ノーベル賞ヒストリー



1、「世界観」を根本から変えた物理学の知見、「現代の錬金術」化学のテクノロジー

「相対性理論」と「量子力学」は「宇宙論」と「物質観」に革命をもたらし、「世界観」「存在論」を変革しました。

「二〇世紀は物理学の世紀と言われている。一九世紀末から始まった物理学の新発見から新しい知見を得て量子力学が誕生し、その成果はたちまち応用研究へ発展する。第二次世界大戦後は半導体やコンピューター技術の研究開発へとつながり、今日の高度情報化社会を実現した。二〇世紀物理学の重要な業績は、ほとんどがノーベル賞に輝いている。ノーベル賞業績の歴史は、同時に二〇世紀物理学の歴史と言っていいだろう。

二〇世紀物理学の新しい展開の先駆けとなったのは、一八九五年のエックス線の発見であり、一八九六年の放射能の発見であり、一九〇〇年の量子仮説の提唱である。まるで絵に描いたような重要な発見と提唱という胎動の中で二〇世紀が幕を開け、物理学は爆発的な発展につながっていくのである。」(馬場錬成)


「相対性理論」 ~アインシュタインはニュートン以来の「絶対時間」(宇宙のどこに行っても流れる時間は同じ)と「絶対空間」(空間は独立していて何の影響も受けない)の概念を覆し、「相対時間」「相対空間」の概念を打ち出すと共に、そもそも「時間」と「空間」は「4次元時空」という統一的概念で捉えられることを明らかにしました。「重力」も「時空のゆがみ」で説明され、質量とエネルギーの変換公式も確立( E mc 2 E :エネルギー、 m :質量、 c :光速)しており、この応用から「原子力」が導き出されました。

 ここから「宇宙論」が急激に発展し、宇宙の始原における根元的な4つの力(弱い相互作用、電磁気力、強い相互作用、重力)の統一(「電弱統一理論」→「大統一理論」→「超大統一理論」)といったテーマが浮上したわけです。これはマクロな宇宙を扱う「相対性理論」も始原状態においてはミクロの領域となり、通常だと両立が難しい「量子力学」が適用される段階となることを意味します。

 実際、「相対性理論」と「量子力学」の統一理論(「万物理論」「最終理論」とも言います)は「質量無限大の特異点」の問題などを解決しなければならず、4つの力のうち、最も問題となる重力を担う「重力子」を巧みに取り込んだ「超重力理論」や「特異点の克服」というよりは「特異点の回避」から生まれてきた「超ひも理論」などがその候補の1つに挙げられていますが、21世紀物理学に持ち越された重要課題であると言えます。

「全ての自然現象は神のなせる業であり、その原因まで探究すべきではないと彼等は主張しました。しかし、宇宙の初期条件は局所的な物理法則と同じく、科学研究にふさわしい題目であると思います。」(ホーキング)


「量子力学」~「ノーベル賞の華」と言われる物理学賞は第1回受賞がレントゲンによるX線の発見であるように、目に見えない世界の解明から始まったことは実に象徴的です。電子のエネルギー量は不連続で、整数倍になっているというプランクによる「量子仮説」、物質には「粒子性」と「波動性」の二重性があるというド=ブロイによる「物質波」、物体は同時に観察したり、測定したりすることが不可能な、ある対の相補的な性質を備えていることを述べたボーアの「相補性原理」、量子力学的対象を扱うための数学的手法であるシュレディンガーの「波動力学」(ハイゼンベルクの行列力学と意味する所は同じです)、「観測」という行為自体が対象に影響を及ぼすことを明らかにし、ハイゼンベルクの「不確定性原理」に至って、「量子力学」の基礎が固まりました。「客観的な実在」が存在するという素朴な「存在論」を「認識論」によって覆され、現在では観測するまでは「波」だが、観測した瞬間、「粒子」に収束するという「波の収束」が起きていると考えられています。ここから物質を成り立たせる根本的粒子(素粒子)の解明(クォーク、ニュートリノなど)といったテーマが浮上し、「真空」とは空っぽではなく、負のエネルギーを持った電子がぎっしり詰まった状態であるとして、「相対性論的量子力学」を確立したディラックの提唱した「反物質」が発見されるなど、驚異的な進展を示したのです。

