勉強以前の心理学

不安・優柔不断・マイナス思考・劣等感・挫折感を克服するための30の心理学的技術

第1章 不安を克服するための心理学

①まずは「あきらめ」が肝心です
②「成功者の体験談」にのみ耳を傾けましょう
③「自信」がなくとも「確信」は持てる
④「希望」は現実的可能性から生まれてくる
⑤「最も失敗した人」が「最も成功する人」
⑥失敗したら何度でも戻ってやり直す

第2章 優柔不断を克服するための心理学

①迷ったら前に出る
②自転車も水泳も始めない限り永遠にできない
③「いろいろ考えてしまって・・・」という人は実は全然考えていない
④要は「現時点でのベストの選択」の連続なのです
⑤「全力は美なり」よりも「継続は力なり」
⑥「いい加減に」「適当に」やる

第3章 マイナス思考を克服するための心理学

①子供はマイナス思考をしない
②「意識→発想→言動→生活」というパターンが人を作る
③「発想の転換」→「意識の転換」が一番現実的な方法
④マイナス言葉を絶対に口にしない
⑤物事のプラス面を見つけ出す訓練をする
⑥「自分はダメだ」から「ダメな自分をどうするか」

第4章 劣等感を克服するための心理学

①コンプレックスは人間関係の中で生まれる
②「自分を知ること」から全ては始まる
③自分を大切にする人は他人も大切にする
④「取り柄を伸ばすこと」と「苦手をつぶすこと」の両立が肝心
⑤「向上心」は自己変革の最大の原動力
⑥「人から学ぶ」気持ちがあれば誰とでも合う

第5章 挫折感を克服するための心理学

①挫折感は「逃避」「代償」によっては癒せない
②自分よりもっと悲惨な立場から這い上がってきた人がメンターとなる
③人間関係で傷ついた人は人間関係によってしか癒されない
④ワンランクアップの逆攻略作戦
⑤「してもらってうれしかったことは+αして人にもしてあげる」+「されて悲しかったこと、してもらえなくて悲しかったことは絶対に人にしない」の2原則が人間関係を劇的に変えていく
⑥「内なる声」は実は何でも知っている

第1章 不安を克服するための心理学

①まずは「あきらめ」が肝心です

 「あきらめること」は途中で断念すること、努力を中断することの意味で使われていますが、元々仏教では「四諦」(4つの真理=苦諦・集諦・滅諦・道諦、ここから一切皆苦・諸法無我・諸行無常・涅槃寂静という「四法印」も出てきます。まあ、シャカの「さとりの中心」ということですね)という言葉があるように、「諦め」とは「真実を明らめること」を指しています。中国の兵法家孫子なら「敵を知り、己を知らば、百戦危うからず」と言いますし、ギリシアの哲人ソクラテスなら「汝自身を知れ」というデルフォイ神殿のメッセージから出発しました。近代科学の原点にいるイギリスのベーコンなら「知は力なり」と言うところでしょう。まずは「現実を直視すること」です。
 「何が分からないのかが分からない」「何に不安なのかも分からない」という混沌とした状態によくなるものですが、迷っている時、やる気が出ない時は誰しもこんなものです。まずは問題点をはっきりさせることです。不思議なもので、問題点がはっきりすると解決の道は自動的に出てくることがほとんどです。あとは実行あるのみといったところですが、現実を直視し、問題を明確にすることで、問題の半分は解決したも同じと言えるでしょう。例えば、「高校を中退してバイトを始めたれど、将来が不安だ」「勉強しなくちゃとは思うけど、何からどう手をつけたらいいのか分からない、時間だけ過ぎていくので時々不安にかられる」「人間関係で傷ついてきたので、新しい環境の中で友達ができるかどうか不安だ」といった状況の場合、まずこの現実に向き合い、目をそむけないで、問題点をはっきりさせることから全ては始まるのだ、ということです。つまり、「その場しのぎではなく、将来につながるようなことを今しているのかどうか(→将来性を考えれば「高卒認定試験」を受験し、大学か専門学校へ行って、学歴や専門的知識・技術を得た方いいということになります)」「勉強するに当たって必要な情報収集ができているかどうか(→どんな科目が必要で、どんな勉強の仕方で、どのレベルまで持っていけばいいかという情報が必要なので、専門予備校へ行って聞いてみようということになります)」「ある特定の人間関係で傷ついてきたのか、それとも集団や不特定多数と接触することが苦手なのか(→特定の人間関係で傷を負った場合はむしろ新しい環境、新しい人間関係の中に入った方が治りが早いということになりますし、集団や不特定多数が苦手な場合は、通信講座のように人との接触が必要最小限で済む環境を選べばいいということになります)」というように、論点が整理され、明確になってくると、解決の道もまた整理され、明確になってくるのです。

【コラム1】
アメリカの伝統ある企業GE(ジェネラル・エレクトリック、エジソンの電球から始まった会社です)で20年にわたってCEO(最高経営責任者)を務め、世界最強企業を作り上げたジャック・ウェルチ(「アメリカの経営者の見本」として実によく取り上げられます)も、この「現実を直視する」ということを非常に強く強調しています。これは全てに通じるということですね。

②「成功者の体験談」にのみ耳を傾けましょう

 友達と群れることはそれなりの安心感を与えてくれますが、下手をすると「なあなあのぬるま湯」「傷のなめあい」「仲間内からの飛躍・離脱に対する足の引っ張り合い」といったことも起こってきます。「類は友を呼ぶ」「朱に交われば赤くなる」と言いますが、友達も1つの人的環境なので、当然、自分にとっていい環境もあれば悪い環境もあるわけです。特に大学受験予備校や司法試験予備校は未合格者や不合格者であるにもかかわらず、耳学問だけは豊富で、物知り顔にいろいろ話してくる人がいっぱいいます。これは全て聞き流す、最初から相手にしない、仲間に入らないのが「鉄則」とされます。なぜなら、自分の貴重な時間を確実にムダと分かっていることのために費やされてしまうからです(話が始まったら、途中で切るわけにもいかないでしょう)。  よく「金持ちになりたければ金持ちの中に入れ」と言いますが、自分の交友関係を見渡してみて、金持ちが1人もいないようなら、その交友関係の中だけにいる限り、金持ちにはなりそうもないということです。金持ちには金持ちの発想、ものの見方・考え方、行動があり、それらを身につけないことには何も始まらないからです。よく「金持ちはケチだ」と言いますが、これは反対で、「ケチだから金持ちになった」と言うべきです。成功者には「成功者の発想、行動、生活」があり、「結果としての成功」というわけです。

【コラム2】
ケンタッキー・フライドチキンの入り口に必ず立っている「ケンタッキーおじさん」(昔は酔っ払いがよく延髄切りをしていたものです)がいますが、この人は創始者のカーネル・サンダースです。サンダースがケンタッキー・フライドチキンを興したのは何と65歳の時でした。彼は小さな町の郊外でささやかなレストランを営み、通りすがりの人達にフライドチキンを売っていたのですが、近くにハイウェイが通ることとなり、お客が来なくなって店を閉めるしかなかったそうです。その時、貯金はゼロ、学歴は小学校を出ただけ、取り柄は25年間フライドチキンを作ってきたこと。彼は今後の唯一の収入である年金が月105ドルしかもらえないことを知った時、愕然としましたが、その全財産を前に奥さんと相談し、何かを始めようと決意しました。それから彼はオンボロ自動車に乗り、自慢のフライドチキンを売ってくれるレストランを次から次へと探して回り始めたのです。これがケンタッキー・フライドチキンの始まりで、今や日本だけでも年商800億円を超えているのですから驚きです。
 何だか、誰でも何時からでも何とかなりそうな気がしてきますね。

③「自信」がなくとも「確信」は持てる

 実は自分に「自信」があるという人はそういません。例えば、相当美人の女性でも顔、髪、身長、スタイル、体重に至るまで不満だらけで、「自分に自身満々」という人はなかなかいないものです(女性誌の3分の1の記事が整形とダイエットの広告で埋まっているのは、この心理を突いています)。男性でも顔、身長、体重、運動能力、学力、対人関係といったところでなかなか自信が持てないものです。そこで自分に無いものを持っている人に対して非常に執着したり(同一視)、こじつけで無理やり自分を納得させようとしたり(合理化、イソップ物語の「すっぱいぶどう」が有名ですね)、余りに自信を失った場合には「逃避」といったことも起こってきます。
 ところが、「自信」を持つことはなかなか難しくても、「確信」を持つことは誰にでもできるのです。「確信」には「知的確信(頭で納得する)」「意的確信(実際にやってみて納得する)」「情的確信(心の底から納得する)」の3段階がありますが、どの分野でも「知的確信」からなら入っていけます。「いろいろ情報を集め、考え、検討してみたけれど、やはりこの結論しかない」と判断することは特定の優秀な人にしかできないことではなく、誰にでもできる(というより普通に行なっている)ことなのです。主婦の値引きに対するあくなき執念(時として100円安い品物を求めて、200円の電車代を余分にかけて買いに行くという非合理的行動もあったりしますが)、バーゲンセールに対する限りない情熱も、この「知的確信」に基づく行動なのです。「知的確信(いろいろチラシを見た結果、このお店のこのセール期間中が一番安い!)」→「意的確信(実際に買ってみてやっぱり良かった、満足!)」→「情的確信(使ってみてますます納得、このモノにこの値段は絶対安い、やっぱり自分の判断に間違いはない!)」という「確信のプロセス」は誰にも経験があることでしょう。「世界で最も優秀なコンピュータ」とされる自分の頭を使って、まずは考えてみることから始めましょう。「合理的判断力」(その一番シンプルなものは「損得計算」「損得勘定」です)は誰でも身につけられます。

【コラム3】
吉田松陰が松下村塾でのわずか1年半の教育で、国家有為の人材を多数育てることができた理由の1つに、全国から最新情勢が集まり、「飛耳長目」と呼ばれるノートに記されて、誰もが閲覧できたことが挙げられます(松陰も日本全国を歩いていますが、高弟の高杉晋作は上海へ、久坂玄瑞は江戸へ、伊藤博文はロンドンへ行っています)。
 また、神戸の砂糖商から始まってまたたく間に日本最大級の商社・企業集団にのし上がった鈴木商店(番頭金子直吉がその中心人物です)も、その大発展の理由の1つが金に糸目をつけず、海外情報を収集したことにありました。実際、小さな個人商店が「三井、三菱を圧倒するか、しからざるも彼らと並んで天下を三分するか」を理想としたのですから、驚きです。1919年頃の全盛期には商取引高は16億円で、三井物産の最高値12億6000万円(1928年)を大きく引き離し、スエズ運河を通過する船の一割は「ニッポンのスズキのもの」と言われるほどだったのです。ここから神戸製鋼、帝人、日商岩井などが誕生しています。
 さらに「清平(平和時)の姦賊、乱世の英雄」と評された三国時代の魏の曹操も、いつも慎重な武将が率いる斥候軍と積極果敢な武将が率いる斥候軍を共に派遣し、2種類の情報を得て冷静な判断をしていたと言います。  クリエイティブな才能を持つことは難しいことですが、情報収集は誰にでもできるのです。

④「希望」は現実的可能性から生まれてくる

 「大丈夫、大丈夫」「何とかなると思うんですよ」と意味も根拠もなく言っている人がいますが、これはただの「カラ元気」で、余り繰り返し続けると気力そのものが失われてきます。「自分を無理にでも奮い立たせないともたないんです」と弁明したりしますが、これは岩を坂の上に押し上げては転がり落ちるという「シーシュポスの神話」(ギリシア神話に出てきます)のような悲劇です。実はやる気、気力といったものを支えるのは「希望」(ギリシア神話では「パンドラの箱」から多くの災いが世界に飛び散った後、最後に残ったものが「希望」であったとされ、だからいろいろ悪いことがあっても、人間には「希望」が残されているのだと言っています)なのです。では、「希望」と「カラ元気」はどこが違うのかというと、「希望」は「現実的可能性」から生まれてくるという点です(カラ元気は根拠もなく、無理やり思い込もうとしているだけです)。「現実的可能性」とは「こんな自分でもできるかもしれないな」と思えることです。「こんな自分でも」「こうすれば」「もしかしたら」「できるかも」というのが心理上のポイントです。
 では、こうした「現実的可能性」はどうしたら感じられるようになるかというと、それは②の「成功者の体験談」と③の「知的確信」から生まれてくるのです。

【コラム4】
「私が小学校六年の昭和三七年、母は夏休みを利用して自動車学校に通った。当時、商業車は別として、自家用車は十分に普及していなかった。まして女性で四九歳の人は、その学校にもいなかったらしい。
 知人のK先生が、同じ自動車学校に通っており、そのご主人が商業車を持っていた。そこで、授業の時間帯が同じ場合など、そのK先生のご主人の運転する車に同乗させてもらって、自動車学校へ行くこともあった。
 八月中旬、その車が衝突事故にあってしまった。そのとき母は助手席に座っていたので、全身に何ヵ所もの打ぼく傷を負った。幸い、どれも致命的なものではなかったが、顔を始め何ヵ所も内出血で見るも哀れな格好だった。
 母はこの生まれて始めての交通事故で二週間ほど寝込み、自動車学校を休まざるを得なかった。夏休みも終わるので、自動車学校はいったんあきらめるのかと、まわりでは思っていた。ところが母は傷がなおって動けるようになると、すぐ学校に通い始めた。そして、九月上旬に試験も一回でパスして、運転免許を取った。
 その年の一〇月一日付けで退職すると、自家用車を購入した。それ以来、いまも何台目かの車を使って飛び回っており、奈良にいる上の姉、神戸にいる下の姉のところなど、気軽に運転して出かける。
 物事をなしとげられなかった人は、よくそれを不利な環境のせいにする。しかし、環境は決定的要因ではなく、意志こそ決定的要因だと、このとき感じた。一般に女性は運転技術は別としても、法規・構造などには必ずしも強くない。また、五〇歳近くともなれば、記憶力も落ちてこよう。そのうえ、自動車学校の教官には、乱暴な言葉でどなりつける人も多い。自分の子供やかつての教え子のような年齢の教官に、そんな形で教えられるのは、腹立たしいこともあろう。まして、自分が助手席に座っていて、まさに目の前で衝突事故を体験し、二週間も負傷で床にふしていたら、しばらくは、自動車恐怖症にかかってもふしぎはない。かつて同じレベルだった仲間はすでに終わりに近くなっているし、夏休みも終わる。断念する理由は、いくらでもつけられたはずだ。いったん決めた以上は、必ずやりとげるという精神を私は母の後ろ姿から学んだ。」(『資格三冠王』黒川康正~日本で初めて司法試験・公認会計士試験・通訳案内業試験の3つ全てに合格し、「資格三冠王」と呼ばれた人物です。この人の方法論には学ぶ点が多いので、是非、入手しましょう。)

