「教育史点描~最後に残るのは「教育」である~」



(1)「現代教育」の原点は「ギリシャ・ローマ」にある

①西洋文明はギリシャとローマを抜きに語れない

②ギリシャの「パイデイアー」(教養・人間教育)とローマの「フーマーニタース」(人間性)

(2)「高等教育」の伝統と「大衆教育」の伝統の違い

①「大学」の誕生と「ノブレス・オブリージュ」

②「公教育」の根幹は「初等教育」にある

(3)「宗教教育」と「世俗教育」の分岐点はどこか

①教育は基本的に「宗教教育」だった

②人間の「二重性」を認めた「世俗教育」の意義

(4)「実学主義」から出発した「近代教育」のスゴさ

①「リアリズム」の根底には「合理主義的精神」がある

②「体系的教育学」と「科学的教授法」から「公教育制度」に至った「近代教育」

(5)「教育」とは結局「人間観」と「教育制度」である

①「人間」は「教育」されない限り、「人間」とはならない

②国家・社会の持つ「理想的人間像」が「教育制度」を形成する

(6)世界の「教育」を比較してみるとオモシロイ

①「飛び級・飛び入学」を認めれば「落第」も認めなければならない

②「中等教育」に各国の特色が現れる



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「教育史点描~最後に残るのは「教育」である~①」

(1)「現代教育」の原点は「ギリシャ・ローマ」にある

西洋文明はギリシャとローマを抜きに語れない

「西洋哲学史は要するにプラトン哲学に対する一連の脚注にすぎない」

(アーノルド・ホワイトヘッド)

「プラトンの呪縛」

(カール・ポパー)

「ギリシア哲学はしかしヨーロッパの哲学にとってつねに故郷であり、思想が単に宗教的信念や世界観を越えて学としての哲学に高まるとき、ギリシア哲学と対話し対決することが不可欠の精神的営為となってくる。」

(角田幸彦)

「征服されたギリシアは、猛(たけ)き勝利者を征服し、粗野なローマに学芸をもたらした。」

(ホラティウス)

「ローマは三度世界を統一した(一度は武力で、二度目はキリスト教で、三度目はローマ法によって)。」

(イェーリング)

「アルケー」論~アルケーとは「万物の根源」のことを言います。

→「人間は万物の尺度である」(プロタゴラス~ソフィスト)

「アレテー」論(徳、本質。ソクラテス)~アレテーとは「国有の優秀性・卓越性」を指し、「犬のアレテー」「馬のアレテー」「眼のアレテー」「大工のアレテー」といった使われ方をします。

「イデア(真実在)」論(プラトン)

「形相(エイドス)と質料(ヒューレー)」論(アリストテレス)

ソクラテス~「ソクラテスより知恵ある者はいない」(デルフォイの神託)が出発点となります。

「汝自身を知れ」グノーティ・サウトン)~デルフォイ神殿に刻まれていた言葉で、ソクラテスが常に言っていたとされます。

「無知の知」~ソクラテスは、人間の魂にとって大切な善美のことがらについて無知であることを自覚するからこそ、知を探し求めるようになると考えました。無知の無知臆見、思い込み、ドクサ)→無知の知→知の知(真知エピステーメー)。

「問答法(弁証法)」「産婆術(助産術)」

「真知」「知徳合一」「知行(ちこう)合一」

プラトンの「国家」論(ポリティア、教育論)~プラトンは国家の3階級(王、軍人、農民・商工業者)において、それぞれ発現すべき徳があると考えます。そして、それらが十分に発現されると、国家として4番目の徳である正義が実現するというのです。これはギリシア哲学の四元徳として、キリスト教の三元徳である信仰希望と合わせて七元徳として、中世を通じて重視されることとなります。

王→イデアを追求し、知恵の徳を発現すべき。したがって、哲学者が王になるか、王が哲学を学ぶかいずれかであり、これを哲人政治と言います。プラトンはシチリア島にあるシラクサの王にこれを試みますが、成功せず、弟子のアリストテレスアレクサンドロス大王に対して実現することに成功します。

軍人→勇気の徳を発現すべき。

農民・商工業者(生産者階級)→節制の徳を発現すべき。

プラトンの「人間観」~プラトンは魂の3区分として、理性(知)、気力(意)、欲望(情)の3つがあると考え、国家論と同じようにそれぞれが発現すべき徳があるとし、それらが十分に発現されると、4番目の徳である正義が実現する考えました。

理性(知)→イデアを追求し、英知の徳を発現すべき。特に「善(タガトン)のイデア」が重視されました。

気力(意)→勇気の徳を発現すべき。

欲望(情)→節制の徳を発現すべき。


【参考文献】

『精神史としての哲学史』(角田幸彦編、東信堂)

『イラスト西洋哲学史』(小阪修平、JICC出版局)

『概説西洋哲学史』(峰島旭雄編著、ミネルヴァ書房)

『ギリシア人ローマ人のことば 愛・希望・運命』(中務哲郎・大西英文、岩波ジュニア新書)

『世界の故事・名言・ことわざ 総解説』(自由国民社)

『ギリシア人の教育―教養とはなにか-』(廣川洋一、岩波新書)

『ことばを鍛えるイギリスの学校 国語教育で何ができるか』(山本麻子、岩波書店)

『アメリカン・マインドの終焉』(アラン・ブルーム、みすず書房)



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「教育史点描~最後に残るのは「教育」である~②」

(1)「現代教育」の原点は「ギリシャ・ローマ」にある

ギリシャの「パイデイアー」(教養・人間教育)とローマの「フーマーニタース」(人間性)

プラトンのアカデメイア~プラトンが開いた教育機関で、紀元前387年頃~529年の約900年間続きました。入口に「幾何学を知らざる者はこの門を入るべからず」と書かれてあったことで知られています。「アカデミー」の語源でもあり、数多くの単科大学、総合大学がこのアカデメイアを模範として創設されました。アカデメイアに20年学んだアリストテレスも、アレクサンドロス大王の家庭教師を務めた後、アテナイに戻ってリュケイオンで「講義」を行いました。リュケイオンも英語の「レクチャー」やフランスの後期中等教育機関「リセ」の語源となっています。

イソクラテスの修辞学校イソクラテスはプラトンの同時代人で9歳年長、やはりソクラテスの強い影響を受けています。アカデメイアに数年先立って修辞学校を創設し、プラトンと共に「教育」の2大潮流をなしました。

西洋思想における「ロゴス」の二重性「ロゴス」の二重性とは「論理」「言葉」の2つを指します。プラトンのアカデメイアイソクラテスの修辞学校は、それぞれに対応していると見ることができます。ちなみにイギリスやフランスでは「言葉」の教育が重視され、いわゆる「幼児語」がほとんど使われません。

パイデイアー(教養・人間教育)~「トロペー」(養育や職業的専門教育)とは区別される概念です。この理念が組織的に用いられるようになるのはプラトンイソクラテスからであり、この2人以前にも悲劇詩人アイスキュロス、歴史家トゥキュディデス、哲学者デモクリトス、喜劇詩人アリストファネスらが1~2回ずつ教育に言及していますが、いずれも「トロペー」(子供の養育・しつけ)の域を出るものではありません。

 ところが、プラトンに至って、「パイデイア」「人間としての善=徳(アレテー)を目指しての教育」として語られ、この「人間としての徳(アレテー)を持つ」ことは「魂をすぐれた善いものにすること」としてとらえられています。ソクラテス・プラトンは「魂の世話」と言い、イソクラテスは「魂への配慮」と言っています。さらに、「徳」(アレテー)が「完全な市民になること」とも説明されていることから、人間にとって「一般的general」「普遍的universalであることは、ギリシャ人にとっては「政治的(political)」でもあるという特色が如実です。

「人間は政治的動物である(人間はポリスにおいて初めて本性を完成させる動物である)。」

(アリストテレス『政治学』)

一般教養・普遍的教育「パイデイアー」(人間教育)は「一般的」「普遍的」であることから、「一般教養」「普遍的教育」とも言うことができます。この点、現代日本の大学教育における「一般教養」は「専門教育」の予備段階ぐらいにしか扱われておらず、むしろアメリカのいわゆる一流大学が4年間の学部教育を「一般教養教育」リベラル・エデュケーション)に費やしていることの方が、プラトンの伝統を引きつぐものだと言えます。ロー・スクールビジネス・スクールアカウンティング・スクールメディカル・スクールなどは一般教養教育終了後の大学院における「専門教育」です。

ピロソピアー(愛知)~「フィロソフィー」の語源で、「パイデイアー」(教養・教育)のための方法的手段とされます。これもプラトンイソクラテスによって確立された概念で、それ以前には歴史家ヘロドトスや哲学者ヘラクライトス、そして医学者ヒポクラテスがわずかに1回ずつ用いているにすぎません。ただ、プラトン的ピロソピアーの伝統数学的・哲学的内実)と、イソクラテス的ピロソピアーの伝統修辞学的・文学的内実)という2つの流れがあったことに注意しなければなりません。

スパルタの教育~今日でも「スパルタ教育」という言葉が残っていますが、それは元々兵役準備の性格を持った勤倹・尚武を目指す教育でした。 男子も女子も身体的訓練に特権的位置が与えられ、教育プログラムの中核は競争・レスリング・円盤投げ・槍投げ・耐久訓練・公民教育でした。紀元前5世紀にペルシア戦争を経てからは僣主政治は警察化し、軍事訓練のみ存続されるという有様で、そこでは知的教育は最低順位に位置づけられ、読み・書きの簡単な練習だけでした。子供は7歳で国の所有となり、12歳から20歳まで忍耐・服従・計略といった軍事的目標のための集団的教育が施されたのです。現代の先鋭的な共産主義・全体主義国家での教育が想起されるところでしょう。


アテナイの教育~教養あるギリシャ人にとっては、ホメロスの叙事詩は人生のあり方や生活の知恵を教えてくれる教科書でしたが、紀元前7世紀以来のホメロスの叙事詩による教育の伝統を引き継いで、専門化した教師達による制度化された教育が行われていました。これは商工業の発達、富の蓄積、富裕な商工階級の出現を背景としており、読み書き計算3Rs=reading, writing, arithmetic)が基礎的プログラムの全てを形作っていました。一般的にはそれらを7~13歳のうちに身に付け、さらに「ギムナシオン」(国立訓練場)に通いながら徒弟訓練へと入っていきますが、ギムナシオンは、ドイツの中等教育機関たる「ギムナジウム」やボクシング・レスリングなどの練習場「ジム」の語源となっています。かくして、貴族の子弟達には体育(競争)と音楽を重視したエリート教育が施され、音楽は「女神ミューズの領分」として、唱歌・詩・舞踏を含んでいました。