 従来のニュートンの古典力学は「因果律」の基づく必然的「決定論」で、弾道計算や軌道計算なども「決定論」ゆえに可能なのでであり、この立場を推し進めると、今後どうなるかを全て知り尽くした存在「ラプラスの悪魔」を想定することも当然考えられる話です。これに対して、「量子力学」の発達は「確率」に基づく偶然的「非決定論」の意義を認識させました。「カオス理論」から発達した「複雑系」なども「非決定論」を組み込んだシステムであり、身近な所では保険でよく使われる「大数の法則」なども「非決定論」の立場に立ちます。これは個々のケースでは犬に噛まれたり、マンホールに落ちたり、それぞれにたまたま起きたことであるにもかかわらず、社会全体では毎年大体一定の割合で事故・病気・怪我が発生するということです。つまり、個々の事象は確率論的「非決定論」なのに、社会全体というマクロ・レベルでは一定の法則に収束して、因果律的「決定論」として取扱えるということを意味します。

 ちなみにアインシュタインはこうした「確率」に基づく「量子力学的解釈」が受け入れられず、「神はサイコロを振らない」と言って、量子力学を論破しようと「思考実験」をいくつもふっかけていきましたが、逆に悉く論破されていったことは有名です。



「原子力」は「エネルギー革命」をもたらし、新しい「物質」「素材」が生活を豊かにしました。

「エネルギー革命」~「蒸気」(第1次産業革命)→「電気・石油」(第2次産業革命)→「原子力」(第3次産業革命)の3段階で発展し、特に「原子」から厖大なエネルギーを引き出す「原子力」(ウランによる「核分裂」→重水素・三重水素による「核融合」→反物質による「第3の原子力」という3段階があります)は「現代の錬金術」にふさわしいトップ・テクノロジーとなりました。


「新物質」~プラスチック、ビニール、ナイロンなど自然界に存在しない物質も作り出されて、「素材革命」「生活革命」が起き、生活水準が格段に引き揚げられました。抗生物質などの薬は「医療革命」を引き起こし、肥料などの化学物質も「農業革命」「生産革命」に直結しましたが、その一方で「薬害」「公害」「環境汚染」も引き起こし、中世の錬金術同様、両刃の剣であることが分かったのです。




2、「生命の神秘・謎」に迫る最先端生理学・医学の成果

「二〇世紀生物学の最大の発見は、遺伝子DNAの構造の発見である。二〇世紀前半の科学のエポックメーキングな出来事は、量子力学の誕生と発展である。理論的成果の集積が進むにつれてさまざまな現象の原理原則が明らかになり、電子工業を中心に工業化への応用研究が急速に進展した。DNAの構造の発見は、分子生物学という新しい学問を創造し、生物、化学、物理、医学など既成の学問領域を乗り越えた、インターディシプリナリー(異なった学問分野にまたがること)に広がり、『生命科学の世紀』とされる二一世紀へとつながった。」(馬場錬成)



「DNAの二重らせん構造」の解明は「生命の神秘」の扉を開けました。

DNAの二重らせん構造」~生物の遺伝的形質を規定する「遺伝子」において、「遺伝情報」の実体は「DNAの塩基配列」であることが分かっています。これがDNAからRNAに情報が写し取られる「転写」と、メッセンジャーRNA、トランスファーRNA、リボソームRNAなどによってタンパク質が合成される「翻訳」によってタンパク質に変換される過程を「セントラル・ドグマ」(分子生物学の中心教義)と言いますが、これはワトソンとクリックによる「DNAの二重らせん構造」モデルの構築から確立されていきました。ここから「分子生物学」が発展し、「生命の神秘・謎」の探求が加速化されることとなるのです。