⑤「最も失敗した人」が「最も成功する人」

 徳洲会の徳田虎雄理事長は医療と政治の分野であくなきバイタリティを発揮していますが、その努力家ぶりは有名です。例えば、口ベタで人前に立つのが苦手で仕方がないので、人前で200回しゃべってやっと苦手ではなくなったというのです。これは「逆療法」とも「逆転の発想」とも言えますが、ここで知っておくべきは「最も失敗した人」が「最も成功する人」となるということです。例えば、「名医」として知られる人ほど、たくさんの失敗を繰り返してきています。恐らく専門によっては死人も少なくないでしょう。ここで重要なことは、挫折し、メゲるような失敗の数々、連続の中で、「やっぱり自分にはムリだ」「自分にはこの道は向いていないんだ」と投げてしまえば、失敗は失敗のままで終わってしまうだけですが、「それでも、それでも」といって止めてしまわず、「こうすればいいんだ」という所まで到達すると、「失敗は失敗でなくなり、成功のための肥料、かけがえのない貴重な財産となる」ということです。さらに言えば、苦しみ、もがき、そしてそこから這い上がった人は、自分が苦しんだレベルにいる人までは「道」を教えてあげることができるようになります(自分よりもっと大変なレベル人に対しては何もしてあげることはできません)。カウンセラーや教育関係者はたいていこうした「原点」「原体験」を持っているものなのです。したがって、ある程度の精神的強さを持っている人へのアドバイスは「もっと失敗しろ、もっと苦しめ、もっともがけ、もっと悩め、そして何とかそこから這い上がれ、それが後々貴重な財産となる」ということになるのです。
 こうしてみると、「敗北」と「成功」の分かれ目は「忍耐力」にあるということになるでしょう。頭を急激に良くする、運動能力をプロ並みにするなんていうことは誰にでもできるわけではありませんが、「忍耐すること」なら誰にでもできます。発明王エジソンは電球を作る時、電流が流れるフィラメントの材質に悩み、6,000種以上の材料を試した結果、ついに完成することができたといいます(日本の京都府八幡村の竹も実験に用いられて、好結果を生んでいます)。エジソンは「天才とは1%の霊感と99%の汗である」とも言いましたが、「99%の汗」の部分は凡人でも真似ができる所です。
したがって、「1日でも早く成功したければ、たくさん失敗することだ」ということになるでしょう(セオドア・ルーズヴェルトも「1度も失敗しないというのは、何もしないということだ」と言っています)。よく、勉強するにも「これだけやればいいという本はないですか」「英単語はどれだけ覚えたらいいんですか」と言って、ムダを無くして効率よくやることばかり考え、結果的に参考書や単語集をしょっ中買って「積ん読」になっているだけの人がいますが、逆に「たくさんムダをした人ほど最も効率的にできる」ということを知っておくとよいでしょう。もっと言えば、「すべきムダ(試行錯誤)」と「してはならないムダ(完全主義・完璧主義)」があるといういことです。勉強でもよく「自分は英語と数学は基礎の基礎からやらないとダメなんです、それこそ中学校と言わず、小学校まで立ち返らないと」(英語は小学校まで立ち返ることはできません)と悩む人がいますが、行き過ぎると一生「自分は基礎ができていない、基礎からやり直さないとダメ」という強迫観念に追われて終わることになりかねません。基礎どころか、英語学者、数学者並の細かさを自分に要求していることがあるので、注意を要します。

【コラム5】
ある車のセールスマンが駆け出しの頃、全然車を売ることができず、絶望の余り、自殺まで考えたほどですが、大体「150回に1回」の割合で車が売れることに気づきました。それで、それまでは「どうして売れないんだろう、あ、また売れなかった、また今度もだ」とばかり思っていたのが、逆に「早く149回断られないかな」と「ノー」を待ち遠しく思うようになったというのです。こうして「149回のノーを通じて、1回のイエスが現れる」ことに気づいてからは、「失敗を恐れる気持ち」が無くなり、むしろ「失敗を喜んで受け入れる気持ち」に変わって、ベスト・セールスマン、スーパー・セールスマンとして知られるようになったのです。

⑥失敗したら何度でも戻ってやり直す

 「失敗に対する恐れ、不安」は誰にでもありますが、肝心なことは「失敗すること」にあるのではなく、「失敗した後の対処の仕方」にあります。失敗したことによって、このやり方ではダメだということが分かっただけでも良しとし、前の選択肢に戻って別な道を行けばいいということです。10の選択肢があるとして、2~3つ試してみてダメだった場合、「やっぱりダメだ」と簡単に結論づけるのではなく、10の選択肢全てを試してみた上でやっぱりダメだった時に、「本当にダメだ」と結論づけるべきです。これが「絶対的確信的ダメ出し」です。社会生活やビジネスでも失敗はつきものですので、「失敗しないことがいい」のではなくて、「失敗した時にちゃんと責任を取ればいい」ということを知っておくべきでしょう。
 よく「昔に帰れるとしたら、いつの頃に帰りたいですか」という質問がありますが、これに対して「小学校の頃」「中学校の頃」といった答えが返ってきます。そうすると、その時代が一番幸福で、それ以降、今に至るまで不本意な状況が続いていることになり、ある意味では悲しい話です。「生きていればリセットは何時でも何度でも可能」なのですが、「失敗したらやり直せばいいんだ」という基本姿勢が身についてくるようになると、次第に「今が一番いい」と思えるようになってきます。
ただ、自分にとってネックになっている原因・体験・事件は大体1~2個であるのが普通ですが(それが何であるかは自分の心が一番良く知っています、「内なる声」に耳を傾けてみましょう)、その中には自分の決断と行動ですぐにでもリセットに向けて対処できるものもあれば、自分以外の原因で不本意な状況に陥ったため、リセットに時間がかかるものもあります。例えば、人前で恥をかいた、後天的な病気・怪我で長期入院したといったことなどは前者に入ることが多く、イジメを受けた、家庭の不和、両親の離婚、先天的な病気などは後者に入ることが多いと言えるでしょう。特に両親の離婚によって受けた心の傷などは、子供の立場ではどうしようもなく、将来、自分が結婚して子供を生み、親になって、夫婦関係を死に物狂いになって守り抜き(恐らく両親と同じ危機を通過する可能性があります)、家庭円満を維持できるようになるまではなかなかリセットできません。親を責めてみても、自分を責めてみても、何かにうっぷん晴らしをしてみても、心の中のしこりの解決には結びつかないのです。この場合でも、「常に現状から出発する」という基本姿勢は必要です。そうすれば、将来、必ず「転換の時」を迎えることができるからです。
 また、どう考えてみても八方ふさがり、どうしていいのか分からない、夢も希望もないという「絶望的状況」に陥ることがありますが、この場合は「人事を尽くして、天命を待つ」しかありません。じゃあ、どのくらいの期間、人事を尽くせばいいのかというと、大体「3年」とされます(中国のことわざに「凶事も3年経てば吉事になる」というものがあります)。3年間、考えられるだけ考え、思いつくことは全て試せるだけ試し、試行錯誤の限りを尽くせば、どんなに道が見えないと思えた状況でも必ず道が見えてくるということです(最近の企業再生でも「3年の期限」というスタンダードが出て来ました)。「石の上にも3年」とはよく言ったもので、早ければ1年前後でも全く状況が変わってくるものです。「3年、10年の法則」とでも呼ばれるものがありますが、これは「どんな逆境でも3年間人事を尽くせば必ず道は開ける、どんな分野でも10年間取り組めば必ずひとかどの人物、専門家になれる」というものです。

【コラム6】
「たくさんの失敗を重ねてみて、初めて真実の全体像に出会えるのだ。」(オーストリアの精神分析家フロイト)
「神は超えられない試練を人には与えられない。」(東欧ユダヤ社会のことわざ)
「経験は素晴らしい学校だ。ただ、その授業料は高くつくものだ。」(ハイネ)


第2章 優柔不断を克服するための心理学

①迷ったら前に出る

 これは阪神時代の星野監督が広島の金本選手を説得した際の決めゼリフです。広島に未練を残す金本選手に、「オレはこうやって来た」と言ってプッシュしたわけです。結果として阪神は18年ぶりの優勝を達成しました。「阪神は20年に1度優勝する」と言われていましたので、これが2年後に優勝したのであれば、「やはりジンクス通り」「運命のなせる業」で片付けられてしまったことでしょう。そうした運命の力を超えて優勝を引き寄せた理由の1つが、他ならぬ「迷ったら前に出る」という決断にあったということです。
 実際、「やったことのないこと」「まだ見ぬ世界」に対して迷いが出るのは当然で、全てを予測し尽くすことなど不可能です。人の心を読むサトリという化け物が、先んじて村人の心を言い当てますが、村人がさとられまいとする努力を止めて、ただ無心に斧をふるっていると、サトリは何も心を読むことができず、柄から外れて飛んできた斧の刃に当たってとうとう死んでしまったという昔話が思い出されます。物理学の世界でも「決定論」に基づく「ラプラスの悪魔」(あらゆる条件を知っていて、未来の完全予測ができる)というたとえ話が出てきます。
 ここで重要なのは「考えるべきこと」と「考えてもムダなこと」の2つがあるということです。「事前に徹底的に考えなければならないこと」があるのは当然ですが、「やってみるまでは分からないこと」があるのもまた事実です。金本選手だって、阪神に行って成功するかどうかなど、実際に行ってやってみるまでは分からなかったでしょう。こんな時、移籍して成功したケースは○%などというデータがあっても、余り役に立ちません。「やってみて初めて確定すること」なのです。

【コラム7】
もちろん、タイプによって、「迷い方」「失敗しやすいパターン」もその理由・経緯も様々です。ここでは「血液型人間学」の洞察によって、分析してみましょう。まず、基本的理解の枠組みは次のようになります。
①主体的B族と対象的非B族~「世界の主体」AB型と「自分の主体」B型、「内的協調」志向のA型と「外的協調」志向O型
②原因的A族と結果的非A族~「正義を与える」AB型と「正義を守る」A型、「内的現実」志向のB型と「外的現実」志向のO型
③目的達成志向と過程評価志向~「目的を与える」AB型と「目的を果たす」O型、「自分が頑張る」B型と「皆で頑張る」A型
 ここから、次のようにタイプ分析が導き出されます。

【AB型のパターン】
「目的原理」の人。良く言えば神の立場に立つ「正義の人」、悪く言えば平気で人を批判する「イヤミの天才」。その秘密は「絶対主義」(自分が正義と思った以上、それは自分だけの正義ではなく、全ての人が受け容れなければならない絶対的正義である)と「理想主義」(高い理想を持つが、汚れた現実の中でそれを実現する人は自分自身ではあり得ない)の矛盾にある。適性は「頭脳」になることで、手足になることではなく、参謀に向く。

【B型のパターン】
「自由原理」の人。主な関心が自分に向かっている「我が道を行く」人。内向する場合、A型のように本当はかまってもらいたいのにいじけているのではなく、ただ自分の内面に興味が集中しているから内向しているのに過ぎない。外向する場合、O型のように周囲の和を保つためにあたふたしているのではなく、ただ自分を表現したいから外向しているのに過ぎない。良く言えば、何者も頼りとせずに自分自身で決定していく強い主体的自発性、ある目標に向かって何もかも忘れて没頭するプロセスという「自由」の本質に生きる人、悪く言えば「夢多くしてどの夢も実現しない」、自分勝手で無責任なエゴイスト。

【A型のパターン】
「平等原理」の人。他人が自分をどう感じているのかということに極めて敏感で、全てに根拠を求める原因志向性は、何事にも「こうであるべし」という規則を制定しようとする規範性につながる。全体が一致団結することを願い、その和を乱す人間(B型が多い)を最も嫌い、和が乱れた原因を追究する。A型の特質は家族的集団の中でしか生かされないので、そうした環境がかなわないと、抑圧された情念が蓄積されて「キレる」ことも起こるが(他人の怨念に無神経なB型に対して爆発する可能性がある)、いつかどこかに必ず存在するであろう、真の理解者のために完璧な仕事を残しておこうとする職人気質(仕事の達成よりも仕事の完全性を重視するA型の完全主義)が現われることもある(O型なら60点主義で満足する)。

【O型のパターン】
「幸福原理」の人。AB型の求める喜びは理念的・抽象的、B型の求める喜びは観念的・独善的、A型の求める喜びは感情的・内面的であるが、O型の求める喜びは具体的・現実的であり、なおかつ自分一人のものではなく、皆に広がっていくものでなければならない。AB型の志向する目的は抽象的な誰か(必ずしも自分ではない)の果たすべき理念であるが、O型の志向する目的はあくまで自分が果たさなければ意味がない具体的任務であり、失敗した場合も、A型なら失敗した原因をあれこれと分析して自分以外の原因に責任を転嫁することができるが、O型はそのような細かい分析はできず、くよくよと自分を責めて内向してしまう(この違いは「キレた」時に明瞭になり、A型が爆発して人を殺すのに対し、O型はつぶれて自殺する傾向が強い)。O型の意識は目的の達成(ある意味では目的の内容はどうでもいい)とその手段としての人の和に向かっており(A型なら人の和そのものが自己目的化する)、現実的結果を求めるので「妥協」がうまい(AB型の理想は高いが、高すぎて現実が見えず、B型の凝り性やA型の完全主義に付き合っていたら、仕事の納期に間に合わないので、ここから60点主義が生まれてくる)。

