運がつく言葉

ポイント1 時をつかむ ~即断・即決・即行動で時を逃さない~

「チャンスの神には前髪しかない」
 「どんなに不運な人でも、人生に3度はチャンスが巡ってくる」と言います(ある意味ではこの世に生まれて来ることができただけ幸運だったとも言えますので、絶対不運の人は1人もいないと言えるかもしれません)。また、逆にどんなに好運な人でも人生に3度以上はそうそうチャンスが巡ってくるものではないとも言います(「ホップ・ステップ・ジャンプ」「仏の顔も三度」などと言うように、「3」数というのは節目を示すものとして認識されてきたようです)。したがって、この巡ってきた貴重なチャンスを逃さず捕まえることができるかどうかは、大きな分かれ目になると言えるでしょう。英語で「機会を逃さず捕まえる」ことをtake (あるいはseize) time by the forelockと言うように、チャンスの神には前髪しかなく、後ろ頭ははげているので、通り過ぎた後に捕まえようとしても、捕まえることができないというわけです。時期を逸すると意味が無いことを日本では「六日の菖蒲(あやめ)、十日の菊」(五月五日の菖蒲、九月九日の菊であってこそ役に立つのであって、それに間に合わなければ「後の祭り」となるわけです)と言います。
 では、どうしたらこの「チャンスの到来」を察知することができるのでしょうか?実はこれには小さなチャンスの到来を敏感に感じ取っていく訓練が必要なのですが、そこで大きな役割を果たすのが「直観」です。「あれ?これはもしかするといいかも」といった第一印象が重要なのです。大体理性は後からいろいろと理屈付けするものなので、「冷静に考えるとあの時もダメだったし、この時もダメだったし、やっぱり今度もダメだよ、きっと」などとダメ出しをしたり、その理由をあれこれと考えて、行動に移さないことを正当化するものです。その背後にはまた失敗して傷つきたくないという防衛機制が働いているわけです。ところが、直観には潜在意識・深層意識からダイレクトにメッセージが送られることがあるので、意外に「自分が本当に必要としているもの」を感じ取っていたりするのです。

「時は金なり」
 英語でもそのままTime is money.と言います。マックス・ヴェーバーは近代資本主義的人間のモデルとしてフランクリンを挙げ、近代資本主義の特質としてこのことわざを示しています。実際、近代労働者は自分の「時間」を売って「金」に換えているのです。もちろん、知識や技術、経験といった「労働」を売っているのですが、完全出来高制でも一定の時間の拘束を受けることは止むを得ません。ましてや一般サラリーマンやアルバイト・パートの場合は、結局「時給(日給・週給・月給・年棒といろいろありますが)いくら」で自分の時間を売っているのです。逆にこの「時間観念」に乏しい人は「経済観念」にも乏しいと言えるのでしょう(自分のやるべきことに的確な優先順位が付けられない人は「経済観念」に乏しいのです)。大学受験勉強や資格試験勉強などは逆に借金してでも「金」を払って、「時間」を買う必要が出て来るのです。
 何カ月も迷いに迷ってやっと決断する人がいますが、どっちにしろ同じだけのことを考えて、同じ結論に到るのなら、それに要する時間は短ければ短いほどいいはずです。時間がたくさんあればあるほどよく考えられ、検討が出来るように思いがちですが、実は全くそうではありません。試験勉強も直前になるとあわててするように、時間の「量」は単に安心を生むだけで、「質」の方がはるかに重要なのです。思考スピードを速めて、即断・即決・即行動することは企業経営者なら誰でも真剣に取り組んでいることであり、それは「時は金なり」ということが身にしみて分かっているからに他なりません。