「利根川進の偉業」~1976年のワトソンが所長を務めるコールド・スプリング・ハーバー研究所のシンポジウムで、後にノーベル生理学・医学賞を単独受賞することになる利根川進が「抗体の多様性の仕組み」について発表しました。ここに招かれて研究成果を発表するのは、分子生物学者として最高の名誉であるとされます。免疫の抗原抗体反応において、1つの抗原には1つの抗体が必要なため、抗原が1億あれば抗体も1億必要になりますが、人体が最初からそんな膨大な抗体を準備しているとは考えられないため、「免疫学最大の謎」の1つになっていたのですが、利根川はこれに取り組み、複数の遺伝子を使って組み換えを起こし、膨大抗原に対抗する抗体を作り出すメカニズムを明らかにしたのです。利根川が制限時間を使い切ったため、司会者が発表を打ち切らせようとしたところ、会場の後ろにいた人物が「これは重要な発表だ。途中で止めさせるな」と叫び、30分以上も延長して発表を続けると、「発表を聞いている聴衆が、これは大変だと認識しはじめた。会場はシーンとし、誰もが畏敬の念を持って聞いているように感じた。聴衆の興奮がこっちにも伝わってきた。終わったらものすごい拍手だった」(利根川)と言います。実は叫んだのは、分子生物学のボスであるワトソンその人でありました。利根川の新しい発見の連続は「約二年間にわたって独走を続けた」と言われるように、他の追随を許さないものであり、ノーベル生理学・医学賞選考委員も「この業績は一〇〇年に一度の大発見だ」と絶賛し、選考委員会事務局長リンドステンも日本人の受賞者がなかなか出ないと嘆く日本人ジャーナリストに対して、「トネガワの単独受賞は、三人分に相当する。だから三年間はいいだろう」と冗談交じりに言ったほどでした。ちなみに利根川は実証実験においても、それまでの分子生物学の実験手法をガラリと変えるような最先端技術を次々と導入したことでも知られています。

①DNAを特異的に切断する制限酵素の利用~アメリカのスミス、ネイサンズが制限酵素を発見していますが、2人は1978年にノーベル生理学・医学賞を受賞しています。

②コーエン=ボイヤーの遺伝子組み換え法~アメリカのコーエン、ボイヤーが制限酵素とプラスミドを用いて組み換え遺伝子を作る方法を開発しました。

③DNAのクローニング法~アメリカのポール・バーグが発明しました。1980年にノーベル化学賞を受賞しています。

④DNAの塩基配列を直接読めるマクサム・ギルバート法~アメリカのギルバートらが開発しました。ギルバートは1980年にノーベル化学賞を受賞しています。




3、評価の分かれる文学と平和運動、日本人の独創性が見られない経済学

「世界文学」に「日本文学」は貢献したか。

「ダイナマイトを発明したのは、まだ許せるとしても、ノーベル文学賞を考え出すなんて言語道断だ。」(バーナード・ショー~1925年ノーベル文学賞受賞)


「文学評価の偏向性」~ノーベル文学賞の最初の10年だけでも、トルストイ、ゾラ、マーク・トウェイン、イプセン、ゴーリキー、リルケらが漏れているのは問題視されています。文学賞を選出するスウェーデン・アカデミーによれば、トルストイの『戦争と平和』『アンナ・カレーニナ』は名作だが、同時にトルストイは文明とは無縁の原始的生活を賛美し、政府の存在を否定して無政府主義を唱え、聖書を勝手に書き直しているとされ、ヨーロッパが依って立つ規範や宗教に批判的な作家はなかなか受賞できなかったと言います。逆にアイルランドの詩人イェイツが受賞した時ほど、選考委員の見識の高さを示した例はまれということも言われています。アジアで最初の受賞者になったタゴールに対しても、受賞理由は「タゴールは完璧な手法で、繊細で新鮮な美しい詩を生み出した。そしてそれを英語で表現することで、自分の詩的な思想を西洋文学の一部とした」ためとなっています。「日本文学」も当然、欧米語訳に恵まれ、欧米語圏で普及し、評価を得られたかどうかということが、その「文学的価値」以前に問題となってくるのです。ちなみに日本人初の受賞者たる川端康成が選出された経緯は次のようです。