 このようなアテナイの学校組織は紀元前6~5世紀に基本的構造が確立されたとされ、それは賢人ソロンに負うているとされています。やがて、紀元前5世紀にソフィストのおかげで中等・高等レベルの教育が確立されていくのですが、そうした土壌の中でソクラテスプラトンアリストテレスといった古代ギリシャ哲学の最高峰が誕生してくるのです。

ローマの「フーマーニタース」(人間性)~ギリシャの「パイデイアー」は、優れた学芸によって教化され、洗練されることを指す、ローマの「フーマーニタース」の伝統に引き継がれます。

「自由学芸」(自由七科七自由科)「三学」文法修辞学弁証法論理学イソクラテス的伝統)+「四科」幾何算術音楽天文学プラトン的伝統)が中等学校の教科として確立します。これは東ゴート族テオドリックの宮廷において活躍し、ギリシア文化のイタリア土着化も推進したカッシオドルス(487~583頃)によります。カッシオドルスは540年頃、南イタリアに図書館を付置した修道院を設立し、文献の収集・翻訳、写本の製作や修道士教育を進め、中世修道院の学問活動の模範となりますが、その著書『聖学ならびに世俗的諸学綱要』第2部における「自由学芸」の構成が自由七科として定着し、聖書研究にも多大の影響を及ぼしました。

「一般教養」リベラル・アーツ)が12世紀以降に大学の人文学部で用いられるようになりました。

「我々は人間と呼ばれている。だが、我々のうち、人間性にふさわしい学芸によって教養を身に付けた人々だけが人間なのだ。」

(キケロ)

「繰り返して言えば、一般教養教育の危機は学問のさまざまな頂きの危機を反映している。またそれは、世界を解釈するのに用いられるさまざまな第一原理が不整合をきたし、たがいに両立しえないという事実―知性の最大規模の危機(これが現代の文明の危機をなす)―を反映している。しかし、おそらくこう言うほうが真実なのかもしれない。危機はこのような不整合にあるのではなく、むしろわれわれが危機を論じることができず、認識さえできない点にある、と。一般教養教育が自然と自然における人間の地位に関する統一された見解―を議論する道を用意したとき、一般教養教育は栄えた。一般教養教育を修めた後には、たださまざまな専門科目だけしかなかったとき、一般教養教育は衰えた(それら専門科目の前提は、どんな一般的なヴィジョンにも到達しない)。最高の知性とは一面的な知性である。すべてを概観することなどに意味はない。」

(アラン・ブルーム『アメリカン・マインドの終焉』)


【ポイント】

①「教育」とは「人間観」に直結し、国家的・政治的・社会的要請と密接に関係がある。

②「教育」とは本来、「人間的完成」「人格陶冶」を目的とした「教養教育」であった。

③西洋的「教育」の伝統には「ロゴスの二重性」に対応する「言葉」的要素と「論理」的要素がある。


【参考文献】

『精神史としての哲学史』(角田幸彦編、東信堂)

『イラスト西洋哲学史』(小阪修平、JICC出版局)

『概説西洋哲学史』(峰島旭雄編著、ミネルヴァ書房)

『ギリシア人ローマ人のことば 愛・希望・運命』(中務哲郎・大西英文、岩波ジュニア新書)

『世界の故事・名言・ことわざ 総解説』(自由国民社)

『ギリシア人の教育―教養とはなにか-』(廣川洋一、岩波新書)

『ことばを鍛えるイギリスの学校 国語教育で何ができるか』(山本麻子、岩波書店)

『アメリカン・マインドの終焉』(アラン・ブルーム、みすず書房)



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「教育史点描~最後に残るのは「教育」である~③」

(2)「高等教育」の伝統と「大衆教育」の伝統の違い

「大学」の誕生と「ノブレス・オブリージュ」

大学の誕生~高等教育機関「大学」は、「都市の空気は自由にする」と言われた自由都市の中に発生した「学問をする者の自由なる団体」(学者と学生のギルド)を基礎としています。この学生組合ウニフェルシタスuniversitas)は「大学university」の語源であり、「組合union」の語源でもあります。当初は聖職者の養成を主要目的としており、国際的な性格を有していて他国の学生も受け入れておりました。国王や法王の認可を受けて特権を付与されており(「ハビタ」)、「大学の自由」(リベルタス・アカデミカ)、「学問の自由」(リベルタス・フィロソファンディ)。という概念が生まれます。ちなみに「自由」「人権」ではなく、「特権」であることに注意しましょう。かくして、大学は教権帝王権と並ぶ中世3大勢力の1つとなっていきます。

 学生は13~20歳の6年間に「自由学芸」リベラル・アーツ)の教育を受け、その後、神学部法学部医学部のいずれかの学部に進みました。さらに人文学部がありましたが、神・法・医の3学部は人文学部より上位のものとみなされていたのです。

「(大学は)ヨーロッパの精神史・社会史の最高度に独特な現象である。」(グルントマン)

初期の大学の特徴

ボローニャ大学(1158年認可)~法学。北部イタリアは国境紛争でドイツと長く抗争を続けたため、法律(特にローマ法)の研究が盛んになりました。

パリ大学(1180年認可)~神学。ノートルダム寺院を中心に、パリ大僧正の監督下に行なわれていた教育が起源です。教授団体を中心に学部ファクルタス)制を取っており、ドイツの大学もこれにならいました。さらに貧窮学生のための寄宿舎が発展して、教育をも行なう学寮コレージュ)となったのですですが、イギリスのオックスフォード大学ケンブリッジ大学もこの制度を導入しています。

オックスフォード大学(1167年頃、形態を整えました)~パリ大学を手本として作られました。

ケンブリッジ大学(1209年)~オックスフォードから一部の者が移転して作られた。

ナポリ大学(1224年認可)~医学。

チュービンゲン大学(1477年創設)

大学の近代化~大学は当初はスコラ哲学アリストテレス哲学を学ぶ場でしたが、やがて自然科学数学の原理の上に立てられた近代哲学ラテン語を学ぶようになり、さらに各国語古典的カリキュラムを経て、「学問と教育の自由」を原則としたカリキュラムが確立していきます。

ハレ大学(1694年創設)→ゲッチンゲン大学(1734年創設)→ベルリン大学(1809年、フンボルトによって創設)

ロンドン大学(1828年創設)

大学の3つの機能分化~大学の近代化に伴い、学問研究人材育成社会貢献という大学の3つの機能分化が生じてきます。

学問研究ドイツ型(フンボルトの理想)です。

人材教育フランス型(国家的エリート養成)です。

社会貢献アメリカ型(産学協同)です。

ノブレス・オブリージュ(高い身分に伴う道徳上の責任、高貴な義務)~『ローマ人の物語』で作家塩野七生氏は、ローマ帝国千年を支えた根本は「ノブレス・オブリージュ」だったと強調しています。ローマの貴族は社会的責任を負わなければならないという考えが強く、戦争が起これば貴族は率先垂範して最前方に出て戦い、公共の利益のためには貴重な財産を社会に快く提供したと言います。塩野氏は「知性ではギリシャ人より劣り、体力ではケルト人やゲルマン人より劣り、経済力ではカルタゴ人より劣っていたローマ人が、永らく巨大帝国を維持できた原動力は社会指導層の役割だった」と主張しているわけですが、これは「エリート教育」(フランス語で「エリート」は「選ばれた者」という意味)が「選民意識」が生み出すと考えてもよいでしょう。

マーチン・トロウの先進工業国の高等教育(大学)分析~アメリカに典型的に当てはまり、ヨーロッパその他では当てはまらないと見られていますが、この視点は多分に示唆的です。

エリート型特権教育の段階。適齢人口中の学生比率が15%まで。

マス型大衆教育の段階。適齢人口中の学生比率が15~50%まで。

ユニバーサル型「権利」というより「義務」として意識される段階。適齢人口中の学生比率が50%以上。

日本の現状~日本では高校進学率は98に達し、「高校義務教育化」が長らく議論されてきましたが、これは「高校」「マス型」から「ユニバーサル型」に変えようじゃないか、ということに他なりません。ところが、そうこうしているうちに大学進学率が約50(首都圏では60%以上)となり、何と「大学」「マス型」から「ユニバーサル型」に変わってしまう可能性が出てきてしまったのです。


【参考文献】

『大学史(上)(下)』(ステファン・ディルセー、東洋館出版社)

『ヨーロッパの大学』(島田雄次郎、玉川大学出版部)

『日本の教育 ドイツの教育』(西尾幹二、新潮選書)

『日本人とフランス人 「心は左、財布は右」の論理』(舛添要一、光文社)

『大学とアメリカ社会 日本人の視点から』(中山茂、朝日選書)

『世界の大学危機 新しい大学像を求めて』(潮木守一、中公新書)

『教育思想史』(中野光・志村鏡一郎編、有斐閣新書)

『教職のための教育史 西洋編』(溝口貞彦、東研出版)

『西洋教育通史』(皇至道、玉川大学出版部)



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「教育史点描~最後に残るのは「教育」である~④」

(2)「高等教育」の伝統と「大衆教育」の伝統の違い

「公教育」の根幹は「初等教育」にある

ルソーの『エミール』~近代教育思想の主要原理が打ち出されていて、その影響は大きく、カントは『エミール』を読みふけって散歩の時間を狂わせたと言います。例えば、「子どもの発見」「発達段階論」からは「児童中心主義」「漸進主義」が生まれ、「性善説」「主観的自然主義」「自然に返れ」からは「消極教育」が生まれています。

児童中心主義デューイによれば、教師・教材中心→児童中心への転換は、教育における「コペルニクス的転回」だと言います。

「人間は自由なものとして生まれた。しかも至る所で鎖につながれている。」

(ルソー『社会契約論』)

「創造主の手を離れる時、全ては良いものであるが、人間の手に移ると全てが悪くなる。」

(ルソー『エミール』)

「教育の最大の秘訣は教育しないことである。」

(エレン・ケイ『児童の世紀』)

