ・ディエム」の人生論

①「メメント・モリ」(死を想え)の人生観

②「カルペ・ディエム」(今を生きる)の人生観

③人は何のために生きるのか




(1)「生殖革命」でゆらぐ「生命の尊厳」という原点

①「生命」は授かるものなのか、作り出すものなのか

「生命科学」(life science)~生命を取り巻く関連諸科学の総称であり、物理学化学など物質科学に分類される自然科学との融合領域である生化学生物物理学生物物理化学や、応用的な学問である農学薬学栄養学医学生命工学なども含みます。

「バイオテクノロジー」生物工学)~生物学の知見を元にし、実社会に有用な利用法をもたらす技術の総称で、特に遺伝子操作をする場合には、遺伝子工学と呼ばれる場合もあます。 醸造発酵の分野から、再生医学や創薬、農作物の品種改良など様々な技術を包括する言葉で、農学薬学医学歯学理学獣医学工学と密接に関連します。分子生物学生物化学などの基礎生物学の発展とともに、応用生物学としてのバイオテクノロジーも近年目覚しい発展を遂げており、クローン生物など従来SFに登場した様々な空想が現実のものとなりつつあります。

 また、クローン技術遺伝子組み換え作物などで、倫理的な側面や自然環境との関係において、多くの議論が必要とされている分野でもあります。遺伝子操作および細胞融合は、生物多様性に悪影響を及ぼす恐れがあるとの観点から「遺伝子組換え生物等の使用等の規制による生物の多様性の確保に関する法律」(遺伝子組換え生物等規制法、遺伝子組換え規制法)によって規制されています。

「生殖革命」~生殖に関わる技術(生殖技術、reproductive technology)の急速な進展とそれが社会にもたらす変化を言います。これは生殖を巡る人為の領域の拡大であり、それに関わる倫理的社会的問題の現われです。第一に性交に関わらない他者が生殖に介在することが可能になり(代理生殖)、受精卵等の凍結によって時間的な自由度が生まれたことにより、誰が、どのように、子を持つのか、子が生まれ育つことに関わるのかが問われます。第二に、子の「質」に関わる人為的な操作の可能性の出現です。精子の遠心分離(パーコール法)などにより男女産み分けがある程度可能になっており、また胎児の染色体・遺伝子等の状態を診断する出生前診断が行われています。病気や異常が発見された場合に胎児治療が行われるのはごく一部であり、多くは人工妊娠中絶が行われています(選択的中絶)。さらに「優秀」な子を持つために技術を利用しようとする動き(精子バンク等)もあるのです。どこまでを誰が決定してよいのか、よくないのかが、そしてその根拠は何かが問われています。



②「QOL」(生命の質)の尊重と「生殖革命」の進展

「QOL」(Quality of Life、クオリティ・オブ・ライフ)~広義のQOLは「人生の質」とも訳され、この場合のQOLの向上とは患者のみならず、市民の健康増進を図る事を意味ます。狭義のQOLは「生活の質」とも訳され、この場合のQOLの向上とは患者の日常生活をどれだけ苦痛の少ないものにするかという意味で用いられます。

 QOLに対する取り組みは医療の歴史と共に発展してきました。医療は人を見るものであり、医学は病気を見るものだ」とする考え方がありましたが、医療も科学的側面が強くなり、「病気は治ったが、患者は死んだ」という状態が問題となり、そのアンチテーゼとして医療の質を高めることを目的として、QOLという考え方が提唱されてきたのです。例えば、がんをはじめとした疾患の治療において、従来は治療効果を測る基準が生存期間5年生存率など)のみでしたが、生存期間の長さに加えて、質も重要な治療効果であると考えるのが近年の流れです。

 QOLが考慮される場面は様々であり、治療法の選択(乳がん治療で乳房を切除するか否かなど)、症状への対応鎮痛など)といった状況でのQOLを定量的に評価する方法感性制御技術など)や、治療法ごとのQOLへの影響の度合いが研究されています。特に治癒が期待できない終末期医療では、生存期間を伸ばすことに大きな意義はなく、QOLの維持向上こそが治療の目的となります。こうした痛みなどの症状軽減を目的とした医療緩和医療と呼ばれます。

「人工授精」「配偶者間人工授精」(Artificial Insemination of Husband, AIH)か「非配偶者間人工授精」(Artificial Insemination of Donor, AID)のいずれかを意味するもので、前者は夫の精液を、後者は精子提供者の精液を直接子宮腔内へ注入する方法で行います。最近では精液を直接注入するのではなく、運動精子のみを選別して子宮腔へ注入する方が妊娠率も高く、副作用も少ないために普及してきています。

「体外受精」~卵巣から取り出した卵子と、精子を体外で受精させる生殖医療の手法です。卵管の機能上の問題や精子の運動性の問題がある時などに使われます。微細な管で卵子に精子を注入する顕微授精も体外受精の一種です。不妊治療において、タイミング法人工授精の後に位置するステップアップの最終段階とも言え、生殖医療の現場では一般的な技術になっています。

 1978年に英国で初めて成功し、ルイーズちゃんという女の子が誕生しました。当初、「試験管ベビー」という言葉が流行りましたが、この言葉は実相を反映せず、差別的な響きを持つため、まもなく使われなくなりました。厚生労働省が公表した「不妊治療の実態に関する調査研究」(2020年度)によると、人工授精の費用は1回平均で約3万円、体外受精は約50万円となっています。日本産科婦人科学会の調査によると、体外受精による妊娠率は2018年には31.9%となっています。日本においても1983年に体外受精による第1子が誕生してからはその数が増え続け、日本産婦人科学会によると、2021年の体外受精による出生数は過去最多の6万9797人でした。

「減数手術」~三つ子以上の多胎妊娠の場合に、胎児を子宮内で死亡させ、数を減らして出産させる方法です。早産や新生児死亡率の上昇など、多胎妊娠によるリスクを回避するために実施されます。

「代理母出産」(だいりははしゅっさん、だいりぼしゅっさん)~「ある女性が別の女性に子供を引き渡す目的で妊娠・出産すること」と定義され、その出産を行う女性を「代理母」と言います。「代理出産」「代理懐胎」と表現される場合もあります。「代理母出産」については、生殖補助医療の進展を受けて日本産科婦人科学会198310に決定した会告により、自主規制が行われているため、国内では原則として実施されていませんが、「代理母出産」そのものを規制する法制度は未整備となっています。

 この制度の不備を突く形で、諏訪マタニティークリニック(長野県下諏訪町)の根津八紘院長が国内初の代理母出産を実施し、20015にこれを公表しました。このような状況を受け、2003厚生労働省及び日本産科婦人科学会は代理母出産を認めないと結論づけましたが、厚生労働省は法制化を実現できず、また、日本産科婦人科学会の会告は同会の単なる見解に過ぎず強制力を持たないため、「代理母出産」の実施に歯止めをかけることはできませんでした。さらに2006年10月に根津八紘医師が、年老いた母親に女性ホルモンを投与し、娘のための「代理母」にした、という特殊な代理母出産を実施したことを公表したことにより、再び社会的な注目を集めることとなり、事態は混迷の様相を深めています。

「代理母出産」の諸ケース

①Gestational Surrogacy=「代理母」とは遺伝的につながりの無い受精卵子宮に入れ、出産する。「借り腹」「ホストマザー

(1)夫婦の受精卵を「代理母」の子宮に入れ、出産する。

(2)第三者から提供された卵子と夫の精子体外受精し、その受精卵を「代理母」の子宮に入れ、出産する。

(3)第三者から提供された精子と妻の卵子を体外受精し、その受精卵を「代理母」の子宮に入れ、出産する。

(4)第三者から提供された精子と卵子を体外受精し、その受精卵を「代理母」の子宮に入れ、出産する。

②Traditional Surrogacy=夫の精子(もしくは精子バンク)を使用して「代理母」が人工授精を行い、出産する。「代理母」「サロゲートマザー」。病気による子宮摘出などで妊娠できなくなった娘夫婦の受精卵を娘の母親の子宮に移して母親が出産することもあり、日本でも少数ながら実例もある。

「代理母出産」への批判

人間に許される行為ではないという意見

女性蔑視を助長するのではないかという意見=「代理母出産」を「女性を子供を産む機関として扱っている」として批判する意見もあります。

母性本能を軽視しているという意見=代理母が子の引き渡しを拒否する事件が起きています(ベビーM事件~オーストラリア・ニューサウスウェールズ州)。

妊娠・出産に対するリスクを軽視しているという意見=妊娠・出産には、最悪の場合死亡に至るリスクがあり、死亡に至らずとも、母体に大きな障害が発生する場合もあります。このようなリスクを軽視し、それらを代理母に負わせることに対する倫理面からの批判があります。なお、出産時に母体に障害が発生した場合について、「代理母」側に不利な条件での契約がなされていることもあります。

障害者差別を助長するという意見=妊娠時の羊水染色体検査が義務づけられており、障害が見つかった場合は強制的に中絶させられることが多く、障害児が生まれた場合、依頼者が受け取りを拒否する事件も起きています。さらに、成功率向上の必要もあって、受精卵を子宮に戻す前に、問題のある受精卵を排除するための着床前診断が行われている場合もあります。

人種差別を助長するという意見=米国においては、「代理母」として同一人種・同一民族・同一国籍の女性を求める傾向があるため、(依頼人に多い)白人に需要が集まり、黒人女性が「代理母」を務める場合よりも白人女性が「代理母」を務める場合の方が契約金が高額です。「代理母出産」を批判するグループは、この現象が黒人差別を助長すると主張しています。

民法上の扱い=現在の日本の最高裁判例においては、「母子関係は分娩の事実により発生する」との判断が示されており、遺伝子上は他者の子であっても、「代理母」の子として扱われます。このため、「代理母」と子との間で相続上の問題が発生することが懸念されています。遺伝子上の親を実親として認めさせようという動きもありますが、生まれた子が依頼者・受託者双方と遺伝子上のつながりを持たないケースがあり、単純に遺伝子的なつながりのみで親子関係を確定することはできないのです。



③「SOL」(生命の尊厳)とは何か

SOL(Sanctity of Life、生命の尊厳)~「人は受精した瞬間から人である」という概念を持ち、「生きるに値しない命はない」ことを主題としています。これに対して、QOL(Quality of Life、人生・生活の質)は極論すれば「生命活動を行うに値する命」を重要とし、それ以外の命を否定する側面を持ちます。そのため、例えば人工中絶においては、SOLでは人工中絶を否定しますが、QOLでは許容します。 また、例えば植物状態に陥った人間に対しては、SOLでは生存させることを許容しますが、QOLでは生存を否定します。SOLとQOLのこの種の対立はしばしば人権問題や生命倫理とも絡みながら議論されることがあり、医療関係者や専門家においても意見は分かれています。 歴史的にはSOLの概念がより古いのです。

「SOL」の基本原則~生命(特に人の命)は無条件に尊いとし、以下の3原則が打ち出されています。

人為的に人の死を導いてはならない(正当防衛を除き、殺人は許されない)。

第三者がある人の命の値うちを問うことはできない

全ての人命は平等に扱われなければならない(人の命の価値を比較してはならない)。

 この倫理に基づけば、医療現場で医師は最後まで(可能な限り)患者の延命を続けなくてはならないという主張になります(脳死状態は死とみなさない)。SOL倫理は仏教やローマカトリックと同じ生命観になります。この立場に立つと、以下の倫理観を持つことになります。

殺人してはいけない。(積極的)安楽死を認めない

胎児(受精卵、胚の時期を含む)の中絶は殺人に該当する

脳死者は心停止、呼吸停止が伴わない限り死者ではない。→臓器摘出を認めない。

「近ごろ私は、『生命の質』という言葉を、しみじみと噛みしめたくなるような経験をした。私が戦争中に疎開していた家を四十年ぶりにたずねた。伊那の山の中である。お世話になった小父さんは八十八歳の高齢にもかかわらず、私のことを良く覚えていてくれた。世話をしている息子さんとお嫁さんの話だと、小父さんはかなり弱っているのに畑に出るのが大好きで、ひとりで出かけるのだという。耕うん機にのって出かけたものの帰りにはエンジンをかけられなくなって歩いてきたことがあるという。林檎の袋かけをしたというので、後でお嫁さんが見たら、葉に袋がかかっていたという。
 息子さんが『お医者さんは,ほんとうはもう入院しなくてはいけないと言うんですが,入院したらおしまいだから』と言う。『入院したらおしまいだ』というのは、入院したら命があぶないという意味ではない。もしかすると入院したほうが長生きできるかもしれない。しかし畑に出るとか、人と話をするとかいう自然な暮らしはできなくなる。自然な暮らしができるということが、小父さんにとってのQOL(生命の質)なのである。薬づけになって一日中ベッドで横になり、話相手もいないという生活をさせたくないというのが、息子さん夫婦の願いである。
 病院で治療をうければ少しは長生きするかもしれないが、それでは毎日が生きている意味もないような味気ないものになってしまう。こういう理由で入院を避けて、在宅を選ぶ人が多くなっていく。ただ生きることよりも、良く生きることを選ぶという態度である。
 しかし人間が安直に命を縮めるようなことをしていいわけはない。生命には侵してならない尊厳・神聖性がある。生命の神聖性(サンクティテイ・オブ・ライフ)を略してSOLという。このSOLという原理には、いつでも,どこでも,だれにでも同じに適用できるという強みがある。生命の尊厳には,大人と子供の区別はない。金持ちと貧乏人の区別もない。
 人類は生命の専厳(SOL)という原理を、『人間の生命はどのような犠牲を払ってでも延長するように努力しなければならない』と解釈してきた。ところが、生命の専厳とは、ただやみくもに生物としての命を延長すればいいということではないという考え方がでてきた。SOLをQOLに引きつけて解釈する態度である。『入院するより在宅のままでいたい』という態度もそのひとつである。
 生きるか死ぬかではなくて、いかに生きるかが判断の基準となる時代になつている。その背景にあるのは,死亡原因の変化である。感染病から成人病に死亡原因の中心が移ってしまった。たとえば腸チフスに感染すれば、ただちに死ぬか生きるかが問題になり、いずれにせよ決着は短い日数内につく。
 成人病の代表として高血圧を考えてみよう。悪いとはいえ、ただちに生死にかかわるわけではない。そのかわりに完全に治るということもない。患者は結局いつまでも高血圧という症状をかかえこんだままで生き続ける。
 短期間で決着のつく病気であれば,対策の主役は治療(キュア)である。長期にわたる病気では治療よりも看護(ケア)が重要になる。看護が治療の補佐役という位置から独立して、ある種の成人病では対策の主役になる。治療から独立した看護の基本は人間を人間としてあつかうことである。すなわち生命の質(QOL)が看護(ケア)の本質になる。これにたいして古い意味での生命の尊厳(SOL)は治療(キュア)の原理である。人間らしく看護することで病気そのものが快癒する場合もある。」(加藤尚武『二十一世紀のエチカ』より抜粋)

「生命への畏敬」~神学者、哲学者、オルガニストとしても知られるシュバイツァーが、アフリカでキリスト教布教活動と医療活動を行い、ヨーロッパの古き良き人文主義の伝統を引き継ぎながら、20世紀の人類社会が直面する問題を解決するために編み出した概念です。シュバイツァーはフランスの実存主義の哲学者サルトルの親戚でもあり、30歳になってから改めて医学を学び、39歳にアフリカの赤道直下の国ガボンのランバレネへ向かいました。現地では「オガンガ」(命を与え、奪う者。麻酔を使ったからです)「密林の聖者」と呼ばれ、後にノーベル平和賞を受賞しています。シュヴァイツァーは全ての生命には生きようとする意志が見出されるとし、全ての生命を尊重する「生命への畏敬」を倫理の根本原理とし、あらゆる生物の命を尊ぶことが人間の責任だと説きました。



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(2)「生命倫理」の柱となった「自己決定権」の意義

①ドストエフスキーに見る「生」と「死」の「自己決定権」

ドストエフスキーの「死刑」体験「生」と「死」の「自己決定権」を考えるとき、「自己を超えた世界」でこれが左右されているのではないかと思わされるのが、ドストエフスキーの事例です。

 1849年春、27歳の新進作家ドストエフスキーは教会と国家を誹謗したとの理由で逮捕され、8ヵ月後の12月末早朝、彼は同罪の学生、教師、士官ら20名と共に判決を言いわたされることになり、留置所から出されました。「単に集会で話しをしていただけなのだから」と皆楽観していましたが、外には護送馬車が待ち、囚人達は行く先も知らず、真っ暗な道を運ばれ、着いた先には死刑台が組み立てられていたのです。一人一人、「銃殺刑に処す」と告げられ、司祭に懺悔を求められ、服を脱がされて、死に装束を着せられました。まず3人が杭に縛られ、ドストエフスキーは6番目と決められます。銃を構えた兵士達が並び、5分後には自分は死ぬだろうと思った彼は、零下10度の戸外に半時間も立たされていたにもかかわらず、「寒いと感じたかどうか記憶がない」と言います。あまりの早さで迫りくる死に、感覚が麻痺してしまったのです。

「もし死ななかったらどうするだろう?もしまた生きることができたら!それはなんという無限だろう!それは全部、自分のものなんだ!もしそうなったら、一瞬一瞬をまるで百年のごとく大切にして、なにひとつ失わず、どの瞬間だって、けっして浪費しないように使うようにしよう!」(『白痴』)

 そこへ早馬が到着し、「皇帝の温情により、減刑」と告げられ、「助かった。際どいところで命拾いした」と安堵するのでした。二十年後、彼は妻に「あんな幸福だった日はこれまでになかったよ」と語っています。ずっと後に判明するのですが、実はこれは手の込んだ脅しであり、元々彼らに死刑判決など下りてはおらず、「シベリア流刑」が本当の判決だったのです。

「死刑になるってことがどんなものか分かってもらえるだろうか?これは死に触れた者でなければ、理解は不可能だろう。」(『作家の日記』)

 かくしてクリスマス・イブに送られた極北の地では、狭い雑居房で両足首に5キロの鉄鎖を付けられ、4年もの強制労働に従事させられることとなり、その間わずかも一人でいられる時間はなく、周りでは次々人が死んでいきました。それでもドストエフスキーは何とかこの4年を乗り切り(「ぼくの魂がこの間にどれほど変わったか!」)、さらに数年シベリアで兵役に就かされるなどして、やっとペテルブルクへ戻れた時、若かった彼はすでに37歳。異常な体験の連続で精神は強靭さを増しましたが、シーザーと同じ「神聖なる病」(癲癇〔てんかん〕)を抱えての生還でした。

 初めての発作は18歳の時、父親が領地で農奴(封建社会における農民)に殺害された事件をきっかけに起きており、癲癇における意識喪失は一種の死を意味しましたから、繰り返し仮の死を経験していたと思われ、銃殺直前の死の先取りと同じく、そこでは逆に恐ろしいまでに「生」が凝縮されることとなったのでしょう。かくして、「ドストエフスキーにとって生と死は永遠に一つ」(メレコフスキイ)であり、彼ほど殺人、自殺、死を深くえぐった作家はいないと言われています。

『罪と罰』に見る生と死の自己決定権『罪と罰』は1860年代のペテルブルクを舞台とし、頭脳明晰な元大学生による金貸しの老婆殺害事件を描いた作品です。主人公の貧乏学生ラスコーリニコフは学費未納で大学から除籍されていましたが、自分が「選ばれた」天才であると信じこみ、他者を殺しても許されるという考えから、金貸しの老婆を殺害します。

 ラスコーリニコフは、人間は凡人と非凡人の2種類に分けられ、社会を発展させるために非凡人は凡人に服従するのが義務であり、非凡人は現状を打破して世界を動かすために既存の法律を無視してもかまわない、非凡人こそが真の人間であるという考えに囚われていました。そして、自分も「選ばれた非凡人である」という選民思想を持っており、生活に困窮していた彼は、その思想から「善行として」悪名高い高利貸しの老婆アリョーナを殺害します。ところが、現場を目撃したアリョーナの義妹まで意図せず殺してしまい、ラスコーリニコフは罪の意識から精神を苛まれます。

 一方、予審判事のポルフィーリィは、過去にラスコーリニコフが執筆した論文から彼が犯人であると確信し、幾度となくラスコーリニコフに迫りますが、決定的証拠がないため逃れられてしまいます。かくして逮捕こそ免れたもののが、不安定な精神状態から憔悴の度合いを深めていくラスコーリニコフは、貧しい家族のために体を売る少女ソーニャと出会い、彼女の自己犠牲をいとわない生き方と彼女が読み聞かせてくれた聖書に救いを見出します。そして、ソーニャに罪を告白し、自首を決意するのです。

 情状酌量され、シベリア流刑8年という寛刑に処されたラスコーリニコフ。彼を追ってシベリアに移住するソーニャ。ラスコーリニコフはソーニャへの愛を確信し、人間回帰への道を歩み始めたところで物語は結末を迎えます。

ソンディによるドストエフスキーの運命分析ソンディはハンガリー出身のユダヤ人精神科医で、フロイト個人的無意識ユング集合的無意識の間を埋めるものとして家族的無意識に注目し、衝動心理学運命心理学運命分析学を創始しました。無意識の欲求や衝動を明らかにするためのソンディ・テストでも知られています。ソンディは人間がどのような振る舞いをしても回避することの出来ない決定論的な運命を強制運命と呼び、人間が決定論に抗う自由意志によって克服することが可能な可変的な運命を自由運命と呼んでいます。ソンディは自らの体験を元に、ドストエフスキーなどの遺伝的家系研究をふまえ、個人の無意識の中に抑圧されている祖先の欲求が、恋愛友情職業疾病、および死亡における無意識的選択行動によって運命を決定していることを示していますが、これはまさに「親の因果が子に報い」的な仏教的因果応報論を裏付けるような心理学だと言えるでしょう。