「ノーベル文学賞の候補者リストに極東出身者の名前が初めて登場したのは、一九五〇年のことであった。それは日本の作家でなく、中国の哲学詩人林語堂であった。一九三八年度のノーベル賞受賞者であり、中国通として知られるパール・バックの推薦により、林語堂は候補者名簿にその名を連ねる資格を得たのであった。毛沢東の主権掌握以来、この詩人に関するうわさはもはや聞かれなくなってしまった。一九五八年には再びパール・バックによって、この名誉ある候補者に最初の日本人として、近代小説の巨匠、谷崎潤一郎が推薦された。この推薦は、一九六五年に谷崎がこの世を去るまで、幾度か西欧側からも日本側からも提出されたのであった。

六〇年代に入ると、その当初から他の日本の作家たちが谷崎とはげしく競い合った。すなわち、感受性ゆたかな詩人であり、T・S・エリオットの翻訳者でもある日本文芸家協会推薦の西脇順三郎、日本ペンクラブから推薦されていたペンクラブの前会長川端康成、さらに小説家であり劇作家である三島由紀夫であった。三島は他の二人よりもはるかに若く、また西欧化されたところがあるにしても、最も嘱望されていた。谷崎の場合と同じように、川端、三島の作品は諸外国語に訳され、その名は広く西欧にも知られるようになっていたのである。」(ストレムベリィ)



ノーベルの悲願は「平和」の実現。

「平和賞は政治ショー」~ダイナマイトで一財産を築いたノーベルは、自国スウェーデンを拠点に「ノーベル賞」を創設し、物理学賞・化学賞はスウェーデン王立科学アカデミー、生理学・医学賞はストックホルムのカロリンスカ研究所、文学賞はストックホルムのスウェーデン・アカデミーがそれぞれ授賞することになっていますが、平和賞のみノルウェー国会が選出する5人の委員が授賞することになっており、特別な位置づけにあることが窺われます。授賞対象は「国家間の友好、軍備の縮小または撤廃、平和会議の組織や普及のために最上、最良の仕事を果たした人」となっていますが、実際には自然化科学などと比べて評価がきわめて難しく、政治的なショーになっていることは否めません。

「もう一つ、ノーベル賞のエピソードをノーベル財団に関係しているスタッフから聞いたことがある。一九七四年に平和賞を受賞した日本の佐藤栄作(一九〇一~七五)のことである。非核三原則に基づく外交などが評価されて受賞したものだが、その後の検証で佐藤政権は非核三原則に忠実であったかどうか疑わしいということになった。佐藤への授賞は、アメリカの複数の有力議員の強力な推薦があったからと言われており、アメリカの政治的ポーズが、功を奏したとも受け取られている。

ノーベル平和賞はすぐれて政治的な賞である。自然科学三分野のように真理の発見、万人が認める基礎研究の成果に出すのとは違う。ノーベル平和賞は、政治的ショーである。その時代に受け入れられた授賞ならば、平和賞はよしとするべきなのだろう。」(馬場錬成)



「数学は科学の女王、経済学は社会科学の女王」と「経済学帝国主義」。

「ノーベル経済学賞」~ノーベルの遺言には経済学賞はなく、1968年にスウェーデン国立銀行が創立300周年を記念して、ノーベル賞に経済学賞を加えるように提案し、特別規約が制定されました。正式名称は「アルフレッド・ノーベル記念経済学賞」となっており、ノーベル財団のスタッフの中でも「経済学賞はノーベル賞ではない」「経済学賞をノーベル賞から外すべきである」といった主張はかなり強いと言います。ちなみに経済学のほとんどの領域で優れた業績を打ち立てたサミュエルソンは第2回授賞者ですが、ノーベル経済学賞は彼のために作られたとまで言われたものです。


「経済学帝国主義」~「数学は科学の女王、数論は数学の女王」(ガウス)と言われるのに対し、経済学は物理から「質点の力学」を導入して、モデル・ビルディングを駆使し、さらに数学的洗練を経た結果、「経済学は社会科学の女王」と呼ばれるに至りました。およそ社会科学の中で、数学的手法によって成功を収めたとされるのは経済学と心理学のみです。さらにこうした経済学的思考・分析を他の社会科学分野に及ぼして、「経済学帝国主義」と呼ばれるほど幅広い影響を与えるようになるのです。例えば、経済学の分析対象を人間の行動様式や相互作用といった非市場分野にまで革新的に広げたのが、1992年経済学賞受賞のベッカーです。






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