「近代教育の父」ペスタロッチ3H’sの思想」head,heart,hand)、「直観のABC(数・形・語)」から観教授開発的教授が生まれています。ここからリーツ「田園教育舎」ニイル「サマーヒル・スクール」ドクロリー「生活による、生活のための学校」などが誕生しました。

「玉座の上にあっても、木の葉の屋根の蔭に住まっていても同じ人間、その本質から見た人間、そも彼は何であるか。」

(ペスタロッチ『隠者の夕暮れ』)

「生活が陶冶する。」

(ペスタロッチ『白鳥の歌』)

フレーベル~教育史上最初の幼稚園「一般ドイツ幼稚園」を作りました。「恩物」思想、『人間の教育』。こうした幼児教育の流れから、「児童の家」を作り、「モンテッソーリ法」を実践したモンテッソーリが出て来ます。

ベル・ランカスター・システムモニトリアル・システム)~生徒10~20人に1人の割合で助教を付ける「一斉教授法」です。

「とうとう1人の人物が現われた。彼は彼自身の経験によって、教育の最も有効な部門が貧民に驚くほど安上がりに、・・・達成されることを証明し、社会のどの人々にも教育の恵みを拡大するという輝かしい計画を構想していた。・・・このようなことはすでに誰にも分かっているように、ジョゼフ・ランカスターがもっぱらやってくれたことである。」

(ジェームズ・ミル)

「近代公教育制度」の確立は初等教育から~イギリスの「フォスター法」(初等学校法)、フランスの「ギゾー法」(初等教育法)などにより、近代公教育制度が確立していきます。。

「義務教育制度」の成立要件 「就学義務規定」「学校設置義務規定」「無償性の原則(授業料の不徴収)」

→日本の場合:

1次小学校令~1886年、就学義務規定

2次小学校令~1890年、学校設置義務規定

3次小学校令~1900年、無償性の原則、義務就学期間4年。

改正小学校令~1907年、6年制義務教育制度成立。

ドイツにおける2段階の義務教育制度「完全就学義務」(15歳まで)+「職業教育義務」(18歳まで)。中学を卒業して就職した者も定時制高校で教育を受ける義務があり、フランスもドイツにならって、仕事のかたわら通学させる制度を取り入れています。


【参考文献】

『大学史(上)(下)』(ステファン・ディルセー、東洋館出版社)

『ヨーロッパの大学』(島田雄次郎、玉川大学出版部)

『日本の教育 ドイツの教育』(西尾幹二、新潮選書)

『日本人とフランス人 「心は左、財布は右」の論理』(舛添要一、光文社)

『大学とアメリカ社会 日本人の視点から』(中山茂、朝日選書)

『世界の大学危機 新しい大学像を求めて』(潮木守一、中公新書)

『教育思想史』(中野光・志村鏡一郎編、有斐閣新書)

『教職のための教育史 西洋編』(溝口貞彦、東研出版)

『西洋教育通史』(皇至道、玉川大学出版部)



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「教育史点描~最後に残るのは「教育」である~⑤」

(3)「宗教教育」と「世俗教育」の分岐点はどこか

教育は基本的に「宗教教育」だった

教育は教会や寺院が担った~中世ヨーロッパでは「唱歌学校」(初等教育機関)、「修道院学校」「本山学校」(中等教育機関)といった「教会学校」が教育を担い、日本では「寺院」が長らく高等教育機関で、後に「大学」「国学」「別曹」などが官僚養成機関として整備されていきました。江戸時代には「昌平坂学問所」「藩校」「私塾」「郷校」が中等・高等教育機関で、「寺子屋」が初等教育を担いました。

ユダヤ人の教育「教育」を意味するヘブライ語「ヒヌーク」「奉納・奉献」も意味しています。ちなみに世界の政治・芸術・科学・思想の各界で指導的役割を担っている人物の10人に1人はユダヤ人とされ、その教育熱心さには定評がありますが、ユダヤ人にとって、「教育」とは知識の伝授ではなく、「神と社会とに貢献できる人材の育成」が目的であると言います。ここから少人数教育全身学習法聖書やタルムードの丸暗記・暗誦安息日歴史教育実業教育といった伝統が出て来ます。

「普通のユダヤ人の中にも、旧約聖書全部をヘブライ語で朗々と暗誦できる者が少なくない。タルムード学者の中には、あの膨大なタルムードを全巻暗記している者さえいる。彼らは明らかにリズムと朗詠によって膨大な量のテキストを頭脳にプリントしたのだ。だから、記憶の糸をたぐる時には、適当な章句の区切りから暗誦し始めて、お目当ての特定の句や文が出てくるまで聖書なりタルムードなりを唱詠し続ける。こういう芸当のできる者が二、三人もいれば、聖書が手もとになくても、正確なテキストがいつも入手できる。

 私の恩師へシェル博士も、そういう卓越した記憶力の持ち主だった。ある時、弟子の一人が非常に貴重な本を持ってきた。相次ぐ迫害のためにユダヤ教の多くの典籍が失われてきたが、その中から残った数少ない貴重本だったのである。ブルックリンの古本屋はそれを譲ってくれと申し出た。イーストサイドの本屋は、それを写真に撮って再版しようと持ちかけてきた。へシェル博士は、その本を弟子から二、三日借り受けた。そして読み終わると、『いや、どうも有難う。もう全部頭にはいったよ』と、先生は丁寧に礼を言った。彼にはその本を所有することも複写することも必要なかったのだ。」

(手島佑郎『ユダヤ人はなぜ優秀か その特性とユダヤ教』)

「ルリエ氏は今ではエルサレムに大邸宅を構えている富豪だ。彼は一六歳になった時、父親は彼をロンドン留学に出した。出発に際して、父親は息子に百ポンドを留学費用として渡しながら、こう言った。『いいかね、これが君の留学を賄う全費用だ。ただし、留学中にこの百ポンドを使ってしまわないことだ。四年後に君が帰ってくる時には、そっくり百ポンド返してくれ』

 ルリエ少年はどうしたであろうか。彼はロンドンに着いて、しばらくあれこれと名案を考えた。やがて彼はその金の一部を投資して株に手を出した。四年後にロンドン大学経済学部を卒業する時には、彼はもう株式市場の専門家になっていた。」

(手島佑郎『ユダヤ人はなぜ優秀か その特性とユダヤ教』)

ドイツの教育の目的は「信仰心」と「愛国心」を育てること~ドイツ憲法の前文は「神と人間に対する責任を自覚」することから始まっており、教育の目的を規定したバーデン・ヴュルテンベルク州憲法第12条は、子どもが「神に対する畏敬とキリスト教的隣人愛」と「国民と祖国に対する愛」の中で教育されなければならないと定められています。また、基礎学校(小学校)では週2時間、「宗教」の授業がカトリックかプロテスタントの宗派別に実施されており、始業式や卒業式では必ずミサや礼拝が行われ、学校の休日は復活祭などキリスト教の主要な祭日を中心に設定されているのです。

「宗教教育は、公立学校においては、非宗教的学校を除き、正規の教育科目とする。宗教教育は宗教団体の教義に従って行なうが、国の監督権を妨げてはならない。」

(ドイツ憲法第7条第3項)

イギリスの「宗教教育」~毎週、宗教の授業が行なわれ、英国国教会のキリスト教に基づき、教師が聖書を講読したり、生徒が讃美歌を歌ったりします。パブリック・スクール(名門私立中学校)でも、生徒は寄宿舎ハウス)で全人的な教育を受けつつ、校内の礼拝堂では毎日礼拝が行われています。イートン校の礼拝堂などは観光名所にもなっています。

フランスの「宗教教育」~フランスは政教分離に厳格ですが、毎週水曜日が「宗教教育の日」に指定され、家庭における宗教教育に充てられています。

タイの「宗教教育」~学校には大きな仏像が安置してあり、登校時には生徒は必ず仏像に向かってお祈りをし、僧侶が説教をする仏教教育も行なわれています。

インドネシアの「宗教教育」世界最大のイスラーム教国家であり、必修カリキュラムの筆頭に「宗教」が掲げられています。教育文化省所管の「普通学校」スコラ)以外に、宗教省所管の「イスラーム学校」マドラサ)があり、イスラーム教の「寄宿塾」ポンドック・プサントレン)で起居しながらイスラームの教育を受けている生徒も多いのです。


【参考文献】

『ユダヤ人はなぜ優秀か その特性とユダヤ教』(手島佑郎、サイマル出版会)

『日本国民に告ぐ 誇りなき国家は、滅亡する』(小室直樹、ワック出版)

『教職のための教育史 西洋編』(溝口貞彦、東研出版)



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「教育史点描~最後に残るのは「教育」である~⑥」

(3)「宗教教育」と「世俗教育」の分岐点はどこか

人間の「二重性」を認めた「世俗教育」の意義

「宗教は無くなっても、教育は残る」~宗教改革者ルターも宗教的契機からの教育を否定し、国家的契機からの国民教育を主張しました。

「霊魂や天国や地獄が無いとしても、なおかつ現世のために学校が必要なことは、ギリシャやローマの歴史に徴して明らかである。世は教育ある男子と女子を必要としている。男子はまさしく国を治め、女子はまさしく子供を養育する家政を整えるために。」

(ルター「ドイツ諸都市の市長及び市会議員に告ぐる書」)

公教育の世俗的中立性の原則「アメリカ公立学校(国民教育)の父」ホレース・マンによる義務教育法に始まり、マサチューセッツ州の「公立学校の世俗化規定」で確立されました。

教育投資論~教育は「物質的富の最も多産な親である」「財産を蓄積するのに最も確実な手段である」

「教育は暴力や詐欺によって、かつて蓄積された以上に確実に、そして速やかに財産を作り出す特権を有している。…それはむしろ長期にわたって高い収益をもたらす固定資本に類似している。」(ホレース・マン)

大学の世俗化宗教的権威が後退し、商工業の発達を背景に世俗的権威が進出します。そのため、大学教育において、自然科学・社会科学が大幅に導入されます。これはアメリカでは1635年設立のハーバード大学が先鞭をつけ、18世紀初から旧来の古典語数学と並んで、デカルトの論理学ニュートンの物理学が講じられるようになりました。やがて、1755年のペンシルヴァニア大学設立に至り、大学は宗教的指導者だけでなく、社会人・職業人の養成を目的とするようになりました。