②自転車も水泳も始めない限り永遠にできない

「何事もとりあえず始めてみないと何も始まらない」ということは、水泳や自転車を考えればよく分かります。本を読んだり、人に話を聞いたりして、「水の中で手と足をこういう感じで動かすのか」「○回に1回の割合で息継ぎをすればいいのか」「自転車に乗る時は体でバランスを取るのか、ふんふん」などといくら繰り返しても、知識が豊富になりこそすれ、一向にできるようにはならないのです。泳げるようになりたければまずプールに入ること、自転車に乗れるようになりたければまず補助輪付きでも自転車に実際に乗ってみることです。
 徹底的に考えているにもかかわらず、迷いがふっきれないというのは、もう頭で考えるだけではダメで、行動して新しい条件・状況を加えてみないと新しい結論は出ないという段階に来ていることを意味します。こんな時は失敗してもいいから、お金を捨てる結果になってもいいから、行動を起こしてみるべきです。それが結果としてダメだった場合でも、「これはダメだということが分かった」というだけでも収穫だと言えるのです。

【コラム8】
「決心する前に完全に見通しをつけようとする者は決心することはできない。」(アミエル)
「最高に真実なる知恵は、毅然とした決断である。」(ナポレオンが好んだ格言)
「一瞬の機を逃すと、それが不幸な敗北につながる。オーストリア軍は時間の価値を知らなかった。奴らはいつまでもぐずぐずと攻撃をためらっていたから、我が軍に打ちのめされてしまったのだ。」(ナポレオン)
「たとえば、結婚生活はどんなものであるかを、結婚して二週間目に下りてしまって、それで本当のことがわかったであろうか。何事も、辛抱強さが必要で、『石の上にも三年』という諺もあるように、じっとこらえるのでなければ成功するわけがないのである。・・・魚取りに出る人が船の乗り方、波の乗り方を身につけないで、どうやって魚を手に入れることができるのだろうか。船に乗り込んだ途端に、ちょっと波をかぶったからといって陸に逃げ帰ったのでは、いつまでたっても船の乗り方は覚えきれないであろう。だから『株を知るには、実際に株を買ってみなければ』というのは、やはり株に精通するための絶対の条件であると思うのである。」(『株が本命』邱永漢~「金儲けの神様」と称される人物ですが、やはり成功者のつかんでいる「本質」は全ての分野に通じるものだと言えます。この人の著書は何百冊とありますので、何冊かは読んでみましょう)

③「いろいろ考えてしまって・・・」という人は実は全然考えていない

 よく「いろいろ考えてしまってなかなか結論が出ないんです」という人がいますが、実はこういう人は「考えていないに等しい」と言っても過言ではありません。「考える」ということは、ただ「思いに浸る」のではなく、「考え抜く、もうこれ以上考えても他に結論が出ないところまで検討し抜く」時に始めて現実的建設的意味を持つのです。同じところばかり堂々巡りして、そこから先に一向に進まないのは、「下手な考え、休むに似たり」という状況そのものです。つまり、あらゆる角度から考え、あらゆる選択肢を比較検討し、「現時点でのベストの選択はこれだ」「これ以上考えてもこれ以外の結論は出てこない、これ以上考えても時間のムダ、後は行動あるのみ」という所まで、考え詰めるべきなのです。そこまでしないで、「いろいろ考えてしまって・・・」と言うのは、明らかに言いすぎです。
 よく座禅や剣道で「無念無想」ということが言われますが(例えば、柳生新陰流の奥義は「無想剣」です)、これは「何も考えない境地」ということではなくて、「あれこれ考え抜いた結果、考える必要が無くなった境地」のことです。ある僧侶が座禅に取り組んだ時、過去の出来事や気にかかること、今晩の食事のことまでいろいろ浮んできて、なかなか「無念無想」になれないと悩んだそうですが、それが毎日毎日繰り返されていくと、さすがに3時間も頭をよぎっていたことが、20分くらいでよぎるようになり、そのうちよぎることもなくなったというのです。何度も何度も徹底的にあらゆる角度から考え、それを繰り返していくと、本当に考える必要がなくなっていくのです。詠春拳から截拳道(せっけんどう、ジークンドー)という武術を創始したブルース・リーも、「初めてパンチを見た時は本当にすごいと思った。それからありとあらゆることを試してみて、もう1度パンチを見たら、それはただのパンチだった」と言っていますが、「徹底的追求」を経て「大いなる平凡」に至ることはどの世界でもあると言えるでしょう。

【コラム9】
「幸運の神には前髪しかない」ということわざがあります。チャンスがやってきたら、その前髪をその場でしっかりとつかんでいないと、通り過ぎた後に手を伸ばしても後ろに髪が無いので、もはや手遅れだというわけです。やはり、即断即決即行動、「チャンスはその場でモノにしろ」ということですね。ちなみに成功者と言われる人にアンケートを送ると、速攻で回答が返ってくるケースが多いそうです。同じ決断をするなら、1週間かけて決断するのと1時間で決断するのとどちらがいいかと言えば、どっちにしろ考えるべき、検討すべき内容は同じであるとすれば、早ければ早いほど「時間のムダ」がなくていいわけです。「考え抜く」作業と「情報処理時間の短縮化」は両立できることであり、「即断即決即行動」ができなくて成功者になった人はいないとも言えるのです。

④要は「現時点でのベストの選択」の連続なのです

 結局、自らの知識、思考力を駆使して出せる限界は「現時点でのベストの選択」です。これ以上はやってもムダですから、後は考えません。ひたすら行動あるのみです。ところが、行動し、また新たな情報が入ってくると判断材料が変わってきて、別の結論が出ることもあります。時として正反対の結論になることもあるでしょう。それはそれでいいのです。あくまで「現時点での状況、情報に基づき、自らの知識、経験、思考力を駆使して出せる最大限ベストの結論」をその都度出していくわけです。経済学ではこれを消費者なら「効用最大化」、企業なら「利潤最大化」を目指すと表現しますが、日常的には誰もそんなことを考えたりはしません。そこまで「完全合理性」を持った人や企業が一体どこにいるのでしょう。ここは複雑系で言われているように「限定合理性」で考えるべきです。また、最大の社会学者マックス・ヴェーバーなら、その「エートス論」で「主観」における「形式合理性」「目的合理性」「価値合理性」(簡単に言えば、「主観における合理的判断」というところですな)を説くところです。「その時点、その時点でベストだと判断できる選択」(主観的にベストであっても、客観的にはベストではないことは当然しばしばあるでしょう。しかし、その時点では知り得ないのですから、仕方のないことです)を追求するのが、現時的な取り組み方ということになります。

【コラム10】
「碁からは『都合の悪いことを運のせいにしない』ことも学んだ。麻雀では、偶然がかなり勝負を左右し、負けても、『今日はついていない』という理由で片づく。また、四人もいるので、勝者と敗者が必ずしもはっきりしない。碁では、必ず一方が勝者で、他方が敗者、勝敗の差は如実に現れる。しかも力の差がはっきり勝負に出る。負けたとすれば、運が悪いのではなく、自分の打った手が悪かったことになる。
 麻雀では、誰かが和ってしまうと、点数を計算し点棒を渡してすぐガチャガチャと牌をかき混ぜてしまう。碁の場合は、一局終わると、敗因を検討する。そこに、次回の飛躍への可能性が出てくる。負けたのは、運のせいだという逃げ場所を断たれて、初めて自分の敗因・欠点に直面することになる。そして、『欠点とは、自分の伸びる可能性がある所だ』とおぼろげながら感じるようになった。
 また、母との間で〝待ったなし〟のルールを厳格に守ったことも、非常によかった。どんな悪手(あくしゅ)でも、一度打った以上は、やり直しがきかない。その悪い状態の中で、次の手を考えていかなければならない。自然に、一手一手を後で悔いのないように、その時点での最善手を吟味して、打つようになった。このことから、私は自分の人生にとって、非常に大切なことを学んだ。人生にも、『待った』はない。宮本武蔵の『我が事において後悔せず』という言葉に、潜むことをおぼろげながらもつかんだ。そこで、与えられた時間、機会は悔いのないよう、できるだけ有意義に使おうと心がけるようになった。
 さらに困難に直面したとき、結局、頼れるのは自分であること。決断とは、自分でやるべきで、他人を頼ってはいけないこと。自分で決断することにより、その結果についても責任を取れるものだということ。そのほか、学ぶところは多かった。」(『資格三冠王』黒川康正)

⑤「全力は美なり」よりも「継続は力なり」

 「全力は美なり、そして継続は力なり」とはよく言われますが、どちらを取るかと言えば、当然、「継続は力なり」になります。大体、人間の集中時間は幼児なら15分(だから幼児番組の組み立ては短いものの組み合わせになっています)、大人でも1~2時間集中を続けることは決して簡単なことではありません。ましてやそれが毎日となればなおのことです。例えば、英語を勉強しようと思った人が、「よし、じゃタイムを買って読むぞ」と決意したとします。ところが、800円出して1冊買ってきたはいいものの、1ページ目から悪戦苦闘、辞書を引き引き、どうにか最初の記事は読み終えたものの、すぐには次の記事に移れず、2~3日遠ざかっているともう次の号が店頭に並んでいるということになります。こうして何百人、何千人(ひょっとしたら何万人?)という人がタイムに挫折し、屍体累々といった状況です。真面目な人、完全主義の人ほどあっという間にこうなります。どうしてこうなるのでしょうか?それは「いい加減に」「適当に」読むことができないからです。1冊、2冊、徹底的に精読してそれで終わりになるより、3年、5年といい加減に適当に読んでいる人の方が力がつくのは目に見えているでしょう(ちなみにタイムやニューズウィークを正規教材として導入する大学受験予備校が出てきましたが、「人集めの企画」としてはいいアイデアであるものの、「英語力・情報力を現実的に伸ばすための方策」としては、初学者なら英字新聞、コンテンツ重視ならタイムとニューズウィーク英語・日本語版の3冊併読、英語のセンス・アップならエコノミストとなります。高校生・浪人生でここまで知っている人はほとんどいないので、「継続力」にすぐ困難を生じます)。
 勉強も同じです。最初からすごい勢いで取り組もうとする人がいますが、最初はむしろのんびり構えて「とりあえずやりゃいいんだ、続いた方がいいんだ」という感じの方がいいのです。予備校に通う場合でも、最初の1~2ヶ月は「朝起きて、学校に行って、授業に出て、ノートを取って、分からない所は聞く」ことができれば上等と考えましょう。授業の内容がどんどん分かる、やる気があふれて仕方がない、という必要はどこにもありません。一時的に高いテンションで勉強するより、最初は低いテンションでも最後まで続いた方がいい結果に結びつくものなのです。

【コラム11】
「天才とは忍耐である。」(フランスの博物学者ビュフォン)
「ゆっくり歩む者の方が、息長く遠い所まで進んでいける。」(イタリアのことわざ)
「発見とは、いざという時のために、普段からたゆまぬ努力を続けてきた人間との偶然の接触と言えよう。」(ビタミンCの発見者・ノーベル賞受賞者セント=ジョルジィ)
「食えない役者達にお話ししたい。…運を信じなさい。どんな人でも一生に2度か3度はチャンスが巡ってくるのだ。大切なのは、巡ってきたチャンスを必ずつかむという努力をいつもしていなければならないということ。」(ジャック・レモン、アメリカ映画協力功労賞受賞スピーチ)

⑥「いい加減に」「適当に」やる

 勉強はやらないと意味がありませんが、追い詰められたようにやっても逆に心身を損なうことがあります。やり過ぎず、やらなさ過ぎず、「良い加減で」「適当なあんばいで」やることを心がけましょう。完全主義、完璧主義もよくありません。いわゆる「試験・資格の達人」と呼ばれる人達は「満点狙い」「高得点狙い」など考えていません。「合格ラインを少し超える位狙い」で行くのです。「要は合格すればいいんだ、取れりゃいいんだ」という発想です。そうすれば、努力は最小限で済み、気負いも減り、必要以上に自分を追い詰めることも無くなってきます。

【コラム12】
「心構え変革プログラム」を20年以上かけて開発し、全世界で400万人以上の人を教育したロバート・コンクリン氏は名著『100人に1人も実行していない「成功地図」の読み方』の中で、成績でも運動能力でも落ちこぼれで、皆からバカにされていたジョンが如何に立ち直っていったかというケースを紹介しています(このケースだけでも読む価値があります)。
それによると、彼を預かった伯父さんはジョンにまず「規則正しい生活」をさせ、勉強の習慣を作ることから始めました。そして、ジョンは特に数学を苦手にしていたので、小学校の教科書を全部そろえさせ、小学校3年から復習をさせたのです。さすがに3年、4年の内容は理解していたそうですが、5年、6年の内容となると3分の1も理解しておらず、伯父さんは「何となく分かる」というレベルの理解を許さないで、徹底的に理解することを要求したため、小学校の算数を終えるのに1年かかったそうです。ところが、その後は理解のスピードが急激に早まり、中学1年の数学は3カ月で完全に理解でき、やがて、数学のみならず他の教科の成績まで上がり始め、スポーツでもスキー部で何とキャプテンを務めるまでになったそうです。何事でも自信を持って取り組めるようになった彼は、大学を出て大手化学メーカーに就職し、ついに副社長にまでなったのです!数学が苦手で苦手で、小学校の算数の理解すら怪しかった彼がついにそこまで行ったのは、「基礎に立ち返った徹底的理解」によるものであり、ひいては「絶対に妥協しない習慣」でした。
数学が苦手である人は実に多いものですが、これなら「打つ手」はありそうですね。


第3章 マイナス思考を克服するための心理学

①子供はマイナス思考をしない

 子供、特に幼児は不思議なもので、大胆で向こう見ずな子もいれば、慎重で冒険はしない子、のんびりゆっくりの子など、早くも個性が現われていますが、いわゆる「後ろ向きの発想」「マイナス思考」をする子は不思議といないものです。「恥ずかしいからイヤだ」「できないからやらない」といったことはありますが、「自分は何をやってもダメな人間だ」「自分はいてもいなくても関係ない存在だ」といったことはまず考えません。したがって、「マイナス思考」「後ろ向きの発想」「くよくよ、ぐちぐちの言動」「心配を数えて生きる生活」といったものは生まれつきのものではなくて、いつの間にか「自分固有のパターン」として根を下ろしていったものであることが分かります。こうなると、マイナス思考人になっていった「原因」と「経緯」があり、それが「反復」によって強化・定着していったことがはっきりしてきます。

