進路アドバイス:学部選択~医学部


 医者になるためには医学部で6年間学び、医師国家試験に合格しなければなりませんが、この一連のルートの中で特徴がいくつかあり、それが必然的に医学部受験に影響を及ぼしています。


【医師への道は「入口勝負」】

 理系で最も難しい道が「医師」への道であるとしたら、文系で最も難しい道が「弁護士」への道であると言えるかもしれませんが(ちなみに西洋では昔から「3人の友人が必要だ。1人は医者、もう1人は弁護士、そして最後の1人が宗教家だ」ということわざがまことしやかに語られてきました)、この2つの道はある意味で対照的であったとも言えます。

 法学部を出たからといって弁護士になれるとは全く限らない(旧司法試験の場合、合格率は2~3%)のに対し、医師国家試験の合格率は100%の大学もあれば、90%以上もザラ、悪くても80%以上あるのが普通です。つまり、弁護士になるには法学部に入ればいいのではなく、それはあくまで必要条件の1つにすぎず、十分条件として予備校に通うことが不可欠だったわけです。つまり、弁護士への道は「出口勝負」だったと言えるでしょう(ロー・スクールが出来たので、これは「入口勝負」へのシフトとも言えます)。ところが、医学部を出ればほとんど医師国家試験に合格しているわけですから、これは典型的な「入口勝負」であり、「入った者勝ち」と言えるのです。したがって、医学部受験が激烈になるのもこうした受験システムの現状からして止むを得ないことと言えるでしょう。


【「学力」を取るか「学費」を取るかの選択】

 国公立大学医学部と私立大学医学部の最大の違いは「学費」にあります。国公立大学医学部だと初年度約80万円で、2年目以降は約50万円であり、異常なまでの「格安」です。6年間で約350万円といったところでしょう。一部値上げした大学もありますが、それでも6年間で約400万円です。ところが、私立大学の場合、一番安い部類の慶應義塾大学医学部でも初年度380万円、6年間で2,200万円かかり、他の大学では年間平均500万円で、6年間だと安くても2,000万円から3,000万円もかかってしまいます(高い所では4,500万円を超えます)。一般的に私立大学医学部の平均的な学費は国公立大学の5倍以上です。これでは国公立大学に志望が集中するのもうなずけるところです。結果として地方国立大学医学部は東京大学理Ⅲ以外に匹敵するという認識が出て来ました。もちろん、科目や傾向の違い、得点率、求められている人物像の違いがあり、単純比較はできないのですが、学力だけ見れば、「地方国立大学医学部を狙えるよ」=「東大に入れるよ」ということであり、逆に東大に入れる学力が無ければ地方国立大学医学部には入れないということです。

 国公立大学は共通テストで「5教科7科目」を受け、2次試験で英語、数学ⅠA・ⅡB・Ⅲ、理科2科目を受けて総合点で合否が決まりますので、文系科目(国語=現代文・古文・漢文、社会)でもそれなりに高得点を取らねばならず、総合的な「高学力」が要求されます。これに対して私立大学は英語、数学ⅠA・ⅡB・Ⅲ、理科2科目が普通なので、科目の負担は国公立大学に比べれば軽減されます。したがって、「高学費対応力」が無ければ、総合的な学力を培って地方国立大学医学部(あるいは公立医科大学)を目指し、「総合的高学力」が無ければ私立大学医学部を目指すという「究極の選択」が迫られるのです。


【人物評価の比重】

 従来は「理系で最も優秀な人」が医学部を目指すというのが定番でしたが、最近になって、相次ぐ医療過誤のみならず、基本的なコミュニケーションや患者本位の言動の下手な医師への批判が相次ぎ、「面接」「小論文」といった形式での「人物評価」の比重が高まってきています(ちなみに犯罪者は医師国家試験に限らず、あらゆる国家試験の受験資格を剥奪されます)。対策として「新聞」(読売、朝日など)を読むことはもちろん、「時事本」や『ニュートン』『日経サイエンス』などで最新の医学・科学情報を入手しておく必要があるでしょう。