「今日、キリスト教が何億という人々の心に慰めを与えるのは、キリストという人が常に逆境にいて、人生の辛酸をつぶさになめたからであろう。ゲーテはキリスト教のことを「悲哀の神殿(Temple of Sorrow)」と言ったが、これは興味深い言葉である。

 いわゆる逆境があるから、我々は他人に対し思いやりの心を持つことができる。もし毎日浮かれ騒いでおもしろおかしく人生を過ごすならば、どうして人に対する思いやりの心を持つことができよう。思いやりの心を持たない者がどうして人情の味を知ることができるだろう。武士はもののあわれを知るといい、これを知らない者はほんとうの武士ではない。

 身をつねってこそ人の痛さを知れ、と言うように、逆境に陥りそれがどういうものか知った者でなければ、本当の人情を知ることはできない。

 喜びがあれば喜びをともにし、悲しみがあれば悲しみをともにするのは、人情の最も麗しい点である。もっとも世間には喜びを他人と分かちたがらない者がいるが、そうだとしても別に他人に迷惑はかけない。

 これに対し悲しみは、それを他人に分かちあってもらうことで、十貫目の荷物も五貫目に半減したような気持ちになる。これは社会生活上、最も大切なことであるが、こうした思いやりは逆境を善用することで養うべきことに思う。

 アルゼンチンに渡り、日本民族の力を発揮した伊藤清蔵農学博士は、札幌農学校を卒業したのち、一人で東京まで歩いて旅をしたことがあった。真夏の炎天下を歩き、しかも途中病気になって、非常に苦労して東京にたどり着いた。当時、僕は北海道で神経衰弱にかかり病床にあった。

 伊藤博士は東京から手紙をよこし、「自分は今まで病気というものをしたことがなく、人が病気だと聞いても全く同情心が起こらなかった。しかしこのたび自分が病気をしたことで、先生のご病気もさぞ辛いことだろうと思った。今回の自分の病気は、先生のご病気に同情させるため天が自分に与えたもののように思う」と書いてきた。

 僕はアメリカにいたころ、国からの送金が途絶え、半年近く生活に困ったことがあった。同窓生の中には金を使い放題の者もいたが、僕は小さなものは自分で洗濯し、三度の食事も一度にして後の二食はパンと水だけで過ごした。この経験があるので、苦学生を見ると、金銭的に助けることができなくても、せめて励ましの言葉をかけてやりたくなるのである。

(新渡戸稲造『逆境を越えてゆく者へ 爪先立ちで明日を考える』~新渡戸稲造内村鑑三と共に札幌バンドの中心であった札幌農学校に学んだクリスチャンですが、『武士道』で日本人の精神性を世界に発進し、アメリカのローズヴェルト大統領やエジソンなどにも感銘を与えると共に、教育者としては一貫して「人格教育」を重視し、コモンセンス常識)の重要性を教えています。宗教教育を世俗教育に普遍化した人物の一人と言えるでしょう。)

「私は、少年が吐き出した感情を全面的に受容した。

 四回目の面接が終わったころ、少年は少し落ちつきと明るさをとり戻し、単独寮から昼間だけ実科(職業補導としての農業科)にも出ることができるようになった。

 彼は私に、どんな小さなことでも相談するようになった。私は忙しい時間をさいて、彼が求めてくれば面接するようにしていた。

 ところがある日、カウンセリングルームに入ったとき、私は机の上に置いていた新しいインク瓶(当時の少年院ではインクを使用していた。現在はボールペンである)にインクがほとんどなくなっているのに気がついた。わずか二分程度しか残っていないのである。

 盗んだのは健一少年であった。

 前日彼から面接の申し出があり、相談相手になってあげたのに、完全に裏切られたわけである。

 カウンセリングルームは、単独寮の中に併設されているので、私はさっそく少年をテスト室に呼び出した。彼は真っ赤な顔をして、恐怖のあまりうなだれたまま、まともに私の顔を見ることができなかった。

 やっと、蚊の鳴くような声で「すみません」と言うのが精いっぱいのようであった。

 私は、静かに彼の顔をみつめたまま、おもむろに「インクを持っていらっしゃい」と言った。彼は、私が何の叱責も説教もしないのが、とても耐えられないくらいつらいようであった。

 「インクを持ってきなさい」と言ったことは、彼にとって罪障感から解放されることでもあったのだろうか……。いそいそと自分の部屋から持ってきた。

 しかし、持ってきた少年のインク瓶の中には、盗んだインクの五分の一ぐらいしか入っていなかった。

「どうしたんだい……」

「みんなに配ったんです……」

 私は黙っていた。しばらくの間、重苦しい沈黙が続いた……。

「先生……。すみません。ぼくは事故(規則違反)ばかり起こして実科に出ないので、賞与金(当時実科に出て働けば賞与金が毎月五十円ぐらい出ていた。現在は二百三十円~三百円である)をもらっていないので、何も買えないんです。昨日、テスト室で先生に相談にのってもらったとき、インクがたくさん入っていたので、ついほしくなって……」

と、蚊の鳴くような声で、やっとここまで言った。

 私は黙って、少年のインク瓶を引き寄せた。

 彼は、自分のインク瓶から私のインク瓶にインクが流しこまれるのを、寸分の疑いなく期待しており、またそうされることによって、自らの罪の意識から解放されたいようであった。

 しかし、私は無造作にとりあげた自分のインク瓶を静かに傾けて、残っていたインクを彼のインク瓶の中に注ぎこもうとした。

 そばで、恐怖のあまり身の置きどころもないといった恰好で立っていた少年は、驚きのあまりアッ!、アッ!と言って、急いで私の手を押さえた。

 しかし、一瞬の間に、インクは一滴残らず、私の瓶から少年の瓶の中に入っていった。彼の目から大粒の涙が流れ出し、彼は声をあげて嗚咽し始めた。無心にしゃくりあげて泣きつづける彼の姿は、童心そのもので、私は手を合わせたい気持ちでいっぱいだった。<不良少年はいないのだ!すべて不幸少年にすぎないんだ!>ということを、改めて知らされる思いだった。

 彼は、私を裏切った。しかし、彼には何の叱責も懲罰も加えられなかった。「盗み」という行為に対して、私はいたわりと理解を態度によって示した。彼は、私の表情の中から、何らとがめだてする裁きの匂いを感じ取らなかったはずである。

 彼が本当に更生を誓い、まじめな生活を営むようになったのはそれからである。

 非行のたびに懲罰が加えられると、教育者自身が良心の代行をすることになり、こどもの良心は窒息してしまう。叱らずに、いたわりと理解を示すと、こどもはだれにもとがめられないので、こんどは自分の良心が自らを裁くようになるのである。

 叱らぬ教育がこどもの良心を濃厚にするのである。

 健一少年は、その後まもなく単独処遇を解除され、集団生活を営むようになったが、見違えるように明るい少年になり、上級生になってからは寮委員にも抜擢されるようになり、権威にあれほど反抗的であった粗暴児が、ウソのように教官に素直になるとともに、寮生たちからも親しまれ信頼されるようになっていった。

 教育は、こどもに裏切られたときが、こどもの心をつかむ最大のチャンスなのである。

 このとき、教育者自身がとり乱してはならない。三度裏切られ、五度裏切られても、なおかつこどもの中に宿る善なる本性のみをみつめ得る人でなければ、非行少年の味方になることはできないであろう。愛には限りない忍耐が必要とされる。しかし、叱りたいけれどもがまんするのであってはほんものではない。自然に叱らなくなる心境にならなければ、問題児の再教育は困難である。

   急いではいけない!

   構えてもいけない!

   待つことだ!

   祈ることだ!

 これはあるケースワーカーの言葉である。

(相部和男『非行の火種は3歳に始まる 親が泣かない25の鉄則』~相部和男は少年院法務教官、保護観察官などを歴任し、1万人の非行少年少女を指導してきた人物です。「問題の子供は問題の親によって作られる」と喝破した教育者ニイルの思想やフロイト精神分析学に基づいていますが、その実践はほとんど宗教教育と言えるものです。)


【参考文献】

『ユダヤ人はなぜ優秀か その特性とユダヤ教』(手島佑郎、サイマル出版会)

『日本国民に告ぐ 誇りなき国家は、滅亡する』(小室直樹、ワック出版)

『教職のための教育史 西洋編』(溝口貞彦、東研出版)

『逆境を越えてゆく者へ 爪先立ちで明日を考える』(新渡戸稲造、実業之日本社)

『非行の火種は3歳に始まる 親が泣かない25の鉄則』(相部和男、PHP文庫)



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「教育史点描~最後に残るのは「教育」である~⑦」

(4)「実学主義」から出発した「近代教育」のスゴさ

「リアリズム」の根底には「合理主義的精神」がある

教育の近代化~形式化した人文主義に対抗して、16世紀に事実・経験・実践などを重視する「実学主義」リアリズム)が起こり、17世紀以降、自然科学や哲学の経験論の影響のもとに有力になります。

「宗教から科学へ」「注入から開発へ」

「アカデミー」学士院)、「レアルシューレ」実科学校

「*1コジモの文化政策もまた、絶対主義王国の栄光化にむかって統合された。まず第一に、知識人、芸術家らは、君主であるコジモに仕える宮廷人(延臣)として、コジモの統括のもとに置かれた。このもっとも明瞭な例が、王立アカデミーの創設である。

 現在文明国のすべてに存在する近代的アカデミーの組織、つまりは、その国家が有する知識人を国家財産として統括し、国家の与えた組織の中に組み込んで、その中で地位、名誉、財産を与えるという知識人を取り込む権力的構造の原型は、この時代のフィレンツェにおいて発生したのである。もっとも、すでに老コジモのころから、優れた学者芸術家の集まりである緩いかたちのグループがアカデミアと呼ばれていて、それをメディチが保護してきたという伝統が基礎になってはいた。だが、今度できた組織は任務や階級などの規定が明確で、国家組織として整備されていたところがまったくちがっていた。