【コラム13】
楽天的な政治家(えてして「大ボラ吹き」と言われることになります)はいるものですが、中でも筆頭格は池田勇人元首相でしょう。彼が「所得倍増論」を打ち上げた時、誰も信じる者がいなかったと言います。それはそうでしょう、敗戦国家で焼け野原から出発した日本がいくら戦後復興の波に乗っているとはいえ、そこまでハイレベルな「高度経済成長」を実現できるとは誰も考えられなかったのです。ところが、池田の経済ブレーン「木曜会」に集まるメンバーはそうそうたるもので、在野の経済評論家として名高い高橋亀吉、「下村理論」で有名な下村治ら「七人の侍」がおり、その叡智を結集した政策を実行に移したのが池田だったのです。
ところで、実はこの池田の人生はとても順風満帆とは言えたものではなく、一高受験で2度落ち、やっと五高に入って京大法学部から大蔵省に入るも、これは決して主流派とは言えないコースでした。さらに彼はここで天然痘に似た奇病である皮膚病にかかり、医者から絶望を宣告されます。この看病疲れで、最初の妻は病死するほどで、見かねた母親が誘って四国八十八カ所の巡礼に出かけています。皮膚がボロボロのために草履がはけず、板を足に紐で結んで歩く状態で、大の男が母親に手を引かれてという有様でしたが、この難行による運動が効いたのか、発病して5年後に初めて風呂に入ることができるまでになります。やがて、完治し、2番目の妻と駆け落ち同然で上京し、税務署の用務員にでも雇ってもらえればいいと思っていたところ、大蔵省の課長の口利きで復職を果たしています。彼はその後もせいぜい国税課長を目指していたぐらいですが、戦後のレッド・パージで省内の地位が上がり、ついに事務次官から政界に打って出て、首相にまでなっていくのです。
政界に出てからも池田の失言癖は有名で、「中小企業の1つや2つつぶれても」「貧乏人は麦を食え」といった失言を繰り返していますが、これらは激昂して口走ったのではなく、彼自身の実感の中から生まれた言葉であったと言います(実際、資本主義市場経済の第一原則は「失業と破産による淘汰」にあり、「自己責任」の原則も当然重視されますから、池田の言葉には一理あります)。池田は知性的でも教養あふれるわけでもなく、都会人らしい繊細さもなかったようですが、素直に「オレは頭が悪いから助けてくれ」と言うので、周りの者は「それなら助けてやろうか」と思ったようです。そして、皆が知恵をふりしぼって案を練り上げると、池田は大真面目にそれを実行し、うまくいけば「どうだ、オレだってうまくできるだろう」と胸を張っているので、誰も彼を憎めなかったのです(そうでなければ、「知性の塊」のようなあの宮沢喜一元首相が池田のために粉骨砕身するなどということはなかったでしょう)。
実に「楽天主義」はその人の能力をはるかに超えて、「人の和」による大きな結果を生み出す秘訣なのです。

②「意識→発想→言動→生活」というパターンが人を作る

 医学でも「病因論」研究で、遺伝的要素に加えて、「生活パターン」が重視されるようになりました。例えば、がん患者なら、家系の中でがんにかかった人がいるかどうかも重視されますが、肺がんなら当然、喫煙の有無が問題となります。これがさらに拡大されていって、ある病気を引き起こす原因として、特有の生活パターンがあることが明らかになり、「生活習慣病」の概念が出てきたのです。
ところが、東洋では古来、「運命学」(元々、兵法学の頂点に位置付けられ、帝王が必ず学ぶべき「帝王学」とされていたもので、その末端に位置する技術的側面が「占い」です。「占い」は心理学の「タイプ論=性格類型学」から見てもおもしろいものがあり、深層心理学の大家ユングも東洋の易や西洋占星術に着目して「共時性(シンクロニシティ)」の理論を作り上げています)では、「運命が性格を作る」「性格が運命を作る」という考え方をしており、運命と性格との相関関係に注目していました。これを参考にすると、「成功者には成功者のパターンがある」「失敗者には失敗者のパターンがある」(成功・失敗、健康・病気、恋愛・失恋などといったものは、占いでは必ず出てくる「運命の要素」の一部ですね)ということになり、「性格」がその人の「言動」(言葉と行動)に「特有の傾向」を与え、言動がその人の「生活」の主要素を形作ることから、「性格→言動→生活」というパターンに注目すべし、という観点が出てきます。
それで「要は性格を変えればいいんだよ」ということになるのですが、10年、20年、30年と歳月を重ねて出来上がった性格なので、「自分固有のパターン」の反復・強化・定着は並々ならぬものがあるのです。それで、「自分のこのマイナス思考はどうにも変えられない」と思い込んでしまうのですが、本当にどうしようもないのでしょうか?実は「性格」の中で言葉・行動・生活に決定的に影響を与えるのが、意識(情念と言ってもよいでしょう)と発想(思考と言ってもよいでしょう)の2つです。したがって、性格の全てを根本的に変えることは困難としても、「意識の転換」と「発想の転換」に集中すれば、「新しいパターン」を創造し、それを反復・強化・定着させて「自分固有のパターン」にしていくことは決して不可能ではありません。

【コラム14】
簡単な心理ゲームで「自分」を少し探ってみましょう。思わぬ「自分」を発見するかもしれません。以下の順序で頭の中にイメージしてみて下さい。
①ずんずんと草原を歩いています。あ、1匹の動物が出てきました。何という動物ですか?
②またずんずんと草原を歩いています。あ、木が見えます。一体、何本見えますか?
③またずんずんと歩いていきます。あれ、また動物が見えます。何という動物ですか?
④またずんずんと歩いていきます。湖に出ました。ボートが1艘あります。向こう岸に行きたいのですが、ぐるっと湖を回っていきますか、それともボートに乗っていきますか?
⑤またずんずんと歩いていきます。あれ、家がありますよ。家の周りに塀があります。どのくらいの高さですか?
 どうでしたか。心理ゲームにはいろんなパターンがあり、これはほんの一例に過ぎません。参考までにそれぞれ何を意味しているのか、見ておきましょう(絶対的、固定的に考えてはいけません)。あくまでも「自分」を知るためのものなので、友達を試したりしてはいけません。
①最初の動物は「自分のイメージ」を表わします。「猿」だったり、「犬」だったりしますね。
②次の木の数は「自分が生涯出会うパートナーの数」とされます。「1本」「2本」という人が多いですが、「多すぎて数えられない」と答える人もいます。
③再び出てくる動物は「パートナーのイメージ」を表わします。誰ですか、「ライオンだった」と言っている人は!
④湖でのボートか回り道かの選択は「冒険派」(ボート)か「慎重派」(回り道)かを示しています。
⑤最後に出て来る家の塀の高さは「自分の心の壁」を表わします。「高すぎて中が見えない」という人もいれば、「普通の花壇の垣根ぐらい」という人もいます。

③「発想の転換」→「意識の転換」が一番現実的な方法

 情念の分野に属する「意識の転換」と思考の分野に属する「発想の転換」はどちらがより根元的かというと、当然、「意識の転換」の方になります(人間はやはり根本的には「知的存在」というより、「情的存在」なんですね)。したがって、いきなり「意識の転換」にアプローチするというよりも、「発想の転換」からアプローチしていって、「意識の転換」に至るといった順序の方が現実的で、困難がより少なくなります。深層心理学で言えば、「発想の転換」は「顕在意識(表層意識)の活用」、「意識の転換」は「潜在意識の活用」ということに相当します(深層心理学ではさらに「深層意識」、トランスパーソナル心理学などでは「宇宙意識」まで説いたりしますが、ここまで来ると、個人が日常的に工夫できる範囲を超えます)。
 では、「発想の転換」のカギは何にあるかというと、これは意外なようですが、「言葉のコントロール」にあるのです。ポイントは「遠隔操作」「間接操作」にあります。例えば、マラソンで坂道やラスト・スパートの時に「もっと足を上げろ」「もっと足を前に出せ」と言われても、疲れ切ってパンパンの足は思い通りに動くものではありません。こんな時、ランナーはどうしているのかというと、腕に意識を集中しているのです。腕を振ると、それに連動して足は動かざるを得ません。疲れ切った足を動かすには大変なエネルギーを要しますが、腕を振ることに集中することは疲れ切った中でも簡単にできます。あるいは、武道の基本である蹴りでは、よく「腰を入れよ」と注意されます。腰を入れないと蹴りに体重が乗らないため、スピードは速くても衝撃力が小さくなってしまうからですが、実際には「腰を入れよう、腰を入れよう」と意識しても、なかなかうまくいきません。実はポイントは「足首を返すこと」にあります。足首を相手側に向くように返すと、その動きに連動して腰が自動的に入って、蹴りの破壊力が段違いになるのです。こういったことは何にでもあるもので、もったいぶって伝えれば「奥義」「秘伝」となり、普通に言えば「ポイント」「コツ」となるわけです。東洋医学の「ツボ」なども「遠隔操作」の一例ですね。
 つまり、「自分の意志でコントロールできるもの」を使って、「自分の意志ではなかなか思い通りにならないもの」を「遠隔操作」「間接操作」する技術ということになりますが、これを応用して「言葉をコントロールすることによって発想の転換を図る」ということになります。そして、これが習慣化されてくると、新しい「情念のルート」が定着していくことになります。ここで注意しなければならないのは、「意識の転換」とはあくまで「新しい情念のルートを作り上げていくこと」であって、「元々の情念のルートを変換していくこと」ではないということです。これは麻薬患者のリハビリで明らかになっていることですが、いったん覚えた快楽の味は忘れられるわけではなく、長い中断期間があっても、再び麻薬をやり始めればその「情念のルート」に「同じ情念」が流れるというのです。つまり、いったん出来上がった「情念のルート」が時と共に無くなるわけではないということであり、仏教で言えば、「業」という世界を感じさせるところです(ここで「現実を直視する」「常に現状から出発する」という大原則をもう1度確認しておきましょう)。「新しい情念のルート」が「元々の情念のルート」の太さ・強さを上回った時、初めてそれが自分の「新しい性格」としてモノになるわけです。気長な話ですが、方法論ははっきりしていますので、あせらず、急がず、いい加減に、適当に続けていくことです。

【コラム15】
「朝のこない夜はない
私は親父の没落後、年少から青年期にかけて、いわゆる逆境の中を泳いできた。
そのときはつらいと思ったり、家をとび出してしまおうかと思ったり、いやだ、いやだ、と思ったこともある。しかし、一つの波(つまり逆境)を乗り越えて、それを振り返ってみたときが、人生の中でいちばん愉快なときである。自分自身の心の中でそう思うのでなく、そのときこそ生命の充実というか、ほんとうに生きがいを感ずるのだ。そしてまた次の波がきたら、よし、今度も立派に乗り越えて見せるぞ、朝のこない夜はないのだから…と思う気が出てくるのである。」(吉川英治)

④マイナス言葉を絶対に口にしない

 では、「言葉のコントロール」はどうすればいいのかという問題になりますが、これには大原則があって、「マイナス言葉は絶対に口にしない」ということが重要です(瞑想の本や成功術の本にはたいてい書いてあります)。なぜなら、マイナス言葉にはマイナス思考・マイナス情念が背景に必ずくっついているからで、本人にそのつもりが無くても、マイナス言葉を発することで、知らず知らずのうちにマイナス思考・マイナス情念が表面に引きずり出され、反復・強化・定着の作用をしてしまうからです。
 例えば、儒教倫理が非常に厳しい(最近はそうでもないようですが)韓国の教育学者によれば、子供の教育で「親に対する敬語」を絶対にしつけると言います。また、「昔は夫婦の間でも敬語を使っていた」とも言います。確かに「敬語」の背景には「敬意・尊敬心」という思考・情念がありますので、それが定着していると、家庭内暴力なども起きにくいというわけです。
 無意識的にマイナス言葉を発していると、「自分で自分をダメにする」という現実を知らなければならないわけですが、逆に意識的にプラス言葉を使っていると、そのプラス言葉が背景に持っているプラス思考・プラス情念が次第に啓発の役目を果たしてくれるのです。しかし、ここで気をつけなければならないのは、「メゲない」「落ち込まない」「負けない」といった言葉は自分に対する励ましどころか、逆にマイナス思考・情念を刷り込んでしまう危険性があるということです。これらは一見するとプラス言葉のようですが、実は「否定言語」であり、「メゲる+いや、そうしない」「落ち込む+いや、そうしない」「負ける+いや、そうしない」という言語構造になっているため、まず「メゲている」「落ち込んでいる」「負けている」という現状を強く根付かせた上で、それに立ち向かっていくという悲愴な心理構造を生むのです。そうではなく、最初から「努力する」「やる気満々」「勝つ」といったプラス言葉を使うべきなのです。
 これは身体動作にも及ぶことです。歩き方などでも、「猫背」のように背を丸めてうつむき加減でとぼとぼ歩くよりも、「虎歩」(虎のように胸を張って堂々と歩く)の方がいいに決まっています。呼吸もあせっている時、落ち着かない時は短く浅くなっており、落ち着いてリラックスしている時は長く深くなっていますので、呼吸を意識的に長くゆっくりにしていけば、それに連動して心が落ち着き、リラックスするようになります(「吐く息」がポイントになります)。ヨーガや太極拳などでも「呼吸」が重視されており、これは「呼吸のコントロール」による「心の遠隔操作・間接操作」とも言えます。