 ソンディが最初にそのことに注目したのは、ソンディがまだブタペストの高等学校を卒業して間もない頃、ブタペストの大学に入学する以前、ドストエフスキーに没頭していたことに始まります。『罪と罰』『カラマーゾフの兄弟』などを読み進むうち、彼には次のような疑問がわいて来たといいます。すなわち、ドストエフスキーは何故、「殺人者」を主人公に選ぶのか、ということです。そして、ソンディはその答えとして、「ドストエフスキーの心の中には、殺人者と同じ欲求が潜伏しているのではないか」と考えたのでした。

 彼はドストエフスキーの家系を調べて行き、その家系に殺人者や、一見それとは正反対に見える、宗教家をも見出したのですが、そこからさらに髪や眼や肌の色や鼻やあごの形や足の長さなど、形質の遺伝ばかりでなく、「欲求」にも遺伝があり得るのではないか、との考えを持つに至ったのでした。

 そして、この考えは従軍の後、ブタペスト大学からウィーン大学に移り、ワーグナー・ヤウレッグ教授の下で精神医学を学び、実際の症例に基づいて、詳しい家系研究に携わる頃には確信に近いものになったというのです。「衝動」の集合である「心」は、「家族的無意識」の遺伝として先天的に形成されるものであるとする立場に立つと、ある家族においては「運命」もまた繰り返されるということになります。そして、いろいろな世代において何回も何回も似たような恋愛の相手や結婚の相手、似たような職業、似たような死に方さえも無意識に選ばれるのかも知れないのです。

「一五〇六年十月六日ピンスク公は、貴族ダニーラ・イワーノヴィチ・ルチーシチェフに、いくつかの村(そのなかにドストエヴォも入っている)を贈与している。その後、貴族ルチーシチェフの子孫は、ドストエフスキー姓を名乗るようになった。フョ―ドル・ドストエフスキーは、亡命貴族クルプスキ―公に仕えている。公はイワン雷帝の怒りをかって、リトワニア国に逃れてきたのだが、その亡命先から、執念深く激憤とりりしさの際立った弾劾書簡を書き送ったことは、ロシアの歴史にも称賛されている。

 同じころラファエル・イワーノヴィチ・ドストエフスキーは、公金横領、使い込みの嫌疑をかけられていた。ドストエフスキー一族からは、その他、地方裁判所判事、主教、少尉といった人物が輩出している。アキンジー・ドストエフスキーは、キエフの寺院で、聖人のように敬われていた。ステファン・ドストエフスキーは、一六四二年にトルコの牢獄を脱走して、リヴォフ市の聖母像のまえに銀の鎖をつるす。シャスニー・ドストエフスキー父子は、一六三四年に、軍の終身貴族の殺害事件に加担した。フィリップ・ドストエフスキーは、一六四九年に、殴り込みの流血沙汰と、隣家の領地に対して企てた財産横領の罪を認めた。盗人、殺人犯、司法官、夢想家――善と悪が、一代ごとに入りまじっている、この先祖の人びとをみていると、まるでドストエフスキーの作品そのものを予告しているようにさえみえる。」(アンリ・トロワイヤ『ドストエフスキー伝』)

「ドストエフスキー文学の有名な研究者チィーズの論によると、ドストエフスキーの小説に出てくる人物像の四分の一は、神経症におかされているらしい。それによると『罪と罰』に六名、『カラマーゾフの兄弟』に二名、『悪霊』に六名、『白痴』の四名、『未成年』には四名いるというのだ。」(アンリ・トロワイヤ『ドストエフスキー伝』)

「(ドストエフスキーの子どもたちへの遺言)神を絶対に信じなさい。どんなときも希望を棄ててはならない。神は赦してくださるのだから。わたしはおまえたちを愛しているが、だがそれもあらゆる人間に対する神の無限の愛に較べれば、じつにつまらないものなのだ」(アンリ・トロワイヤ『ドストエフスキー伝』)



②「人格権」としての「自己決定権」の尊重

「生命倫理」(bioethics)~1960年代後半から形成されてきた新しい統合的学問分野で、一人一人を「生命の主権者」として、各自の価値判断やライフスタイルを大切にするという自己決定(autonomy)権の尊重という価値観・発想が根底にあります。その基本原則として、『生命医学倫理の諸原則』でトム・L・ビーチャムとジェイムズ・F・チルドレスが提唱した「医療倫理の四原則」が挙げられます。

自律性・自己決定の尊重(respect for autonomy):患者の意思を尊重しましょう。

無危害(non-maleficence):患者に害を加えないようにしましょう。

善行(beneficence):患者に善いことを行いましょう。

正義公正(justice):限りある医療資源を公正に配分しましょう。

 これは、医療において倫理的な問題に直面したとき医療従事者はどのように対処すべきか、その指針となるものです。

「インフォームド・コンセント」(informed consent)~「説明と同意」「知らされた上での同意」「十分な説明に基づく同意」。基本的にインフォームド・コンセントとは、患者個人の権利(自己の真実を知る権利)と医師の義務(守秘義務説明義務)という見地から見た法的概念です。ここには医師と患者との関係が、日本の医療現場でありがちな上下・主従・一方通行的なものではなく、同意に基づいた対等・平等な関係であるという考えが前提として存在しています。これは、「患者の生命・身体についての価値判断の最終決定権は患者自身にある」という生命倫理バイオエシックス)の考え方が医療の場に受け入れられ、医療供給者である医師中心の発想が大きく変化したものです。医療を受ける患者側の発想を中心にしたインフォームド・コンセントは、欧米諸国では臨床の現場でも法的にも確立した原理となっています。

 ちなみに医師の説明は、法的には診療契約に基づく義務とされ、次の2段階があります。

①医療者(主として医師)は、患者に現状と治療の可能性について説明をする。

②患者はそれを理解した上で、医師が薦める治療方針に対して同意する、あるいは複数の選択肢の中から希望するものを選ぶ(治療を拒否するというのも選択肢の一つ)。

「説明責任」(accountability)~医療で言うインフォームド・コンセントは「説明責任」につながります。医療を神聖視せず、他の医師のセカンドオピニオン(second opinion)を遠慮無く聞いてこそ、説明責任は定着するはずですが、日本には民主政治の原点となるアカウンタビリティーが育っていないと指摘されています。

 また、輸血拒否事件の判決は「自己決定権」を私的な医療契約上の権利としてではなく、最高裁が初めて「憲法上の権利」として位置付けた点に大きな意味があるとされますが、「人格権」は憲法13条(個人の尊厳)から導かれる幅広い概念とされ、判決の趣旨を一般化すれば、輸血問題だけではなく、がん告知の徹底、終末期医療や遺伝診断のあり方、新薬治験への参加、臓器移植、カルテ開示など現代医療の様々な分野で、自己決定権の尊重が求められ、そのためにインフォームド・コンセントの実践が迫られることになります。

「まなざしの人間関係」から「手の人間関係」へ】(東京都立大学文系前期2022年度出題)

 日本語には触覚に関する二つの動詞があります。

①さわる

②ふれる

 英語にするとどちらも「touch」ですが、それぞれ微妙にニュアンスが異なっています。

 たとえば、怪我をした場合を考えてみましょう。傷口に「さわる」というと、何だか痛そうな感じがします。さわってほしくなくて、思わず患部を引っ込めたくなる。

 では、「ふれる」だとどうでしょうか。傷口に「ふれる」というと、状態をみたり、薬をつけたり、さすったり、そっと手当をしてもらえそうなイメージを持ちます。痛いかも知れないけど、ちょっと我慢してみようかなという気になる。

 虫や動物を前にした場合はどうでしょうか。「怖くてさわれない」とは言いますが、「怖くてふれられない」とは言いません。物に対する触覚も同じです。スライムや布地の質感を確かめてほしいとき、私たちは「さわってごらん」と言うのであって、「ふれてごらん」とは言いません。

 不可解なのは、気体の場合です。部屋の中の目に見えない空気を、「さわる」ことは基本的にできません。ところが、窓をあけて空気を入れ替えると、冷たい外の空気に「ふれる」ことはできるのです。

 抽象的な触覚もあります。会議などで特定の話題に言及することは「ふれる」ですが、すべてを話すわけではない場合には、「さわりだけ」になります。あるいは怒りの感情はどうでしょう。「逆鱗(げきりん)にふれる」というと怒りを爆発させるイメージがありますが、「神経にさわる」というと必ずしも怒りを外に出さず、イライラと腹立たしく思っている状況を指します。

 つまり私たちは、「さわる」と「ふれる」という二つの触覚に関する動詞を、状況に応じて、無意識に使い分けているのです。もちろん曖昧な部分もたくさんあります。「さわる」と「ふれる」の両方が使える場合もあるでしょう。けれども、そこに私たちは微妙な意味の違いを感じとっている。同じ触覚なのに、いくつかの種類があるのです。

 哲学の立場からこの違いに注目したのが、*1坂部恵です。

愛する人の体にふれることと、単にたとえば電車のなかで痴漢が見ず知らずの異性  の体にさわることは、いうまでもなく同じ位相における体験ないし行動ではない。

一言でいえば、ふれるという体験にある相互嵌入(かんにゅう)の契機、ふれることは直ちにふれ合うことに通じるという相互性の契機、あるいはまたふれるということが、いわば自己を超えてあふれ出て、他者のいのちにふれ合い、参入するという契機が、さらるということの場合には抜け落ちて、ここでは内―外、自―他、受動―能動、一言でいってさわるものとさわられるものの区別がはっきりしてくるのである。

 「ふれる」が相互的であるのに対し、「さわる」は一方的である。ひとことで言えば、これが坂部の主張です。

 言い換えれば、「触れる」は人間的なかかわり、「さわる」は物的なかかわり、ということになるでしょう。そこにいのちをいつくしむような人間的なかかわりがある場合には、それは「ふれる」であり、おのずと「ふれ合い」に通じていきます。逆に物としての特徴や性質を確認したり、味わったりするときには、そこには相互性は生まれず、ただの「さわる」にとどまります。

 重要なのは、相手が人間だからといって、必ずしもかかわりが人間的であるとは限らない、ということです。坂部があげている痴漢の例のように、相手の同意がないにもかかわらず、つまり相手を物として扱って、ただ自分の欲望を満足させるために一方的に行為におよぶのは、「さわる」であると言わなければなりません。傷口に「さわる」のが痛そうなのは、それが一方的で、さわられる側の心情を無視しているように感じられるからです。そこには「ふれる」のような相互性、つまり相手の痛みをおもんぱかるような配慮はありません。

 もっとも、人間の体を「さわる」こと、つまり物のように扱うことが、必ずしも「悪」とは限りません。たとえば医師が患者の体を触診する場合。お腹の張り具合を調べたり、しこりの状態を確認したりする場合には、「さわる」と言うほうが自然です。触診は、医師の専門的な知識を前提とした触覚です。ある意味で、医師は患者の体を科学の対象として見ている、この態度表明が「さわる」であると考えられます。

 同じように、相手が人間でないからといって、必ずしもかかわりが非人間的であるとは限りません。物であったとしても、それが一点物のうつわで、作り手に思いをせながら、あるいは壊れないように気をつけながら、いつくしむようにかかわるのは「ふれる」です。では「外の空気にふれる」はどうでしょう。対象が気体である場合には、ふれようとするこちらの意志だけでなく、実際に流れ込んでくるという気体側のアプローチが必要です。この出会いの相互性が「ふれる」という言葉の使用を引き寄せていると考えられます。

 人間を物にように「さわる」こともできるし、物に人間のように「ふれる」こともできる。このことが示しているのは、「ふれる」は容易に「さわる」に転じうるし、逆に「さわる」つもりだったものが「ふれる」になることもある、ということです。

 相手が人間である場合には、この違いは非常に大きな意味を持ちます。たとえば、障害や病気とともに生きる人、あるいはお年寄りの体にかかわるとき、冒頭に出した傷に「ふれる」はよいが、「さわる」は痛い、という例は、より一般的な言い方をすれば「ケアとは何か」という問題に直結します。

 ケアの場面で、「ふれて」ほしいときに「さわら」れたら、勝手に自分の領域に入られたような暴力性を感じるでしょう。逆に触診のように「さわる」が想定される場面で過剰に「ふれる」が入ってきたら、その感情的な湿度のようなものに不快感を覚えるかもしれません。ケアの場面において、「ふれる」と「さわる」を混同することは、相手に大きな苦痛を与えることになりかねないのです。

 あらためて気づかされるのは、私たちがいかに、接触面のわずかな力加減、波打ち、リズム等のうちに、相手の自分に対する「態度」を読み取っているか、ということです。相手は自分のことをどう思っているのか。あるいは、どうしようとしているのか。「さわる」「ふれる」はあくまで入り口であって、そこから「つかむ」「なでる」「ひっぱる」「もちあげる」など、さまざまな接触的動作に移行することもあるでしょう。こうしたことすべてをひっくるめて、接触面には「人間関係」があります。

 この接触面の人間関係は、ケアの場面はもちろんのこと、子育て、教育、性愛、スポーツ、看取りなど、人生の重要な局面で、私たちが出会うことになる人間関係です。そこで経験する人間関係、つまりさわり方/ふれ方は、その人の幸福感にダイレクトに影響を与えるでしょう。

 「よき生き方」ならぬ「よきさわり方/ふれ方」とは何なのか。触覚の最大のポイントは、それが親密さにも、暴力にも通じているということです。人が人の体にさわる/ふれる

とき、そこにはどのような緊張や信頼、あるいは交渉や譲歩が交わされているのか。つまり触覚の倫理とは何なのか。

 触覚を担うのは手だけではありませんが、人間関係という意味で主要な役割を果たすのはやはり手です。さまざまな場面における手の働きに注目しながら、そこにある触覚ならではの関わりのかたちを明らかにすること。これがここでのテーマです。

 私がこの問題に関心をもつようになったきっかけは、単純に、人の体にさわる/ふれる経験が増えたからです。

 私は、目が見えない人や耳の聞こえない人、吃音(きつおん)のある人、四肢を切断した人など、さまざまな障害とともに生きる人が、その体をどのように使いこなし、それとどのように付き合っているのか、ご本人にインタビューをしながら研究をすすめています。インタビューというのは実はインタビュー以外の時間が重要で、その人が待ち合わせ場所で待っているときの姿勢や、コンビニで買いものをするときの様子、信号の渡り方など、何気なく行われるそうした動作にたくさんのヒントが含まれています。

 特に目の見えない人とかかわる場合、インタビュー以外の時間は、その人を介助する時間でもあります。具体的には、自分の肘や肩に手を添えてもらい、インタビューを行う場所まで一緒に移動するのです。

 その介助が、私はとても下手くそなのです。単に勉強不足で、アドリブの我流でやっているからなのですが、毎回新鮮な気持ちでドキドキしてしまいます。慌てて階段を斜めに上っては(階段では段差に対して垂直に進むのがセオリー)、「だめだよ~」と当事者に注意される始末。「介助できない研究者」と笑われています。

 それでも、触覚を通じて人と関係をつくるそうした機会は、私にとってはとても楽しい時間です。介助のスキルも大事なのですが、そこにはスキル以上の、何か重要な学びがあるように思えるのです。それは、このような研究を始めるまえの、文学部出身者らしく書庫の奥で文献を漁っていた時にはなかった、「触覚の目覚め」を私にもたらしました。

 「目覚め」をさらに押し進めたのは、視覚障害者向けのランニング伴走体験でした。目の見えない人を伴走する体験も面白かったのですが、特に衝撃を受けたのは、その逆、つまり自分がアイマスクをして目の見える人に伴走してもらう、ブラインドランの体験でした。

 最初にアイマスクをして走ることになったとき、私はパニックに近い恐怖に襲われていました。伴走者といっしょに走るには、小さなロープを輪っかにして、その両端をブラインドランナーと伴走者がそれぞれ握り、腕の振りをシンクロさせながら横に並んで走ります。ロープを介しているので間接的な接触になりますが、それでも相手の動きや意図を、ロープを通してしっかりと感じることができるはずでした。

 ところが、いざ走ろうとすると、周囲が確認できないことによる恐怖で、どうしても足がすくんでしまうのです。視覚を遮断しているにもかかわらず、木の枝や段差など行く手を阻むものがそこに「見えた」ほどでした。

 けれども、ある瞬間に覚悟を決めました。伴走をしてくれているのは、サークルのリーダーも務める、ベテラン中のベテランです。この方の素晴らしい導きと、これまでにたくさんの視覚障害者たちが視覚を使わずに走ってきたという歴史がある。それを信じて、身をあずけてしまおう。そう腹をくくったのです。

 それ以降の時間の、何と心地よかったことか。最初は歩くことしかできませんでしたが、すぐに走れるようになり、二〇分ほど走ったあとには、全身が経験したことのないような深い快感に包まれていました。

 同時に私は愕然(がくぜん)としました。自分がそれまでいかに「人に身をあずける」ということをしてこなかったか、ということに気づかされたのです。まるで拾われてきた猫みたいです。人を信じようとせず、誰からも距離をとろうとして、そのことを自立と勘違いしてきたのかもしれない。それは脳天に衝撃が走るようなショックでした。

 目が見えると、外界から得る情報は視覚に頼りがちになります。同じように、人間関係もまた、視覚に依存しがちになります。目があったら挨拶するし、逆に関心がないことを示すために目を逸(そ)らすこともあります。「目上の人」「お目にかかる」といった言い回しも視覚の重要性を表しているし、口先の言葉よりも目にこそ本心が宿ると考えられたりもします。ここでは文化ごとの接触の度合いの違いに触れることはしませんが、特に日本のようにハグや握手の習慣のない社会では、視覚の割合はいっそう高くなりがちです。

 ブラインドランが教えてくれたのは、視覚だけが他者と関係する手段ではない、という当たり前の事実でした。

 視覚は相手との距離を前提にした感覚なので、人間関係にも、距離をもたらします。ところが、触覚は違います。信頼して相手に身をあずけると、あずけた分だけ相手のことを知ることができる、そんな人間関係もあるのです。

 「まなざしの人間関係」から「手の人間関係」へ。目の見えない人との関わりが教えてくれたのは、そんな認識論と倫理学が交わる領域でした。

(伊藤亜紗『手の倫理』より。一部改変)

*1  坂部恵…『仮面の解釈学』などの著書を持つ哲学者(1936~2009年)。



③「生命倫理」はどこまで確立されたのか

「生殖医療」(reproductive health care)~不妊治療の急速な発展は「生殖革命」と呼ばれるほどの成果を生み出してきました。根津八紘(やひろ)・諏訪マタニティークリニック院長(長野県下諏訪町)は、2001年に国内初の代理母出産を明らかにしました。「代理出産」(surrogate mother)は米国などで行なわれており、渡米して治療を受ける女性もいますが、倫理面の批判がある上、妊娠・出産によるリスクも大きいのです。このため、日本産婦人科学会が認めておらず、海外でもフランス、ドイツなどでは法律で禁止されています。一方、米国では国レベルの法規制が無く、州によってはビジネスとして行われており、日本から渡米して受ける夫婦もいます。イギリスでは高額の謝礼をしないなどを条件に容認しています。

 根津院長は、1986年に4つ子や5つ子などを妊娠した場合に母体内で胎児を死亡させる「減数手術」(reduction surgery)を日本で初めて実施しています。当時、日本母性保護産婦人科医会が公式に認めていない手術でしたが、根津院長は「困っている患者を救う方法は他に無い」とし、後にこれは認められていきます。さらに1998年6月、根津院長は卵子提供による国内初の非配偶者間の体外受精を行なったことを公表し、日本産婦人科学会から除名されました。しかし、これを機に旧厚生省厚生科学審議会の専門委員会が生殖医療の指針作りに乗り出し、卵子・精子提供を認める報告書をまとめています。しかしながら、代理出産については、「安全性が確保できず、とうてい容認できない」「女性は子供を産む道具ではない」「子供の家庭環境が複雑になり、子供の福祉が保証できない」として禁止し、罰則を設ける方針を打ち出しました(2000年12月)。

国内でも2021年には出生児の11.6人に1人は体外受精児であり、これほど短時間で発展し、定着した医療は余り例がありませんが、倫理的な議論を抜きに次々と先行する水面下の生殖医療の実態があります。夢の技術が次々と現実になる一方で、倫理問題の整理がきちんとなされていないのが現状で、生命倫理の確立と医療技術の進歩の整合が急務であると言えます。

「生殖ビジネス」(fertilization business)~厚生労働省によれば、日本では不妊に悩む夫婦は約2.6組に1組、実際に不妊検査や治療を受けたことがある夫婦は約4.4組に1組と言われていまが、厚生労働省が公表した「不妊治療の実態に関する調査研究」(2020年度)によると、検査のみやタイミング法の経験者は10万円未満の割合が約7割。一方で、体外受精や顕微授精を経験した人は、医療費の総額が100万円以上の割合が半数を超え、200万円以上を費やした人も3割弱いました。2022年から不妊治療が保険の適用対象となり、医療費は原則3割負担となりますが、保険が適用される年齢は女性が43歳未満、回数は子ども一人につき最大6回までなどの制限があります。

 また、渡米して代理出産を依頼する場合、代理出産者への謝礼約230万円を含め、仲介料、医療費、渡航費用など1,000万円程度必要になるとされます。卵子提供の費用は米国で500万円、台湾で100万円~200万円程度が相場とされます。

「生まれる子どもの福祉」生殖ビジネスが成立する米国では、精子や卵子を提供した「生物学的親」を求め、子どもが「家族探し」の旅をすることが少なくありません。また、イギリス・フランスは共に「生まれる子どもの福祉」という視点を立法の際の基盤に据えて、非配偶者間の体外受精を容認していますが、フランスでは子供に「生物学的親を知る権利」「出自を知る権利」を認めず、現存する家族の安定を尊重し、イギリスでは子どもに「生物学的親を知る権利」「出自を知る権利」を認めています。何をもって「子どもの福祉」と考えるかが違うのです。