 最初にできたのは言語アカデミーのウーミディ(湿った者たち)のアカデミーで、一五四〇年に創設されたが、三月もたたぬうちにそこにコジモ大公が介入し、自らその保護者になった。彼はすぐさま名称を国家的な名前アッカデーミア・フィオレンティーナに変更し、パラッツォ・ヴェッキョを根拠地として、イタリア語すなわちトスカーナの自国語を整備し、整然たる体系を作り上げるという目的が打ち出された。ここでは、一五五三年からフィレンツェの生んだ大詩人ダンテとペトラルカについての講義が、人文主義者で、芸術論も書き、当時の知識界をまとめていたベネデット・ヴァルキ(一五〇三~六五)などの有給講師によっておこなわれた。ここの院長には、フィレンツェ大学の総長の特権、地位、収入が与えられた。一五六九年には、これと似たアルテラーティ、一五八七年にはデジオージが生まれ、一五八二年にはもっとも重要なアッカデミーア・デッラ・クルスカが創設され、一五九一年イタリア語辞典の編集を決定、一六一二年にもっとも権威あるクルスカ辞典が発行された。

 このクルスカの名声は、イギリス、ドイツ、フランスの君主に強い感銘を与え、一六〇〇年代に各国にアカデミーが生まれる。各国の絶対君主の文化政策の基本となったのはこの知識人の国立機関への集中統合であった。一六三五年に、フィレンツェのアカデミーにならってリシュリューが書いたアカデミー・フランセーズ創設布告書にはつぎのように書いてある。「アカデミーの重要な任務は、あらゆる配慮と努力をつくして我が国語に正しい法則を与え、純化し、雄弁にし、芸術や科学を扱う十分な力をもつようにすることである。」

 科学のアカデミーは、一六〇三年にローマにできたアッカデミーア・デイ・リンチェイで、ここには、一六一一年にガリレオが入っている。このアカデミーは、ガリレオに対する教会の迫害がはじまると危機に陥り、一八〇一年に再開されるまで活動を停止してしまった。

 ところで、建築、彫刻、絵画の教育と制作にかかわる美術アカデミーだが、これもまたコジモ一世の時代のフィレンツェで、今日の美術アカデミーの原型ができあがった。この創立を提唱したのは『芸術家列伝』の著者として有名なジョルジョ・ヴァザーリ(一五一一~七四)である。…もともと、ヴァザーリは一五五〇年に、トスカーナに生まれたジョットをはじめとして、ミケランジェロをピークとする大芸術家を称えこれを永遠に記念するための膨大な伝記を書いて、コジモ一世に献呈していた。彼の考えでは、レオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロのような偉大な知性人はとうてい注文仕事をこなす手仕事職人と同列ではなかったし、彼自身もまたそうではない、ヴァルキのような知的なアカデミーに属するに値する存在だと確信していた。

 一五六二年五月二十四日にフィレンツェの画家ポントルモの葬儀の機会に彼はアカデミー創立を告げ、三十一日に「最善の選択」会を招集した。ヴァザーリはコジモを説得してアカデミーの後援者とし、会則をつくって一五六三年一月十三日に設立を宣言した。これは、ニコラウス・ぺヴスナ―のことばによれば「美術家の社会的地位の向上とこれを特徴づける貴族と美術家の結合」であった。このとき、ローマ在住のミケランジェロとコジモ一世が総裁におされた。これがアッカデーミア・デル・ディセーニョである。このとき、コジモ一世とミケランジェロの二人が総裁になったということは、この機関のもつ本質をよく示している。組織としてのアカデミーは絶対主義の国家の政治形態に対応するもので、そのことを総裁としての君主が象徴している。いっぽう、ミケランジェロのかつぎ出しは或る偉大なスタイル、ある確立された芸術上の権威への信仰であって、アカデミーはその理想に向かって美そのものを統括する。この状況に対応する美術様式が、マニエリスムである。このマニエリスムという言葉は、権威ある巨匠の手法(マニエラ)の踏襲という意味である。

 アカデミーが発足して数年たたぬうちに、これは美術に関する最高権威の様相を帯びた。」 

(若桑みどり『世界の都市の物語13 フィレンツェ』)

*1コジモ…フィレンツェの「祖国の父」老コジモの弟ロレンツォの息子ピエルフランチェスコの孫に当たる傭兵隊長ジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレの子で、フィレンツェ公国を絶対主義国家トスカーナ大公国に発展させた。

人文的実学主義(humanistic realism~人文主義的古典教育と自然・社会についての実際的知識とを結合し、実用に役立てようとする立場です。「万能人」の養成を目的としています。ラブレーミルトンらがこの立場です。

ラブレー『ガルガンチュア物語』『パンタグリュエル物語』「文芸復興の聖書」と呼ばれました。

「私(ガルガンチュア)はお前(パンタグリュエル)にいろいろな語学を完全に学ばせたいと思う。中でも先ずギリシャ語、次はラテン語だ。その次には聖書を読むためにヘブライ語を学ばなければならない。それから、カルディア語やアラビア語も学ばなければならない。ギリシャ語ではプラトンを模してお前の文体を作るがよい。そして、ラテン語はキケロに範を取れ。

 歴史は余す所なく記憶せよ。幾何や算術や音楽などの自由科については、私はお前が5、6歳の頃から多少授けた。それらについてはさらに深く研究し、出来れば他の自由科についても学ぶがよい。

天文学については、その全ての法則を研究せよ。しかし、占卜易断的な占星術は欺瞞・虚構以外の何物でもないから、不問に付せよ。国法については、その原文をすっかり暗記せよ。

 さて、自然界の知識については、綿密に調べて欲しい。魚類、鳥類、種々の灌木や喬木、あらゆる草花、様々の金属、数々の宝石、これら全ては1つとしてお前の知らない物が無いようにせよ。

 次にアラビア、及びラテンの優れた医学書を注意深く精読せよ。絶えず解剖を行い、小宇宙、すなわち人間についての完全な知識を獲得せよ。また、1日のうち、いくらかの時間は聖書の研究に当てるとよい。要するに、私はお前が底知れぬ知識の深淵となってくれるのを見たい。」

(ラブレー)

ミルトン『失楽園』(Paradise Lost)は、ピューリタン文学の最高峰とされます。

社会的実学主義(social realism~古典よりも旅行や実際の社会生活の中で修業し、立派な社会人を形成しようとする立場です。

モンテーニュラブレーの弟子にして、フランスのモラリストです。当時のフランスは激しい宗教内乱であるユグノー戦争の最中であったので、モンテーニュは新旧両派の仲裁に苦心しました。『随想録』(エセ―)はフランスのモラリスト文学の基礎を築いたとされます。

感覚的実学主義(sense realism~感覚・経験を重んじ、直接自然から学ぼうとする立場です。教育史上、最も重要な狭義の「実学主義」です。

ラトケ直観教授法の先駆者で、ベーコンの影響を受けて、言語中心ではなく、事物中心の教育を行うことを主張しました。

「全ては自然の順序、もしくは経過に従わねばならない。」

コメニウス「パンソフィア」汎知学)、ベーコン「帰納法」の影響~ 「客観的自然主義」「自然に従え」

『大教授学』~「全ての人々にあらゆることを教授する」

「直観教授」~世界初の絵入り教科書『世界図絵』など。


【参考文献】

『教職のための教育史 西洋編』(溝口貞彦、東研出版)

『世界の都市の物語13 フィレンツェ』(若桑みどり、文藝春秋)



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「教育史点描~最後に残るのは「教育」である~⑧」

(4)「実学主義」から出発した「近代教育」のスゴさ

「体系的教育学」と「科学的教授法」から「公教育制度」に至った「近代教育」

コメニウス「近代教授学の父」『大教授学』「体系的教授学の嚆矢」とされます。実質生活に即した知識や技能の習得を目的とした「実質陶冶」を説きます。

「あらゆる人に、あらゆる事柄を(全般的に)教授する普遍的な技法を提示する大教授学」

(コメニウス『大教授学』)

ロック~記憶・推理・想像などの能力を鍛錬して、諸能力の育成を重視した「形式陶冶」を説きます。

「人間の精神ははじめ白紙(タブラ・ラサ)の如きものである。」

(ロック『教育論』)

ヘルバルト「教育目的」カント倫理学に、「教育方法」心理学に依拠して、「教育学の体系化」を図り、4段階教授法」(明瞭・連合・系統・方法)を提唱しました。

「私は教授のない教育などというものの存在を認めないし、また逆に教育しない、如何なる教授も認めない。」

(ヘルバルト『一般教育学』)

ツィラー5段階教授法」~分析・総合・連合・系統・方法。

ライン5段階教授法」~予備・提示・比較・概括・応用。

モリソンヘルバルト派5段階教授法を発展させ、デューイ問題解決学習も取り入れた教授法「モリソン・プラン」を提唱しました。教科を科学型、鑑賞型、言語型、実科型、純粋練習型の5型に分け、科学型について新しい5段階教授法「探求・提示・類化・組織・発表(反唱)」を提示しています。

コンドルセ案「国民教育は公権力の当然の義務である」として、教育の自由の原則、教育を受ける権利、教育の無償性、教育の中立性などの「近代公教育制度」の諸原則を確立しました。

新教育運動進歩主義教育改革教育学とも呼ばれ、教師中心の教育から「子どもから」の教育へ、ヘルバルト教育学からペスタロッチ教育学へ、書物主義から活動主義へと転換していきます。

オスウィーゴー運動シェルドンによるペスタロッチ主義の教育改革運動で、アメリカの新教育運動の源流となります。

クック・カウンティのモデル学校(イリノイ州)~「直観教授」「合科教授」「単元学習」などで新教育運動の担い手となったパーカーによる、アメリカ教育史上初めての「児童中心」の学校です。パーカーはペスタロッチから「方法」を、ヘルバルトから「統合」を、フレーベルから「子どもの見方」を学んだとされます。

ジョン・デューイプラグマティズム(実験主義、道具主義、実用主義)の立場からシカゴ大学に「実験学校」「生活による生活のための学校」)を作り、児童中心主義問題解決学習を展開します。「新教育運動」を理論的体系化し、『学校と社会』『思考の方法』『民主主義と教育』などの著書によって大きな影響を及ぼしますが、「這い回る経験主義」という批判も受けます。

「なすことによって学ぶ。」(Learning by Doing)

(デューイ『学校と社会』)

キルパトリック~ジョン・デューイの弟子で、同僚、かつコロンビア大学での後継者です。デューイとキルパトリックは「プロジェクト・メソッド」の構想とその基礎理論と実践方法を次々と発表し、世界的に反響を呼びました。プロジェクト・メソッドは児童・生徒が自ら計画を立て、現実生活の中で問題を解決する実践的活動を重視するもので、「構案法」とも呼ばれます。