【コラム16】
ちなみに人の心を「つかむ」上で欠かせない「言葉」ともなり得るのが「名前」です。「名前」はその人を端的に表わすものであり、一番簡単な「アイデンティティ」と言ってもよく、「自分の名前を覚えてもらった」ということは、「相手の心・意識・記憶の中に自分が入った」「自分を受け入れてもらった」ことを意味するので、実に大きな意味を持つのです。
 例えば、教育実習にいった先生の卵達は、受け持ったクラスの名前を覚えるのに躍起になりますが、大体「顔」と「名前」が一致するのに2週間ぐらいかかるのが普通です(昔はこれで実習期間が終わっていました)。しかし、賢明な人は「最初が肝心」だと分かっていますから、前日までに写真と名簿を使って全ての生徒の名前をフルネームで覚えるのです。そして、第一日目の出席簿を読み上げる時に、1人1人フルネームで呼んで顔と名前を必死で一致させます。そして、一巡した後に、もう一度1人1人の顔を見ながら、ゆっくりフルネームを呼んでいくのです。すると、クラス全員を呼び終えた時、生徒はびっくりして「今、名前を呼んでいるうちに全部覚えたのか!」とその教育実習生に一目置くようになるのです。「この先生は何か違う」と。少なくともこの人が実習期間中にナメられるなどといったことは一切起きなくなるでしょう。
 あるいは大学の合同サークル合宿などで、初めてのメンバーが30人も40人も集まる場合の進行役の人が使う方法で、「自己紹介ゲーム」といったものもあります。これは一番最初に行うもので、皆に輪になって座ってもらい、1人1人名前をフルネームで言った上で自己紹介をしてもらうのですが、2人目の人は「織田信長さんの隣の豊臣秀吉です」といった風に紹介をするのがポイントです。3人目の人は「織田君の隣の豊臣君の隣の徳川家康です」という風に続きます(いずれも本名でやるんですよ、ここでは例で出しているだけです)。こうして10人くらいになると、皆、覚えきれなくなって、指で何度も手になぞったり、いろいろな努力をしてきますが、ここで進行さんが「ハイ、徳川家康君だよー!みんな、覚えたー?」とか「織田君の隣の、豊臣君の隣の、徳川君の隣のォ…」とか大きな声でサポートしてあげます。そして、30人なら30人、40人なら40人(これくらいが限度でしょう)、全員が一巡してやっと最後まで終わったら、最後の1人である進行さんが、「では自分の番ですね」と言って、「織田信長君の隣の、豊臣秀吉君の隣の、徳川家康君の隣の、・・・・○○です!」と全員の名前をフルネームで呼び上げて、最後に自己紹介をするのです。この瞬間、全員が「この自己紹介の間に全員の名前をフルネームで覚えたのか!」とビックリします。もう、この合宿期間中、進行さんの言うことを聞かない人は1人もいないでしょう。「この人は何か違う」と最初に思うからです。何のことはない、進行さんのやったことは前の日に名簿を手に入れて、必死に覚えただけなんですね。「名前を覚えただけ」で、何の特殊な技術も使っていません。簡単なことですが、まとめ役をする人にとってはありがたい、そして効果絶大の方法なのです。

⑤物事のプラス面を見つけ出す訓練をする

 どんな物事にも必ずプラス面とマイナス面の二重性があります。例えば、人が亡くなることは誰がどう見てもマイナスのようですが、葬儀屋さんにとってはプラスです。また、その悲しみを乗り越えて一人立ちし、精神的に強く深くなることができたとしたら、残された遺族にとってもプラスの面が出てきたと言えます。また、人に裏切られて傷ついた人は、人間関係に対する怯えや人間不信が芽生えてきますが、そういう人間の醜い部分に触れたという点では貴重な勉強をしたとも言えます。ここで重要なのは、こうした「物事のプラス面を見つけ出すこと」は自然にはできないということです。これは意識的に訓練しないとできないことで、自然な感情に任せていたら、当然、マイナス情念、マイナス思考のとりことなってしまいます。

【コラム17】
「自分を信じて、他人の否定的な言葉に絶対迷わされることが無かった。」(「成功の秘訣」を聞かれた自動車王フォードの答え)
「どんなことがあっても人生にイエスと言う。」(映画監督レニ・リーフェンシュタール、内戦が続くスーダンからの帰路でヘリコプターが撃墜され、重傷を負った病床で口にした言葉)
⑥「自分はダメだ」から「ダメな自分をどうするか」
 逆境の中で「自分はダメだ」と落ち込むことは自然な感情ですが、その感情に埋没して這い上がれないままずっとそこにとどまるか、「現実の直視」から始まって、「思考力」をめぐらせて、「ダメな自分をどうするか」考えるかで、その後が大きく分かれてきます(はたから見ればどちらも一緒の状況に見えますので、この違いは「心理」の違いです)。つまり、「逆境」が問題なのではなく、もっと言えば「環境」が最終的に問題になるのではなく、それに臨む自分の「心理構造」で幸福にも不幸にもなるということです。
 例えば、「お金さえあればなあ」と嘆いていた人が、ある日、突然、宝くじに当たって大金を手にしたところ、1年も経たないうちに皆使ってしまった(つまり、元に戻ってしまった)ということはよく起きています(遺産相続などでもよく見られます)。これは「お金がない」という「貧乏な環境」が問題なのではなく、「お金を作る力がない」という「貧弱な能力」の問題だったわけです。
大学受験でも本番が近づく12月くらいになると、「今から頑張っても行ける大学はたかが知れているから、もう1年頑張って、もっといい大学を目指そう」と思い始める人が出てきますが、これも同じです。「今、最善の努力を尽くせない人」は、1年経ったら別人のごとく変わるのかというと、そんなことはありません。バイトをしたり、友達と遊びに行ったり、あれこれ本を読んだりしているうち、あっという間に来年の12月になり、「1年前と同じ自分」がそこにいるのを発見します。結局、「心理構造」が変わらなければ、単に「時間」が増えても、本質的には同じ結果を生んでしまうということです。そのうち、大学受験そのものを断念してしまうというケースもよく起きています。3ヵ月なら3ヵ月という限られた期間で、情報を集め、思考をめぐらし、出来得る限りの努力を続け、出た結果に対して検討を重ね、その都度その都度で最善の選択をするようにしていく人ならば、時間が増えれば増えた分だけ良い結果が生まれることでしょう。今の自分がダメだとしたら、その解決を未来に先送りするのではなく、あくまでも「今」の問題として取り組むようにしないといけないのです。
したがって、どの分野・仕事でも「これじゃあダメだ」となれば、「じゃあ、一体どうすればいいのか」という問いかけが同時に出てくるようにする必要があるということです。

【コラム18】
「真に人間の名に値する人間を他から区別する本質的な特徴は、困難な逆境に耐え抜くことである。」
「苦悩を通しての歓喜。」
 以上はベートーベン(耳が不自由になり、貧乏や身内の問題に苦しみながら、数々の名曲を作曲して古典派音楽を完成させると共にロマン派音楽を確立し、「楽聖」と称えられました)の言葉ですが、彼はピアノ奏者モシュレスが手渡したオペラ「フィデリィオ」のピアノ用楽譜の最後のページの片隅に「神の助けによって、つつがなく演奏が終わるように」と書いてあるのを見て、すぐさま「神に頼るとは何たることだ。自らの力で自らを助けたまえ」と書き足したと言います。


第4章 劣等感を克服するための心理学

①コンプレックスは人間関係の中で生まれる

 「コンプレックス(complex)」という言葉は「劣等感(インフィリアリティ・コンプレックス)」だけを指しているのではなく、「優越感(シュピリアリティ・コンプレックス)」「エディプス・コンプレックス(娘の父親に対する思慕・愛着)」「エレクトラ・コンプレックス(息子の母親に対する思慕・愛着)」なども全て「コンプレックス」であるように、元々「潜在的な複合観念」を指しています(第3章③で言う情念のルートの「定着」は「潜在化」に他なりません)が、やはり問題となるのは「劣等感」でしょう。「自分は周りの人と比べて頭が悪い」「自分は中卒だから、高校中退だからダメなんだ」といった「学力コンプレックス」「学歴コンプレックス」はよく見られるところです。
 しかしながら、「いいな、鳥は空を飛べて」「岩がうらやましい」などとは普通の人はまず思わないように(詩人ならあるかもしれませんが)、コンプレックスは「対物関係」ではなく、あくまで「対人関係」の中で生じてくるものだということが分かります。つまり、「人間関係」の中で「比較」の結果、生じてくるものであり(例えば、「学力評価」の無い幼稚園・保育園ではそういう「比較」はなく、「学力コンプレックス」は生じようがないでしょう)、それが負けず嫌いに火をつけて「成功動機」となることもありますが、たいていはそのままにしておくと精神的成長の阻害要因となりかねないものなのです。
 したがって、「コンプレックスの悩み」というのは「人間関係の悩み」に他ならず、その克服は「人間関係上の工夫」にかかってきます。「人間」は「人の間」と書くように、人間にとって人間関係は本質に関わるものですので、ここで喜び・幸福感も生ずれば、悲しみ・不幸もまた生じてくるのです。これはどうしても取り組まざるを得ないテーマであると言えるでしょう。

【コラム19】
有名な経営コンサルタントの神田昌典氏(この人の著書は是非入手すべきです)によれば、いわゆるお金持ち、成功者と呼ばれる人達は強いコンプレックスの持ち主であったことが多いそうです。例えば、「子供時代、貧乏だった」「成績がよくなかった」等々ですが、逆にこういう人ほど「絶対見返してやる!」「絶対お金持ちになるんだ、成功してやるんだ!」という強い動機がバネとなって、実際にお金持ち、成功者になっている人が多いというのです。神田氏はこうした例をかんがみて、最初はこういう「マイナスの情念」を使った方がいいとまで言っています。それが最後までそのままなら、人間的にいただけませんが、成功すると今度は「心の修養」にシフトしていくわけです(したがって成功者の語る「成功哲学」には「心の修養」を説くものが多いのですが、これは成功したあかつきに必要になるのであって、これから成功しようと思っている人にはむしろマイナスになることすらあるというのです)。
 自らを「月見草」にたとえ、常に国民に愛され続けた長嶋茂雄氏にコンプレックスを抱き続けた野村克也氏は、「コンチクショウ、コンチクショウ」と言い続けて、とうとう王貞治氏に次ぐ日本で第二番目のホームラン王となって、この分野では長嶋氏を抜きさっています。ある意味ではコンプレックスの強い人ほど、成功のために必要なエネルギーを豊かに持っているとすら言えそうです。

②「自分を知ること」から全ては始まる

 生まれてからずっと「対人関係」は発達していきますが、「第2の誕生」とされる思春期においては、とりわけ自我意識が発達して、他人との「比較」も活発になり、自意識過剰・過敏にすらなっていきます。これ自体は正常なプロセスですが、ここで「自分」との折り合い(対自関係)をつけていかないと、「他人」との関係(対人関係)にも支障が出てきます。これは「他人の目で自分を見る」視点(相対的自己認識)から、「自分の目で自分を見る」視点(絶対的自己認識)への転換が必要だということです。これは第1章①の「現実を直視すること」を自分自身に向けるということであり、「自分を知ること」から全ては始まると言ってもよいでしょう。端的に言えば、「人は人、自分は自分だ」と言い切れるようにならないと、いつまでも周りの人間関係に左右され、振り回されてしまう自分から脱却できないということです。「自分を理解して欲しい、分かって欲しい、受け止めて欲しい」という強い欲求は、時として自他共に傷つける結果を生んでしまいますが、自分の最初の理解者、受け止め手に自分自身がならないといけないのです。

【コラム20】
<オーケストラ楽器別人間学:管楽器編>
 あなたはどんな楽器が性に合いますか?知的な関心と違い、「何が好きか」はその人の性格傾向を端的に物語ると言います。世にもユニークな茂木大輔氏の「楽器」に注目した人間観察に耳を傾けてみましょう。
①フルート~冷たさも軽みも備えた貴族的エリート。人当たりがよく、やや優柔不断。冷静で客観性を伴った学者肌の性格。ストレスが少なく、開放的で大変に口舌の達者な、頭の回転の速い人物を作り出す。忍耐強さ、長期的展望などは育たない。
②オーボエ~ストレスに苦しみ、くよくよと細かい?奏者から鷹揚さや余裕を奪い、常に緊迫したぎりぎりの場所で生きているかのような、切羽詰った雰囲気を与える。挑戦的な姿勢、皮肉なユーモアを与え、奏者は環境の変化に敏感で、怒りっぽく、細かいことに病的にまでうるさい性格になりがち。
③クラリネット~複雑さを秘めた万能選手。争いごとを嫌う性格、感情の安定を作り出す一方、他者との感情的な共感の持ちにくさを与える。奏者の性格に幅と余裕を与え、決して単純な性格にさせることはない。優越感とプライド、負けず嫌いの性格を作り出し、強い好奇心と素早い適応能力、ロマンティックな包容力、孤独を好む哲学的嗜好、深いコンプレックスとそれを隠そうとする本能を与え、開放的になりきれない部分を残させる。
④サクソフォン~一点こだわりナルシスト。全てを都合よく修正して考え、自己陶酔的なナルシズムの傾向があり、現実逃避を好む。一方、コントロールのきかない、きわめて野生的で粗野な一面を有しており、どこか垢抜けない印象を残す。総合的には楽観的で、ストレスの少ない、やさしい性格なので、大変付き合いやすい人間像と言ってよい。奏者を闊達、敏捷にし、余裕と現実への楽観を与え、夢見る世界に導くが、哲学的思考からは遠ざけ、視野の固定化、一点へのこだわりを余儀なくさせる。奏者同士の結束を強め、他に対するコンプレックスを育て、閉鎖的になる傾向がある。
⑤ホルン~忍耐強い寡黙の人。奏者の性格に幅と余裕、冷静さと内向性、強い意志力、若干のサディスト的傾向を与え、寡黙な、言葉をよく吟味してからでなくては発言しない姿勢をもたらす。また、単純なことも複雑に考えずにはおれないという、熟考癖のある人間になりやすい。
⑥トランペット~単純明快、やる気満々のエース。関心の対象がきわめて限定された、不器用な人間になりがちだが、常に限界に挑戦し続ける、あくなき探究心とチャレンジ精神を与える。対人関係においても無駄を嫌い、回り道を避けるストレートな性格を作り出し、強い自尊心も養う。
⑦トロンボーン~あけっぴろげな酒豪、いつも上機嫌。奏者を哲学的苦悩や闘争心から遠ざけ、人当たりのよい好人物、落ち着いた貫禄のある人物像へ導く。高い自己管理能力、アウトドア指向がある。
~『オーケストラ楽器別人間学』(茂木大輔、新潮文庫)より~