【テクノロジー論】(東京大学文科前期2017年度出題)

 与えられた困難を人間の力で解決しようとして営まれるテクノロジーには、問題を自ら作り出し、それをまた新たな技術の開発によって解決しようというかたちで自己展開していく傾向が、本質的に宿っているように私には思われる。科学技術によって産み落とされた環境破壊が、それを取り戻すために、新たな技術を要請するといった事例は、およそ枚挙にいとまないし、感染防止のためのワクチンに対してウィルスが、耐性を備えるようになり、新たな開発を強いられるといったことは、毎冬のように耳にする話である。餓死日本大震災の直後稼働を停止した浜岡原発に対して、中部電力が海抜二二メートルの防波堤を築くことによって、「安全審査」を受けようとしているというニュースに接したときも、同じ思いがリフレインするとともに、こうした展開にはたして終わりがあるのだろうかという気がした。技術開発の展開が無限に続くとは、たしかにいい切れない。次のステージになにが起こるのか、当の専門家自身が予測不可能なのだから、先のことは誰にも見えないというべきだろう。けれども、科学技術の展開には、人間の営みでありながら、有無を言わせず人間をどこまでも牽引していく不気味なところがある。いったいそれはなんであり、世界と人間とのどういった関係に由来するのだろうか。

 医療技術の発展は、たとえば不妊という状態を、技術的克服の課題とみなし、人工授精という技術を開発してきた。その一つ体外受精の場合、受精卵着床の確率を上げるために、排卵誘発剤を用い複数の卵子を採取し受精させたうえで子宮内に戻す、といったことが行なわれてきたが、これによって多胎妊娠の可能性も高くなった。多胎妊娠は、母胎へのフィジカルな影響や出産後の経済的なことなど、さまざまな負担を患者に強いるため、現在は子宮内に戻す受精卵の数を制限するようになっている。だが、この制限によっても多胎の「リスク」は、自然妊娠の二倍と、なお完全にコントロールできたわけではないし、複数の受精卵からの選択、また選択されなかった「もの」の「処理」などの問題は、依然として残る。

 いずれにせよ、こうした問題に関わる是非の判断は、技術そのものによって解決できる次元には属していない。体外受精に比してより身近に起こっている延命措置の問題。たとえば胃瘻(いろう)などは、マスコミもとりあげ関心を惹くようになったが、もはや自ら食事をとれなくなった老人に対して、胃に穴をあけるまでしなくても、鼻からチューブを通して直接栄養を胃に流し込むことは、かなり普通に行なわれている。このような措置が、ほんのその一部でしかない延命に関する技術の進展は、以前なら死んでいたはずの人間の生命を救済し、多数の療養型医療施設を生み出すに到っている。

 しかしながら老齢の人間の生命をできるだけ長く引き伸ばすということは、可能性としては現代の医療技術から出てくるが、現実化すべきかどうかとなると、その判断は別なカテゴリーに属す。「できる」ということが、そのまま「すべき」にならないのは、核爆弾の技術をもつことが、その使用を是認することにならないのと一緒である。テクネ―(τέχνη)である技術は、ドイツ語Kunstの語源が示す通り、「できること(können)」の世界に属すものであって、「すべきこと(sollen)」とは区別されねばならない。

 テクノロジーは、本質的に「一定の条件が与えられたときに、それに応じた結果が生ずる」という知識の集合体である。すなわち、「どうすればできるのか」についての知識、ハウ・トゥーの知識だといってよい。それは、結果として出てくるものが望ましいかどうかに関する知識、それを統御する目的に関する知識ではないし、またそれとは無縁でなければならない。その限りにところでは、テクノロジーは、ニュートラルな道具だと、いえなくもない。ところが、こうして「すべきこと」から離れているところに、それが単なる道具としてニュートラルなものに留まりえない理由もある。

 テクノロジーは、実行の可能性を示すところまで人間を導くだけで、そこに行為者としての人間を放擲(ほうてき)するのであり、放擲された人間は、かつてはなしえなかったがゆえに、問われることもなかった問題に、しかも決断せざるをえない行為者として直面する。

 妊婦の血液検査によって胎児の染色体異常を発見する技術には、そのまま妊娠を続けるべきか、中絶すべきかという判断の是非を決めることはできないが、その技術と出会い、行使した妊婦は、いずれかを選び取らざるをえない。いわゆる「新型出生前診断」が二〇一三年四月に導入されて以来、一年の間に、追加の羊水検査で異常が認められた妊婦の九七%が中絶を選んだという。

 療養型施設における胃瘻や経管栄養が前提としている生命の可能な限りの延長は、否定しがたいものだし、それを入所条件として掲げる施設があることも、私自身経験して知っている。だが、飢えて死んでいく子供たちが世界に数えきれないほど存在している現実を前にするならば、自ら食事をとることができなくなった老人の生命を、公的資金の投入まで行なって維持していくことが、社会的正義にかなうかどうか、少なくとも私自身は躊躇(ちゅうちょ)なく判断することができない。

 ここで判断の是非を問題にしようというのでは、もちろんないし、選択的妊娠中絶の問題一つをとってみても、最終的な決定基準があるなどとは思えない。むしろ肯定・否定を問わず、いかなる論理をもってきても、それを基礎づけるものが欠けていること、そういう意味で実践的判断が虚構的なものでしかないことは明らかだと、私は考えている。

 たとえば現世代の化石燃料の消費を将来世代への責任(レスポンジビリティー)によって制限しようとする論理は、物語としては理解できるが、現在存在しないものに対する責任など、応答(レスポンス)の相手がいないという点で、想像力の産物でしかないといわざるをえない。同じ想像力を別方向に向ければ、そもそも人類の存続などといったことが、この生物種に宿る尊大な欲望でしかなく、人類が、他の生物種から天然痘や梅毒のように根絶を祈願されたとしても、かかる人類殲滅(せんめつ)の野望は、人間がこれら己れの敵に対してもっている憎悪と、本質的には寸分の違いもないといいうるだろう。その他倫理的基準なるものを支えているとされる概念、たとえば「個人の意思」や「社会的コンセンサス」などが、その美名にもかかわらず、虚構性をもっていることは、少しく考えてみれば明らかである。主体となる「個人」など、確固としたものであるはずがなく、その判断が、時と場合によって、いかに動揺し変化するかは、誰しもが経験することであり、そもそも「個人の意思」を書面で残して「意思表明」とするということ自体、かかる「意思」なるものの可変性をまざまざと表わしている。また「コンセンサス」づくりの「公聴会」なるものが権力関係の追認でしかないことは、私たち自身、いやというほど繰り返し経験していることではなかろうか。

 だが、行為を導くものの虚構性の指摘が、それに従っている人間の愚かさの摘発に留まるならば、それはほとんど意味もないことだろう。虚構とは、むしろ人間の行為、いや生全体に不可避的に関わるものである。人間は、虚構とともに生きる、あるいは虚構を紡ぎ出すことによって己れを支えているといってもよい。問題は、テクノロジーの発展において、虚構のあり方が大きく変わったところにある。テクノロジーは、それまでできなかったことを可能にすることによって、人間が従来それに即して自らを律してきた虚構、しかもその虚構性が気づかれなかった虚構、すなわち神話を無効にさせ、もしくは変質を余儀なくさせた。それは、不可能であるがゆえにまったく判断の必要がなかった事態、「自然」に任すことができた状況を人為の範囲に落とし込み、これに呼応する新たな虚構の産出を強いるようになったのである。そういう意味でテクノロジーは、人間的生のあり方を、その根本のところから変えてしまう。

(伊藤徹『芸術家たちの精神史』一部省略 第六章「神々の永遠の争い」を生きる 一 神々の永遠の争い、ナカニシヤ出版)

*排卵誘発剤…卵巣からの排卵を促進する薬。



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(3)「遺伝子医療」と「人格的アイデンティティー」の相克

①究極の個人情報たる「遺伝情報」の持つ意味

「ヒトゲノム計画」(Human Genome Project)~人間の全遺伝情報(ヒトゲノム)には23対の染色体に記されており、約2万2000個の遺伝子があるとされます。2000年6月に国際チームと米国セレラ・ジェノミクス社がそれぞれ概要を解読したと発表しましたが、国際チームはさらに解読を続け、生命活動に欠かせない約28億3000万個の塩基配列の解読を終え、2003年4月に「完成版」にこぎ着けました。開始から13年がかりの大事業で、貢献度は米国59%、英国31%、日本6%、フランス3%、ドイツ・中国1%です。全塩基配列の0.1%に当たる約300万個の配列は個々人で違い、この違いは一塩基多型(SNP、スニップ)と呼ばれていて、病気のなりやすさに関係することが分かっています。ここから患者1人1人の遺伝子のタイプを調べ、その患者に効き目があり、副作用が無い薬を処方するといった「オーダーメイド医療」(Made-to-order medicine)の可能性が出てきます。こうしたゲノム関連技術は医療、健康、農業、工業など様々な分野で活用され、こうした動きを経済協力開発機構(OECD)ではバイオエコノミー(Bioeconomy)と呼び、は2030年には1.6兆ドルの市場に成長するとの試算されています。

 しかし、遺伝子の3分の1は働きの推測すらできておらず、実際にたんぱく質を作り出す遺伝子の部分は約2%とされていますが、これも確定されていません。1つの遺伝子の変異で起きる病気(単一遺伝子疾患)は9000疾患以上あると報告されていますが、現在でも3000疾患以上の疾患遺伝子はまだ同定されていません。ヒトゲノム解読の完了宣言を受け、次の目標は遺伝子の機能解明とされますが、同時に「究極のプライバシー」とされる遺伝情報のセキュリティー、「知らずにいる権利」の保護、差別の防止など課題も多いのです。

「バイオエレクトロニクス」(Bioelectronics)~バイオテクノロジー(Biotechnology 生命工学)とエレクトロニクス(Electronics 電子工学)を融合させたものです。ヒトゲノムの解析から生まれた「バイオインフォマティクス(Bioinformatics 生命情報工学)」を土台とし、生物の遺伝情報が詰まったDNAが自分のコピーを次々と創り出す性質を利用した「DNAコンピュータ」などが現実化されつつあります。

「比較ゲノム学」(Comparative Genomics)~いろいろな生物のゲノムを比べて有用な情報を拾い出す研究です。例えば、人間と最も近縁のチンパンジーのゲノムの違いはわずか1.23%です。地球上には既知の生物が200万種、未知のものは1000万種以上いると言われていますが、2016年までにゲノムの決まった生物は9000種以上、不完全なものを含めると10万種に及びます。その結果、陸上の全ての植物は4億5000万年以上前に淡水に生息した1種類の原始植物から進化したことも突き止められています。また、人種間の相違よりも人間間の相違の方が多いため、人種概念に生物学的根拠は無いことも明らかになりました。

「ゲノム疫学」(Genome Epidemiology)~生活習慣と病気との関係を調べる疫学研究に、遺伝情報も加えて解析するものです。遺伝子のタイプごとに最適な「オーダーメイド予防」も可能であるとされます。アイスランドではバイオ企業が28万人の国民を対象に遺伝子を採取して研究を進め、すでにアルツハイマー病に関する遺伝子などを見つけたと報告しています。イギリスでも協力者50万人を募り、遺伝子提供を求めて、生活習慣や病歴を付き合わせる研究「バイオバンク計画」を本格化させています。国内では文部科学省の「オーダーメイド医療実現化プロジェクト」が2003年にスタートし、約30万人分のバイオバンクが構築されました。

「ゲノム創薬」(Genomics Drug Discovery)~1つの遺伝子の異常で起きる病気は数千種あることが分かっており、高血圧や糖尿病には複数の遺伝子が関係していますが、こうした特定の遺伝子に働く治療薬を開発しようとするものです。従来の創薬は、基礎研究を元に治療に効きそうな複数の物質を候補に挙げ、動物実験や化学的実験を繰り返して薬効や副作用を確かめており、偶然性に頼る部分も大きかったとされます。しかし、ゲノム創薬では機能が解明された遺伝子に対象を絞ることにより、最短距離で開発できることになります。「オーダーメイド創薬」の可能性もここから出てきます。

「ゲノム薬理学」(Pharmacogenomics)~同じ病気の患者達に同じ薬を同量投与しても効果や副作用の強さなどの反応が違うのは、「薬物代謝」と呼ばれる機能が関係しており、遺伝子が大きな役割を担っていますが、こうした薬物反応を遺伝子レベルで予測し、薬を正しく投与しようというものです。ゲノム解析により、これまで「体質」と呼ばれてきた個人差が遺伝子レベルで説明できるようになってきているのです。



②そもそも「私」とは一体何なのか

「クローン」(clone)~羊の成獣の乳腺から取り出した細胞を使い、遺伝子が親と全く同じ「クローン羊」ドリ-が1996年7月に世界で初めて誕生しました。これは従来の受精卵クローンに対する体細胞クローンと呼ばれる技術であり、受精卵クローンがどんな大人になるか分からないといった不安定さを抱えていたのに対して、成体の体細胞クローンでは遺伝形質の99%以上を受け継ぐと考えられています。また、牛の受精卵クローンの場合、1個の受精卵が16~32細胞に細胞分裂した割球からクローン牛を作るので、自ずと数に限りがありますが、体細胞クロ-ンでは事実上制限は無くなると言ってよいのです。こうしたクロ-ン技術によって、オスなしで産乳能力の高い家畜の大量コピ-が可能となり、さらに医薬品原料の生産能力の高い動物を大量にコピーできるだけでなく、動物の個体差がなくなり、医薬品の安定生産が可能となります。また絶滅の危機にある動物の複製も可能になるのですが、ドリ-の生みの親であるウィルムット博士は、クローン技術は諸刃の剣だと強調しています。人間への応用は技術的に可能であり、クロ-ン人間阻止への国際的な規制が必要であるというのです。

 かくして1998年11月には国連教育科学文化機関(ユネスコ)総会で、人間の遺伝子研究に関する初の政府レベルの国際倫理方針「ヒトゲノムと人権に関する世界宣言」が全会一致で採択されました。宣言は全25条で、第1条において人間の遺伝情報の総体であるヒトゲノム「象徴的な意味で人類の遺産」であるとして、その研究の重要性を認める一方、遺伝的な特徴を理由にした差別や遺伝情報をそのまま経済的利益の対象とすることを認めず、その売買などを禁じたほか、クローン人間作りも「人間の尊厳に反し、許されない」と明言しました。さらに遺伝子研究や遺伝子診断、遺伝子治療はリスクと利益を評価した上で行い、事前に対象者のインフォームド・コンセントが必要であるとしており、秘密の保持や知らないでいる権利も求めています。宣言は条約と異なって拘束力はありませんが、国際機関での合意としての影響は大きいと言えます。

実際には、体細胞クローン人間は大人のコピーを即製する技術ではないので、「最強の兵士のクローンを集めた完璧な軍隊」などといった構想は現実性がありません。クローンは遺伝的に同一の個体のことで、体細胞クローン人間は「年の離れた一卵性双生児」に当たると言えます。当然、遺伝的には同じでも、育った環境や経験が違ってくれば、外見や性格は自ずと違ってくることになります。さらにクローン動物の成功率は低く、死産・流産が多いのですが、その原因も不明であり、クローンマウスで約2%とされます。

「再生医学」(regenerative medicine)~ヒトの細胞や遺伝子で組織や臓器を作り、治療に活用する医学のことで、将来の医療を大きく変えると期待されています。その種となる細胞として、受精卵から取り出した胚性幹(ES)細胞(Embryonic Stem Cell、万能細胞)が注目されており、国際的に研究が盛んです。日本では2003年5月に初めてES細胞作成に成功し、骨や神経に成長する間葉系幹細胞を骨髄から得て行う研究が中心となっており、これらが広く臨床に使われ始めると、心臓病やけが、やけどなどの治療が一変すると言います。さらに大きな注目を集めているのが、山中伸弥教授がその研究でノーベル賞を受賞した多能性幹(iPS)細胞(induced Pluripotent Stem Cell)です。ES細胞は受精後6、7日目の胚盤胞から細胞を取り出し、それを培養することによって作製されるため、どんな臓器にも分化できますが、倫理上の問題が残ります。一方、iPS細胞は皮膚や血液など、採取しやすい体細胞を初期化して作ることができますので、倫理上の問題がありません。また、自分自身の体細胞なので、拒絶反応の問題も無くなります。

 産業界もこうした技術的進展と経済的可能性に注目しており、今や世界のバイオ産業市場の年平均成長率は7%に上っていて、その勢いは日本でも同様で、2019年に内閣府統合イノベーション戦略推進会議が策定した「バイオ戦略」では、2030年に世界最先端のバイオエコノミー社会を実現することが掲げられました。

【自分論】(東京大学文科前期2015年度出題)

 昨日机に向かっていた自分と現在机に向かっている自分、両者の関係はどうなっているのだろう。身体的にも意味的にも、昨日の自分と現在の自分とが微妙に違っていることは確かである。しかし、その違いを認識できるのは、その違いにもかかわらず成立している不変の自分なるものがあるからではないか。こういった発想は根強く、誘惑的でさえある。だが、このような見方は出発点のところで誤っているのである。このプロセスを時間的に分断し、対比することで、われわれは過去の自分と現在の自分とを別々のものとして立て、それから両者の同一性を考えるという道に迷いこんでしまう。過去の自分と現在の自分という二つの自分があるのではない。あるのは、今働いている自分ただ一つである。生成しているところにしか自分はない。

 過去の自分は、身体として意味として現在の自分のなかに統合されており、その限りで過去の自分は現在の自分と重なることになる。身体として統合されているとは、たとえば、運動能力に明らかである。最初はなかなかできないことでも、訓練を通じてわれわれはそれができるようになる。そして、いったん可能となると、今度はその能力を当たり前のものとしてわれわれは使用する。また、意味として統合されているとは、われわれが過去の経験を土台として現在の意味づけをなしていることに見られるとおりである。現在の自分が身体的、意味的統合を通じて、結果として過去の自分を回収する。換言すれば、回収されて初めて、過去の自分は「現在の自分の過去」という資格を獲得できるのである。

 統合が意識されている場合もあれば、意識されていない場合もある。したがって、現在の自分へと回収されている過去の自分が、それとして常に意識されているとは限らない。むしろ、忘れられていることの方が多いと思われる。二十年前の今日のことが記憶にないからといって、それ以前の自分とそれ以後の自分とが断絶しているということにはならない。第一、二十年前から今日現在までのことを、とぎれることなく記憶していること自体不可能である。重要なのは、何を忘れ、何を覚えているかである。つまり、自分の出会ったさまざまな経験を、どのようなものとして引き受け、意味づけているかである。そして、そのような過去への姿勢を、現在の世界への姿勢として自らの行為を通じて表現するということが、働きかけるということであり、他者からの応答によってその姿勢が新たに組み直されることが、自分の生成である。そしてこの生成の運動において、いわゆる自分の自分らしさというものも現れるのである。

 この運動を意識的に制御できると考えてはならない。つまり、自分の自分らしさは、自らがそうと判断すべき事柄ではないし、そうあろうと意図して実現できるものでもない。具体的に言えば、自分のことを人格者であるとか、高潔な人柄であるとか考えるなら、それはむしろ、自分がそのような在り方からどれほど遠いかを示しているのである。また、人格者になろうとする意識的努力は、それはどれほど真摯なものであれ、いや、真摯なものであればあるほど、どうしてもそこには不自然さが感じられてしまう。ここには、自分の自分らしさは他人によって認められるという逆説が成立する。このことは、とりわけ意識もせずに、まさに自然に為される行為に、その人のその人らしさが紛(まご)う方なく認められるという、日常の経験を考えてみても分かるだろう。

 自分とはこういうものであろうと考えている姿と、現実の自分とが一致していることはむしろ稀である。それは、現実の自分とはあくまで働きであり、その働きは働きの受け手から判断されうるものだからである。しかし、そうであるならば、自分の自分らしさは他人によって決定されてしまいはしないか。ここが面倒なところである。自分らしさは他人によって認められるものではあるが、決定されるわけではない。自分らしさは生成の運動なのだから、固定的に捉えることはできない。それでも自分らしさが認められるというのは、自分について他人が抱いていた漠然としたイメージを、一つの具体的行為として自分が現実化するからである。しかし、その認められた自分らしさは、すでに生成する自分ではなく、生成する自分の残した足跡でしかない。

 いわゆる他人に認められる自分の自分らしさは、生成する自分という運動を貫く特徴ではありえない。かといって、自分で自分らしさをとらえることもできない。結局、生成する自分の方向性などというものはないのだろうか。

 生成の方向性は生成のなかで自覚される以外にない。ただこの場合、何か自分についての漠然としたイメージが具体化することで、生成の方向性が自覚されるというのではない。というのは、ここで自覚されるのは依然として生成の足跡でしかないからである。生成の方向性は、棒のような方向性ではなく、生成の可能性として自覚されるのである。自分なり、他人なりが抱く自分についてのイメージ、それからどれだけ自由になりうるか。どれだけこれまでの自分を否定し、逸脱できるか。この「……でない」という虚への志向性が現在生成する自分の可能性であり、方向性である。そして、これはまさに自分が生成する瞬間に、生成した自分を背景に同時に自覚されるのである。

 このような可能性のどれかが現実のなかで実現されていくが、それもわれわれの死によって終止符を打たれる。こうして自分の生成は終わり、後には自分の足跡だけが残される。

 だが、本当にそうか。なるほど、自分はもはや生成することはないし、その足跡はわれわれの生誕と死によってはっきりと限られている。しかし、働きはまだ生き生きと活動している。ある人間の死によって、その足跡のもっている運動性も失われるわけではない。つまり、残された足跡を辿る人間には、その足の運びの運動性が感得されるのであり、その意味で足跡は働きを持っているのである。われわれがソクラテスの問答に直面するとき、ソクラテスの力強い働きをまざまざと感じるのではないか。