ヘレン・パーカースト~モンテッソーリの自発性・自主性を重んじる着想(モンテッソーリ教育)やジョン・デューイの問題解決学習などの長所を取り入れ、「ドルトン実験室案」(Dalton Laboratory Plan)を提唱し、アメリカのマサチューセッツ州のドルトンの小学校で指導・実施しました。「自由」「協同」の2つの原理に基づく「ドルトン・プラン」を主体にした学校は世界各地に作られており、最も有名なものはパーカースト自身が創立したニューヨークのプレップ・スクールであるドルトン・スクール(Children's University、子ども大学児童大学)です。

ウォッシュバーンシカゴ大学の実験学校での経験を踏まえたジョン・デューイの著作から触発され、アメリカのイリノイ州ウィネトカの小学校で教育的な実験「ウィネトカ・プラン」を行いました。このウィネトカ・プランでは、各教科を共通科目を「一般共通科目」(common essentials)と「創造的集団活動」(creative group activities)に分けら、「一般共通科目」は生徒たちに教科内容の学習と習得を求めますが、創造的活動では生徒たちにそれぞれ異なった関心の度合いでの取り組みが許容され、厳密な達成目標も到達度目標も設定されませんでした。これはアメリカ国内を問わず世界的に広まり、カリキュラム設定の焦点を再考するきっかけになったことで知られています。


【参考文献】

『教職のための教育史 西洋編』(溝口貞彦、東研出版)



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「教育史点描~最後に残るのは「教育」である~⑨」

(5)「教育」とは結局「人間観」と「教育制度」である

「人間」は「教育」されない限り、「人間」とはならない

野生児(動物に育てられた人間の子ども)~オオカミに育てられたアマラ(2歳くらい、間もなく死亡)とカマラ(8歳くらい、17歳の時に死亡)は、シング牧師夫妻によって育てられましたが、「オオカミ少女」(顔かたちは人間ですが、することなすこと全くオオカミ)のままだったとされます。このオオカミ少女の事例は今日では否定的に見られていますが、意義深いのはその細部にわたる事実性ではなく、人間は自然に、本能のままに「人間」になるのではなく、「養育」「教育」されない限り、「人間」にはなり得ないことが示唆されたことでした。

「牧師夫妻は、このオオカミ少女をなんとかして人間の子どもにしてやりたいと、一生懸命に努力したのである。カマラは、三年ほどして、支えるものなしにひとりで両足で立って歩くようになった。しかし、急ぐときには、四本足で走りまわっており、この習性は死ぬまでとれなかったという。三年ほどで、手を使って食べるようになり、四、五年して、喜びや悲しみの心を表現するようになった。シング夫人によって、ことばが教えられたが、死ぬまでに、四五語しか使うことができなかったということである。そして、知能は三歳半の子どもくらいだったという。」

(時実利彦『人間であること』)

「植物は恐らくひとりでに成長し、全然実を結ばないか、野生の実を結ぶ。馬はたとえ役に立たないとしても、この世に生まれて来る。しかし、人間は人間として生まれて来るのではなく、人間に形造られるのだ。」

(エラスムス『幼児教育論』)

「幼な子をほったらかしておいてみたまえ。君は獣を持つことになろう。慎重に心を配るなら、君は言うなれば神の如き存在を持つことになろう。」

(エラスムス『幼児教育論』)

「人間は人間になるべきであるとすれば、人間として形成されなければならぬ。」

(コメニウス『大教授学』)

「人間は教育されなければならない唯一の被造物である。」

(カント「教育学講義」)

「人間は教育によって初めて人間になることができる。」

(カント「教育学講義」)

「ヒトの赤ちゃんは本来よりも生理的早産の状態で、この世に生まれて来ている。」

(ポルトマン『人間はどこまで動物か』)

言語習得と臨界期~保育園や幼稚園などで2歳児までの行動やコミュニケーションに疑問がある場合、小児科に行くことを勧められる場合があります。この時期は発達途上で、3歳になるまでは発達障害などの診断はできないのですが、それでも医者に診てもらうように言われるのは、言語習得に臨界期があるからです。一般的に人の脳の80%は3歳頃までに完成すると言われ、この時期が「教育のゴールデンタイム」とされていますが、これはこの時期に受けた刺激によって神経回路が形成されるからで、逆に適切な刺激を受けないとそのために必要な神経回路が形成されないで、閉じてしまうのです。不幸にして生後数年間、光を浴びないで過ごした子どもは視力が形成されなかったという報告があるのも、そのためです。絶対音感や外国語習得などでも臨界期が注目されますが、言語習得に照準を当てると、言語は自然発生的、本能的に身につくものではなく、言語的存在・人格的存在である「親」「保護者」が養育・教育することによって、初めて習得できるものであることが重要です。

ミトコンドリア・イブ理論エデンの園仮説とも言います。ミトコンドリアDNAは母系遺伝であり、ある女性のミトコンドリアDNAはその母親から遺伝したものであり、それはさらにその母親から来たものなので、ある程度の母数の女性のミトコンドリアDNAのサンプルを集め、その違いの分布は、何世代、何年ぐらい経ればどのくらいの割合で突然変異が生じるというシュミレーションを立てれば、大本をたどることができるという考えから生まれたものです。かくして、カリフォルニア大学バークレー校のレベッカ・キャンアラン・ウィルソンのグループは、できるだけ多くの民族を含む147人のミトコンドリアDNAの塩基配列を解析して、人類の仮想上の共通の母親は、約16±4万年前、つまり最大で20万年前のアフリカに存在したと結論づけ、これを『旧約聖書』創世記に出てくる人類始祖にちなんで「ミトコンドリア・イブ」と名づけました。この論文は、科学雑誌『ネイチャー』に1987年に発表され、大変は反響を呼びました。これは「母」なので、当然、そのパートナーたる「父」もいたわけで、これをアダムになぞらえて、「エデンの園仮説」とも言われるようになりました。これに対して、父系遺伝たるY染色体に注目したスタンフォード大学のピーター・アンダーヒルカヴァッリ・スフォルツァらのグループによる研究が2000年に『ネイチャー・ジェネティクス』誌において発表されていますが、ここでもほぼ同じパターンが確認されています。

 もちろん、ミトコンドリア・イブ理論にも難点はあり、それはサンプル数が少ないこと、シュミレーションの精度、あくまでサンプル女性たちの共通先祖であり、人類共通先祖とは限らないといったことなのですが、世界中で追実験がされ、「現代ヨーロッパ人の95%は7人の母親へとたどり着く」ことが示されたり、人類多発起源説が否定されて人類単一起源説が常識になったことは注目されます。さらに注目されるのは、言語は自然発生的、本能的に身につくものではなく、言語的存在・人格的存在である「親」「保護者」が養育・教育することによって、初めて習得できるものであるという事実と、言語習得には臨界期があるという事実が、ミトコンドリア・イブ理論と結びつく時、人類始祖に「言葉」を教えたのは誰かという問題が浮上してきます。霊長類の一部がヒトに進化したことは間違いありませんが、ヒトは「言葉」を習得しないと「人間」になれないのです。肉体的親である霊長類には言葉を教えることはできません。それは目に見えない精神的親・人格的親の存在を示唆するものとなるのです。


【参考文献】

『人間であること』(時実利彦、岩波新書)

『教育思想史』(中野光・志村鏡一郎編、有斐閣新書)

『0歳児がことばを獲得するとき 行動学からのアプローチ』(正高信男、中公新書)

『人間であること』(時実利彦、岩波新書)

『人にはなぜ教育が必要なのか』(小室直樹・色摩力夫、総合法令)

『遺伝子が語る人間の絆 イヴの七人の娘たち』(ブライアン・サイクス、大野晶子訳、河出文庫)

『遺伝子が語る人類の盛衰 アダムの運命の息子たち』(ブライアン・サイクス、大野晶子訳、河出文庫)

『アダムの旅 Y染色体がたどった大いなる旅路』(スペンサー・ウェルズ、和泉裕子訳、バジリコ)



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「教育史点描~最後に残るのは「教育」である~⑩」

(5)「教育」とは結局「人間観」と「教育制度」である

国家・社会の持つ「理想的人間像」が「教育制度」を形成する

ケルシェンシュタイナーの「労作教育論」~小さな労作共同体における生活や学習が国家という大きな労働共同体での生活の準備になるという観点から、「労作教育」「公民教育」を結合し、国民学校実業補習学校を陶冶の場としました。

ナトルプの「社会的教育学」~意志は集団生活の中で最も重要であると考え、教育の根本は「意志の陶冶」であるとし、「教育の社会的意義」を強調しました。

デュルケームの「教育社会学」~デュルケームは「社会学の父」と呼ばれ、「教育」とは「各社会が固有の理想に従って、個人を社会化すること」「成熟した世代が未成熟の世代に対して行う、組織的社会化の行為」としました。

戦前日本の教育~「忠君愛国」と「資本主義の育成」。

「日本の経済発展の秘密を解く鍵は全く国民教育の普及にある。・・・これを国力の未だ整っていない時に見抜いて、早くも義務教育を強行したのは、経済史にとっても極めて重要な点である。」

(東畑精一『日本資本主義の形成者―さまざまの経済主体―』)

アメリカの初等教育~最大の眼目は英語を教えることでも、数学を教えることでもなく、「アメリカ人であること」を教える所にあります。このため、日本からアメリカの大学院に行った留学生がアメリカ人の大学生に「英語」を教えることすらあるのです。2番目の眼目は「コミュニケーションの仕方」についての教育で、これは多様性に富んだ多民族国家であるので、自分と全く考えの違う人の意見をどう理解し、逆に自分と考えも利害関係も宗教も違う人にどうやって自分の意見を伝えるのかが重要だと考えられているからです。

「私はアメリカ合衆国の国旗に対して、並びにそれが代表する共和国、すなわち神の下にあり、不可分にして、万人のための自由と正義を有する1つの国家に対して忠誠を誓います。」

(アメリカの小学校の教室正面に掲揚されている星条旗に対して、小学生は毎朝、授業が始まる前に起立して敬礼し、右手を胸に当てながらこの忠誠宣誓を行います。)