「早起きは三文の得」
 英語ではThe early bird catches (あるいはgets) the worm.と言います。1日のうちにもやはり「時」というものがあります。それはやはり「朝」ということになるでしょう。「朝を制する者は一日を制する」こととなるのです。人によっては「自分は夜型だから、夜になると集中力が増す」という人もいるでしょうが、それは長い間の生活習慣からそうなっただけで、人間が本来持っている生理的リズムに沿ったものではありません。特に試験を受ける人は朝から始まるのが普通なので(夜中にある試験など学力試験に関しては皆無と言ってもいいでしょう)、「夜に強い人」よりも「朝に強い人」の方が本来的な力を発揮しやすいと言えるでしょう。
 短時間睡眠(1日3~4時間の睡眠時間で済ませることを「ナポレオン睡眠」と呼び、一時期流行したことがありました)で突っ走っているモーレツ人間も、必ず5~15分の仮眠を取って頭をすっきりさせるコツを得ている人が多いようです。やはり、眠い目をこすりながら、夜遅くまで粘って勉強や仕事をするよりも、効率が落ちたらさっさと眠って疲れを取り、早朝の時間と効率を確保した方が作業ははかどるというわけです。

「少年老い易く、学成り難し」
 これは朱子の詩「偶成」の最初の一句とされてきたものですが、一生のうちで「時」はいつかというと、やはり「若い頃」ということになるでしょう。英語でもTime and tide wait for no man.「歳月人を待たず」と言い、ラテン語では有名なars longa, vita brevis.(アルス・ロンガ・ウィータ・ブレウィス)「芸道は長く、人生は短し」(元々「医学者の父」と呼ばれたギリシアのヒポクラテスの言葉です)という警句があります。もちろん、いつまでが「若い頃」かというと人によって違いがあるでしょうから、30代でも40代でも「若い」と思っている人には「若い頃」なのです。「若い頃怠ける者は恥多い老年」(ポルトガルのことわざ)という言葉があるように、この貴重な時期を逃すことは惜しいとしか言いようがありません。気力も体力も充実しているこの時にこそ、「志」を立て、「努力」や「試行錯誤」を重ね、「年月」を重ねてこそ、「大願成就」はあり得るのです。一般に「志」が大きければ大きいほど、それを成就するために必要な「運」も大きいものとなります。ある意味では「能力」以上に「運」が必要であるとすら言えるでしょう。自分の「能力」に不足があれば、「人の力」を借りればいいわけですから。その典型は日本の高度経済成長を実現した池田勇人でしょう。池田元首相の知性を褒め称える人は誰もいませんが、その「運」のよさは誰もが認めるところです。彼の経済ブレーン達はそうそうたるメンバーでした。よく「天の時、地の利、人の和」と言いますが、これらを一致させるのがまさしく「運」なのです。
 若い頃を遊びやその場限りの楽しみのみに費やしてしまうことはあまりにももったいない話ですが、実はどんなにそういったことに夢中になっている人でも、本心では「このままではいけない」と気づいているものです。ただ、「一体何をしたらいいのか、皆目見当もつかない」ため、惰性でそれまでの生活を続けているケースが多いのです。思わぬ病気や事故、怪我などによって、「若さ」が暗黙のうちに有している貴重な「健康」や「時間」、「自由」といったものが奪われてみて初めてその大切さが分かるものですが、そうなる前に悟るのが賢明であることは言うまでもないでしょう。

「鉄は熱いうちに打て」
 英語ではStrike while the iron is hot.と言い、日本のことわざでは「思い立ったが吉日」とも表現しますが、「やってみよう」と思った時がその人にとっての「時」だということです。「直観」が「自分にとっての時」を教えているにもかかわらず、あれこれ言い訳や先延ばしの理由を考えては、すぐに行動に移さず、ぐずぐずといたずらに時を過ごしていると、「時」そのものが流れてしまうということです。ユダヤのことわざに「暇な時に学ぼうと言ってはならない、恐らくあなたは暇を持つことはないであろう」とある通りです。
 もちろん、「決断」するということは「過去の自分との決別」を意味するので、おそれや恐怖、不安が伴うものです。「昨日と変わらない今日が続くこと」(これを「伝統主義」と言い、ここからは「革新的進歩」は生じません)に人は安心を覚えるものですが、「受験」「入学」「就職」「結婚」なども全て「決断」であり、過去の単なる延長にはないわけですから、「決断」出来ない人は極論すれば「永遠に子供」でいるようなものです(これを心理学では「ピーターパン=シンドローム」と言います)。たとえ小さいものであっても、「決断」を重ねていくことは、間違いなく自分の成長に直結していくものなのです。 シーザー(西洋近代前史における軍事的天才と言えば、アレクサンドロス大王、シーザー、ナポレオンの3人がまず挙げられるでしょう)も「骰子(さい)は投げられた」と言って、元老院に命じられた軍隊を解散せずにルビコン川(イタリアとガリアの国境を流れる川)を渡り、数百年に及ぶ共和政の伝統に終止符を打ち、ローマ帝国という全く新しい社会システムへの道を切り開きました(実現させたのは彼の後継者オクタビアヌスです)。シーザーほどでなくとも、誰にも「私のルビコン川」を渡らなければならない「時」があるというのです。