 また、『子どもを医学部に現役合格させる法』(鳥羽淡海、エール出版~ちなみにいわゆる「合格本」は必須アイテムです)によれば、京都大学医学部を中退し、その後の再受験でセンター試験では800点満点中758点(得点率94.7%)、あるいは800点満点中728点(得点率91%)を取り、群馬大学の2次試験で数学も満点近く取り、英語も良くできたにもかかわらず、面接で「どうせウチに入っても、また、やめるんだろ!」と厳しく詰問され、不合格になったケースが紹介されています(その後、再びセンター試験で800点満点中758点を取って、面接のない東大理Ⅲ前期試験に合格)。要は学力的に東大理Ⅲ(これは日本における大学受験の最難関です)に合格する力があるような人でも、バシバシ面接で落とされる時代になってきたということです。


【生物という選択】

 元々、理系最優秀者が医学部受験するため、理科2科目は「物理」「化学」を選択するのが普通でした。理学部受験生なども同じ科目で受験できるため、あわよくばの医学部併願をよくしていたわけです。ところが、医学の基本は解剖生理学ですが、これは生物の延長とも言えるので、「生物」を全く学ばないで医学部に入学してくることに対して根強い批判があります。また、「物理をマスターするのに要する時間は、化学と生物をマスターする時間に匹敵する」とされますので、「化学・生物パターン」が医学部受験生にプラス効果をもたらすという指摘がされています。


【「心の健康」とQOL (生命・生活の質)の重視】

「健康とは、ただ疾病や障害がないだけでなく、身体的、精神的ならびに社会的に完全に快適な状態である。到達しうる健康の最高の水準を享受することは、人種、宗教、政治的信条、経済的あるいは社会的条件にかかわりなく、人間の基本的権利の1つである。」(WHO憲章前文)

 現代医療はもともと唯物的傾向が強く、特に西洋医学には分析的還元的(患部は切る、焼く。強い薬を使用した場合、副作用も大きい)な側面があることが否めませんが、こうした物質的な「体の健康」から精神的な「心の健康」への配慮が現われてきています。これは「QOLの重視」を基本にしており、医療の現場でのインフォ-ムド・コンセント(説明と同意)などに見られる患者の自己決定権の尊重、タ-ミナル・ケア(終末期医療)における死生観の尊重など、多様な場面で見られるようになってきた観点です。あるいは戦後医学はひたすら「長寿への挑戦」をしてきたわけですが、世界最長寿国となった今、今度は「平均寿命」から「寿命の質」を伴った「成功長寿」が目標とされ、「豊かな長寿への挑戦」が叫ばれています。


【生活習慣病と予防医学】

 例えば、戦後一貫して増え続け、日本人の死因の第1位を占める、がんの対策として「予防」が注目されています。いわゆる「早期発見」(2次予防)では、国の老人保健事業でがん検診に毎年約1,000億円が注ぎ込まれ、年間約2,300万人が受診していのが現状です。しかし、がん対策先進国の米国では、最近、「1次予防」の威力が再認識されており、1992~1998年のがん発生率が史上初めて減少に転じたと発表され、「禁煙教育を徹底し、喫煙率を下げたことが主因」と分析されています。「1次予防」には、禁煙、バランスの取れた食事、ウイルス感染や紫外線を避けるなど、発がん関連の要因を避ける対策が含まれており、「1次予防が治療にまさる」例として、「経済効果」(がん発病を遅らせれば、その間の労働による生産額が伸びるため、予防・検査費用を差し引いても経済的に大きなプラスになるとされる)があることも指摘されています。こうした「予防医学」の対象として浮かび上がってくるのが、「生活習慣病」(心臓病、高血圧症、糖尿病、動脈硬化など、生活の乱れや悪い生活習慣を続けていることによって引き起こされる病気の総称)であり、食習慣(過食・偏食)、運動不足、ストレス、喫煙、飲酒の5つがその大きな要因として挙げられています。