「私の国よ。お前は自由な美しい国だ。私はお前を歌おう。祖先の人々が眠っている国と。ピルグリムの誇りの国と。」

(アメリカの音楽の教科書に載っている歌)

「我が祖国アメリカ、美しき自由の国、その栄光を我は歌う。・・・我らが祖国、聖なる自由の光をもって永久に栄えあれ。偉大なる我らが主なる神よ、我らを守れ。」

(アメリカの音楽の教科書に載っている歌)

世界中の学校教育に見られる「愛国心」教育~インドネシアの学校では毎週月曜日の一時限目は国旗掲揚式であり、校庭に集合して国旗掲揚、国歌斉唱の後、建国五原則第一原則「唯一なる神への信仰」)が朗唱されます。タイの学校でも毎朝朝礼が行われ、国旗掲揚時には国旗に敬礼し、国家を斉唱し、国家に対する忠誠の誓いを立てます。

「私は神と我が祖国とを愛する。私は我が国の国旗を尊ぶ。私は女王(エリザベス2世)に仕え、また喜んで両親、先生、そして国の法律に従う。」

(オーストラリアの学校における誓い)

「偉大なる国旗の下に我々は皆兄弟である。風にはためく美しい色。白は祈り、赤は愛、緑は希望。三色旗よ、永遠なれ。」

(イタリアの小学二年生用教科書に載っている国旗を称える文章)

「我が子よ、私は祖国を愛します。それは私のお母さんがそこで生まれたからです。私の血管を流れている血は、全くそこに属しているからです。おお、お前はまだ完全にはそれを理解できないだろう。この愛国心を。お前は大人になった時、それを感じるだろう。もし異邦人がお前の国を侮辱するのを聞く時、より烈しく、より気高くそれを感じるだろう。」

(フランスの道徳教科書の一節)

「人権」(human rights)と「特権」(privilege「子どもの人権」は正確ではなく、認められているのは「子どもの特権」です。「人権」とは人間であるならば、誰でもが当然に持っているはずの固有の権利で、剥奪されれば手を尽くして回復されなければならないものです。「参政権」「投票権」も年齢制限があるので、厳密に言えば、「人権」というより非常に重要な「政治的権利」となります。これに対して、「特権」とは「王権」(絶対王政における「主権」)の反対語であり、一定の要件を備えている人にのみ与えられる「特別な権利」で、誰にどんな「権利」を与えるかは近代民主主義諸国においては「国家(主権)」が決めます。したがって、時代や状況の変化によって、「少年法」の改正などは政治的判断によって行えることになります。


【参考文献】

『人間であること』(時実利彦、岩波新書)

『教育思想史』(中野光・志村鏡一郎編、有斐閣新書)

『0歳児がことばを獲得するとき 行動学からのアプローチ』(正高信男、中公新書)

『人間であること』(時実利彦、岩波新書)

『日本国民に告ぐ 誇りなき国家は、滅亡する』(小室直樹、ワック出版)

『人にはなぜ教育が必要なのか』(小室直樹・色摩力夫、総合法令)

『世界の学校』(沖原豊編、東信堂)

『世界の学校』(二宮晧、福村出版)

『世界の道徳教育』(唐沢富太郎、中央公論社)



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「教育史点描~最後に残るのは「教育」である~⑪」

(6)世界の「教育」を比較してみるとオモシロイ

「飛び級・飛び入学」を認めれば「落第」も認めなければならない

エリート教育と落第~フランスでは「エリート教育」こそ「国民教育」の基本と考えられ、全国津々浦々の小学校が人材を発見するためのネットワークとなっていて、どんな貧民の子どもでも、どんな田舎の子どもでも、才能は必ず見つけ出して、適切な進学の機会を与えます。そのため、中央政府や地域社会からの特別の激励や奨学金のような財政的支援システムがあるのです。その一方で出来ない生徒はどんどん落第させますが、親も子も平気で「もう1年やればいい」と受け止めると言います。

「2014年から15年にかけて『21世紀の資本』が飛ぶように売れた。原書のフランス語版は1000ページを超え、日本語版も700ページを超える大著にもかかわらず、である。その著者トマ・ピケティはフランスを代表する知性ともてはやされ、将来のノーベル経済学賞候補という呼び声も高い。

 ピケティは、18歳で名門グランゼコールのエコール・ノルマル・シュペリウール(ENS、高等師範学校)に入学し、22歳の若さで博士号を取得。アメリカの名門大学MIT(マサチューセッツ工科大学)で教え始めた。彼の早熟な才能を開花させることにおいて、フランスのエリート主義が果たした役割は小さくない。

 そう、ピケティの経歴が象徴しているように、フランスほどエリート主義や学力中心主義を徹底している大国はないのだ。

 世界を席巻するアングロサクソンにも、イギリスのオックスブリッジ(オックスフォード大学とケンブリッジ大学)やアメリカのハーバード大学といった名門校はある。だが、それら以上にエリート主義をフランスは徹底しているのである。その結果、フランスの高等教育はENS出身のピケティのみならず、エコール・ポリテクニク(理工科学校)出身の経営者カルロス・ゴーンや、エコール・ナショナル・ダドミニストラシオン(ENA、国立行政学院)出身の政治家シラク、ジスカール・デスタン、そして現大統領のオランド(注、2012年~17年)らの逸材を輩出し続けているのである。

 ひるがえって日本のエリート養成はどうであろうか?

 これまた象徴的な事例を挙げてみよう。東京大学法学部の卒業生が国家公務員よりも民間企業を進路に選んでいる。そんなニュースがしばしば驚きをともなって報じられている。東大法学部を出ても600人中100人程度しか中央官庁に進まないし、あからさまにエリート主義を謳うことに対して、後ろめたさや抵抗感がある。

 エリートを社会や組織の戦闘に立って人々を牽引するリーダー(指導者)と定義づけたとき、エリートが先細りしているという懸念は、多くの日本人が抱いているものと思われる。

 このような時代だからこそ、私はよくも悪しくも「今こそフランスを知ろう」と言いたい。

 例えば、ENAは卒業生全員が中央官庁に進む。学校自らエリートの養成を前面に出しており、社会の側もそのエリート主義を公認しているのだ。

 では、なぜフランスでは、エリート主義が生まれたのだろうか?

 それは、隣国ドイツの存在が大きい。ビスマルクやヒトラーらが率いるドイツから常に脅かされてきたため、教育によって人材を育成し、強国をつくって対抗しようという社会的合意があったのだ。ポリテクニクをつくったのはナポレオンであるが、そのことからも、軍事的文脈で官僚が求められた歴史的背景がうかがえよう。

 また、フランスは小説、音楽、絵画、そして学問を大切にする文化大国であることも大きいだろう。日本では「ガリ勉猛者」や「ひ弱な文弱の徒」は軽視される風潮があるが、フランスにおいては学歴エリートは文化エリートと同様に人々から尊敬されているのである。

 もっとも、フランスの学歴エリートは日本で言う「学校秀才」とは同一視できない面がある。

 フランスでは知識の詰め込みや暗記よりも、哲学や数学といった論理・思考能力が重視されているのだ。特に哲学に関しては、日本の高等学校においてはほとんど授業が行われていないといっていいが、フランスではバカロレア試験(高等学校卒業資格ないし大学入学資格試験)の初日に哲学の試験が課されるほどである。そして、このバカロレアの哲学で一等を取った論文は、高級紙『ル・モンド』に掲載される習わしがある。それほど哲学の優秀者は社会的に高い評価を受けているのである。

 哲学というと日本では文系のイメージが強い。だが、フランスのエリートにおいては理工系の素養も大切である。理工系の重視も、フランスの特徴として強調しておきたい。

 日本の官庁には「技官」という言葉がある。文系出身の事務官が幅をきかせていて、理工系出身者を「技官」と見下す悪しき風潮があるのだ。国土交通省などでは事務次官に技官が就任することもあるが、例外といえよう。多くの官庁では事務官が出世レースで優位を保っている。これは官庁のみならず民間企業においても同様で、経済学の実証研究の結果からもわかっているが理工系を学んだ技術系はあまりにも不遇である。

 これに対してフランスでは、例えばカルロス・ゴーンは先ほどエコール・ポリテクニク(理工科学校)出身と触れたが、同時にパリ鉱業学校の出身でもある。伝統的に鉱業学校の威信が高いのだ。

 やや誇張すると、フランスは「技術者王国」なのである。」

(橘木俊詔『フランス産エリートはなぜ凄いのか』)

日本は「優等生を作る教育」、アメリカは「個性を伸ばす教育」~日本人は上から下まで高度な知識を有する稀な民族とされ、平均学力はアメリカより高いと見られていますが、強い個性を持つ優れたエリートを養成する教育がありません。

「アメリカのエリートは勉強をあまりしなくても断然よくでき、先生が困るほどの天才肌の人が多い。クリントン元大統領のようなスポーツ音痴の例外もあるが、勉強だけでなくスポーツも万能なことが当然のエリート条件であった。頭がよいだけでなく、リーダーシップが強く存在感のある人が多かった。

 個性が強烈で、ビル・ゲイツが小さいときからコンピューターの天才であったように何か他人と違う一芸に秀でた人が多く、日本の勉強がよくできた秀才とは違っている。

 彼らは確固たる倫理観や宗教観をもっており、教養がにじみ出ており、なによりも品格がある。

 本業の仕事の他に杖に社会奉仕の精神が旺盛で、最近欧米で流行の企業の社会的責任=CSR(Corporate Social Responsibility)は、彼らがいい出したのではないかと思う。いざという時のノーブレス・オブリージュも身についている。

 一方で逆境や苦境に強く、自分が不利になっても信念を曲げない強さがあり、大衆迎合ではなく、一般大衆の不興を気にせず強いリーダーシップを発揮する。」

(釣島平三郎『アメリカ 最強のエリート教育』)

「特に日本の場合は、平等主義がいたるところに蔓延してしまった。そのためにエリート教育というものも無くなった。そしてエリートが背負う重さというものが無くなってしまった。エリートという形骸化した地位だけが残ったのです。」

(養老猛司『死の壁』)


【参考文献】

『フランス産エリートはなぜ凄いのか』(橘木俊詔、中公新書)

『アメリカ 最強のエリート教育』(釣島平三郎、講談社+α新書)

『教職のための教育史 西洋編』(溝口貞彦、東研出版)