 自分としてのソクラテスは死んでいるが、働きとしてのソクラテスは生きている。生成する自分は死んでいるが、その足跡は生きている。正確に言おう。自分の足跡は他人によって生を与えられる。われわれの働きは徹頭徹尾他人との関係において成立し、他人によって引き出される。そして、自分が成立することを止めてからも、その働きが可能であるとするならば、その可能性はこの現在生成している自分に含まれているはずである。そのように、自分の可能性はなかば自分に秘められている。この秘められた、可能性の自分に向かうのが、虚への志向性としての自分の方向性である。

(池上哲司『傍らにあること――老いと介護の倫理学』)



③現代医学の最先端「遺伝子医療」の光と闇を知る

「遺伝子治療」遺伝子工学の進歩を背景に遺伝性疾患に対する根本的治療法として生まれてきたもので、元々は病気の細胞が持つ遺伝子の傷そのものを治すというもの、つまり、「遺伝子を治す」治療でした。現在では、細胞に何らかの遺伝子操作を施して治療を行うもの全般、つまり、「遺伝子で治す」治療を広く指しています。そのため、遺伝子治療の対象となる疾患は、遺伝性疾患に限らず、がんなどの難治性疾患も含まれています。

 例えば、がんの遺伝子治療では、がん抑制遺伝子をがん細胞内に注入することで、がん細胞の異常増殖を止め、細胞死アポトーシス)へと導きます。標準治療では副作用を伴うこともありますが、がん遺伝子医療で使用する抑制遺伝子は正常細胞に悪影響を及ぼすことが無いため、副作用は少ないとされています。そのため、体力の少ない小児や高齢者の癌にも適応可能です。一方で、現時点では次のような問題点が指摘されています。

1、 未承認治療ゆえのリスク

 ノーベル賞を受賞した本庶佑(ほんじょたすく)医師が開拓した「免疫チェックポイント阻害剤」は考案してから許認可を受けるまで約20年かかっているように、遺伝子治療も許認可を受けるまでには相応の時間を要するでしょう。

2、 医療連携が難しい

 未承認治療である遺伝子治療は公的に承認されている標準治療を補完する立場で成り立つものなので、原病を管理している医師が反対している場合には遺伝子治療を提供することはできなくなります。

3、 治療費(薬剤費)が高額

 遺伝子治療は先端医療となるため、自由診療として全額自費負担となります。一般的に1回の治療費は30万円以上で、複数回の治療が必要になり、最低でも200~300万円はかかると考えておく必要があります。

4、 治療適応を精密に確認する方法が未確立

 現在の医療では「プレシジョン・メディシン」(precision medicine、精密医療)と言われるような、「各種がんの遺伝子変異を同定して、それに応じた適切な分子標的薬を投与する医療」という考え方が主流となっており、遺伝子治療こそ、各患者ごとに治療ターゲットが最適かどうかの遺伝子変異を確認し、個人レベルで最適な治療を提供すべきであると言えます。しかしながら、これらを精密に確認する方法はまだ確立されていません。

5、 不適切な広告の存在

 まだ十分立証されていない医学的情報を断定的な表現で提示することは、治療に対する誤解や過度の期待を招くことになります。

「遺伝子組み換え技術」ある生物から目的とする遺伝子(DNA)を取り出し、別の生物のゲノムに導入することで、その生物に新しい性質を付与する技術です。ゲノム研究遺伝子組換え技術は、互いに支え合う関係にあります。生物が持っている遺伝子の数は生物によって異なり、高等動植物は数万個の遺伝子を持っていますが、遺伝子組換えによって導入される遺伝子の数は通常は1個~数個です。遺伝子組換え技術では、あらゆる生物の遺伝子が利用可能で、例えば、農作物に遺伝子を導入しようとする場合、交配不可能な植物の遺伝子はもちろんのこと、微生物や動物の遺伝子も使うことができます。そのため、交配などの従来の育種法では実現困難な形質を付与することも可能で、農作物の育種(品種改良)の可能性を大きく広げることができます。

「ゲノム編集」ゲノム内のDNA配列を意図的に切断し、切断されたDNAが修復される過程で必要な遺伝子の機能が書き換えられることを狙った技術で、遺伝子の機能を「停止」する、もしくは「強化」することができます。ゲノム編集は2000年頃から、従来の遺伝子組換えに代替する技術として注目が集まり、これまでにさまざまなゲノム編集酵素が開発されています。

  遺伝子組換え技術では、外来遺伝子が生物のゲノムのどこに挿入されるかも、どのような働きをするかも十分にコントロールすることができないため、想定しない機能を持つ生物を生み出す可能性があったり、新たな病気を引き起こす危険性があったりするなど、安全面や倫理面の課題が実用化の妨げとなっていました。

 一方、ゲノム編集はあくまでその生物が持つDNAの狙った場所を切断して編集するため、遺伝子組換えと比較して、安全性が高いことが分かっています。ただ倫理面での課題は残っており、あくまでも治療目的でのゲノム編集だとしても、どこまでゲノム編集技術を施すことが許容されるかは法整備や社会の変遷とともに変わってくると言えます。

「デザイナー・ベビー」~受精卵の段階で遺伝子操作などを行うことによって、親が望む外見や体力・知力等を持たせた子供の総称です。デザイナー・チャイルド(designer child)、ジーン・リッチ(gene rich)、ドナー・ベビー(donor baby)とも呼ばれます。1990年代から受精卵の遺伝子操作は遺伝的疾病を回避することを主目的に論じられてきましたが、「より優れた子供を」や「思い通りの子供を」といったの親の「パーフェクトベビー願望」から、外見的特長や知力・体力に関する遺伝子操作も論じられるようになってきました。しかしながら、子どもが特定の性質を持つように事前に遺伝子を設計することは、技術的にも倫理的にも強く問題視されています。



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(4)「終末期医療」から発達した「死生学」の奥深さ

①「死」が「生」を規定すると見る「死生観」

「脳死」(brain death)~頭部外傷や脳卒中などで脳幹・大脳・小脳など脳全体の機能が失われ、二度と回復しない状態を指します。脳死は植物状態と混同されることがありますが、全く異なります。呼吸をつかさどる脳幹の機能消失は直ちに心臓の停止(心臓死、cardiac death)をもたらしますすが、人工呼吸器の出現で、脳以外の血液循環を保つことが可能になりました。すなわち、「脳死」は人工呼吸器の開発によってもたらされた新しい死の概念なのです。脳死移植では、この脳死状態で臓器を摘出して移植しますが、心臓停止後の摘出より臓器としての活性度が高く、脳死の状態から心臓死に至るまで、普通は数日から1週間程度とされます。日本では、脳死になるのは全死者の約1%になると見られており、1年に8,000人ほどいるとされます。日本では脳死かどうかの判定には、旧厚生省研究班が1985年に作成した脳死判定基準(竹内基準)が使われており、①深い昏睡、②自発呼吸停止、③瞳孔の開き(散大)、④脳幹反射の消失、⑤平坦脳波、の6項目を必要な知識と経験を持つ、移植に無関係な2人以上の医師が行います。また、生後12週未満の小児については、法的脳死判定の対象から除外されています。

 一方、植物状態(vegetative state)とは大脳の機能の一部または全部が損なわれ、意識がないなどの状態ですが、脳幹は生きています。このため、自発呼吸ができ、人工呼吸器はほとんど使いません。治療次第では意識が戻ったり、回復したりすることもあります。

「臓器移植」(organ transplantation)~1997年10月16日に臓器移植法が施行され、非常に注目を集めました。なぜなら、「脳死を人の死とする」というように法律で人の死を定義してよいか、という死生観に関わる宗教的哲学的問題があったからです。長年、心臓死を人の死と考えてきた日本人にとって、「見えない死」「慣れない死」とも言われる脳死に違和感があるのも事実であり、人工呼吸器によるものとはいえ、呼吸をし、心臓も動いていて体温もある脳死体は、一見すると「深い昏睡状態」に見えるため、家族がそれを「死」として心情的に受け入れがたいということもあります。結果として、「臓器移植を希望する人においてのみ脳死は人の死」という形になりましたが、死生観(views of life and death)について本格的な議論をする契機となりました。

 実際の医療現場では、従来の蘇生・延命といった「生かす治療」から臓器移植をふまえた「活かす治療」が本格化してくることになり、ドナー(donor=臓器提供者、臓器の受手はレシピエント=recipientという)の立場からすれば、「人生最後のボランティア」の道が開かれたことになります。

 さらに2010年7月17日に改正臓器移植法が施行され、本人の意思が不明な場合にも家族の承諾があれば脳死下の臓器提供ができることとなり、15歳未満であっても脳死下の臓器提供が可能となったため、小さな体の子どもたちの心臓や肺の移植の道が開かれました。

また、死後に臓器を提供する意思に併せて、親族に優先的に提供できる意思を書面により表示できるとした「親族優先提供」も2010年1月17日に施行されています。

「人体の商品化」(Organ Sale)~「21世紀は生命科学の時代」と言われ、人類は生命、特に人体という自らの「内なる自然」を新たなフロンティアと位置づけ、そのあらゆる次元で現象解明の作業を強化し、広範な応用に取り組み始めたとされますが、こうした傾向に対して真っ先に発せられるのが「人体の商品化」への恐れです。

 米国では1984年の臓器移植法により、心臓や肝臓など指定された主要臓器に関しては、提供者が出れば全米規模の分配ネットワークに載せられます。しかし、法律の対象とならなかった骨・軟骨・皮膚・腱・心臓弁などは、少なからぬ数が遺族の同意で遺体から取り出され、医療用として加工されて販売されているのす。人体組織の加工会社は、すでにNY市場やナスダックに上場しており、新産業としての社会的認知は着実に進んでいます。さらには多様な用途に加工された人体組織のカタログが日本に出回り、一部では輸入も始まっているのです。

『人体市場 商品化される臓器・細胞・DNA』(L・アンドルーズ、D・ネルキン、岩波書店)

 本書では、アメリカだけで1300の企業と170億ドルの資本を有するバイオ産業の急成長ビジネス分野、「人体ビジネス」が取り上げられています。例えば、特殊な症例で死んだ患者や特殊な家系の人々の検体など、本人達は病院で検査を受けただけと思っていても、あっという間に「市場」に流れ、高値がつくと言います。こうした「人体市場」でどのようなビジネスが行われ、どのような訴訟が起こっているかを、科学者と法律の専門家の2人の著者が丹念にレポートしたのが本書です。全編を通して「人体は誰のものか」という議論が貫かれており、知的所有権の概念の変更の可能性についても触れています。



②「死」を直視せざるを得なくなった「終末期医療」

「終末期医療」(terminal care)~がんの末期など死期が近づいた人に苦痛や死の恐怖をやわらげる医療です。「死の受容」「生の充実」が重要な要素となり、「する」治療(cure)の手段は尽きても患者を孤独にせず、最後までそばに「いる」看護(care)を心がけ、全人的アプローチを積極的に行う必要があるとされます。これに関連して死生学(タナトロジ-、thanatology)も1970年代から飛躍的に進歩を遂げ、「死」に対する多角的考察もなされるようになりました。これはギリシア語のthanatos(タナトス、死)とlogos(ロゴス、学問)の合成語で、今日では一般的に「死」と「死への過程」の諸問題を学問的に扱う研究を指します。具体的には、人間が如何によりよく生き、自己の生命の終わりを全うするかについて、医学・看護学・心理学・法律学・社会学・神学・哲学などから多角的に考察しようとするもので、エリザベス・キューブラー・ロス『死ぬ瞬間』などの著作を契機に、1970年代から飛躍的な進歩を遂げました。この中で自立した死生観の確立を目指した死への準備教育(death education)、末期患者の家族と遺族に対する悲嘆教育(grief education)といった観点は注目されます。

「ホスピス」(hospice)~末期患者のケア・システム緩和ケア(palliative care)。その中心概念は「死にゆく患者と共に歩む」です。WHO(世界保健機構)方式で痛みのコントロールを行うと、痛みの90~95%は意識を保ったまま除去できるとされます。つまり、ホスピスは患者が病気と闘うために来るのではなく、生活をする場所なのです。一昔前まで医学界では、終末期を扱うホスピスを「医学の敗北」ととらえており、その根底には「医療とは延命のためにある」という考え方がありました。実際にケアに携わっている専門の医師が非常に少ないという現実がそこにあり、一般病院や診療所でも緩和ケアが普及しているとは言い切れないので、「安楽死」の議論の前にまず緩和ケアの充実が先決であると言えます。積極的に「死にたい」と思うホスピス患者のほとんどは、生きている意味が見出せなくなる「実存的な苦痛」(spiritual pain)によるものであるとされ、こうした心の苦しみを癒すことを「スピリチュアル・ケア」(spiritual care)と言います。「なぜ私は不治の病になったのか」「私の人生はこれで良かったのか」などと、人間の生死に関わる、究極的で簡単には答えられない問いかけをして苦しむホスピス患者に対して、じっくり話を聞くなどの方法で苦しみを和らげるのです。

 さらに「家で最期を」と願う人は約8割ですが、その願いが叶った人は、5人に1人もいなません。ほとんどの人が最期を迎えるのは病院です。しかし、ホスピスは必ずしも施設を意味するわけではなく、欧米ではむしろ在宅の方が多いのです。日本でも1994年から在宅ホスピスに医療保険が適用されており、対象は通院が困難な末期のがん患者となっています。少なくとも医師が週1回、看護師が週3回訪問し、痛みの緩和などの治療を行います。

「尊厳死」(dying with dignity)~不治で末期に至った患者が、本人の意思に基づいて、死期を単に引き延ばすためだけの延命措置を断わり、自然の経過のまま受け入れる死のことです。生命維持装置を付けられた患者は集中治療室の中で、人工呼吸装置、人工栄養装置、水分補給装置、持続導尿あるいは人工透析装置などに接続された上、脳波、心電図、血圧、脈拍、呼吸などの持続的モニタ-の器具ともつながれるため、患者はチュ-ブや電線などに囲まれて、俗に「スパゲッティ症候群」(spaghetti syndrome)と呼ばれる状態で生かされ続けています。このような状態で生きていることに疑問を感じ、生命維持装置などの延命医療の介入を止めて、寿命が来たら息を引き取れるよう自然な状態に戻してもらって、自分らしい死を迎えたいという「リビング・ウィル」(living will、生前の意思表示)を残す人が増えていきました。つまり、一分でも長く生きていることに生命の尊さや神聖さを認めるのではなく、自分らしい生き方をして死ぬことに「生命・生活の質」(QOL=quality of life)の高さを感じ、自然死すなわち尊厳死と考えるということです。これは自分の生命の終わりは自分で決めるという「事前指示」として欧米各国に広がりつつあり、日本でも無理な延命をせずに自然な死を迎えたいと、積極的な意思表示を文書で表明する人の数が増えています。リビング・ウィルの内容をよりきめ細かくする動きとしては、カナダで始まった「レット・ミー・ディサイド」(LMD=Let me decide. 自分で決める自分の医療)の事前指定書などが挙げられます。

 患者の「死ぬ権利」(the right to die)が議論されたケースとしては、1970年代の昏睡状態となった女性の延命治療を巡る、米国の「カレン裁判」が有名です。この事件で裁判所は、医師が家族らの同意の下で、回復の見込みが無い場合は生命維持の治療を中止できるとする判決を出し、これを機に尊厳死の考え方が広がりました。

「安楽死」(euthanasia)~死の苦痛を緩和するためにアヘンや催眠薬を使用することは古くからありますが、現在では死に瀕した患者から人工呼吸器などの生命維持装置を外したり、意図的に死期を早めて死の苦痛から解放することを「安楽死」と呼びます。これは治療行為の中止による「消極的安楽死」(negative euthanasia)と薬物投与による「積極的安楽死」(positive euthanasia)とに分けられます。患者の意思が不明のまま、家族にもはからず、医師個人が独断で行なう「同意なき安楽死は殺人」と見られています。

2002年4月、オランダで12歳以上を対象とした安楽死を合法とする新法が施行されました。これによって、12歳の子供でも本人が希望し、両親が同意することを条件に、医師が安楽死させることが許されることになったのです。しかし、これでオランダが完全な自殺自由の国になったことを意味するわけではなく、申請患者が耐え難く、絶望的な状況にあると2人の医師が認定しないことには、安楽死は認められません。事後的にも各々のケースを弁護士が検証する。オランダでは患者の自己決定権を尊重する法制度が確立されており、安楽死法は「インフォームド・コンセント」(informed consent 十分な情報を得た上での選択、同意、拒否)や「自己情報コントロール権」(カルテ開示を含む)などを定めた医療契約法(1994年)に立脚しています。

また、2002年5月にはベルギーでも安楽死合法化法(2002年法)が成立しており、これは18歳以上を対象とし、安楽死を施した時には政府への報告が義務づけられました。さらに2014年には世界で初めて安楽死に関する年齢制限を撤廃する法律(2014年法)が制定され、これにより一定の制限の下で未成年者の安楽死が可能となりました。

 日本では1991年に、東海大学付属病院の医師が末期がん患者に塩化カリウムを注射して死なせるという事件が起き、横浜地裁はこの医師に執行猶予付きの判決を下しました(1995年3月)。患者は「人間的なターミナルケア(終末医療)を受け、尊厳ある死を迎える権利を有する」(1994年3月、世界保健機関「患者の権利促進宣言」)のであり、日本においても、オランダ安楽死法とほぼ同一の要件を満たす場合には、医師は刑事制裁を受けないとする判決が確定しています。東海大学安楽死事件判決では、患者の「死ぬ権利」は認められませんが、「死の迎え方ないし死に至る過程についての選択権」は認められ、「病名告知やインフォームド・コンセントは重要な前提条件である」と判示されました。この判決で、積極的安楽死が許容される要件として、次の4つが提示されました。

1、患者に耐え難い肉体的苦痛がある。

2、患者の死が避けられず、死期が迫っている。

3、苦痛を除くための方法を尽くし、代替手段が無い。

4、患者本人が安楽死を望む意思表示をしている。

『死にゆく人の17の権利』(デヴィッド・ケスラー、集英社)

 著者はキューブラー・ロス医師の弟子であり、アメリカのホスピス運動の専門家ですが、ここでは「生きている人間として扱われる権利」「看護に関するあらゆる決定に参加する権利」「孤独のうちに死なない権利」といった、死の淵にある人々の17の権利を紹介しています。3.5人に1人ががんで亡くなる時代、愛と尊厳に包まれた臨終について、文化を超えて訴えかけるものがあります。

『安楽に死にたい』(松田道雄、岩波書店)

 88歳をすぎた高名な小児科医である著者は、「安楽に死ぬ」ために日本の伝統文化の中にあった「安楽死」を復活せよ、と主張しています。自ら死を選ぶこと(自死)、つまり切腹、心中、絶食による干死(ひじに)などは、日本人の倫理的選択の一つであったのであり、自殺を悪とする考え方は、明治政府によって輸入されたユダヤ・キリスト教倫理によって作られたものだというのです。

 著者は、病院のベッドに囚人のごとく縛り付けられて「寝たきり」になることは、自由を失うことなので、そこで人生は終わったと考えています。現代では、病院で人間の尊厳を保てない形で生きることを強いられます。死期の近い患者には確かにケア介護)は必要ですが、無駄なキュア治療)をし続けるのは、薬を出さねば利益が出ず、数をこなさなければならない医療体制のためです。また、終末期医療延命治療)は高額な医療になるのです。

 かつて人は家で生まれ、家で死にましたが、1960年代に自宅出産が激減し、1970年には96%が病院で生まれました。そして、1975年以降、自宅での死が5割以下となり、今おそらく7割以上が病院で死を迎えるようになりました。家で死にたくても死ねない、死なせてくれない。医師が死の決定権を握って、無意味に延命させるからだ、と著者は主張しています。安楽死に反対する人々は、年老いた病人の世話を長くしたことのない人々であり、延命治療が一種の拷問であることに気がつかないとも言います。治療内容も開示せず、むやみに権威主義的な医者から、患者の生と死に関する自己決定権を奪い返すべきだと力説するのです。

『死を求める人々』(ベルト・カイゼル、角川春樹事務所)

 オランダの療養院を舞台に安楽死をめぐる人間ドラマを描き、世界10ヶ国でベストセラーとなりました。著者は首都アムステルダムの療養院に16年間勤務している内科医で、同院には常に280人ほどの入院患者がおり、年間約120人が息を引き取ると言います。この病院で安楽死を選択するのは、せいぜい1年に1人であり、著者自身が直接関わったのは16年間で11人です。著者が安楽死の現場にとどまり続けるのは、重い病気の人は自殺さえできず、患者がこれ以上生きていたくないと訴えた時、その気持ちを理解できるからだと言います。

『操られる死――<安楽死>がもたらすもの』(ハーバード・ヘンディン、時事通信社)

『医師はなぜ安楽死に手を貸すのか』(チャールズ・F・マッカーン、中央書院)

 この2冊は、医師による「積極的安楽死」について、賛成と反対のそれぞれの立場から書かれた米国の書物の翻訳です。強いて医療措置を行なわないという「消極的安楽死」については、本人の意思表示が明確である場合には、両書共問題が無いという立場を取っています。しかし、精神科医師であるヘンディンは米国自殺予防財団の医療責任者でもあり、安楽死に対しては深刻な憂慮をもって反対しています。安楽死を最初に合法化した「安楽死先進国」オランダの実情も丁寧に批判しており、「安楽死の合法化」は結局、「滑りやすい坂」を滑り落ちるだけであると言います。これに対して、ガン治療の専門医であるマッカーンは医師による安楽死に賛成の立場を表明しており、ヘンディンの言うような事態は起きないと主張します。第一線の医師達によって、こうした相反する立場がきわめて明確に表明されるということは、現在の米国社会が置かれた状況を如実に示していると言え、議論らしい議論が起きない日本社会に一石を投じ得るものとして重要です。