「虎穴に入らずんば、虎児を得ず」
 これは『漢書』の著者として有名な後漢の班固の弟・班超の言葉です。彼は西域に派遣された時、突然の待遇の変化から北方の強敵匈奴の使者がやって来たことを見抜いて、この言葉を言って部下を激励するや、匈奴の使節一行に夜襲をかけ、数倍の敵を全滅させたと言います(『後漢書』班超伝)。英語ではNothing ventured, nothing gained (あるいはwon).と言うところです。 大体、夢や理想を語ることだけなら簡単ですが、それが高いものであればあるほど、実現するためには犠牲が必要だということを知らなければなりません。元々優秀な人なら別ですが、一般的な人にとっては東大・早稲田・慶応に行きたい、医学部に行きたい、弁護士になりたいなどなどといった目標実現のために、時間、労力、お金などの犠牲を払うことなくして、それらがポンと現実化するはずもありません。「時」をつかむのは「決断」ですが、さらに「犠牲」を払う「決意」が必要であるということです(この2つは「熟慮断行」の「断」と「行」の部分です)。逆に言えば、「決断」と「決意」があれば、今の自分を超えた「運」が引き寄せられ、高い夢や目標も現実化する道が開かれるということです。

ポイント2 縁を大事にする ~専門家の意見に耳を傾け、同友を得る~

「賢者に学び、智者に尋ねよ」
 これはインドネシアのことわざで、日本では「餅は餅屋」と言います。大体、どんな分野にも専門家がいるもので、自分が知らない世界に飛び込む時にはまずその専門家の意見を謙虚に聞くべきです。大学受験でも友達の意見に左右されがちですが、まだ大学に合格したことのない友達の意見(「この参考書がいいってよ」「こういうやり方をしたらいいみたいだよ」)に振り回されても意味がありません。専門予備校へ行って情報をもらうべきでしょう。司法試験や会計士試験などでも「試験のベテラン」に意見を求めるより、専門予備校の情報か合格者の体験に学ぶべきなのは言うまでもありません。
 実は人間は「人の間」と書くように、「人間関係」がその本質にあると言ってもいいので(これは「人間は社会的存在である」ということで、絶対的に孤立した孤独な人間はいないということです)、「運」は「人間関係」を通してやって来ることが多いのです(だから「縁は異なもの味なもの」とも言います)。実際、多くの人の成功談に「あの時、あの人に出会わなければ今の自分はなかった」という「出会い」が数々出て来ます。東洋的に言えば、「天は今の自分に必要な人を与える」ということになるでしょう。野球で言えば王と長嶋、村山と長嶋、野村と長嶋といったライバル同士、マラソンで言えば小出監督と高橋尚子の師弟関係なども全てそうでしょう。そこまでの「宿命的関係」まで行かなくても、「運命的関係」ぐらいならその辺にゴロゴロしています。何か目標を持ったら、まずその道の専門家を訪ね、その意見に素直に耳を傾けることが、その目標を実現するための「運」を手に入れる第一歩と言えるでしょう。まずは「しかるべき人に聞け」ということです。

「話し上手は聞き上手」
 「素直」な人は実は「発展型の運」の持ち主と言えます。我が強く、自己主張の強い人は一見すごい実力者のように見えますが、実は吸収力に柔軟性が無く、自分に無いものをどんどん取り入れていく度量に乏しくて、いつしか伸び悩むことが往々にしてあります(これは「実力者が陥りやすい落とし穴」とも言えるでしょう)。これに対して、年下からだろうが何だろうが、自分にないもの、必要なものは素直に頭を下げて吸収していく人は、一見柔弱に見えますが、実はそら恐ろしい人です。3年、5年経つと確実に発展・成長していくからです。大体、「人間は口が1つであるのに対し、耳は2つ与えられた」と言われるように、自分のことをペラペラ話す以上に人の話をよく聞いて、そこから多くを学んでいくという姿勢は人間の本性に適っているのです。 実際には、「良薬は口に苦いが病に利く、誠実な言葉は耳遠いが物事に利く」(モンゴルのことわざ)と言われるように、素直に耳を傾けることは決して楽なことではありませんが、いったんこうした姿勢ができると、「先生からは多くを、仲間からはもっと多くを、弟子からはもっと多くを学ぶものだ」(ユダヤのことわざ)という境地にまで到ります。