<オーケストラ楽器別人間学:弦楽器編>
①ヴァイオリン~陰影に富んだユニバーサルな人。奏者をそつのない、誰に接しても常に人当たりのいい、常識のある、安定した人格に導く。奏者は忍耐と客観性に長け、仮面をつけて集団に同化することのできる匿名性を身につけていく。
②ヴィオラ~しぶとく、しぶとく、「待ち」に強い。奏者に包容力、余裕、寛容といった人間的に愛すべき性格をもたらし、ややスロースターターな、自己充足的で幸福な人間に変化させる。やや大ざっぱで、競争心などの少ない、温和な性格。
③チェロ~包容力とバランス感覚に優れた、ゆらぎのない人間性。奏者を正々堂々たる、表裏のない誠実な性格に導く。
④コントラバス~泰然自若、唯我独尊。奏者に年齢不詳の奇妙な落ち着きと、もの静かな印象を与え、自己アピール、競争、独善などとは無縁の、きわめて余裕のある、健全で誠実で楽観的な精神状態に導く。
⑤ハープ~夢見がちな深窓の令嬢。奏者はおしなべて素直で、夢見るような性格になっていき、ストレスの少ない、ややのんびりとした、満ち足りた人間像へと導かれる。
~『オーケストラ楽器別人間学』(茂木大輔、新潮文庫)より~

③自分を大切にする人は他人も大切にする

 では、一体、自分の何を知ればいいのでしょうか。それは「自分の良さ」です。あまり、コンプレックスの固まりになってしまうと、「自分にいい所なんか1つもない!」などと悪い意味で開き直ってしまったりしますが、決してそんなことはありません。「どんな人にも必ず1つは取り柄がある」ものです。この延長上に「個性の発揮」「自己実現」というテーマが出てくるのですが、「自分の良さ」を見つけることは、第3章⑤で言う「物事のプラス面を見つける努力」を自分自身に向けるということに他なりません。なぜ、これが大事であるかというと、「自分の良さ」を発見しにくい人は、「他人の良さ」もまた発見しにくい人であるからです。逆に「自分の良さ」を見つける努力をしていくと、「他人の良さ」も見出せるようになり、そうすると「自分を大切にする人」となって、同時に「他人も大切にする人」となっていくことができるのです。
 ここで大切なことは、「自分を大切にする」ということは、「自分のやりたいようにやる」ということではないということです。この点で鋭い洞察を示したのが心理学者のエーリッヒ・フロムです。彼はナチスを受け入れていったドイツ民族の集団心理の分析でも卓抜したものを示しましたが、その一方で酒や麻薬、異性関係に溺れる人の心理構造に関して、彼らには「自分がかわいい」「自分の欲望のままに好きなように生きている」といった「自己愛の心理」どころか、その根底に「自己憎悪の心理」があることを見抜いて、世の人々をアッと言わせました。実際、こういう人々は、「分かっちゃいるけど止められない」(これこそ顕在意識・表層意識・理性では理解していても、潜在意識・情念の欲望に勝てないという状態です)状況にありますが、その根底には「こんな自分なんかどうなっていいんだ」という「自己憎悪」があるというのです。もしも自分を本当に大切にする気持ちがあれば、欲望に流されてダメになっていく自分をそのまま放っておけないはずですが、そこで投げやりになってしまっているわけです。

【コラム21】
ノーベル平和賞を受賞した有名なマザー・テレサはカトリックの修道女ですが、インドのスラム街で彼女がやったことは、行き倒れの人を近くにあったヒンズー教の大寺院にある長椅子の上に運び込み、介抱することでした。これに気づいたヒンズー教徒達は驚いて(それはそうでしょう、何しろヒンズー教の聖域に異教徒がどかどか入り込んで勝手なことをやっているのですから)、彼女を殺しかねない人もいたそうです。彼女は毅然として言いました、「どうぞ殺しなさい、私は天国に行きます。でも、私が死んだ後は、あなた方でこの施設をやってくだいさいね。」これが世界に衝撃を与えた「死を待つ人の家」の始まりとなりました。彼女の頭の中にはカトリックもヒンズー教も区別する気持ちはなかったのです。
 インドでは世間に見捨てられ、物乞いをして生き、誰からも知られることもなく路上で死んでいく人が無数にいます。マザー・テレサは、こうした放っておけばあと数時間で確実に死ぬような人をわざわざ連れてきて介護し、体を洗い、最期を看取るのです。「どうして数時間で死ぬような人に対して、お金も人材も場所も割くのですか。それを必要としている人に回せばもっとたくさんの人が救えるのではないですか」と疑問を持つ人もいますが、マザー・テレサには「人間にとって最も悲しむべきことは病気でも貧乏でもない、自分はこの世に不要な人間なのだと思い込むことだ」という確信がありました。そうした行き倒れの人達を丹念に洗い清め、散髪し、清潔な衣服に着替えさせて、温かいスープを口に運びながら、「あなたも私達と同じように、望まれてこの世に生まれて来た大切な人なのですよ」と手をしっかり握って話しかけるのです。すると、死ぬ寸前に初めて人間として認められ、大切にされて、涙を流しながら喜んで死んでいくというのです。
 マザー・テレサは1人1人に対してイエスに接するように仕えたといいます。彼女はよく「私はソーシャル・ワーカーではない」と言っていたそうですが、単なるボランティアをしていたという意識はありませんでした。彼女は自分に対する神の願いを知り、目前の1人1人に対しても同様に神の願いがあって、神がその人を愛していることを具体的に形にしようとしていたのです。マザー・テレサのような人生はなかなかできることではありませんが、彼女こそ自分も人も大切にした人物だと言えるでしょう。

④「取り柄を伸ばすこと」と「苦手をつぶすこと」の両立が肝心

 自分の良さ・取り柄・得手を見出し、それを伸ばしていくことは、コンプレックスの克服上、欠くことができませんが、ここで気をつけなければならないのは、それだけだといびつな性格になりかねないということです。マニアックな人に接した時に感じる異常感はこのために生じます(「天才と狂人は紙一重」というのはこの最極端形です)。取り柄を伸ばしていくことは個性の伸長でもありますが、同時に「苦手なこと」「やったことのないこと」にも取り組んでいくことが、性格のバランスを取る上で大切な要素となります。
 勉強で言えば、好きな科目にはけっこう時間もかけますが、苦手な科目はついつい遠ざかってしまいがちで、その偏りはますます助長されていってしまいます。本当は苦手な科目ほど時間をかけなければならないのです。例えば、英語はすごく好きだけど、数学は全然ダメだという人は、将来、英語を生かした仕事につくことも考えるでしょうが、数学にも苦手なりに取り組まないと、ただの「英語バカ」になりかねません。「専門家」(特定の分野において優れた技量・力量・識見を発揮する人)になることは重要ですが、「専門バカ」(特定の分野しか通用せず、それ以外の分野に関しては常識的理解も乏しい)はコミュニケーションにも支障を来たします。  試験のテクニックとしては、最後の最後に苦手科目を「切る」ということは当然ありますが、勉強の基本としては苦手科目から目をそらさないことも重要なのです。

【コラム22】
例えば、血液型によるタイプ別に英語の勉強法、あるいは強みの伸ばし方について論じた人に「英語界のご意見番」松本道弘氏(英語に真剣に取り組んだ人で、この人の本に触れていない人はいないでしょう)がいます。その著書『血液型英語上達法』(実日新書)によれば、次のように分析できるそうです。
 文法はマスターし、筆記試験にも強いのに、英会話をエンジョイできない人は真面目なA型に多い。A型は計画するのが大好きな完璧主義者で(O型なら計画通りにいかなくても平気だし、B型なら計画そのものが必要ない)、精読タイプ。
O型は短期決戦型で、速読派になる。O型は英語を武器にし、「英語バカ」も生まれるが、A型は英語そのものが目的化し、「道」を求め、「英語の鬼」が生まれる。ちなみに著名な英語学者の80%以上がA型である(O型はビジネス英語の達人になりやすい)。A型は「英語の勉強はコツコツせねばならない」という信念を捨て、O型的「度胸」やB型的「デタラメ」を学び、完璧主義から脱却することがカギとなる。
B型の英語にはリズムがあるとされ(ちなみにA型はハーモニー、O型はメロディーにたとえられる)、英語をやるとすぐ目立つ。B型は行動力があってジャーナリスティックで、帰納的発想をし(A型なら演繹的発想をする)、移り気であきっぽいが、着眼点がユニークで話題が豊富なので、話し相手として一番楽しいからである。複線型の水平思考や柔軟思考、逆転思考をするB型は、時事英語にも強く、編集に向く。O型の論理はストレートで、目的・方向性を持つと強く、一点集中型であり(何か国語もしゃべるというタイプはあまりいない)、ハッタリも得意で、パブリック・スピーキングに強い(A型はインプット人間であるのに対し、O型はアウトプット人間)。O型のカギは目的・方向性を持つことであり、問題意識を持ったO型は恐ろしい存在となる。 AB型には天才的な英語の使い手も現われ、何か国語も話せたり、音感的に素晴らしかったりする。AB型はクールな合理主義者であり、B型と共に海外生活に向くとされる。AB型の英語のリズムはO型のそれよりはるかにいいが、O型の議論に飛躍がないのに対し、AB型の議論には飛躍がある。

⑤「向上心」は自己変革の最大の原動力

 では、現時点では特にこれといった「取り柄」を持っていない、むしろ、これからそういう「取り柄」を持っていきたいという人は何を目指せばいいのかというと、誰でも持つことができて、きわめて有益なものが「向上心」です。能力は自分のモノにするにも時間がかかるでしょうが、「向上心」だけはゼロからスタートしても(元手ゼロでも)誰でも持つことができるものです。これは「より良い自分になりたい」という願望でもあり、これに第1章⑤の「忍耐力」と第1章②及び第4章⑥の「吸収力」が加われば、「発展型の性格」を作っていくことができるようになります。実は「こんな自分じゃダメだ!」という気持ちがある人(誰にでもあります)なら、そこから一歩踏み出して、「何とかしたい!」と思う気持ちがそのまま「向上心」なのです。これは最初は「小さい火」ですから、風雨の中でもそれを消さないように気をつけつつ(忍耐力)、時に燃料を注いでいけば(吸収力)、必ず火力が大きくなってくるのです(発展型の性格)。

【コラム23】
知情意という人間の精神の3つの主要機能の統合体が「人格(personality)」であり、それぞれの特徴や配分・組み合わせの傾向が「性格(character)」(したがって、個人個人におけるその違いは「個性(individuality)」と呼ばれることになります)ですので、「性格を変える方法」は大きく分けて「知的アプローチ」「情的アプローチ」「意的アプローチ」の3つがあることになります(巷にあふれる性格関連本はこれらがごっちゃになっているのです)。
「知的アプローチ」のキーワードは「意識」にありますが、第3章③で述べた内容がその基本原理です。
「情的アプローチ」のキーワードは「人間関係」にあり、この第4章でもその大切さを論じているところですが、性格形成上、決定的に重要な根源的人間関係は実は「家庭」にあります(政治思想家バークも「社会の中で我々が属している最小単位、すなわち家族を愛することが社会全体を愛するための第一歩である」と指摘しています)。ここでの基本的関係は「父と私」「母と私」「兄と私」「姉と私」「私と弟」「私と妹」の6種類です。これらが円満に豊かな関係であれば理想的になるのですが、実際にはいなかったり、いても関係が歪んだりしていたりするので、補ったり、修復する必要が出てくるのです。自分の家庭でそれが満たされないとすれば、社会的に「自分にとってお父さん的存在」「自分にとってお母さん的存在」「自分にとってお兄さん的存在」「自分にとってお姉さん的存在」「自分にとって弟的存在」「自分にとって妹的存在」の全てが必要となってきます。普通、社会的に関心の高い関係は「友人」と「恋人」でしょうが、性格形成上はこの6種類の基本的関係を豊かに育んでいく方がはるかに重要なのです。個人の段階でこうした基本的関係を築いている人は「友人」「恋人」との関係も理想的となり、結婚して夫婦となり、子どもを生んで父母となり、子どもが結婚して孫を産んで祖父母となるという家庭の段階も理想的になるというわけです。
「意的アプローチ」のキーワードは「経験」であり、この第4章④で述べていることが基本原理となります。

⑥「人から学ぶ」気持ちがあれば誰とでも合う

 人間関係においても、どんな人ともうまくやっていくコツというものがあります。それは「人から学ぶ」気持ちを持つことです。相手の話に関心を持ち、そこから何がしか学び取ろうとする時、相手はどんな人でも自分に好感を持ってくれるでしょう。別に話題が豊富でなくても、話すことが上手でなくても、「聞く」ことだけは誰でもできます。しかも、場合によっては30年かけて得たものを3時間で全てしゃべってくれることもあるでしょう。そうすると、自分が30年かけても決して経験できないような世界を、圧縮して吸収することができてしまうのです。「話し上手」よりも「聞き上手」の方が最後は絶対に発展していくのです(実はどんなに「しゃべり好き」の人でも自分の持っているものを吐き出しきってしまうと、カラになってしまいます)。「聞き上手」の人は一見すると目立たないし、派手でもないので、注目を浴びたい人、話を聞いてもらいたい人には物足りないかもしれませんが、実は末恐ろしい人なのです。「話し上手」になることは訓練も時間も必要で、簡単ではありませんが、「聞き上手」には誰でも今すぐにでもなれます。「人から学ぶ」気持ちを持てばいいのです。勉強でもゴルフでも自分なりにやる人はまず大成しません。最初は謙虚に人の言うことに耳を傾け、ひたすら学ぶことが一番の早道でしょう。

【コラム24】
新フロイト学派の才女カレン・ホーナイは、対人関係の特徴に関して次の3パターンに分類しています。
①自己否定・他者肯定型(対象志向)~追従型、他人中心的、依存、受容性、マゾ
②自己肯定・他者否定型(主体志向)~攻撃型、自己中心的、積極性、サド
③自他否定型(独立志向)~自他分断、自己孤立化、自立性、完全癖、冷淡、無関心
 人はいずれかのパターンに属しているとされ、これらの分類はエニアグラムと呼ばれる最先端の心理学で動的9タイプ論に結実していますが、ホーナイによれば理想形はいずれでもなく、当然ながら次の第4のパターンであるとされます。
④自他肯定型~基本的信頼感(自分も他人も信頼できる)