 また、最近、注目されている考え方に「セルフ・メディケーション」(直訳は「自己治癒」ですが、意味は「養生」に近いと言えます)があります。例えば、生活習慣病の予防や治療に自己管理は欠かせず、日頃から自分の身体をよく知り、医師や薬剤師と緊密に連携していくことが大切ですが、医療側は適切な情報を提供し、消費者は正しい知識を持って、自己責任で薬や治療法、食品などを選んでいく必要があるのです。さらに米国で1935年に設立されたアルコール依存症者の会「アルコホーリクス・アノニマス(AA)」を先駆けとする「セルフ・ヘルプ・グループ」の存在がありますが、これらは「自助グループ」とも呼ばれ、本人や家族同士による支え合う会ですが、病気の患者会にとどまらず、不登校や引きこもり、女性の生き方といった様々な会があります。


【西洋医学と東洋医学】

 日本ホリスティック医学協会会長の帯津良一医師によれば、食道がんの専門医として活躍していた頃、きっちりがんを取り除いたはずの多くの患者さんが再発して戻って来ており、古い米国の論文を調べてみたら、治療成績は50年前とあまり変わっていないことを知って愕然としたといいます。帯津医師は「がんの治療は近代西洋医学だけでは何か足りないのではないか」という疑問を抱き始め、中国の食道がんの専門医の論文を読んだら、治療成績が自分よりもはるかにいいので、北京まで先生に会いに行ったところ、衝撃を受けたそうです。そこでは2、3週間前から患者さんに気功をさせており、気功で心身がリラックスすると体内のバランスが改善され、針麻酔が良く効き、再発予防にも役立つというわけです。

 帯津医師によれば、「臓器は他の臓器と様々につながっており、臓器1つ1つを治療してきたわけだが、人間というものは本当は全体として診なければいけないんじゃないか」と自問自答をしていて、その方法を目の前で見せられたという感じだったそうです。かくして西洋医学と中国医学を合わせた気功道場付きの病院を作り、外科や内科の現代医療に加えて、気功と食餌療法、漢方薬を治療の基本にしたというのです。

 こうした「東洋医学」「漢方医学」への見直しは、アトピー治療などでも注目されており、「代替医療」への関心の高まりと共に新しい潮流を築きつつあると言えるでしょう。


【米国の医学教育】

 日本に「患者中心の医療」が根付かないのは、「医局講座制度」(大学医学部の臨床教室が、診療担当部門としての医局と、教育・研究部門である講座の両方の機能を担っている制度)に原因があるとされます。その長となる教授を選ぶ際の基準が論文数など研究業績に偏重しているために、診療や教育の能力に劣る人が教授になることは珍しくなく、さらに医学部教授は大学外の病院への医師の派遣という分野でも実質的人事権を握っているためです。こうした制度の下では質の良い医師が育ちにくいだけではなく、患者の顔色よりも教授の顔色をうかがうことの方が重要になり、歪んだ価値観に染まった医師が拡大再生産されるという批判がされています。

 実際、日本では卒業後の研修先として、大学病院や一般病院などの選択肢がありますが、多くの医学生は自分の出身の大学病院に進路を取ります。これは医局講座制度のおかげで、研修ばかりか、アルバイト先の斡旋、就職先の紹介まで、医師としての将来を保証してくれるからに他なりません。これに対して、米国では卒業を控えた4年生は、自分の専門の科を決定すると、希望する複数の全米の研修病院に履歴書、推薦状、試験成績、自己紹介のエッセイなどを提出します。競争率の高い、厳しい書類審査から面接を経て、自分の希望順位をつけたリストを作る一方、病院側も希望する順に学生のリストを作り、それらを非営利の第三者機関(NRMP)に送り、最適の組み合わせ(マッチング)がコンピュータで行われるのです。こうして研修先が1つだけ決定するのであり、これは全米の医学生にとって最大のイベントの日となるので、「マッチング・デー」と呼ばれています。