『ことばを鍛えるイギリスの学校 国語教育で何ができるか』(山本麻子、岩波書店)

『パブリック・スクール 英国式受験とエリート』(竹内洋、講談社現代新書)

『死の壁』(養老猛司、新潮新書)



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「教育史点描~最後に残るのは「教育」である~⑫」

(6)世界の「教育」を比較してみるとオモシロイ

「中等教育」に各国の特色が現れる

イギリスのパブリック・スクール(私立)とグラマー・スクール(公立)~イギリスのエリートの60%はパブリック・スクール出身です。

「ウォータールーの勝利はイートンの校庭で得られた。」

(ナポレオンの軍隊を破ったウェリントン)

現代イギリスの教育制度バトラー法(1941年)→ベイカー法(1988年)

イギリスの公立学校の中等教育

グラマー・スクール~大学進学。

テクニカル・スクール~技術系大学進学。

モダン・スクール~就職・継続教育機関、義務教育5~16歳

コンプリヘンシブ・スクール~3種の中等学校を統合した総合制中等学校。

イギリスの中等教育修了資格試験(GCSEGeneral Certificate Secondary Education~中等学校在学中の14~16歳時、Oレベル」=Ordinary Level

Aレベル」=Advanced Level~科目数は300にも及び、その評価は一生つきまといます。

ASレベル」=Advanced Subsidiary Level、Aレベルの半分の教授・学習時間で習得されます(18歳)。

「大学」~オックスフォード、ケンブリッジなどの超一流大学、ロンドン、バーミンガム、ブリストル、リバプール、マンチェスターなどの近代的大学、キール、エセックス、サセックスなどの新大学の3つにグループ分けされます。

フランスのリセ(国立)とコレージュ(公立)~ドイツのギムナジウムと同じく、「古典語」(ラテン語、ギリシャ語)と「宗教」を主な教育内容としていました。1829年より「文科コース」(古典語中心の正規コース)に対して、「理科コース(特別課程)」(近代語、科学、工業、商業、製図などを主とする実業課程)が設置されました。

現代フランスの教育制度ランジュバン・ワロン教育改革案(1947年)→ベルトワン改革(1959年)→アビ改革(1975年)→教育基本法(1989年)

フランスの基礎課程~小学校5年。校長にアポイントメントを取らない限り、父母は小学校の中には入れません。ヨーロッパの小学校は「良き市民、良き国民」を養成することを第一の目的とし、小学校では国民教育としての「しつけ」を担当するので、勝手に干渉することはできません。

「コレージュ」~前期中等教育=観察・指導課程4年。

「リセ」~後期中等教育3年、中等教育以上の場では「知識伝達」「学問伝授」が目的となり、「国民教育」の場とは見なされません。

バカロレア試験~後期中等教育終了証+大学入学資格、合格すれば希望する大学へ原則的に入学できます。

「大学」「グランゼコール」~高等専門学校=高等師範学校(中等学校教員養成)、国立工学院、国立工芸技師学校など)、「師範学校」(小学校教員養成)

ドイツのギムナジウム「中等教育の典型」とされ、「古典の素養ある人こそ真に教養ある人である」という伝統的考えに沿って、「人文主義的カリキュラム」(ラテン語、ギリシャ語、宗教など)が支配的でした。

現代ドイツの教育制度ラーメン・プラン(1959年)→シュトゥルクトゥール・プラン(1970年)

「グルントシューレ」(基礎学校4年)

「ギムナジウム」(理論的才能に適し、将来の指導者層を養成します)、「レアルシューレ」(実科学校・中間学校、中級技術者を養成します)、「ハウプトシューレ」(国民学校高等科、基礎学校と合わせて「フォルクスシューレ」〔国民学校〕と呼ばれます。卒業後、するに実社会に出る者のための学校ですが、卒業後は定時制職業学校へ進みます)+「ゲザームトシューレ」(総合制学校)

「アビトゥア」(大学入学資格)→学術的大学(総合大学、工業大学、神学大学など)、教員養成大学、芸術大学、体育大学

現代アメリカの教育制度ウッズホール会議(1959年、理数科のカリキュラムの改造)→教育サミット(1989年、数学・科学を2000年までに世界一の学力にすることを国家目標としました)

「どの教科でも知的性格をそのままに保って、発達のどの段階の子どもにも効果的に教えられる。」

(ブルーナー『教育の過程』)

多様な学校形態「ホーム・スクール」「チャーター・スクール」「職業訓練学校」

SAT(大学進学適性テスト)、ACT(大学入学能力テスト)→大学アイビーリーグ、トップ25大学、地方公立大学)→大学院専門職大学院ダブル・メジャー

現代日本の教育制度~受験体制が「階層構成原理」(stratifying principle)となり、いわゆる「受験地獄」と無関係な「少年犯罪」は無いとされます。

「フィンランドでは、教育の無償と平等が強調される。人は、決して平等には生まれてこないし、平等は実現することのない理想かもしれない。しかし、だからこそ、国が平等で無償の教育を提供する。貧富、性別、宗教、年齢、居住地、民族、性的指向などの違いによって差別されることのない、等しい出発点を一人一人に保証する。そうした違いのために教育を受けられなかったり、断念したり、差別されたりする事がないよう、教育の平等を保障、一人ひとりの充足度を高めていくことが出発点である。

 フィンランドのもう一つの良さは、子どもの様々な権利が保障されていて、それが教育の出発点であることだ。フィンランド憲法第6条は、「子どもは個人として平等に扱われなければならない。また成長に応じて、本人に関する事柄について影響を及ぼすことができなければならない」としている。

 続いて、憲法第7条は「すべての人に生命権、個人の自由、不可侵、及び安全への権利がある」と規定する。「不可侵」は、日本では不可侵条約など国家に関連する事柄という印象があるのではないだろうか。しかし、フィンランドでは個人についても使われる言葉で、子どもも他者から侵されることのない権利を持つ。「安全への権利」は、物理的な安全の他、恐れや不安などからの自由も意味する。第7条は、さらに「法的根拠なく、恣意的に個人7の不可侵に介入してはならず、自由を剥奪してはならない」と規定している。 

 「個人の不可侵」を教育にひきつけて解釈すると、過度に干渉されたり、無理な指導に苦しめられたり、細かい校則や決まりに縛られることのない精神と身体も指すだろう。フィンランドで、子どもは国家によって一方的に教育され、指図を受ける存在ではなく、参加の権利も持つ。基本教育法第47条は、「教育を行う者は、すべての児童生徒が学校の活動と発展に参加でき、本人の地位に関する事柄に関して意見を表明できるよう配慮し、推進する。児童生徒には、教育計画及び、それに関する計画、学校の規則賛成に参加する機会を作らなければならない」としている。実際に、国の教育計画を更新するにあたっても、多数の子ども達の意見を聞いている。フィンランドの教育が目指すものは、子ども一人ひとりが自分を発展させ、自分らしく成長していくことである。

 それは、知識を習得したり、学力を高めたり、偏差値を上げたりすることではない。いかに学ぶかを学ぶこと、創造的、批判的思考を身につけ、自分自身の考えを持つこと、アクティブで良識ある市民として成長することである。そうした能力を持つ市民は、国家や権威を批判、抵抗することもあるだろう。しかし、さまざまな議論が行われる事が、民主主義を持続、必要な修正を行いながら発展させていく基盤になる。」

(岩竹美加子『フィンランドの教育はなぜ世界一なのか』)

「デンマークに住んでいて日本を思うと疑問に感じることがあります。それは、なぜ誰もが高校に進学しなくてはいけないのかということです。高校は高等教育を必要とする人が受ければいいと思うのです。

 日本の高校への進学の一般化は、「高校くらい卒業していなければ……」という考えが社会全体にあるからです。しかし、高校とは誰もが進学できる場所ではありません。そのことに誰も気がつかないのです。

 もしかしたら気づいているのかもしれませんが、高校を卒業しないと就職ができない。だから「高校くらいは出ておけ」になるのかもしれません。

 日常生活で必要な数学は、足し算、引き算、かけ算、割り算、パーセンテージくらいです。微分や積分、三角関数というものは、日常生活には不必要です。それらの数学を必要とする人は、測量士、エンジニア、建築士……、そういう職業になりたい人が学べばいいのです。

 デンマークでは高等学校へは、将来高等学校の教育を基盤にして、さらに上級学校へ進む人のみが進学します。上級学校、つまり大学へ進学する理由は、「将来自分がなりたい職業が大学を卒業しなければなれない」からです。

 将来の目的や希望を叶えるために高等学校、大学への道をたどるのです。

 一方、美容師になりたい、自動車の整備士になりたい、料理人になりたいという人は、国民学校(日本の小・中学校)を卒業後、自分がなりたい職業の専門教育を受けられる職業別専門学校へと進みます。そこでだいたい三年間の専門教育を受け、技術を身につけるのです。

 このような考え方をもとに、日本の教育のあり方を考えてみると、将来なりたい自分の姿にたどり着くには、ずいぶんと遠回りする人が多いように思います。

 たとえば、日本では子供が料理人になりたいという希望を抱いていても、「まずは高校を卒業してから」というのが普通です。本当は、料理にまつわる基礎、技術、歴史などの勉強をしたいのにもかかわらず、難しい数学や化学、物理までもを、先に学ばなくてはいけないのです。

 このような教育の仕方が、料理人になるにあたってどのような効果をもたらすのでしょうか。

 いままで常識だといわれているレールを外さないように、また外してしまったときの安全パイとして、「高卒」という資格を必要とするのではないでしょうか。

 そして、何よりも「これがいままでの常識だから」というフィルターで子供の進路を見てしまうがゆえに、日本国中の大部分の大人たちがよくも悪くも、青少年たちを自ら選択して人生を歩まないレールに乗せてしまっているのです。」

(千葉忠夫『格差と貧困のないデンマーク』)


【参考文献】

『アメリカ 最強のエリート教育』(釣島平三郎、講談社+α新書)

『教職のための教育史 西洋編』(溝口貞彦、東研出版)

『ことばを鍛えるイギリスの学校 国語教育で何ができるか』(山本麻子、岩波書店)

『パブリック・スクール 英国式受験とエリート』(竹内洋、講談社現代新書)

『フィンランドの教育はなぜ世界一なのか』(岩竹美加子、新潮新書)

『格差と貧困のないデンマーク』(千葉忠夫、PHP新書)




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