第5章 挫折感を克服するための心理学

①挫折感は「逃避」「代償」によっては癒せない

 いわゆる「挫折体験」は、無数の人生経験の中でも性格形成に影を落とすような「原体験」になりやすいものです。しかし、小さな子どもは無数の「失敗体験」を重ねながらも、それが必ずしも「挫折体験」となっていないことは注目に値するでしょう。初めての経験なら失敗することの方が自然で、子どもはその繰り返しの中からやがて「成功体験」をつかみ、今度は自信を重ねていくのです。つまり、「失敗」が「挫折」となるのは、ひとえにその人のとらえ方にかかってくるのだということです。
 しかし、ひとたび「失敗」が「挫折」としてとらえられるようになると、それは心の奥深くに根深く巣食うようになってしまい、再び挑戦することにためらいを感じさせたり、「また失敗するんじゃないか、また挫折するんじゃないか」というストレスからより安易な方向へ「逃避」したり、何かそれに代わるはけ口を求めて「代償」で満足を得ようとするような行動が生まれてきます。ここではっきり知らなければならないことは、「逃避」や「代償」ではいつまでたっても本質的な解決はなされないということです。

【コラム25】
マリリン・モンローと言えばどんなイメージを持つでしょうか。「セックス・シンボル」「白痴美」などとさんざん陰口を叩かれ、実際に男性遍歴も激しかったわけですが、彼女の伝記を見てみると、実にかわいそうな女性であったことが分かります。実は彼女が本当に求めていたのは「男性」ではなく、「父親」だったと言われています。自分の全てを受け止め、理解し、励まし、保護してくれる、そういう「父親」を知らず知らずにうちにパートナーに要求してしまっていたことに彼女の悲劇はありました。パートナー達は「男友達」として、「恋人」として、「夫」として彼女に接してきたわけですが、いつしか彼女の要求が重荷になり、その関係を続けていくことが困難になっていったのです。
 あるいはドラマの世界だけでなく、「妻子ある男性と不倫した女性に対して、不倫相手の男性がとうとう離婚を決意し、妻子を捨てて女性の元に走ったところ、今度は女性の側の気持ちが冷めてしまった」というような事態が実社会でも数多く起こっています。なぜ、そこまで犠牲を払ってその女性を選んだ男性に対して、愛情がパッタリと冷めてしまうのでしょうか。よく指摘されるのが、その男性が「父親」であることを捨て(妻子を捨てた)、一人の「男性」になった瞬間、女性の愛情が冷めてしまっているということです。実は、こうした女性の心理として、その男性を愛していたというよりは、自分でも知らないうちに「父親」を求めていたということが分かってくるのです。
 「代償」の恐ろしさは、それが「代償」であることに本人が気づいていないことにあります。本人が自覚している「自分の気持ち」と潜在意識・深層意識にある「本当の願望」との食い違いが思わぬ悲劇をもたらすのです。

②自分よりもっと悲惨な立場から這い上がってきた人がメンターとなる

 では、挫折感の克服はどうしたらなされるのでしょうか。ここでヒントになるのは、自分よりももっと大変な立場にありながら、それでも試行錯誤して這い上がってきた人の実体験です。例えば元々語学に関心があって、高校時代から英語のみならずフランス語・ドイツ語をかじり始め、大学時代にギリシア語・ラテン語を学んできたような人(こういうマルチリンガルはヨーロッパではゴロゴロいます)が、「いやー中国語は難しいね、最初はちんぷんかんぷんだったけど、半年くらいあれこれやっていたら大分分かるようになったよ」と言われても、全く参考にはならないでしょう。恐らく、「自分とは住んでる世界が違う人だ」と思うのが関の山でしょう。  ところが、中学校の英語もままならない人が「よし、医者になるんだ」と決意し、一生懸命辞書を引き引き勉強を始め、三浪してやっと国立大学医学部に合格したとしたら、「自分よりもできないような立場からよくそこまで行ったものだ」と感心し、「自分でもその人のやり方を真似すれば、そこまでは行けるんじゃないか」と自然に考えることでしょう。
 実はいつまでもどん底でもがき苦しんでいるだけではダメですが、試行錯誤の末、困難や課題を一つ一つ克服していって目標を達成・勝利していくと、自分がもがいていたレベルまでの人に対しては、共感をもって「うん、分かる、分かる、苦しいよね、大変だよね。でもそこでこうしてこうしてやっていけば、ここまでやっていけるんだよ」と教えてあげることができるわけです。したがって、自分と同じような課題、境遇、苦しみを抱えながら、そこから這い上がって克服、成功した人、これがメンター(指導教師)として最適な人物なのです。つまり、「自分なんて」から「こんな自分でもできるかも、やれるかも」と変わるきっかけは多くの場合、先駆けて同じ道を行った人によるのです。
ただ、気をつけないといけないのは、「自分でもできるかも」と思うのはスタートであって(一時的解放、希望の誕生)、実際にその如くなってみて初めて「ああ、本当にそうだ」と解放された自分になれる(全面的解放、希望の成就)ということです。ここまで来ると、「自分でも」から「自分しかできない」ことに気づくでしょう。それは、かつて自分が苦しんでいたような課題を持ち、挫折感にとらわれている人が自分の目に入ってくるからです。こうして「ナンバーワン志向」(弱肉強食、勝ち負け絶対主義)→「自分なんて」(挫折感)→「自分でも」(一時的解放、思考の転換)→「自分しか」(全面的解放、オンリーワン志向)という心理的プロセスが達成され、新しいタイプの「でも・しか」人間になれるのです(昔は「先生でもなるか」「先生しかなれない」という「デモシカ教師」という存在がいました。最近は教員採用試験が昔の司法試験並の倍率だったこともあるぐらいなので、「今は昔」の話となりましたが)。

【コラム26】
もっと身近な「メンター論」としては、「自分にとって必要なタイプはどんな人か」(当然、自分とは違う要素を持った人から学ぶこととなります)というテーマが挙げられます。これは総合的心理学として優れた内容を持つエニアグラムの「偏り」「囚われ」「解放」論が役に立つところです。ちなみに「第一の心理学」精神分析学は「マイナスからゼロへのアプローチ」、「第二の心理学」行動主義心理学は「動物としての人間観」、「第三の心理学」人間性心理学は「ゼロからプラスへのアプローチ」、「第四の心理学」トランスパーソナル心理学は「限りなく100を目指す超越論的アプローチ」がそれぞれ特徴とされますが、エニアグラムはこれらの後に続くものです。
①囚われの方向(放っておくとこの方向に流れやすく、「偏り」が助長されるということです)
タイプ8→5→7→1→4→2→8、タイプ3→9→6→3
②解放の方向(意識的にこの方向にシフトしていくと、「偏り」が克服されるということです)
タイプ8→2→4→1→7→5→8、タイプ3→6→9→3
<タイプ1の場合>
完全主義者型。「人生は完全であるべきだと思って」おり、「物事を完全に行なうために、懸命に努力する必要があると思っている」。「自分自身に対して批判的」「他の人も自分と同じように、物事を正すことに努力し、欠点を直すべきだと、期待をかける」。怒れば不完全な人間となってしまうので、怒りを抑圧するが、完全主義のために些細なことにも気を悪くし、他人の欠点に反感を抱くが、このように常に完全を期待するのは「自分が完全でなければ、他人に受け容れられないという考えをもって成長した」からだとされる。「人と楽しく交わるのが得意」「話していると、元気が出てくる相手でもある」「全ての人を公平に遇する」。「誰しもが真に人間として成長して欲しい」と願い、「そのためにはいくらでも友人達の力になろうとする」。人生を楽しむタイプ7の楽天主義に学び、過度の緊張をほぐすべし。
<タイプ2の場合>
無私奉公型、奉仕者型、尽くす人。「他人の必要を満たそうといつも一生懸命」「人々が彼らの助けを必要としない時、あるいは助けを拒む時は、心を落ち込ませる」「人のためにする事がない時、何もする事がない」。タイプ4の個性開発に学ぶべし。
<タイプ3の場合>
やり手ビジネスマン型、仕事人間。「彼らは仲間意識の強い人間である。明るいイメージを与え、人々を行動に誘う。人々は触発されて、真に価値あるものを目指して働いているのだということに満足感を味わう」「彼らは通常話し好きで、言葉がとぎれることを知らない。こういう人々は、そこにいるだけで他の人を活気づけ、楽しませるものだ」「自分の全人生を成功か否かという尺度で評価しようとする」「他人は仕事を達成するための道具、あるいは成功への飛び石としてしばしば利用される」「たいていいつも何か行動に駆り立てられている」「自分の個人的な、私生活の面を犠牲にする」「家族、親しい友人関係、そして文化的、情操的側面が軽んじられる」「周りの人々の苦しみや体験に気づかない」「人を歓待したり、自分の感情を独創的に表現したりする才能が放置される」。仕事上の失敗が人生全体の失敗のように受け取られて、心のゆとりを失ったり、成功に執着するあまり、自己中心的で、全体や他人に奉仕するという配慮が欠けがちになる。タイプ6の「忠実」に学ぶべし。
<タイプ4の場合>
芸術家型。自分を「他人とは大いに異なった人間であると、感じ」たがり、自分が人から理解されにくいと感じて引っ込み思案になりやすく、ありのままでは人に認められないと思って、「自分を明確に、かつ他人から際立ったものとして表現するために」、いつも「役者のように前もって稽古する」。「失ったチャンス、不幸な子ども時代、傷ついた経験、一人ぼっちで、他人から見捨てられたことなど」を絶えず思い出しては嘆き続け、こうした傾向はありのままの自分で愛され、大切にされたという経験の欠如から来るとされる。タイプ1の社会と戦う積極性を学ぶべし。
<タイプ5の場合>
知識志向型、学者型。「知識を求める。物事の全体像を見極めるために距離を置く。体系的に思考し、与えられた課題について、あらゆる角度から総合的に検討し、結論を引き出す」「様々な複雑さを秘めた現実を、そのまま快く受け容れる」「熟考し、内省することによって、つらくても意義深いこと、骨が折れても価値ある仕事を忍耐をもって成し遂げる」「他の人々は、浅薄な考えを持った人間ばかりだと考える」。物事を理解することによって、自分の心の中の空虚を満たそうとするだけで、他人と積極的に交わろうとしないのが欠点なので、タイプ8の積極性・自己主張に学ぶべし。
<タイプ6の場合>
真面目人間型、所属者型。「何事も自分以外の権威者によって決定される、という生き方を身につけて成長した」「何でも規則が要求することに従おうと心を配る」「彼らは何が正しいか、誤っているかの問題では、あいまいさを許さぬことが不可欠であると考えている。この必要を満たすために、制度、規則、文書といったものに救いを求める。このような権威者や規則に依存することなしに、決定を下す自信が持てないのである」「この人々にとっては、グループの規範が即自分の生き方なので、安心感を得るためには、何か特定のグループに属していることが必要である」。タイプ3とは正反対に主体性が欠けているので、タイプ9の何事も大したことではないとタカをくくる態度を学ぶべし。
<タイプ7の場合>
 享楽主義者型。「生きがいを感じるには、人生を楽しく面白く過ごせることが大切である。彼らにとって、自己実現は人生の楽しい時に達成される」「苦しみを避けるために、彼らは未来に何かしら楽しいことを計画している」「いくつも計画を立て、それだけでもう未来はバラ色だと思ってしまう」「苦労を伴う困難な仕事には、全力を投じようとせず、現実の苦しみから夢想の楽しみへと逃げ込む」「事が難しくなると、その実行を先に延ばす」「物事を遅らせ、時間内で仕上げないのが、ほとんどいつものこと」。タイプ5の熟考・内省に学ぶべし。
<タイプ8の場合>
 権力者型。「人生は力の争いであり、自分が第一人者の座にとどまっていたい」「偉そうにするものは誰でも引きずり下ろしてやりたい」「自分が強いことを誇りに思い、強い人を尊敬する。自分の強さに陶酔するあまり、妥協する人に対してはたちまち尊敬を失ってしまう」「人々のためなら、相手が誰であり、障害が何であれ、立ち上がるにやぶさかでない」「彼らは他人の拒絶を恐れない」「自分自身が満足のいくように行動し、自説を主張して譲らない」「他人の注目を集めずにはおかない、その能力は、社会やグループにとって極めて役に立つものである」「彼らは何をするにも熱情の人として、人々から敬服されている」。善悪両面においてスケールが大きく、内容は豊富だが方向性が悪に傾きがちなので、タイプ2(タイプ8の対極で、方向性は善だが、無内容になりがち)の奉仕的態度に学ぶべし。
<タイプ9の場合>
隠者型。「非常に意欲の乏しいレベルでしか人生を体験しておらず、緊張を避けることを第一としている」「人生には重要なことは何もないと自分に言い聞かせてきた」「彼らは表情や話し方が典型的に無気力で、単調」「彼らの振る舞いには相手を脅かすところがないので、人々は落ち着きと安らぎを得る」「どのような心配事を持ち込んでも、快く耳を傾け、…動じない」「彼らは家庭不和に悩む人々の調停役となり、・・・お互いに落ち着いて意見の相違について話し合うようにさせ、・・・気持ちよく和解させることにも長けている」。カウンセラー的適性があるが、「自己卑下という考えのとりこになっている」「自分自身に対する愛に欠け、自分が人として大切な存在であることに気づいていない」ので、成功と進歩を求めるタイプ3の社会の現実に対する自己主張を学ぶべし。