③「人生論」「人間学」は「死生学」を必要とする

『パイドン』プラトンの著書で、副題は「魂の不死について」。ソクラテス亡き後、弟子のパイドンが哲学者エケクラテスにソクラテスの最期の様子を語るという形式で書かれています。イデア論霊魂論プシュコロギア)が初めて登場する重要な哲学書です。

『国家』プラトンの主著。イデア論を中心に、魂の三分説国家の三階級を連動させ、四元徳で連結しました。これにより、個人の教育と哲人政治の実現が連結され、後世のユートピア文学や共産主義にも多大な影響を与えました。また、末尾にある「エルの物語」は、エルが死後12日間に渡って体験した臨死体験という体裁で語られる霊界探訪物語としても知られます。

諸法無我~ガウタマ=シッダールタの主要な悟りである「四法印」の一つで、変わらない自己の本質というものはないということを指します。それ自体で存在するような恒常不変の実体は何も無く、存在するものを固定的に捉えてはならないとすることです。

常見~絶対的な我が生まれ変わり、死に変わりして輪廻転生するという考えです。元々バラモン教の思想であり、ガウタマはこれを否定しましたが、仏教説話が量産される中で、いつの間にか仏教思想の中に取り込まれていきました。

断見~死ねば肉身は土に帰って、存在は無に帰すという考えです。ガウタマ当時の自由思想家六師外道)の中にも見られる唯物論的な思想でありますが、ガウタマはこれを否定しました。

『往生要集』恵心僧都源信(えしんそうずげんしん)が様々な経典を参照して、極楽浄土や地獄について述べたもので、その生々しい地獄描写は人々を念仏信仰に導くための脅しでもありましたが、霊界について探求するスピリチュアリズムの観点からは、ダンテ『神曲』スウェーデンボルグ『霊界日記』などと共によく研究、引用されます。

 源信は、延暦寺中興の祖にして第18代天台座主である元三大師(がんざんだいし)良源の弟子であり、日本浄土教の祖として、親鸞が定めた浄土真宗七高僧のうちの第六祖に挙げられます。横川にある恵心院に隠棲して念仏三昧の求道の道を歩み、恵心僧都と呼ばれ、時の最高権力者藤原道長も帰依しています。紫式部『源氏物語』芥川龍之介『地獄変』に登場する横川の僧都は、源信をモデルにしているとされます。法然源信『往生要集』によって善導の浄土思想に導かれており、親鸞『教行信証』の末尾で源信の徳と教えを称えています。浄土信仰を広めるのに大きく貢献した『往生要集』は、中国の天台山からも評価され、「日本小釈迦源信如来」と称号を送られるほどでした。

『仙境異聞』本居宣長の死後の弟子を自称し、「国学四大人」の一人と呼ばれ、復古神道の創始者でもある平田篤胤が、神仙界を訪れ、呪術を身に付けたという少年寅吉(とらきち)からの聞書きをまとめたもの。篤胤は以前から異境や隠れ里に興味を抱いていましたが、寅吉の話により幽冥の存在を確信したとされます。

『葉隠』(はがくれ)~鍋島藩士山本常朝の著書。主君に対する絶対的忠誠とそれに根差した死の覚悟を説き、民に対する為政者としての自覚を求める士道(古学者山鹿素行)とは異質の武士道を示しました。『葉隠』は戦前には軍人必読の書とされました。

武士道というは、死ぬことと見つけたり」(『葉隠』冒頭文)。

死への存在~存在論哲学者ハイデッガーは、人間は誰もが自分の死を引き受けなければならず、死の自覚を介して初めて、本来的な自己のあり方を獲得することができると考え、本来の自己へと至るためには、死への不安から逃避することなく、死への存在であることを自覚しなければならないとしました。

生きる意味ロゴセラピー実存分析、意味中心療法)創始者であるオーストリアの精神医学者フランクルの中心概念です。フランクルはユダヤ人であったため、第二次世界大戦中にアウシュヴィッツ収容所に送られましたが、死への恐怖や飢えにより精神的自由すら奪われてしまう極限状況での体験から、人間らしい生き方とは何かを探究し、生きる意味を見出すことの重要性を説きました。

『夜と霧』(ビクトル・エミール・フランクル、みすず書房)

 第二次世界大戦中のナチスによるアウシュビッツ強制収容所での体験を、精神科医の目で記しています。著者フランクルは1905年に生まれ、ウィーン大学でフロイトアドラーから精神分析を学び、神経症の理論と治療の研究に専念しますが、ナチス・ドイツがオーストリア併合後、彼がユダヤ人であることから一家は捕らえられてしまうのです。家族は強制労働の名目で集団的殺人組織・機構を持つポーランド南部のアウシュビッツに送られ、餓死または毒ガス室で死亡しますが、フランクル医師のみ強制重労働と極度の栄養失調によく耐え、終戦後にウィーンに生還しました。彼は精神病理学者として、人間が耐えられない極限状況に置かれた場合、精神はどのような変化をとげてゆくかを最後まで見届けて、その記録を残そうとひそかに準備したのであり、この「死の記録」を実存哲学者ヤスパース「今世紀の最も重要な書物の1つ」に挙げています。アメリカ図書館協会も、同書は「歴史上これまで最も多く読まれてきた10冊の書物のうちの1つ」と発表しました。

 例えば、悲しみや苦しみの中に妻への愛の心の絆をイメージすること、また悲惨な状況の中での自然の美、同じ危機にある囚人同士の間でのユーモアのある言葉の交換、受身の死の受容ではなく死を自分のものにした心の境地(これはがん末期患者のホスピスにおける死の受容にも似たものです)、死にゆく仲間の囚人に対して医師としての魂の支え(信仰深いフランクルはそれを十字架として背負って生きました)、といったことがフランクルに生き抜く力を与え、彼は生の限界の中で生きる人間の意味づけを世に問い、訴えたのです。フランクルは1955年からウィーン大学精神神経科教授となり、精神分析実存主義を取り入れ、人間の意識の深層における生きることを志向した精神的実存的人間の発見を意図して、人格的心理療法ロゴセラピー)を創始し、理論と共に癒しの技の臨床に長年従事しました。

『臨床死生学事典』(平山正美ら、日本評論社)

 社会人向け夜間大学院として出発した東洋英和女学院大大学院で臨床医学を学んだ50人全員が、死と生を考える本を出版しました。執筆担当者には看護婦、カウンセラーら臨床の現場で働く人の他、主婦、高校教員、牧師もおり、年齢も20代から60代と幅広く、テーマも死生学概論、生命倫理、医療と死など、193項目にも及ぶものとなっています。

『奇蹟の生還』(マ-ロン・ジョンソン、ジョセフ・オルシャン共著、ソニ-・マガジンズ)

 自らもエイズ研究をする神経病理学者マ-ロン・ジョンソンのエイズとの闘いの記録です。1992年、エイズ患者の死体解剖をしていたジョンソンは、メスで指を切ってエイズに感染してしまいます。以後、自分の体を実験台にして独自の治療法を実践し、新薬を投与し、体を鍛え、自分の免疫力を監視する日々となり、薬の副作用が相当なものであるにもかかわらず、果敢に挑んでいった結果、ついにウイルスが検出されないという驚異的な結果が現われたのです。

 ジョンソンは並み外れた精神力と体力の持ち主であるわけではなく、感染者の誰もがそうであるように、死の恐怖や偏見・差別に打ちのめされてもいます。そして、それまで仕事一筋だった人生を悔い、人間としての幸せを探求し始めるのです。その切実な願いは女性と愛し合い、家庭を築くことでした。感染後のジョンソンは、人が変わったように積極的に周囲の人々と豊かな関係を持ち始めるのですが、そういった変化が彼に奇蹟を起こさせたのかもしれません。

『生と死の現在(いま)』(読売新聞北陸支社編、桂書房)

 読売新聞富山・石川両県版で、1996年6月から1年3ヵ月にわたって「生命の尊厳」をテーマに連載したものを、1冊にまとめたものです。生んでくれた母への感謝の気持ちを詩に託す進行性の筋萎縮病患者、乳幼児突然死症候群で娘を亡くし、その死を無駄にしないように同じ境遇の家族を支える両親など、55の人間模様が取り上げられています。この連載は、優れた医療記事に贈られるフォルマシア・アップジョン医学記事賞特別賞に選ばれました。



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(5)「臨死(ニア・デス)体験」の物語るもの

①科学的研究の対象となった「死後の世界」

エマニュエル・スウェーデンボルグ~スウェーデン王国出身の科学者、神学者、思想家(1688 〜1772年)。前半生は鉱山技師、科学者で、化学、地質学、天文学、解剖学など、様々な分野で先駆的な業績を残しており、特に大脳皮質論の先駆性は高く評価されています。50代から幻視体験をするようになり、霊との会話や霊界探訪の記録を残していて、その多くが大英博物館に保管されています。代表的著作は『霊魂の王国』『天界の秘儀』『天界と地獄』『夢日記』などです。同時代人のカントをはじめ、後代に与えた影響は大きく、ヘレン・ケラーなどもスウェーデンボルグの教説によって霊的世界の実在を確信し、三重苦を超越する希望を見出したとされます。

「その夜、その同じ人(イエス・キリスト)が再び私に現われたのです。私は今度は恐れませんでした。彼は「私は主なる神、世界の創造主にして贖罪主である。人々に聖書の霊的内容を啓示するために汝を選んだ。この主題に関して何を書くべきかを汝に示そう」と語りました。そしてその夜、霊たちの世界や地獄および天界が、はっきりと私に開かれたのです。私はそこで、生涯のあらゆる場面で出会った多くの知人たちと再会しました。そしてその日以来、私は一切の世俗的な著述活動を放棄し、私の研究を霊的な事柄に捧げたのです。」(1745年4月にロンドンのホテルで起きた自らの召命について、スウェーデンボルグが友人の銀行家カール・ロブサームに語った言葉)

「古来、洋の東西を問わず、いわゆる霊界書と呼ばれる書物はいくつかあった。『エジプトの死者の書』、『チベットの死者の書』、日本の平安時代の『往生要集』などが代表的なものだが、ダンテの『神曲』と、浄土教の教典『無量寿経』(サンスクリットの原題は『スカーバティービューハ』)も加えられよう。

 これらの書と対比して、スウェーデンボルグの霊界書、つまり一連の神学著作の根本的な特徴は何であろうか。それは、近代科学の洗礼を受けた人間が書いたという点であり、また、文学的な想像力や他人からの伝聞に基づいて書かれたものではないという点である。

前章で概観したように、スウェーデンボルグに死後の世界の扉が開かれたのは一七四五年、彼が五七歳のときであった。以後、ロンドンで客死するまでの二七年間、彼は自然界と霊界とに同時に住み、生きながらにして前人未踏の世界へ分け入り、その未知の世界をあますところなく記録したのである。

 バルザックはスウェーデンボルグをテーマにした小説『セラフィタ』の中で、作中人物をしてこう語らしめた。「スウェーデンボルグが案内役の天使に連れられて昇ってゆく最初の旅の描写は崇高で、クロップシュトックやミルトンやタッソーやダンテの叙事詩をさえ、神が地球と太陽とを引き離した距離ほどに、凌駕(りょうが)しているとも云えるでしょう」(蛯原徳夫訳、角川文庫)

 また、今世紀最大の小説家のひとりと称されるJ・L・ボルヘスは、隠喩の体系を用いる他の神秘主義者の著作と比較して、「スウェーデンボルグの著作にはそのようなものはまったく存在しない。彼の作品は、見知らぬ土地を旅し、その様子を冷静な態度で綿密に描きだしてゆく旅行者の記録を思わせる」(『ボルヘス、オラル』木村榮一訳、水声社)と述べているのである。」(高橋和夫『スウェーデンボルグの思想』)

「(スウェーデンボルグは)偉人であり,論議の余地のない教養人であった。強靭な数学的知能の持ち主であり、いとも敬虔で、最高の天使的性格の持ち主であった。私には美しくて、慕わしく、しかも悲劇的人物のように思われる。…彼の著作には誰よりも多くの真理が表明されている。」(イギリスの歴史家・評論家トマス・カーライル

「私はスウェーデンボルグをどのカテゴリーに入れてよいかわからない。…哲学者,見者,それとも神秘家なのか。これらのすべてだ、と私は思う。彼はみずからの個人的体験の基礎をふまえて現代の臨死体験の発見したものを先取りしているようだ。彼が多くのことを語り得たのは、真にまったく異例なことなのだ。臨死体験をした人は本質的に死の入口をかいま見たにすぎない。スウェーデンボルグは死という家全体を探索したのだ。」(アメリカの心理学者、国際臨死研究協会の共同創設者 ケネス・リング

「なぜスウェーデンボルグは綿密な吟味に値するのだろうか。それは偉大な詩人や散文作家たちが彼から自由にその思想を借り受けてきたという事実があるからだ。そのリストは長い。…まず、彼の霊的な直系であるブレイク、次にスウェーデンボルグの熱烈な読者だったゲーテ、そしてエドガー・アラン・ポー、ボードレール、バルザック、ミツキエヴィチ、エマソンと続く。さらにリストはドストエフスキーまで続くが、彼の作品の中に登場するスヴィドリガイロフ(『罪と罰』)や、ゾシマ長老の説教(『カラマーゾフの兄弟』)に、私たちはスウェーデンボルグの反映を見出す。」(リトアニア系ポーランド人の詩人、作家、エッセイスト、翻訳家チェスワフ・ミウォッシュ

「其上(そのうえ)彼はシュエデンボルグがどうだとかこうだとか云って、無学な私を驚かせました。」(夏目漱石『こころ』)

「 彼(スウェーデンボルグ)の心は余の構想力を越えた心であった。…スウェーデンボルグから完全な真理を得ようと欲する者は躓くであろう、しかし真の学者的謙遜と基督信徒的畏敬とをもって彼のもとに行く者は、余は疑わない、大いなる祝福を受けて出で来るであろう。…あの著しい人の余の思想に及ぼした影響は常に健全であった。」(内村鑑三『余は如何にして基督信徒となりし乎』)

「我は「スウェーデンボルグ」の著述の或るものを読みて大なる喜びを感ず。彼の教説の多くは受くるる能わずいえども、彼は聖書の最も難しき個所の多くを解明するに大いに我を助けくるなり。彼は偉大なる人、愛すべき人、疑いなく力強き思想家なり。彼は多くの者には神秘的なり。しかし彼の精神を理解する人々には、1メソジスト牧師の我に述べる如くに、「気狂い」a crazy にはあらず。」(内村鑑三、1885年4月19日付、新渡戸稲造に宛てた書簡)

「スウェーデンボルグは愛の人である。世の人は,彼の不思議な超人間的な経験のみを知って、愛の使徒であることを知らない。…多くの人が,この愛の賢人を理解しないで、いたずらに異端視することは、文明にとって最大の損失である」(内村と共に「日本を代表する二大クリスチャン」と目される賀川豊彦

エリザベス・キューブラー・ロス「死」に関する科学的な認知を切り開いた精神科医(1926〜2004年)。終末期研究の先駆者として知られ、彼女が切り開いた終末期医療は世界中の多くの医学部で必修科目となっています。その著書『死ぬ瞬間』(1969年)は世界的なベストセラーになるとともに、死生学の基本テキストとして世界中で読み継がれています。

 特に「死の受容プロセス」を科学的に捉え、次のような5段階モデル(キューブラー・ロス・モデル)で表現しています。

第1段階:否認と孤立(denial & isolation)

 自らの命が危機にあり、余命があとわずかである事実に衝撃を受け、それを頭では理解しようとするが、感情的にその事実を否認(逃避)している段階です。

第2段階:怒り(anger)

 自分が死ぬという事実は認識できたが、「どうして悪いことをしていない自分がこんなことになるのか」「もっと悪いことをしている人間がいるじゃないか」というような怒りにとらわれる段階です。

第3段階:取り引き(bargaining)

 信仰心がなくても神や仏にすがり、死を遅らせてほしいと願う段階です。

第4段階:抑うつ(depression)

 「ああ、これだけ頼んでもダメか」「神も仏もないのか」というように、自分なりに神や仏に祈っても、死の回避ができないことを悟る段階です。

第5段階:受容(acceptance)

 それまでは、死を拒絶し、なんとか回避しようとしていたが、生命が死んでいくことは自然なことだという気持ちになる段階です。 

 さらにキューブラー・ロスは死への過程のみならず、死後の世界に関心を向けるようになりました。そのきっかけは自分の担当していた患者が死に直面する時に幽体離脱を経験しており、離脱中の描写があまりに正確だったことから、魂の存在を認めるに至ったと言います。彼女自身も幽体離脱を体験し、霊的存在との交流などを著書や講演で語っており、こうした臨死体験『死後の真実』(1991年)、『「死ぬ瞬間」と臨死体験』(1995年)などで述べられています。

『死ぬ瞬間』(E・キュ-ブラ-・ロス、読売新聞社)

 キュ-ブラ-・ロスは、死にゆく人々(=末期患者)との深い会話を通じて、延命一辺倒の現代医療は人間らしい「幸福な死」とは相いれないことを痛感し、末期医療のあり方に初めて鋭い疑問を突き付けました。実際、多くの医師が本書を読んで衝撃を受けており、ベストセラ-『病院で死ぬこと』を著わしたホスピス医の山崎章郎もその1人です。

【科学と非科学のはざま】(東京大学文科前期2019年度出題)

 「カオスの縁(ふち)」という言葉をご存知だろうか?この「カオスの縁」とは、一九六〇年代から行われているセル・オートマトンと呼ばれるコンピュータ上のプログラムを使った研究が端緒となり提唱された概念である。とても大雑把に言えば、二つの大きく異なった状態(相)の中間には、その両側の相のいずれとも異なった、複雑性が非常に増大した特殊な状態が現れる、というようなことを指している。

 身近なイメージで言えば、“水”を挙げられるだろうか。ご存知のように、水は気体・液体・固体という三つの形態をとる。たとえば気体の水蒸気は、水分子の熱運動が大きくなり、各分子が分子同士の結合力の束縛から放たれ、空間の中で自由気ままに振舞っている非常に動的な姿である。一方、氷は水分子同士が強固に結合し、各分子は自身が持つ特性に従って規則正しく配列され、理にかなった秩序正しい形を保っている静的な状態だ。

 その中間にある液体に、いわゆる“水”は、生命の誕生に大きく貢献したと考えられる、柔軟でいろんな物質と相互作用する独特な性質を多数持っている。水蒸気とも氷ともかなり異なった特性である。この“水”の状態で水分子が存在できる温度範囲は、宇宙のスケールで考えるなら、かなり狭いレンジであり、実際“水”を湛(たた)えた星そうそう見つからない。巨視的に見れば“水”は分子同士が強固に束縛された氷という状態から、無秩序でカオス的に振舞う水蒸気という状態への過渡期にある特殊な状態、すなわち「カオスの縁」にある姿と言えるのかもしれない。

 この「カオスの縁」という現象が注目されたのは、それが生命現象とどこかつながりを感じさせるものだったからである。生き物の特徴の一つは、この世界に「形」を生み出すことだ。それは微視的には有機物のような化学物質であり、少し大きく見れば、細胞であり、その細胞からなる我々人間のような個体である。そして、さらに巨視的に見れば、その個体の働きの結果できてくるアリ塚であったり、ビーバーのダムであったり、東京のような巨大なメガロポリスであったりする。

 しかし、こういった生物の営みは、自然界ではある意味、例外的なものである。何故なら、この世界は熱力学第二法則(エントロピー増大の法則)に支配されており、世界にある様々な分子たちは、より無秩序に、言葉を変えればカオスの方向へと、時間と共に向かっているはずだからである。そんなカオスへ向かいつつある世界の中で、「形あるもの」として長時間存在できるのは、一般的に言えば、それは構成する原子間の結合が極めて強いものであり、鉱物や氷といった化学的な反応性に乏しい単調な物質が主なものである。

 ところが、生命はそんな無秩序へと変わりつつある世界から、自分に必要な分子を取り入れ、そこに秩序を与え「形あるもの」を生み出していく。その姿はまるで「カオスの縁」にたたずみ、形のないカオスから小石を拾い、積み上げているかのようである。また、その積み上げられる分子の特徴は、鉱石などとは違い、反応性に富んだ物質が主であり、“不動”のものとして作り出されるのではなく、偶発的な要素に反応し、次々に違う複雑なパターンとして、この世に生み出されてくる。そして、それらは生命が失われれば、また形のない世界へと飲み込まれ、そこへと還(かえ)っていくのだ。それは分子の、この世界における在り方という視点で考えれば、“安定”と“無秩序”の間に存在する、極めて特殊で複雑性に富んだ現象である。

 また、生命の進化を考えてみよう。進化は、自己複製、つまり「自分と同じものを作る」という、生命の持続を可能とする静的な行為と、変異、つまり「自分と違うものを作る」という、秩序を破壊する、ある種、危険を伴った動的な行為の、二つのベクトルで成り立っている。現在の地球上に溢(あふ)れる、大きさも見た目も複雑さもその生態も、まったく違う様々な生命は、その静的・動的という正反対のベクトルが絶妙なバランスで作用する、その“はざま”から生まれ出てきたのだ。

 声明は、原子の振動が激しすぎる太陽のような高温環境では生きていけないし、逆に原子がほとんど動かない絶対零度のような静謐(せいひつ)な結晶の世界でも生きていけない。この単純な事実を挙げるまでもなく、様々な意味で生命は、秩序に縛られた静的な世界と、形を持たない無秩序な世界の間に存在する、何か複雑で動的な現象である。「カオスの縁」、つまりそのはざまの空間こそが、生命が生きていける場所なのである。

 「生きている」科学にも、少しこれと似た側面がある。科学は、混沌(こんとん)とした世界に、法則やそれを担う分子機構といった何かの実体、つまり「形」を与えていく人の営為と言える。たとえば、あなたが街を歩いている時、突然、太陽がなくなり、真っ暗になってしまったとする。一体、何が起こったのか、不安に思い、混乱するだろう。実際、古代における日食や月食は、そんな出来事だった。不吉な出来事の予兆とか、神の怒りとして、恐れられてきた歴史がある。

 しかし、今日では日食も月食も物理法則により起こる現象であることが科学によって解明され、何百年先の発生場所、その日時さえ、きちんと予測することができる。それはある意味、人間が世界の秩序を理解し、変わることのない“不動”の姿を、つかんだということだ。何が起こったのか訳が分からなかった世界に、確固とした“形”が与えられたのだ。

 一方、たとえばガンの治療などは、現在まだ正答のない問題として残されている。外科的な手術、抗ガン剤、放射線治療、こういった標準治療に加えて、免疫療法、鍼灸(しんきゅう)、食事療法など代替医療と呼ばれる療法などもあるが、どんなガンでもこれをやれば、まず完治するというような療法は存在しない。そこには科学では解明できていない、形のはっきりしない闇のような領域がまだ大きく広がっている。しかし、この先、どんなガンにも効果があるような特効薬が開発されれば、ガンの治療はそれを使えば良い、ということになるだろう。

 それはかつて細菌の感染症に対して抗生物質が発見された時のように、世界に新しい「形」がまた一つ生まれたことを意味することになる。このように人類が科学により世界の秩序・仕組みのようなものを次々に明らかにしていけば、世界の姿は固定され、新たな「形」がどんどん生まれていく。それは人類にもたらされる大きな福音だ。

 しかし、また一方、こんなことも思うのだ。もしそうやって世界の形がどんどん決まっていき、すべてのことが予測でき、何に対しても正しい判断ができるようになったとして、その世界は果して、人間にとってどんな世界なのだろう?生まれてすぐに遺伝子診断を行えば、その人がどんな能力やリスクを持っているのか、たちどころに分かり、幼少時からその適性に合わせた教育・訓練をし、待ち合わせた病気のリスクに合わせて、毎日の食事やエクササイズなども最適化されたものが提供される。結婚相手は、お互いに遺伝子型の組合せと、男女の相性情報の膨大なデータベースに基づいて自動的に幾人かの候補者が選ばれる。

 科学がその役目を終えた世界。病も事故も未知もない、そんな神様が作ったユートピアのような揺らぎのない世界に、むしろ「息苦しさ」を感じてしまうのは、私だけであろうか?