 米国では最善の研修病院を見つけるためにも向学心を絶やしませんが、これは医師としてのキャリアは日本と異なり、卒業大学よりもどの病院で研修を受けたかが重要視されるからです。いわゆる「学閥」という概念は存在しないと言います。逆に各研修病院も優秀な医学生に来てもらうために、研修プログラムの充実を怠らず、常に競争原理が働いているのです。例えば、ある研修病院では、「医者は五者でなければならない」として、プロの医師としての必須要件を次のように指導しているそうです。


①学者=科学的に正しい医療が提供できなければならない。

②教育者=疾患と治療に対し、患者が理解することを助けなければならない。

③役者=必要とあれば、患者を相手に怒ったり、悲しんだりしなければならない。

④芸者=ややもすると落ち込む患者の気持ちを明るくしなければならない。

⑤易者=患者の病気について、その将来を正確に見立てなければならない。


 また、米国では1960年代に、細分化し、科学的色彩を強める医療への懸念から、「全人的医療」とそれを担う医師教育を望む提言がなされており、提言には医師でない有識者が大きな役割を果たしたと言います。日本においても、これは示唆的であると言えるでしょう。


【米国の医療過誤訴訟】

 米国では、「医療過誤」とは「医療側がルールを守った上での過誤」であり、守るべき最大のルールはインフォームド・コンセントです。ところが、「日本ではインフォームド・コンセントのルールははなから無視するケースが目立っており、それは過誤ではなくて犯罪だ」と指摘されています。インフォームド・コンセントは米国では、「医療者と患者が共同の治療目的を設定し、それを達成するために治療プランを作成するプロセス」と定義されており、日本の厚生労働省や医師会の言うような単なる「説明と理解」ではありません。

「医師の誤りが原因で重大な合併症は、しばしば起こり得る。このような事態に際し、医師には何があったのかが患者に理解できるよう、必要な事実を告げる倫理的義務がある。情報が全て開示されて初めて、患者はその後の医学的処置について、『説明された上での決断』を下すことができるからである。事実を告げた後に生じ得る法的問題の可能性が、医師の患者に対する正直さに影響してはならない。」(米国医師会倫理綱領)

 米国では医療過誤がしばしば起こることを認めた上で、「患者から訴えられるかもしれない」「高額の賠償金を支払わされることになるかもしれない」という医師側の都合で、過誤の事実を隠蔽してはならないとしています。なぜなら、過誤の事実を隠蔽することは、医療で最も大切な「インフォームド・コンセント(十分な説明に基づく同意)」の原則から逸脱することに他ならないからです。

 欧米では、患者や家族が医師や病院を訴える理由を調べた研究がいくつもあり、共通しているのは「何が起こったか知りたい」「謝ってほしい」「他の人に同じことが起こることを防ぎたい」という思いであり、「相手を罰したい」「賠償金が欲しい」といったことは、患者や家族にとっては二の次だと言われています。医師が医療過誤の事実を患者から隠したがるのは過誤訴訟に巻き込まれることが嫌だからですが、実は医師が隠すから患者は訴えるしか手だてがないのであり、日本の医療者の多くは「隠すから訴訟が起こる」という簡単な真理さえ分かっていないとされます。

 さらに「医師が正直に謝ると訴訟で不利な材料となる」という迷信(例えば、「米国は訴訟社会だから、訴えられることを恐れて、自分が悪い場合でも絶対に謝らない」と言われていますが、州法で「謝罪の言葉は法廷で不利な証拠として扱わない」と定めている所は多いのです)から、訴訟になると医師達はますます頑なな姿勢を貫き、患者の怒りや憎しみを増大させてしまうのですが、過誤の被害に苦しむ患者や家族にとって、「怒りや恨み」の感情にさいなまれながら何年も訴訟で争わなければならない不幸は、「医療過誤がもらたす二次被害」と言われているのです。





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