③人間関係で傷ついた人は人間関係によってしか癒されない

 これは「性格改造法」における「元返し」「やり直し」と呼ばれる方法です。「逃避」や「代償」では受けた傷(精神的外傷、トラウマ)を完治することができないとすれば、同じ立場を再現し、かつて失敗したのとは逆の道を行って引っくり返していくというわけです。心理療法でも催眠術を使って記憶を逆行させ、とうの昔に忘れ去って潜在意識の奥底に潜んでいるような所までさかのぼって、かつて満たされなかった思いを遂げさせる(幼少期に親に十分甘えられず過ごした人を催眠療法でさかのぼらせ、思いっきり甘えさせるというのもこうした手法です)という方法論があります。
 これは心理学的に「運命の反復」と呼ばれる現象を断ち切るためにも必要な手法です。児童虐待に走ってしまう親は、幼児期に児童虐待を受けていたことが多いことが知られています(元被害者が加害者に転化するわけです)。また、よく「ガンの家系」と言われたりもしますが、特定の病気に結びつきやすい生活習慣があり、その元になっている性格傾向は多分に遺伝されやすいということでもあります。あるいは両親が離婚を経験していると、子どもも離婚を経験する可能性が高くなるということや、離婚率が50%にも及ぶアメリカでも、現実には1度離婚した人が2度、3度離婚するケースが多いのであり、結婚したカップルの中では、終生添い遂げる比率の方が高いということなども「運命の反復」を物語っています。
 実際、完全に同じ状況を再現することは不可能ですが、意味的に同じ状況であることは可能です。試験で挫折した人は試験で成功すればリセットされます。例えば、高校入試で失敗した人も、大学入試で成功すれば問題はなくなります。高校で行き詰まって挫折した人も、大学で充実したキャンパスライフが送れれば、元返しされるのです。友人に裏切られて傷ついた人は、それ以上の友人関係を築くことによって人間不信から脱却できます。逆に結婚で失敗した人は、新たなパートナーとそれまで以上の関係を築くまでは、癒そうとしても癒しきれない傷を抱えたままなのです。人に最も深い傷を与えるものは人間関係に他なりませんが(「逆もまた真なり」で、最も幸福感を与えるのも人間関係です)、この人間関係から「逃避」することなく、「代償」でごまかすことなく、かつて失敗し、挫折したのとは逆の道を行って(したがって、まず「失敗の原因」「挫折の原因」を直視しなければなりませんが、これは第1章①の「現実の直視」、第4章②の「自己分析」に他なりません)、「元返し」「やり直し」に取り組むこと、これが重要なポイントなのです。

【コラム27】
「運命心理学」「運命分析学」を創始したリポット・ソンディはケース・スタディとして、ドストエフスキーの分析を行っています。それによると、ドストエフスキーがこれほどまでに迫真に満ちた殺人者の心理を描けるのは、過去に殺人を行っているからだと思い、その経歴を徹底的に調査したところ、一切そのような事実は出てこなかったそうです。そこでソンディにひらめいたのは、「そうだ、先祖に凶悪な殺人者がいて、その遺伝子が彼に殺人の欲求を生じさせ、小説の形でその欲求を実行させているのだ。もし、ドストエフスキーに文才が無かったら、彼はその欲求のはけ口を見出すことができず、きっと実際に人を殺したに違いない」ということでした。実際、ドストエフスキーの先祖には聖職者(17世紀中頃のドストエフスキー家の家族の大部分は牧師、聖職者になっています)と殺人者(4人の殺人者を含めた6人の犯罪者が見出されます)の両方がおり、彼はいずれの血も色濃く引いていたといいます。ただ、ドストエフスキーは「小説」という手段を持っており、その中で「昇華」することができたため、実際に殺人を犯すことなく済んだというのです。実際、ドストエフスキーの小説には必ずといっていいほど殺人者と心の清い信仰者が登場し、まるでドストエフスキーの内面の如く、激しい葛藤を生じていくのです。つまり、ドストエフスキーは内面の情念に沸き起こる「運命の反復」に対して、「小説」という「自己表現の場」で「元返し」「やり直し」の作業を繰り返し、「昇華」することに成功して、実生活での破綻(実際上の「運命の反復」)を免れたとも考えられるのです。

④ワンランクアップの逆攻略作戦

 「挫折感」を助長するものとして、「現実的不可能性の自覚」(第1章④で述べているように、「現実的可能性の自覚」が「希望」の出発点としたら、これは「絶望」の出発点となります)があります。これは取り組む前から「挫折」を招くものでもありますから、何らかの「予防措置」が必要になってくるでしょう。例えば、「私は英語が苦手だ」→「英文をスラスラ読めないどころか、文法の知識も怪しい」→「英語をイチから始めるとしたら単語だ」→「まず3000語覚えればいいのか」→「1日10個ずつ覚えていこう」→(このままやり続ければ100日後に3000語を一巡しますが、その頃には最初に覚えた単語のほとんどは忘れているでしょう)→「10日ぐらい続けたが、なかなか苦しいな。ちょっとひと休みしよう」。ハイ、これで「挫折のサイクル」完了です。英語の勉強に挫折した哀れな屍がまた1つ増えました。時を経て、再び「やっぱり英語をやらなくちゃ」と思い立った時、やはり同じような思考のサイクルを経て、再び屍を1つ増やすことでしょう。これを何回か重ねていくと、「挫折感」が定着し、場合によっては「恐怖感」にすらなってしまいかねません。「ボクは英語はキライだ。フランス語なら興味がある」とうそぶく人もいますが、それはこの「挫折感」「恐怖感」が攻撃に転じたに過ぎません。では、どうしたらいいのでしょうか。この場合、今の自分の現実から出発して英語を「見上げて」いる限りは、「自分に英語ができるようになるんだろうか」という先取り的な挫折感、恐怖感から永遠に逃れることはできません。実は英語を「見下ろさなければ解決はできない」のです。このために必要な「逆転の発想」が「ワンランクアップの逆攻略」作戦です。
 「英語を克服したければラテン語をやるといい」「ドイツ語、フランス語を学べば英語はよく分かる」と言われたらどうでしょうか。「英語もできないのに、第二、第三の外国語なんてできるわけがない」と思うのが普通でしょう。ところが、「英語の名人・達人」と呼ばれる人は実にラテン語を学んでいることが多いのです。また、「外国語は3つ目当たりからよく分かるようになる」ともよく言われます。これは通時的・歴史的理解(日本語だって、誰もが中学校で「外国語」と言ってもいい古文・漢文を学んでいるではないですか)、共時的・比較言語学的理解(日本人で韓国語を学んだ人は誰でもその「文法の共通性」にビックリし、両者が「兄弟言語」であることに深く関心を持つようになります)からしても、妥当なことなのです。着実に今いる所から一歩一歩現実的に進めていくことも必要ですが、逆に数段階上の立場にアプローチし、そこから立ち返って逆攻略するという方法も必要なのです。これは「現実から未来を見る(あるいは規定する)」方法に対して、「未来から現実を見る」方法であるとも言えるでしょう。
 予備校の中でも東大コース、京大コースといった選抜コースに入っている生徒達は、高い目標を「見上げて」頑張っているわけですが、先生の中には「東大・京大のレベルに合わせて答案を書いてあげなさい」という指導をする人がいます。これは「見下ろしなさい」(「見下げなさい」はありません)という心理上の転換を要求しているわけです。人間関係でも同世代の友人ばかりでなく、上の世代との交流を活発にすると、人の見方、ものの見方が変わってくるのも同じ理由によります。

【コラム28】
「未来」から逆に見るという発想はなかなか難しいものですが、その典型が「結婚」でしょう。普通、男女が結婚するのは、付き合ってみて「この人なら結婚してもいいかな」と思うからですが、その根拠はわずか数年の付き合いという「過去の経緯」です。実際には、結婚してから離婚の危機が訪れやすくなるのは「子どもが生まれてから」です。ここで「男女」が「夫婦」になり、「父母」となって、二人は「共同経営者」として「家庭」という共同体を経営していかなければならなくなったようなものであり、「恋人」時代とは状況が一変してしまうといっても過言ではありません。実はお父さんはCEO(最高経営責任者)、お母さんはCFO(最高財務責任者)のようなもので、収入と支出のマネジメント、内部教育(子どもの教育)など、まさに小なりといえども会社の経営のような手腕が必要とされます(マネジメントに失敗すれば「破綻」します)。会社なら「共同経営者」を単に「気が合うから」「仲のいい友達だから」という理由で選んだりはしないでしょう。ところが、「結婚」になるとこういう観点はほとんど出なくなるんですね。

⑤「してもらってうれしかったことは+αして人にもしてあげる」+「されて悲しかったこと、してもらえなくて悲しかったことは絶対に人にしない」の2原則が人間関係を劇的に変えていく

 実際に人間関係でひどい目に会い、傷つき、挫折した人は多くいますが、どんな大変な立場を通過した人でも、必ずといっていいほど人間関係を劇的に変えていく方法が「してもらってうれしかったことは+αして人にもしてあげる」+「されて悲しかったこと、してもらえなくて悲しかったことは絶対に人にしない」という2大原則です。傷ついた経験がある人ほど、人の優しさに敏感ですが、「あの時、自分の話をうんうんと聞いてくれてすごくうれしかった」とか、「この人だけが自分の良さを認めてくれた」といった体験を少なからず持っているものです。これは宝物と言ってもいいものですが、これをそのままにしていてはいけません。そうしてもらったうれしさ、ありがたさを分かっているわけですから、自分も他の人に対して同じようにしてあげるのです。しかも、自分なりの工夫として「+α」を加えていった上です。そして、逆に「あの時、こんなことをされて自分は本当に傷ついた」「こうして欲しかったのに誰もそうしてくれなかった」といった体験もたくさんあることでしょうが、これを絶対に人に向けてはいけません。「自分もこんな目にあったんだから、人にも」という発想は「復讐の心理」であり、復讐が復讐を呼んで繁殖していくことになります。ここで重要なことは「私が味わったような思いは私の所で終わらせる」「自分の所で悪い流れは断ち切る」という強い決意なのです。家族関係で悲惨な思いを味わった人も、友人関係で裏切られた人も、恋人関係で傷ついた人も、「この私(他の誰かではありません)を人間関係の転換点とする」と思い切れた時から、人間関係は変わり始めるのです。具体的にこの2原則を実行していくと、時間はかかりますが、人間関係は劇的に変わっていきます。誰かが自分を頼りにするようになり、誰かのために「必要とされる自分」に喜びを感じるようになった時、「うらみつらみ」や「くよくよ」からなかなか脱却できなかった段階を一つ超えたことを感じるでしょう。

【コラム29】
「自分は誰からも理解されていない」という言葉はよく聞きますが、シビアに言えば、こういう人は「誰も本当に理解したことがない」人だとも言えます。「追いかけると逃げていくが、どうでもいいやと思うと寄ってくる」(まるで恋愛みたいですね)という逆説のごとく、「理解されたい、理解されたい」と思い続けていると全然理解してもらえないものですが、「自分のことはもうどうでもいいや。それより他の人を理解できるような自分になろう」と開き直って努力していると、不思議なことに自分を実によく理解してくれる存在にめぐりあったりするものです。これも「人間関係の妙」といったものなのでしょう。
 また、「人脈が次から次へと広がる人」と「人間関係が行き詰まる人」は一見似たような感性を持っていますが、その内実は正反対と言ってもよいでしょう。似ているのは「相手の目に自分がどう映っているか」に関心を持つ所から始まって、「他の人の心の動き」に敏感であるという所ですが、前者は「自分が語る一言が相手の心にどんな波紋を呼んでいるか」を感じ取ろうとしており、後者は「相手が自分に対してどう思っているか」に対してアンテナを張り巡らしています。この2つの違いははっきり区別しなければなりません。

⑥「内なる声」は実は何でも知っている

 これは心理学的には「直観」、哲学的には「良心」、神学的には「内なる神」と言う所でしょう。不思議なもので、何でも「最初に心で思ったこと」「心の第一声」が意外に自分にとって必要なものを突いている場合が多いのです。「学校に通って勉強すべきだ」「英字新聞を読んでみよう」「思い切ってバイトをやめて大学を目指そう」などと、ある情報に触れた時、パッと思ったりするのですが、時間と共に理性が働いてあれこれ「言い訳」をこねくり始め、最初に浮かんだことをすぐに実行に移さない理由を「正当化」していくことが始まります。「別に今じゃなくてもいいじゃないか、もう少し考えてからにしたら」「いきなり英字新聞なんか読めるわけがないじゃない」「バイト先に迷惑もかかるし、しばらく仕事は続けながら、受験勉強もやったらいいんじゃない」などと、次々に最初の決意(アイデア)を骨抜きにかかってきます。なぜかというと、人間はついつい「昨日と同じ今日、今日と同じ明日」を望む存在で、新たな決断をしてそれまでの生活の流れを変え、新しい生活を出発させていくことをなるべく先送りにしたい心理が働きやすいからです。ところが、答えはすでに出ているのです。先入観や偏見、浅知恵など抜きに、真っ先に心が反応したのは「やってみよう、踏み切ってみよう」という答えだったはずです。「自分に正直に生きる」ということは実はこの「直観的感性」「良心の声」「内なる啓示」に従うということで、その障害は外にあるのではなく、本当は内にあるのです。だから、「自分にウソをつかない」ということが大変なことだということがよく分かりますね。しかしながら、「自分に正直に生きる道」「自分にウソをつかない道」を行った時のみ後悔がなく、心から「納得」がいくのであるということも、実は「心では分かっている」のです。

【コラム30】
カトリック作家の遠藤周作氏がカウンセリングに関して、ユング心理学の大家河合隼雄氏にかみついたことがあります。遠藤氏が言うのは「神ならぬ人が他の人の行くべき道をどうこうするなんて傲慢だ」ということで、これに対して河合氏は「いや、そうじゃありません。カウンセリングの基本はただ聞くことなんです」といった意味のことを答えています。つまり、ふんふんとずっと聞いていると、クライアント(相談者)の方から「こうなんです、ああなんです、でも結局こうしないといけないんですよねえ、分かっているんですよ、でもですね・・・」と言ってきたりするわけですが、実は「どうすべきか」という答えそのものはクライアント自体が分かっているというのです(無意識的であれ)。ずっと話を聞いているとそれが引き出されてきて、クライアントは「自分の口から出る言葉にカウンセリングされる」わけです。優れたカウンセラーは必ずしも雄弁ではなく、むしろ訥弁であることが多いのも実はこういうわけなんですね。
 どんな困った状況、逃げ出したくなる状況の中でも必ず「答え」があるわけですが、その「答え」は他でもない、自分自身の心の奥底にあるというのです。やはり、心を静めて、その「第一声」に耳を傾けてみるべきですね。




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