 少なくとも現時点では、この世界は結局のところ、「分からないこと」に覆われた世界である。目をつぶって何かに、それは科学であれ、宗教であれ、すがりつく以外、心の拠(よ)りどころさえない。しかし、物理的存在としての生命が、「カオスの縁」に立ち、混沌から分子を取り入れ「形」を作り生きているように、知的な存在としての人間はこの「分からない」世界から、少しずつ「分かること」を増やし「形」を作っていくことで、また別の意味で「生きて」いる。その営みが、何か世界に“新しい空間”を生み出し、その営みそのものに人の“喜び”が隠されている。そんなことを思うのだ。

 だから、世界に新しい「形」が与えられることが福音なら、実は「分からないこと」が世界に存在することも、また福音ではないだろうか。目をつぶってしがみつける何かがあることではなく。

 「分からない」世界こそが、人が知的に生きていける場所であり、世界が確定的でないからこそ、人間の知性や「決断」に意味が生まれ、そして「アホな選択」も、また許される。いろんな「形」、多様性が花開く世界となるのだ。それは神の摂理のような“真実の世界”と、混沌が支配する“無明の世界”とのはざまにある場所であり、また「科学」と、まだ科学が把握できていない「非科学」のはざま、と言い換えることができる空間でもある。

(中屋敷均「科学と非科学のはざまで」 『本』二〇一八年七月号 講談社)



②「臨死体験」「近似死体験」の「共通性」は「普遍性」を意味する

臨死体験の研究史~欧米では地質学者のアルベルト・ハイムが登山時の事故で自身が臨死体験(Near Death Experience)をしたことをきっかけに研究を行い、1892年に発表したことに始まります。1975年に医師のエリザベス・キューブラー・ロスと、医師で心理学者のレイモンド・ムーディが相次いで著書を出版したことで再び注目されるようになりました。 キューブラー・ロスの『死ぬ瞬間』は約200人の臨死患者に聞き取りし、まとめたもので、事例に関する統計や科学的アプローチが行われるようになりました。1977年にはジョン・オーデットを会長に臨死現象研究会が発足し、これは後に国際臨死体験研究会(IANDS)に発展し、国際会議が開かれています。1982年に行われたギャラップ調査では、当時のアメリカの臨死体験者の総数は数百万人に及んでいたと推測されています。

臨死体験のパターン~臨死体験には個人差がありますが、そこに以下のような共通パターンがあることが指摘されています。特に、比較的に文化圏の影響が少ないと考えられる子どもの臨死体験では、「体外離脱」「トンネル」「光」の3つの要素が見られ、大人よりもシンプルなものであると報告した研究もあります。

1、 死の宣告が聞こえる

 心臓の停止を医師が宣告したことが聞こえる。この段階では既に、病室を正確に描写できるなど意識が覚醒していることが多い。

2、 心の安らぎと静けさ

 言いようのない心の安堵感がする。

3、 耳障りな音

 ブーンというような音がする。

4、 暗いトンネル

 トンネルのような筒状の中を通る。

5、 物理的肉体を離れる

 体外離脱をする。

6、 他者との出会い

 死んだ親族やその他の人物に出会う。

7、 光の生命

 光の生命に出会う。神や自然光など。

8、 省察

 自分の過去の人生が走馬灯のように見える。人生回顧ライフレビュー)の体験。

9、 境界あるいは限界

 死後の世界との境目を見る。

10、 蘇生

 生き返る。

『航路』(コニー・ウィリス、ソニー・マガジンズ)

  臨死体験(NDE)をした人の多くは、トンネル聖なる存在など共通したビジョンを見たと言います。本書は生と死の間にある不可解な領域を通し、人間存在そのものを考えさせる医学ミステリーです。NDEを科学的に解明しようと、総合病院でNDE体験者の聞き取り調査を行なっている認知心理学者ジョアンナは、神経内科医リチャードから、「神経刺激薬によって擬似NDEを人為的に引き起こし、NDE中の脳の状態を研究しよう」ともちかけられます。しかし、被験者の不足により、共同研究は暗礁に乗り上げ、ついにジョアンナは自ら死の向こう側へ赴くことを決意します。彼女がNDEで到達したのは、来たことがないのに知っている場所であり、ここに科学的アプローチによってNDEがひとつの意味を結ぶこととなるのです。

「死後三日して人間は「霊たちの世界」に入る。ここは天界と地獄との中間領域に位置し、上層ないし内部から来る「善」と、下層ないし外部から来る「悪」との霊的な均衡によって存立する世界である。ここは天界か地獄へ往く、いわば通過点だが、ここに滞在せずに天界か地獄に直行する者もいる。

 眠りからさめるように意識を回復した霊は、案内役の霊たちの手ほどきを受けて新世界へ第一歩を踏み出す。新参の霊は最初、無垢(むく)・敬虔・平安といった赤ん坊のような純粋な意識に留め置かれるが、やがて生前と酷似した環境が自分の周囲に展開する。誰にも強制されることなく霊は自由に活動し、自分の好みに合う他の霊や霊の社会と交流する。

 しかし、「霊たちの世界」はそれなりの秩序によって成り立つ共同体であるから、個人として限度を超えた振舞いができるわけではない。ここに一つ重大な問題が生じる。

 先述したように、霊界は心の内部が直接、外部に流れ出て、霊の周囲に独自の環境を産出する世界である。これは、霊界では心の意図や思いを隠せないことを意味する。この世では心で悪意を抱いても言葉や行動でこれを隠して善意を装うことができるが、霊界では、思考と言葉、また意図と行動は必ず一致することになる。

 「霊たちの世界」とは、このような一致の法則が徐々に自覚されるようになる世界であり、この過程で新参の霊は少しずつ自分の本性を顕(あらわ)にしてゆく。

 スウェーデンボルグは、人間の真の性格を決定づけるのは、各人の「優勢となった愛」(amor regnans)だと考える。愛とは、意欲・意志・情愛・感情・情動などの総称であり、知性的な機能よりも根源的なものである。

 彼によれば、愛は四つに大別される。「神への愛」「隣人愛」「世俗愛」「自己愛」がそれである。神を信じて神の戒めを守り、隣人愛を実践することが、神への愛である。広く社会や国家、さらには人類へ向けられた愛が隣人愛であり、富・名誉・地位などへの執着が世俗愛、いわゆるエゴイズムが自己愛である。」(高橋和夫『スウェーデンボルグの思想』)



③「死」が決定的意味を持つのは人間だけ

「たましいの現象は不思議なことや不可解なことに満ちていた。ユングはそれらを真剣に観察し記録していったが、多くのことに関しては発表してもおそらく理解して貰えないだろうと思い、公表を長くためらったものもある。公表した後も、彼は死の時まで自分の真に述べたいことは世の中に理解されなかった、ということを嘆いていたという。もちろん、このことは彼自身も自分の考えを不確かなままで発言しているので、表現が解りにくかったり、彼が自分の行っていることに対する方法論についてあいまいであったり、直観に頼って理論的な詰めをおろそかにしたりするという欠点のためもあったが、何しろ彼の考えが時代の流れをあまりにも先取りし過ぎていたためと言えるであろう。

 彼がたましいの現象について見出した、もっとも大切なこととして、共時性(synchronicity)ということがあるであろう。これは端的に言えば、たましいの現象のなかには因果律によって把握できぬものがあること、それは「意味のある偶然の一致」と今まで呼ばれてきたように、継時的にではなく共時的に把握することのできるものであること、の指摘である。ユングはこの考えについて、まだ考えのまとまらないまま、その考えの一端をアインシュタインに話したら、アインシュタインは、それは極めて重要なことだから必ずその考えの発展を怠らないようにせよ、と言ったという。

 人間のたましいに関する研究を通じて、心理療法の在り方が根本的に変わってきた。フロイトの考えによれば、治療者は明確な理論と技法によって、患者の症状の「原因」を探り、その原因に対する何らかの対処の方法を見出してゆくのであった。しかし、治療者は人間の「たましい」を扱っていると自覚するかぎり、彼は原因結果の因果的連鎖のなかにおいて、その症状を理解しようとするのではなく、たましいのはたらきの不思議に身をゆだねることが大切となってくる。患者はおそらく、自らのたましいのはたらきをどこかで歪ませているのであろう。従って、治療者は患者のたましいが自然にはたらく場を提供すること、そこに生じる現象を注意深く見守ることが大切である。人間の心とか身体とか、心のなかのどこか一部に焦点をあてるのではない。たましいに注目するということは、人間の全存在に対して開かれた態度で接することである。」(河合隼雄『宗教と科学の接点』)

「ベルグソンが或る大きな会議に出席していた時、たまたま話が精神感応の問題に及んだ。或るフランスの名高い医者も出席していたが、一婦人がこの医者に向かってこういう話をした。この前の戦争の時、夫が遠い戦場で戦死した。私はその時、パリにいたが、丁度その時刻に夫が塹壕(ざんごう)で斃(たお)れたところを夢に見た。それをとりまいている数人の兵士の顔まで見た。後でよく調べてみると、丁度その時刻に、夫は夫人が見た通りの恰好(かっこう)で、周りを数人の同僚の兵士に取りかこまれて、死んだ事が解った。この問題に関するベルグソンの根本の考えは実に簡明なのです。

 この光景を夫人が頭の中に勝手に描き出したものと考えることは大変むずかしい。と言うよりそれは殆(ほとん)ど不可能な仮説だ。どんな沢山の人の顔を描いた経験を持つ画家も、見た事もないたった一人の人の顔を、想像裡(り)に描き出す事は出来ない。見知らぬ兵士の顔を夢で見た夫人は、この画家と同じ状況にあったでしょう。それなら、そういう夢を見たとは、たしかに精神感応と呼んでもいいような、未だはっきりとは知られない力によって、直接見たに違いない。そう仮定してみる方が、よほど自然だし、理にかなっている、という考えなのです。

 ところが、その話を聞いて、医者はこう答えたという。私はお話を信ずる。貴方は立派な人格の持主で、嘘など決して言わない人だと信じます。しかし、困ったことが一つある。昔から身内の者が死んだ時、死んだ知らせを受取ったという人は非常に多い。けれども、その死の知らせが間違っていたという経験をした人も亦(また)非常に多い。つまり沢山の正しくない幻もあるわけです。どうして正しくない幻の方をほっておいて、正しい幻の方だけに気を取られるのか。たまたま偶然に当った方だけを、どうして取り上げなければならないか、とこう答えたというのです。会議後、同席していたもう一人の若い女性がベルグソンに向って、「先きほど、あの先生がおっしゃったことは、私にはどうしても間違っていると思われます。先生のおっしゃることは、論理的には非常に正しいけれど、何か間違っていると思います」と言ったというのです。これを聞いたベルグソンは、私はその娘さんの方が正しいと思った、と書いている。

 これはどういうことか。ベルグソンはその講演で、こういう説明をしています。一流の学者ほど、と言ってもいいが、学者は自分の厳格な学問の方法を固く信じているから、知らず識(し)らずのうちに、その方法の中に這入(はい)って、その方法のとりこになって了(しま)うという事がある。だから、いろいろな現象の具体性というものに目をつぶってしまうものだ。今の場合でも、その医者は夫人の見た夢の話を、自分の好きなように変えてしまう。その話は正しいか正しくないか、つまり夫人が夢を見た時、確かに夫は死んだか、それとも、夫は生きていたかという問題に変えてしまうと言うのです。しかし、その夫人はそういう問題を話したのではなく、自分の経験を話したのです。夢は余りにもなまなましい光景であったから、それをそのまま人に語ったのです。それは、その夫人にとって、まさしく経験した事実の叙述なのです。そこで結論はどうかというと、夫人の経験の具体性をあるがままに受取らないで、これを、果して夫は死んだか、死ななかったかという抽象的問題に置きかえて了(しま)う、そこに根本的な間違いが行われていると言うのです。」(小林秀雄『学生との対話』)

【看取り論】(昭和大学医学部2023年度出題)

 看取りにおいては単に生物としての死が問題なのではなく、生をめぐる語りと関係の組み直しが問題になっている。それゆえ、場合によっては患者が亡くなった後にも看取る家族に対して<変化の触媒>として医療者が機能することがある。次の例は、若い母親が死に向かうときに中学生の子どもたちが関係を結べなくなるという場面である。

  Eさん 年末に、その人が亡くなったときに、三人の子どもさんがいてたんですけど、  どんどん悪くなっていくのを、冬休みになったから、ずっとそばで見てるんですけど、いつも笑ってるんです、子どもたちが。まあ、一番下の子はお母さんのそばで泣いてるんですけど。いつも、いつも泣いてるんですけど、中学のお姉ちゃんたちは、スマホをいじったり、週刊誌読んだり、テレビ見たりして笑ってるんですね。でも、そのお姉ちゃんたちにもい、「もうお母さん、お正月は迎えられないよ」っていうことは、お父さんの口から話してもらってはいてたんですけど、なんでこの子たちは、お母さんが横でゲーゲー吐いてて、「ちょっと背中さすってあげて」って声を掛けたら、「さっきさすってあげたもん」って言って、お母さんが横でまだ吐いているのに、そう言ってお母さんに近づいてこなくって、「この子たちは、どんな、今、気持ちなんやろう?」と思って。でも、その、下の子どもは多分、自分の感情のままに泣いたり、お母さんにさすったりできるけど〔…〕(村上『在宅無限大』151-152)

 人は通常周りの人と関わりながら生きている。この場面では死にゆく母親と娘たちとのあいだでリズムがぎくしゃくしている。複数のリズムが出会うことなくぎくしゃくし、リズムにあった適切なテンポを取れなくなっている。

 三人の子どものうち上の二人は死別が近い母親に近づくことができず、自室にこもってテレビを見て笑っている。間近に迫った母の「死」という状況のもとで、母と子のリズムがすれ違ったまま対話もブロックしている。対話は体と体が出会うところから始まる。間近に迫った母の死は、部屋にこもった娘の<身体の余白>となっている。経験に取り込むことができない外部なのだ。

 この引用では変化(の不在)をめぐる時間が明瞭に表現されている。母の容態が「どんどん」悪くなるプロセスのあいだ、「いつも笑っている」長女次女と、「いつも泣いている」三女がいる。「どんどん」のなかでの「いつも」はリズムのすれ違いであり、長女次女が母親と関わるタイミングをつかむことができない状態を示している。「もう」正月は迎えられないという時間の限界があるなかで、上の子どもは「さっきさすってあげたもん」と逃げてしまい「今」が回避される。「この子たちは、どんな、今、気持ちなんやろう?」とEさんが問うのは、さまざまなリズムが交差するなかで、出会いのタイミングとなるべき「今」がつかみ取れてないからである。関係と欲望を組織化する「今」のタイミングがつかめない。このときEさんは変化の触媒になりきれていない。言い換えると膠着した状況のなかでの変化の触媒の作動は、さまざまなリズムのなかから「今」というタイミングをつかむという時間性を持つようだ。

 変化は死の直後に起こる。

  Eさん 結局、亡くなったとき、「Eさん、息してないみたい」って、その方のお父さ んから電話があって、行ったときにはもう亡くなってたんですけど、そのときも、その中学生の子どもたちは別の部屋にいて、「お母さんの体、すぐ冷たくなっちゃうよ。お母さんに触っといてあげて」って言って、その子たちの手をお母さんのおなかに当てて……。

  そうそう、亡くなったときもそんなふうにしてて、「お母さん、冷たくなっちゃうよ」って言って、お母さんのおなかに三人の手を、こうやって持っていって、で、「お母さん、まだあったかいやん」って言って。「でも、すぐ冷たくなっちゃうんやで」って言って、ずっと触ってて、で、触りながらやっと、その二人のお姉ちゃんたちが、涙がポロポロポロポロ流れてきてたので、『ああ、やっとちょっと泣けたのかな、感情がちょっと出せたのかな。でもその中学生の子どもたちに、私がもうちょっとうまく関われてたら、もうちょっとこの子たち、気持ち吐き出せたり、楽にできたんちゃうかな』とか思って、それもちょっと分かんないなと思って。なんかそういうことの繰り返しですね。(村上『在宅無限大』153-154) 

 母の温かい体が冷たくなっていくのを手で感じることで、娘たちはようやく泣くのである。看護師による働きかけを媒介として親子の関係が組み変わる。先ほどまではすれ違っていた場の*1ポリリズムが調和的なものへと整っていく。

 この事例では、Eさんが子どもたちの手を遺体に置くことにより、親子の関係が結び直されている。Eさんと下の妹が、上の子どもたちにとって経験が変化するための触媒としての機能を果たしている。

 まず下の妹は、「そばで泣いてる」ことで、母親の死を受け止めて母とリズムを交差させることに生前から成功していた。そのうえでEさんは姉妹三人の手をともに取ることで、下の子どもがすでに実現していた関係を姉に引き継ぐことに成功している。それゆえ二人の姉が話題になっていたのにもかかわらず「お母さんのおなかに三人の手を」添えたと、いつのまにか人数が変化していることに意味がある。Eさんと下の妹がそれぞれ触媒としての役割を担っている。

 姉二人から「涙がポロポロポロポロ流れてきてた」という意思を超えた*2中動相的表現は、状況の変化が自ずと起きたものであるということをよく示している。そしてEさんは「もうちょっとうまく関われたなら」と自問しており、実践が完成したとは考えていないのだ。その点でも意図的な実践を超えて、関係とリズムが変化している。Eさんが整えた環境のもとで状況が自ずと変化しているのだ。

 今はまだ温かいがすぐに冷たくなってゆく遺体は、生と死の*3あわいにある。「すぐ冷たくなっちゃう」一瞬のタイミングをEさんがつかめたことによって変化が可能になっている。予後告知もそうだったが、状況の変化はタイミングという時間を問いかける。

 このとき遺体に手が触れる<そこ>を支点として、関係と状況が組み変わる。手と体の触れあいが娘の身体の余白を埋めて娘は母と出会う。遺体と子どもの手の接点は<そこ>において変化の可能性が裂開する点であり、<変化の支点>である。ここでは生と死のあわいにある身体が際立たせられ、鍵となる。「まだあったかい」遺体と子どもたちの手の接点を基点とすることではじめて、この変化が起きているのだ。空間上はこの生と死への移行を可視化する特異点を作り出したことがEさんの働きである。つまり<変化のタイミング>がもつ空間的側面が、<変化の支点>である。ここでは生と死のあわいにある身体との接点を作ること、そしてすでに母親との関係の組み立てに成功していた三女との接点を作ること、この変化の支点を蝶番として状況はその姿を変える。

 支援者の機能は変化の触媒として願望・語り・対人関係の場を開くことであり、変化の支点を見出すこと(=変化のタイミングを[今]としてつかむこと)である。こうすることによって支援者は、関わる人の関係と行動が自ずと変化するような場所を開く。

 さまざまな医療現場を見学するなかで、変化を媒介するという支援者の機能が自ずと浮かび上がってきたのだが、支援職一般という視野で考えたときにいくつか指摘できることがある。

 定義すると、変化の触媒とは、ある状況が根本的に変化するときにその変化を促す証人である。医療者を含む支援者はそのような役割を担いうる。変化の触媒が促すのは、その時々における状況の語りであり、それによって当事者間の関係が組み替えられてゆく。

 ところで変化の触媒が関係の変化を促す作用であるとしたら、医療者と患者は親密な家族的関係である必要はない。むしろ親密な家族的心理臨床はミニマムに切り詰められた特殊な形態なのであろう。(中略)もちろん精神医学でも家族療法の伝統があり、最近ではオープンダイアローグが複数の支援者と家族が顔を合わせることの重要性を指摘しているとおりである。

 とくに医療や福祉の現場を通して見る限り、むしろ支援者と利用者の関係は、広い社会関係と連動しない限り機能しないようだ(中略)。というのは利用者が再構成すべきリズムはポリリズムであり、個人だけではなく社会関係へと拡がっているからだ。

 とはいえ対人関係だけを強調したいわけではない。語りと関係を再構成する変化のプロセスには、実は内省も連動している。死にゆく当人にせよ家族にせよ、私秘的な思考が深まるためにも対話が要請されており、そのためにも変化の触媒としての支援者が重要になる。侵されることがない私秘性の領域を確保するための装置としても変化の触媒は機能している。

 変化の触媒はある環境のもとで作動する。語りを促進し関係を調整する環境と、それらを不可能にする環境がある。心理臨床における守秘義務や閉じた部屋も環境であろうが、必要とされる環境は当事者のニーズによって変化するであろう。物理的な空間の設定も重要である。

 また変化を触媒する支援者は、当事者とともに状況に巻き込まれており、そのことが実践の出発点となる。別の若い母親をがんで看取る場面で、次のような語りがあった。

  Eさん うーん、ですね。(うちのステーションで看取る患者さんは)若い人たち、結構多いので、なんかこっちも、あの患者さんの場合、子どものことすら思ってて、私も、もう、なんか看護師というようり、一母親同士の感情になってしまう。いつもいろいろ悩みます。母親の感情に、一緒に母親になってしまって、子どものことどうしようって、すごい悩んでるときに、自分、もう看護師じゃなくなるんですよね。なんかそれはちょっとどうなのかなと。同じ母親同士の感情が、こう、行き来するようになってしまう。(村上『在宅無限大』145)

 このあとEさんは、両親をともに病で亡くして身寄りを失う子どもたちのために施設を探すことになっていく。距離を置いた仕方でこの場面に対応することは不可能であろう。古典的な心理臨床では、あたかも支援者が当事者の状況に巻き込まれずにニュートラルな立場にいるべきであると主張されることもあるかと思うが、少なくとも看護現場をフィールドワークする限り、巻き込まれる実践に必然性があると思われる。とりわけ死が関わる場合、重度の精神障害や身体障害で生存が脅かされる場合、貧困などの逆境の場合にそうである。有効な実践において支援者は支援しつつも支援されるという二重のスタンスを持つことが多い。触媒という単語を選んだのは、利用者と支援者がともに巻き込まれて相互に反応しつつ、ともに変化してゆくという側面を表現するためであり、つまり支援者が利用者の変化の触媒となるときには、同時に支援者は自らの実践のプラットフォームを生成変化させている。状況に巻き込まれつつ、ともに変化するのが変化の触媒としてとしての支援者であると言えるかもしれない。言い換えると、患者の変化を促す変化の触媒自体が変化するのだ。つまり利用者だけでなく、支援者自身も変化し、さまざまに関係を組み替えていくのである。

(村上靖彦『交わらないリズム――出会いとすれ違いの現象学』より。一部省略・改変)

*1ポリリズム…リズムの異なる声部が同時に奏されること。

*2中動相…動詞の表す行為が行為者自身にも及ぶ場合、形は能動態であるが、受動態の意味を表す。

*3あわい…間。



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(6)「メメント・モリ」と「カルペ・ディエム」の人生論

①「メメント・モリ」(死を想え)の人生観

「みっちゃんは中学に入って間もなく白血病を発症し、入院と退院を繰り返しながら、厳しい放射線治療に耐えていました。家族で励まし合って治療を続けていましたが、間もなくみっちゃんの頭髪は薬の副作用ですべて抜け落ちてしまうのです。

 それでもみっちゃんは少し体調がよくなると、「学校に行きたい」と言いました。不憫(ふびん)に思った医師は家族にカツラの購入を勧め、みっちゃんはそれを着用して通学するようになりました。

 ところが、こういうことにすぐに敏感に気づく子供たちがいます。皆の面前で後ろからカツラを引っ張ったり、取り囲んで「カツラ、カツラ」「つるつる頭」と囃(はや)し立てたり、ばい菌がうつると靴を隠したり、悲しいいじめが始まりました。担任の先生が注意すればするほど、いじめはますますエスカレートしていきました。見かねた両親は「辛かったら、行かなくてもいいんだよ」と言うのですが、みっちゃんは挫(くじ)けることなく毎日学校に足を運びました。

 死後の世界がいかに素晴らしいかを聞いていたみっちゃんにとっては、死は少しも怖くありませんでした。反対に亡くなったお祖父さんと再会できるのが楽しみだとさえ思っていました。しかし、何より辛いことがありました。それは、かけがえのない友だちを失うことだったのです。辛いいじめの中でも頑張って学校に通ったのは「友だちを失いたくない」という一心からでした。

 二学期になると、クラスに一人の男の子が転校してきました。その男の子は義足で、歩こうとすると体が不自然に曲がってしまうのです。この子もまた、いじめっ子たちの絶好のターゲットでした。

 ある昼休み、いじめっ子のボスが、その歩き方を真似ながら、ニタニタと笑って男の子に近づいてきました。またいじめられる。誰もがそう思ったはずです。ところが、男の子はいじめっ子の右腕をグッと掴(つか)み、自分の左腕と組んで並んで立ったのです。そして「お弁当は食べないで一時間、一緒に校庭を歩こう」。毅然(きぜん)とした態度でそのように言うと、いじめっ子を校庭に連れ出し、腕を組んで歩き始めました。

 クラスの仲間は何事が起きたのかとしばらくは呆然(ぼうぜん)としていました、やがて一人、二人と外に出て、ゾロゾロと後について歩くようになったのです。男の子は不自由な足を一歩踏み出すごとに「ありがとうございます」と感謝の言葉を口にしていました。その声が、仲間から仲間へと伝わり、まるで大合唱のようになりました。みっちゃんは黙って教室の窓からこの感動的な様子を見ていました。

 次の日、みっちゃんはいつも学校まで車で送ってくれる両親と校門の前で別れた直後、なぜかすぐに車に駆け寄ってきました。そして着けていたカツラを車内に投げ入れると、そのまま学校に向かったのです。

 教室に入ると、皆の視線が一斉にみっちゃんに集まりました。しかし、ありのままの自分をさらす堂々とした姿勢に圧倒されたのでしょうか、いじめっ子たちは後ずさりするばかりで、囃し立てる者は誰もいませんでした。

 「ありがとう。あなたの勇気のおかげで、自分を隠したり、カムフラージュして生きることの惨めさが分かったよ」。みっちゃんは晴れやかな笑顔で何度も義足の男の子に御礼を言いました。

 しばらくすると、クラスに変化が見られ始めました、みっちゃんと足の不自由な男の子を中心として、静かで穏やかな人間関係が築かれていったのです。

 みっちゃんに死が訪れたのはその年のクリスマス前でした。息を引き取る直前、みっちゃんは静かに話しました。「私は二学期になってから、とても幸せだった。あんなにたくさんの友だちに恵まれ、あんなに楽しい時間を過ごせたことは本当の宝でした」と。」

(鈴木秀子『自分の花を精いっぱい咲かせる生き方』)

「マザー・テレサは、だからいま自分のなすべきことは、路上で死を待つしかない人びとが安らかに死を迎えることのできる<家>をつくることだ、と確信したのだった。思い立つと、そくざに行動するのが、マザーの性分である。

 彼女はそのまま市役所にむかい、そういう場所がほしいとたのみこんだ。事情を聞いた保健担当者は、しばらく考えこんでいたが、やがてマザーをそとへ連れだした。マザーの連れていかれた先はヒンズー教の聖域であるカリー寺院であった。…

「ここなんですよ、ここならすぐにでも無料でお貸しできるんですが」

 市役所の役人がマザーを案内したのは、本堂の裏手にある礼拝を終えた人びとが休憩所につかっていた建物だった。いまは空き家だからこれでどうか、というのだ。マザーは、ヒンズー教徒の礼拝と信心の場所だからとてもいい、さっそく使わせてもらいたいと答えたのだった。もっとも、この空き家は浮浪者がたまり場にし、バクチ場にもなっていたのだが、マザー・テレサにとってはそんなことは問題ではない。

「そのときもやはり何人か浮浪者がいましてね、ヒンズー教の聖域に異教徒の私が入っていったのでおどろいているの。でも、私は、こうしているあいだにも路上で息をひきとっている人がいるかもしれないと思うと、気がせいて、さっそく長椅子をベッドにしようと動かしはじめましたらね」

 何をしているのか、と浮浪者たちが、マザーのところへ集まってきた。マザーは当然のような顔をして、彼らに手伝いをたのんだ。

「いいところへ来てくれたわね。あなたたち、ちょっとこの椅子を動かして」

 女教師が生徒にものをいいつけるような、陽気で、自信にみちたマザーのペースにまきこまれた浮浪者たちは、わけもわからないうちにマザーのいうままに従順に、ある者はベッド作りに、ある者は掃除を手伝い、数時間後には荒れはてていた室内はみちがえるほどきれいになった。さっそく、数人の患者が運び込まれる。

 サンスクリット語で「ニルマル・ヒリダイ(清い心)」と呼ばれる<死を待つ人の家>がスタートしたのだ。

 人間にとってもっとも悲しむべきことは、病気でも貧乏でもない。自分はこの世に不要な人間なのだと思いこむことだ。そしてまた、現世の最大の悪は、そういう人にたいする愛が足りないことだ。マザー・テレサはそう確信している。

 だからマザーは、世間に見捨てられ、身も心もズタズタになって路上に倒れ伏し、死の寸前にはこびこまれてきた、ボロ切れのようなひとりひとりのからだを丹念に洗い清め、髪を短く刈ってやり、粗末ながらも清潔な衣服に着かえさせて、ベッドにそっと横たえてやる。しっかりと手をにぎり、話すこともできない瀕死の人には目で語りかけながら、ゆっくりと温かいスープを口にはこんでやる。

「あなたも、私たちとおなじように、望まれてこの世に生まれてきた大切な人なのですよ」

 マザーは、そう話しかけながら、もう一度力をこめて手をにぎる。

 だれにもみむきもされなかったかもしれない。路上で生まれ路上で死ぬ身かもしれない。でもせめて死の瞬間だけでも人間らしくさせてあげたい……いままさに息をひきとろうとしている〝見捨てられた人びと〟をみとりながら、マザー・テレサの心はその想いでいっぱいなのだ。」

(沖守弘『マザー・テレサ あふれる愛』)

【死と生】(慶應義塾大学経済学部出題)

All that we can say with certainty about this life is that each of us is born to die. When, where, or how our journey will end we cannot say――even this one certainty is covered in uncertainty――but we are all travelers on the road to death. And yet, how many of us live with this ultimate destination firmly in sight? We create routines to rule our lives, to give them a surface permanence. We get up, wash and eat at regular times each day; we dress according to a certain style; we move around with a particular circle of friends. Each of us creates a pattern of existence, however fragile, which gives our finite lives an appearance of infinity.

We do not deny that death occurs. On the contrary, we are eager to read about it in novels or watch it in films, where it can be experienced at a safe distance. We can even stand real deaths, as long as they are far enough away to remain safely confined to newspaper photographs or the television news. In fact, the more we see, the less we feel; the greater the number of deaths, the more likely they are to become faceless statistics. As human beings, we are so self-centered that one death which touches us personally――even the thought that someone whom we love might die――upsets us more deeply than the deaths of any number of people whom we do not know.

Death is something which happens to other people. As long as this is so, we can deny its reality, ignore the fact that we too are candidates. When ‘a loved one’ does die, we try to avoid any mention of death, but talk of their ‘passing away’ or ‘going to a better place’. Such deaths are surrounded by solemn ceremonies, patterns of routine for the event which threatens to make a mockery of all our routines.

In the countries of the developed world, where child mortality rates are low and life expectancy is high, we try to avoid all contact with death in the flesh. While old age is celebrated in traditional societies, and the elderly treated with respect, we consider old age to be a social problem, and think of the old with pity and horror. Worshiping youth, we search for ways to remain young, hiding our wrinkles with face-lifts or make-up, and disguising the color of our graying hair. The dying are shut away in hospitals so that few experience death at close hand. The only dead body I have ever seen belonged to my father, and even that I saw――and touched――only by choice.

And yet, would life be so wonderful without the death which we long to escape? We waste our time even now, when it is limited. In a life without the ultimate deadline what would we achieve? If we were more conscious of our mortality and of the mortality of those around us――, if we could really live as though tomorrow we might die, who would ever take beauty for granted, grumble at the weather, quarrel with a friend, leave a kind word unsaid ? This constant awareness of death in life is the goal of most of the world’s religions and philosophies; it is the state of mind which singles out the saint or sage.

Few have the strength of mind to spend life in constant contemplation of death. But if everyone could remind themselves at least once a day that each second, once lived, is gone, and that each second is someone’s last, we might find that death could transform life, that the certainty of the one could give real meaning to the uncertainty of the other.

【訳文】

 人生について唯一確実に言えるのは、せいぜい、私達一人一人は死ぬために生まれてきたということだ。いつ、どこで、どのように私達の旅が終わるのかは分からない――このただ一つの確実性でさえ不確実性に覆われているのだが――私達は皆、死に向かう道を旅する者なのである。にもかかわらず、私達のうち一体何人が、この最終到着点をきちんと見据えて生きているだろう?私達は生活を規定し、そこに表面上の永久性を与えるために様々な習慣を作り上げる。朝起きて、顔を洗って、毎日決まった時間に食事して、決まったスタイルの服を着て、決まった仲間の輪の中で行動する。私達一人一人は、それがどんなに壊れやすくても、ある存在のパターンを作り上げるのだが、それは私達の限りある人生を一見無限であるかのように見せてくれるものなのだ。

 私達は死の存在を否定しているわけではない。むしろ、しきりに死について小説で読みたがったり、映画で観たがったりする。そこでは、死を安全な距離をおいて経験できるのだ。実際の死にだって耐えることができる。ただし、それは新聞の写真やテレビのニュースなど、自分に差し支えない遠いところに限定されている場合だけだ。事実、私達は死をたくさん見れば見るほど、何も感じなくなる。死亡者数が多ければ多いほど、彼らが顔の無い、ただの統計の数値になる可能性が大きくなるからだ。私達は人間であるが故に非常に自己中心的で、自分に個人的に関わる人がたった一人亡くなることの方が――あるいは自分の愛する人が死んでしまうかもしれないと考えるだけの方が――自分の知らない人が何人も死ぬことよりもずっと悲しいのだ。

 死は自分には降りかからないことだ。この考えが成立する限り、私達は死の現実を否定できて、自分もまた死の候補者だという事実を無視することができる。「愛しい人」が実際亡くなった時も、私達は死について直接語ることを避けて、「この世を去った」とか「他界した」などと言う。このような死は厳粛な儀式で囲まれている。それは、私達の決まりきった習慣を全て嘲笑うかのようなあの出来事に、習慣のパターンを当てはめようとしたものなのだ。

 幼児死亡率が低く、平均寿命が高い先進諸国に住む私達は、生身の死から全ての接触を断ち切ろうとする。伝統社会においては、長生きすることは栄誉であり、老人は尊敬される。その一方、私達は高齢化を社会問題だと考え、哀れみと嫌悪感を持って老人のことを考える。若さを崇拝して、整形手術や化粧でシワを隠したり、白髪を染めたりして、若さを保つ方法を探す。死に向かっている人々は病院に閉じ込められるので、死を身近に経験する人は少ない。私自身が見た唯一の死体は父のものだったが、それでさえ自分で選んだから見て、触れたにすぎなかった。

 だが、果たして私達が逃れたくてたまらない死というもののない人生はそんなに素晴らしいだろうか?時間が限られている今でさえ、私達はそれを無駄遣いしている。最終締め切り日のない人生で、私達は一体何を達成できるだろう?もし、私達が自分の死すべき運命――そして、自分の周りの人々の死すべき運命――をもっと意識していたなら、または、明日死ぬかもしれないというように生きることが本当にできたなら、一体誰が美しいものを当然と思い、天気に文句を言い、友人と喧嘩し、優しい一言を言わずにいるだろうか?このように常に生きながら死を意識することは、世の中の宗教や哲学の大方の目標であり、聖者や賢者であることを示す心の状態なのだ。

 死を常に意識して人生を過ごせるほど精神の強い人は少ない。でも、もし皆が最低一日一回でも、一秒生きたらそれは二度と戻ってくることなく、毎秒が誰かにとって最後の一秒なのだということを思い出せたなら、私達の生命は死によって変えることができ、一方の確実性が、他方の不確実性を真に意味のあるものにすることができるかもしれないということに気づくかもしれないのだ。



②「カルペ・ディエム」(今を生きる)の人生観

「(養護学校で、言葉も十分に話せず、手足も不自由な子どもたちに言語教育を

 していた向野幾代先生が、脳性マヒの「やっちゃん」と一緒に作った詩)

 ごめんなさいね おかあさん

 ごめんなさいね おかあさん

 ぼくが生まれて ごめんなさい

 ぼくを背負う かあさんの

 細いうなじに ぼくはいう

 ぼくさえ 生まれなかったら

 かあさんの しらがもなかったろうね

 大きくなった このぼくを

 背負って歩く 悲しさも

 「かたわな子だね」とふりかえる

 つめたい視線に 泣くことも

 ぼくさえ 生まれなかったら

 ありがとう おかあさん

 ありがとう おかあさん

 おかあさんが いるかぎり

 ぼくは生きていくのです

 脳性マヒを 生きていく

 やさしさこそが 大切で

 悲しさこそが 美しい

 そんな 人の生き方を

 教えてくれた おかあさん

 おかあさん

 あなたがそこに いるかぎり」

(向野幾代『お母さん、ぼくが生まれてごめんさない』)

「人間が幸福に生きていくうえで、もっとも大切なもの――それは安定した愛着である。愛着とは、人と人との絆を結ぶ能力であり、人格のもっとも土台の部分を形造っている。人はそれぞれ特有の愛着スタイルをもっていて、どういう愛着スタイルをもつかにより、対人関係や愛情生活だけでなく、仕事の仕方や人生に対する姿勢まで大きく左右されるのである。

 安定した愛着スタイルをもつことができた人は、対人関係においても、仕事においても、高い適応力を示す。人とうまくやっていくだけでなく、深い信頼関係を築き、それを長年にわたって維持していくことで、大きな人生の果実を手に入れやすい。どんな相手に対してもきちんと自分を主張し、同時に不要な衝突や孤立を避けることができる。困ったときは助けを求め、自分の身を上手に守ることで、ストレスからうつになることも少ない。人に受けいれられ、人を受けいれることで、成功のチャンスをつかみ、それを発展させていきやすい。

 従来、愛着の問題は、子どもの問題、それも特殊で悲惨な家庭環境で育った子どもの問題として扱われることが多かった。しかし、近年は、一般の子どもにも当てはまるだけでなく、大人にも広くみられる問題だと考えられるようになっている。しかも、今日、社会問題となっているさまざまな困難や障害に関わっていることが明らかとなってきたのである。

 たとえば、うつや不安障害、アルコールや薬物、ギャンブルなどの依存症、境界性パーソナリティ障害や過食症といった現代社会を特徴づける精神的なトラブルの多くにおいて、その要因やリスク・ファクターになっているばかりか、離婚や家庭の崩壊、虐待やネグレクト、結婚や子どもをもつことの回避、社会に出ることへの拒否、非行や犯罪といったさまざまな問題の背景の重要なファクターとしても、クローズアップされているのである。

 さらに、昨今、「発達障害」ということが盛んに言われ、それが子どもだけでなく、大人にも少なくないことが知られるようになっているが、この発達の問題の背景には、実はかなりの割合で愛着の問題が関係しているのである。実際、愛着障害が、発達障害として診断されているケースも多い。

 筆者は、パーソナリティ障害や発達障害を抱えた若者の治療に、長年にわたって関わってきた。その根底にある問題として常々感じてきたことは、どういう愛情環境、養育環境で育ってきたのかということが、パーソナリティ障害は言うまでもなく、発達障害として扱われているケースの多くにも、少なからず影響しているということである。困難なケースほど、愛着の問題が絡まっており、そのことで症状が複雑化し、対処しにくくなっている。

 愛着が、その後の発達や、人格形成の土台となることを考えれば、至極当然のことだろう。どういう愛着が育まれるかということは、先天的にもって生まれた遺伝的要因に勝るとも劣らないほどの影響を、その人の一生に及ぼすのである。その意味で、愛着スタイルは、「第二の遺伝子」と言えるほどなのである。」

(岡田尊司『愛着障害 子ども時代を引きずる人々』)

※境界性パーソナリティ障害…対人関係の不安定性および過敏性、自己像の不安定性、極度の気分変動、ならびに衝動性の広汎なパターンを特徴とする。

【人間通】(埼玉医科大学附属総合医療センター看護専門学校2022年度出題)

「「人間通」とは、他人(ひと)の心がわかる人のことである、と、私は思う。まず、人心つくような年頃になれば、両親や兄弟がどういう心持ちでいるかを、直感的に知らねばならない。長じては、友人がどんな気持ちでいるかを、ごく自然に察する必要がある。学校の先生もまた、喜怒哀楽を内に包んでいる人なのだから、さまざまな場合に応じて、その機嫌工合(きげんぐあい)を感じとらなければならないであろう。ここまでが言わば序の口で、まだ広い世の中に出ていない段階なのであるから、そんなに深く気にしなくてもよいように思われるかもしれない。

 しかし、実は、この成長過程における精神的な修業が、結果として、一生を過ごしてゆく生き方を大きく左右するのである。思えば、両親および兄弟姉妹、人間にとって、これほど身近な存在はほかにない。もっとも密着した、もっとも親しい間柄である。しかも、生涯を通じて、決して切ることのできない絆である。これほど固く結ばれた人間関係のなかにあって、もし相手の気持ちをわかることのできない人があるとすれば、その人は年齢を加えてのち、どうして赤の他人の気心を察することができるであろうか。

 幼いうち、或(あるい)は若いとき、大きくなったらどんな仕事をしようかと、いろいろ夢に描く場合があろう。それは至って自然なことである。しかし、大きくなったら人間通になろう、などと考えることは滑稽である。実際には子供のときがいちばん大事なのだ。両親にはぐくまれて、温かい家庭のなかで育ち、まだ世間の風にあたっていないその時分こそ、その人が将来、大人としての人間通になれるかどうかの分かれ目なのである。人間通の芽は子供のときに芽生えるのであることを忘れてはならない。

 兄弟は他人のはじまりとも言うから、ひとまず後まわしにするとしよう。問題は両親である。人間は、かならず特定の両親の間に生まれる。そして両親の愛護を受けて育つ。この緊密な関係のもとにおいて、父と母の心情を理解できないようでは、他人の心持ちを忖度(そんたく)する方法がないではないか。父と母とが何を考えているかを親身になって推察する努力こそが、人を人間通に育てあげる出発点である。父と母と、この世でもっとも大切なこの二人に向かって、すなわち子供にとってもっとも親密な相手に対して、思い遣(や)りの感情を抱けない者が、どうして他人に愛着をもつことができるだろうか。

 昔から、孝は百行の本、と言い習わす。これは決して強制なのではない。孝の情、これこそ人間愛の出発点だという意味である。親を愛することのできない精神的欠落者が、どうして他人を愛することができようか。孝とは、ひとりの人間を、情愛のゆたかな人物に育てあげる有効な発条(バネ)なのである。

 さて、成人して社会へ出る。気心の知れない他人のなかに交じって生きてゆかねばならない。その場合における最低限の心得を、孔子が論語の第二百八十章に説いている。すなわち、自分が他人からされたくないと思うようなことを他人に対してするようなことがあってはならないよ、というわけである。これは誰でも守れる戒律であり、誰でも実行できる心得であろう。

 自分のまわりにいる者すべてから、あの人は自分たちに対して敵意を抱かず、自分たちに害を加えないこと確実だな、と思われるに至ったら、その人の人生はまことに順調であるだろう。人間にとっていちばん大切な財産は、人から信用されることである。

 以上が人間通としての第一段階である言えよう。さらに進んで、より人間的に成長しようと思えば、同僚ひとりひとりの心がわかる境地に達しなければいけない。この、相手の心がわかる、という抽象的な言い方を、より具体的に言いかえるなら、相手がなにを褒めてもらいたいと思っているか、その心の奥底を感知する能力のことである。

 人間は、どんなに外面(そとづら)では謙虚な人でも、実体は自尊心のかたまりである。それは当然のことであって、どんな生き物にせよ、自分に最高至上の価値を認めているからこそ生きてゆけるのである。ましてや人間は精神活動がとびぬけて活潑(かっぱつ)な動物なのだから、自分をこの世でもっとも尊い存在であると考えているのは当たり前であろう。

 すでにして心のいちばん深いところで自尊心が疼(うず)いている。自尊心が満足を求めている。自尊心の満足とはなにか。それは、しっかりした人物から自分が褒めてもらうことである。

 貴方(あなた)は素晴らしいお人だと囃(はや)したてられたいのである。人間の肉体は良い食物を欲する。人間の精神は佳(よ)い評判を欲する。この点に関する限り人の世に例外は絶対にない。

 ゆえに、人間通とは、それぞれの人に対して、相手がもっとも認められたいと願っているところは何かを察知し、その方角に向かって狙いあやまたず、積極的に褒めてやる心遣いを意味する。これは費用のかからない親切である。誰でもできることではないが。「人間通」とは、褒め上手のことなのである。」

(矢沢永一『達人観』)



③人は何のために生きるのか

「不思議なものだ、ここ地球上における我々の立場は。我々各々は短い訪問のためにやって来ており、それがなぜだか知らないが、時にある目的を見抜いているように思われたりもする。しかしながら、日常生活の観点からすれば、我々がまさに知っていることが1つある。すなわち、人は他の人のためにここに存在しているということであり、それはとりわけその笑顔と幸福に我々の幸せがかかっているような人々のためであり、そしてまた、その運命に我々が共感の絆でつながっているような無数の見知らぬ人々のためにである。」(アインシュタイン「私の信条」)

【猫が教えてくれたもの】(東京大学文科前期2015年度出題)

 私はここ十数年南房総と東京の間を行ったり来たりしているのだが、南房総の山中の家には毎年天井裏で子猫を産む多産猫がいる。人間の年齢に換算すればすでに六十歳くらいになるのだがいまだに産み続けているのである。さすがに一回に産む数は少なくなっているが、私の知る限りかれこれ総計四、五十匹は産んでいるのではなかろうか。猫の子というよりまるでメンタイコのようである。

 そういった子猫たちは生まれてからどうなったかというと、このあたりの猫はまだ野生の掟(おきて)や本能のようなものが残っていて、ある一定の時期が来ると、とつぜん親が子供が甘えるのを拒否しはじめる。それでもまだ猫なで声で体をすりよせてきたりすると、威嚇してときには手でひっぱたく。そのような過程を経て徐々に子は親のもとを離れなければならないのだという自覚が生まれる。

 親から拒絶されて行き場のなくなった直後の子猫というものは不安な心許(こころもと)ない表情を浮かべ、痛々しさを禁じえないが、これがいざ自立を決心したとき、その表情が一変するのに驚かされる。徐々にではなくある日急変するのである。目つきも姿勢も急に大人っぽくなって、その視線が内にでなく外に向けられはじめる。それから何日かのちのこと、不意に姿を消している。帰ってくることはまずない。

 一体それが何処(どこ)に行ったのか、私はしばし対面する山影を見ながらそのありかを想像してみるのだが、こころ寂しい半面なにか悠久の安堵(あんど)感のようなものに打たれる。見事な親離れだと思う。親も見事であれば子も見事である。子離れ、親離れのうまくいかない人間に見せてやりたいぐらいだ。

 かえりみるに、私はそういった健気(けなげ)な猫たちの姿をすでに何十と見てきているわけだが、それらの猫に餌をやったという経験は一度しかない。釣ってきた魚をつい与えてしまい、その猫が餌づいてしまったのである。しかしその猫も野生の血が居残っていると見え、ある年の春不意に姿を消した。それ以降私は野良猫には餌をやらないことにしている。それはこれらの猫は都会の猫と違って自然に一体化したかたちで彼らの世界で自立していると思っているからだ。自分の気まぐれと楽しみで猫の世界に介入することによってそのような猫の生き方のシステムが変形していくことがあるとすれば、それは避けなければならないということがよくわかったのである。

 ところが私は再びへまをした。死ぬべき猫を生かしてしまったのだ。

 二年前の春のことである。すでに生まれて一年になる四匹の子猫のうちの一匹が死にそうになったときのことである。

 遅咲きの水仙がずいぶん咲いたので、それを親戚に送ろうと思い、刈り取って玄関わきの金盥(かなだらい)に生かしていた。二、三百本もの束の大きなやつだ。

 朝刈り取り、昼になにげなく窓から花の束に目をやったとき、一匹の野良猫が盥に手をかけて一心にその水を飲んでいる姿が見えた。その子猫は遺伝のせいかあきらかに病気持ちである。体が瘦せ細っていて背骨や肋骨(ろっこつ)が浮き出ている。汚い話だがいつもよだれを垂らし、口の回りの毛は固くこびりついたようになっている。右手に血豆のように腫れた湿瘡(しっそう)が出来ており、判コのように膿(うみ)まじりの血の手形をあちこちにつけながら歩き、これが一向に治る気配がない。口の中にも湿瘡ができており、食べ物がそれに触れると痛がる。近くに寄るとかなり強烈な腐った臭いがする。一年も生きているのが不思議なくらい、この子猫はあらゆる病気を抱え込んでいるように見えた。

 しかしそれも宿命であり、野生の掟にしたがってこの猫は短い寿命を与えられているわけだから、私がそれに手を貸すことはよくないことだと思い、そのまま生きるように生きさせておいた。

 この猫が盥の水を飲んでいたわけだが、飲んでから、四、五分もたったときのことである。七転八倒で悶(もだ)え始めた。そしてよだれまじりの大量の嘔吐物(おうとぶつ)を吐き苦しそうに唸(うな)りはじめる。はじめ私は猫に一体なにが起こったのかさっぱりわからなかった。一瞬、死期がおとずれたのかなと思った。しかしそれにしては壮絶である。

 そのとき私の脳裏にさきほどこの猫が盥の水をずいぶん飲んでいた、あの情景が甦(よみがえ)ったのである。ひょっとしたら、と思う。あの水は有毒なものに変化していたのかもしれないと。球根植物にはよくアルカロイド系の毒素が含まれていることがあるものだ。以前保険金殺人の疑惑のかかったある事件もトリカブトという植物が使用されたという推測がなされたし、また秋の彼岸花などにもこの毒がある。水仙に毒があるということは聞いたことがないが、ひょっとしたらこの植物もアルカロイド系の毒を含んでいるのではないか。私は猫の苦しむ様子をみながら、そのようなことを思いめぐらし、間接的にその苦しみを私が与えたような気持ちに陥った。

 そのような経緯で私はつい猫を家に入れてしまったのである。猫がぐったりしたとき、私は洗面器の中に布を敷き、それを抱いて寝かせた。せめて虫の息の間だけでも快適にさせてやりたかったのである。

 ところがこの病猫、元来病持ちであるがゆえにしぶといというか、再び息を吹き返したのである。二日三日はふらふらしていたが、四、五日目にはもとの姿に戻った。そしてそのまま家に居着いてしまった。立ち直ったときにまた外に出せばよかったのだが、このそんなに寿命の長そうではない病猫につい同情してしまったのが運のつきである。可愛い動物も人の気持ちを虜(とりこ)のするものだが、こういった欠陥のある動物もべつの意味で人の気持ちを拘束してしまうもののようだ。ときに人がやってきたとき、家の中にあまり芳しくない臭気を漂わせながら、あたりかまわずよだれを垂らし、手からは血膿の判コを押してまわるこの痩せ猫を見てよくこんなものの面倒をみているなぁとだいたい感心する。その感心の中にはときに私のボランティア精神に対する共感の意味も含まれているわけだが、私はそれはそういうことではない、と薄々感じはじめていた。

 人間に限らず、その他の動物から、そしてあるいは植物にいたるまで、およそ生き物というものはエゴイズムに支えられて生きながらえていると言っても過言ではない。無償の愛、という美しい言葉があるが、それは言葉のみの抽象的な概念であって、そこに生き物の関係性が存在するかぎり完璧な無償というものはなかなか存在しがたい。

 依然アメリカのポトマック川で航空機が墜落したとき、ヘリコプターから降ろされた命綱をつぎつぎと他の人に渡して自分は溺死してしまったという人がいた。この人が素晴らしい心の持ち主であることは疑いようがない。本音優先の東洋人の中ではなかなか起こらない出来事である。彼はほとんど無償で自分の命を他者に捧げたわけだが、敬虔(けいけん)なクリスティアンである彼が、彼が習ってきた教義の中に濃厚にある他者のために犠牲心を払うということによる“冥利(みょうり)” にまったく触れなかったとは考えにくい。

 そういうものと比較するのは少しレベルが違うが、私が病気の猫を飼いつづけたのは他人が思うような自分に慈悲心があるからではなく、その猫の存在によって人間であるなら誰の中にも眠っている慈悲の気持ちが引き出されたからである。つまり逆に考えればその猫は自らが病むという犠牲を払って、他者に慈悲の心を与えてくれたということだ。誰が見ても汚く臭いという生き物が、他のどの生き物よりも可愛いと思いはじめるのは、その二者の関係の中にそういった輻輳(ふくそう)した契約が結ばれるからである。

 この猫は、それから二年間を生き、つい最近、眠るように息をひきとった。あの体では長く生きた方であると思う。

 死ぬと同時に、あの肉の腐りかけた臭気が消えたのだが、誰もが深いだと思うその臭気がなくなったとき、ふいにその臭いのことが愛しく思い出されるから不思議なものである。

(藤原新也「ある風来猫の短い生涯について」 佐々木倫子『動物のお医者さん』第6巻、白泉社)

【利他論】(北九市立看護専門学校2022年度出題)

「利他」とはなにか。

 利他について研究を始めたとき、私は実は利他主義という立場にかなり懐疑的な考えを持っていました。懐疑を通り越して、むしろ「利他ぎらい」といっていいほどでした。

 私はこれまで、目の見えない人や吃音(きつおん)の人、四肢切断した人など、さまざまな障害を持っている人が、どのように世界を認識し、その体をどのように使いこなすかを調査してきました。

 理由は追って説明しますが、障害のある人と関わるなかで、利他的な精神や行動が、むしろ「壁」になっているような場面に、数多く遭遇してきたからです。「困っている人のために」という周囲の思いが、結果として全然本人のためになっていない。利他は利他的ではないのではないか?そんな敵意のような警戒心を抱くようになっていたのです。

 でも、だからこそ思いました。利他のことを正面から考えてみたい、と。なんてあまのじゃくなんだ、と思われるかもしれません。けれども研究者というのは、得てして本人にとってよく分からないもの、苦手なものを研究対象とするものなのです。

(中略)

 特定の目的に向けて他者をコントロールすること。私は、これが利他の最大の敵なのではないかと思っています。

 冒頭で、私は「利他ぎらい」から研究を出発したとお話ししました。なぜそこまで利他に警戒心を抱いていたのかというと、これまでの研究のなかで、他者のために何かよいことをしようとする思いが、しばしば、その他者をコントロールし、支配することにつながると感じていたからです。善意がむしろ、壁になるのです。

 たとえば、全盲になって一〇年以上になる西島玲那(れな)さんは、一九歳のときに失明して以来、自分の生活が「毎日はとバスツアーに乗っている感じ」になってしまったと話します。「ここはコンビニですよ」「ちょっと段差がありますよ」。どこに出かけるにも、周りにいる晴眼者が、まるでバスガイドのように、言葉でことこまかに教えてくれます。それはたしかにありがたいのですが、すべてを先回りして言葉にされてしまうと、自分の聴覚や触覚を使って自分なりに世界を感じることができなくなってしまいます。たまに出かける観光だったら人に説明してもらうのもいいかもしれない。けれど、それが毎日だったらどうでしょう。

 「障害者を演じないきゃいけない窮屈さがある」と彼女は言います。晴眼者が障害のある人を助けたいという思いそのものは、すばらしいものです。けれども、それがしばしば「善意の押しつけ」という形をとってしまう。障害者が、健常者の思う「正義」を実行するための道具にさせられてしまうのです。

 若年性アルツハイマー型認知症当事者の丹野智文(ともふみ)さんも、私によるインタビューのなかで、同じようなことを話しています。

   助けてって言ってないのに助ける人が多いから、イライラするんじゃないかな。家族の会に行っても、家族が当事者のお弁当を持ってきてあげて、ふたを開けてあげて、割り箸を割って、はい食べなさい、というのが当たり前だからね。「それ、おかしくない?できるのになぜそこまでするの?」って聞いたら、「やさしいからでしょ」って。「でもこれは本人の自立を奪ってない?」って言ったら、一回怒られたよ。でもぼくは言い続けるよ。だってこれをずっとやられたら、本人はどんどんできなくなっちゃう。

 認知症の当事者が怒りっぽいのは、周りの人が助けすぎるからなんじゃないか、と丹野さんは言います。何かを自分でやろうと思うと、先回りしてぱっとサポートが入る。お弁当を食べるときも、割り箸をぱっと割ってくれるといったように、やってくれることがむしろ本人たちの自立を奪っている。病気になったことで失敗が許されなくなり、挑戦ができなくなり、自己肯定感が下がっていく。丹野さんは、周りの人のやさしさが、当事者を追い込んでいると言います。

 ここに圧倒的に欠けているのは、他者に対する信頼です。目が見えなかったり、認知症があったりと、自分と違う世界を生きている人に対して、その力を信じ、任せること。やさしさからつい先回りしてしまうのは、その人を信じていないことの裏返しだともいえます。

 社会心理学が専門の山岸俊男は、信頼と安心はまったく別のものだと論じています。どちらも似た言葉のように思えますが、ある一点において、ふたつはまったく逆のベクトルを向いているのです。

 その一点とは「不確実性」に開かれているか、閉じているか。山岸は『安心社会から信頼社会へ』のなかで、その違いをこんなふうに語っています。

  信頼は、社会的不確実性が存在しているにもかかわらず、相手(自分に対する感情までも含めた意味での)人間性のゆえに、相手が自分に対してひどい行動はとらないだろうと考えることです。これに対して安心は、そもそもそのような社会的不確実性が存在していないと感じることを意味します。

 安心は、相手が想定外の行動をとる可能性を意識していない状態です。要するに、相手の行動が自分のコントロール下に置かれていると感じている。

 それに対して、信頼とは、相手が想定外の行動をとるかもしれないこと、それによって自分が不利益を被るかもしれないことを前提としています。つまり「社会的不確実性」が存在する。にもかかわらず、それでもなお、相手はひどい行動はとらないだろうと信じること。これが信頼です。

 つまり信頼するとき、人は相手の自律性を尊重し、支配するのではなく、ゆだねているのです。これがないと、ついつい自分の価値観を押しつけてしまい、結果的に相手のためにならない、というすれ違いが起こる。相手の力を信じることは、利他にとって絶対的に必要なことです。

 私が出産直後に数字ばかり気にしてしまい、うまく授乳できなかったのも、赤ん坊の力を信じられていなかったからです。

 もちろん、安心の追求は重要です。問題は、安心の追求には終わりがないことです。一〇〇%の安心はありえない。

 信頼はリスクを意識しているのに大丈夫だと思う点で、不合理な感情と思われるかもしれません。しかし、この安心の終わりのなさを考えるならば、むしろ、「ここからは人を信じよう」という判断をしたほうが、合理的であるということができます。

 利他的な行動には、本質的に「これをしてあげたら相手にとって利になるだろう」という、「私の思い」が含まれています。

 重要なのは、それが「私の思い」でしかないことです。

 思いは思い込みです。そう願うことは自由ですが、相手が実際に同じように思っているかどうかは分からない。「これをしてあげたら相手にとって利になるだろう」が「これをしてあげるんだから相手は喜ぶはずだ」に変わり、さらには「相手は喜ぶべきだ」になるとき、利他の心は、容易に相手を支配することにつながってしまいます。

 つまり、利他の大原則は、「自分の行為の結果はコントロールできない」ということなのではないかと思います。やってみて、相手が実際にどう思うかは分からない。分からないけど、それでもやってみる。この不確実性を意識していない利他は、押しつけであり、ひどい場合には暴力になります。

 「自分の行為の結果はコントロールできない」とは、別の言い方をすれば、「見返りは期待できない」ということです。「自分がこれをしてあげるんだから相手は喜ぶはずだ」という押しつけが始まるとき、人は利他を自己犠牲ととらえており、その見返りを相手に求めていることになります。

 私たちのなかについ芽生えてしまいがちな、見返りを求める心。先述のハリファックスは警鐘を鳴らします。「自分自身を、他者を助け問題を解決する救済者と見なすと、気づかぬうちに権力志向、うぬぼれ、自己陶酔へと傾きかねません」(『Compassion』)

 アタリの言う合理的利他主義や、「情けは人のためならず」の発想は、他人を利することがめぐりめぐって自分にかえってくると考える点で、他者の支配につながる危険性をはらんでいます。ポイントはおそらく、「めぐりめぐって」というところでしょう。めぐりめぐっていく過程で、私の「思い」が「予測できなさ」に吸収されるならば、むしろそれは他者を支配しないための想像力を用意してくれているようにも思います。

 どうなるか分からないけど、それでもやってみる。ブレイディみかこは、コロナ禍の英国プライトンで彼女が目にした光景について語っています(ブレイディみかこ×栗原康「コロナ禍と“クソどうでもいい仕事”について」、『文學界』二〇二〇年一〇月号)。

 ブレイディによれば、町がロックダウンしているさなか、一人暮らしのお年寄りや自主隔離に入った人に食料品を届けるネットワークをつくるために、自分の連絡先を書いた手づくりのチラシを自宅の壁に貼ったり、隣人のポストに入れて回ったりしていた人がいたそうです。普通ならば「個人情報が悪用されるのではないか」などと警戒するところですが、そうではなく、とりあえずできることをやろうと動き出した人がいた。

 ブレイディは、これは一種のアナキズムだと言います。アナキズムというと一切合切破壊するというイメージがありますが、政府などの上からのコントロールが働いていない状況下で、相互扶助のために立ち上がるという側面もある。コロナ禍において、とりあえず自分にできることをしようと立ち上がった人は、日本においても多かったように思います。

 レベッカ・ルルニットの「災害ユートピア」という言葉があります。これは、地震や洪水など危機に見舞われた状況のなかで、人々が利己的になるどころか、むしろ見知らぬ人のために行動するユートピア的な状況を指した言葉です。

 このようなことが起こるひとつのポイントは、非常時の混乱した状況のなかで、平常時のシステムが機能不全になり、さらに状況が刻々と変化するなかで、自分の行為の結果が予測できなくなることにあるのではないかと思います。どうなるか分からないけど、それでもやってみる。混乱のなかでこそ、純粋な利他が生まれるように見える背景には、この「読めなさ」がありそうです。

(伊藤亜紗「『うつわ』的利他――ケアの現場から」)



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