「友がなければ死んだも同じ」
 これはイギリスのことわざです。実は「孤独」に強くならないと本当の意味での「友人」はできないものですが(こういう逆説はどの分野にもあります)、目標達成期間が長ければ長いほど(つまり、自分にとってその目標達成が困難であればあるほど)、「独学」のデメリットは大きくなり、「同学の士(友)」の存在が必要になってきます。大学受験勉強でも、「どこでも入れる所でいい」という人や「すでに自分の勉強方法は確立されている」という強いタイプの人なら、それこそ「独学」が最も安上がりでいいはずですが、目標が高い人や基礎学力に自信が無くて目標達成が困難な人は、専門予備校に入って同じようなレベル・境遇の人と共に学んだ方がいいというのは一理あることです。
 「三人寄れば文殊の知恵」と言うように、一人で考えても分からないことが、友達同士で問題を出し合ったり、議論をしたりする中で解決されていくことはしばしば起こります(また、そのような友人関係を築くことが発展的な「運」をもたらしてくれます)。さらにこうした目標を共有する友人関係の大切さから発展して、人脈形成の重要性に気づくようになってくると、「友には友があり、その友にはまた友がある」(ユダヤのことわざ)という言葉の意味も分かってきます。

ポイント3 自己投資を惜しまない ~使うべきところに金を使うべし~

「孟母三遷」
 儒教の教祖で「聖人」と呼ばれた孔子に次ぐ存在として、「亜聖」と呼ばれた孟子は幼時に父を失い、母の手ひとつで育てられましたが、最初、墓地の近所に住んでいたところ、孟子が墓堀人の真似ばかりして遊ぶので、母はこれを心配して早速市場のそばに移ったと言います。ところが、今度は商人の真似ばかりしているので、学塾のそばに引っ越したところ、今度は祭り事の道具を並べ、丁寧な礼儀の真似事を始めたので、母はこういう所こそわが子を置くにふさわしいと喜んだと言います。
 これは教育には環境が重要であること(英語でもNature vs Nurture「先天的素質か後天的養育か」といったヘッドラインがよく見られます。日本ならさしずめ「氏より育ち」といったところでしょう。イギリスのことわざでは「服装が人を作る」、アラブのことわざでは「どんなにつらくても町に住め」といった言い方もあります)、そのためにはコストがかかること(経済学でも「人的資本」の理論で、「教育という投資」が実に重要で、それが技術革新や経済成長、社会発展に大きな影響を及ぼすことを分析しています)を意味しています。
 ちなみに孟母には「断機の戒め」という故事成語もあります。これは孟子がある日、ひょっこりと遊学先から家に帰ってきた時、母が孟子に学問の進歩のほどを尋ね、孟子が相変わらずであると答えると、母は自分が織りかけていた織物をスッパリと断ち切ったエピソードによります。孟母は「お前が学問を途中で止めるのは、私が織りかけたこの布を切ってしまうのと同じことなのですよ」と言って諭したというのです(『烈女伝』『蒙求』)。

「若い時の経験は金を出しても買え」
 大体、名医と呼ばれる人ほど人を多く死なせていると言われ、成功者と呼ばれる人ほど人より多く失敗を重ねているものですが、逆にそういった失敗をたくさんこなしていったからこそ、早く成功することができたとも言えます。「最良の先生は時、最高の師範は経験」(スペインのことわざ)と言われる所以です。これを親の立場から表現すれば、「かわいい子には旅をさせよ」ということになるでしょう。
 多くの人が挫折しやすい語学習得の分野でも、「語学のコツは金とヒマ」と言われるように、辞書や文法書、書籍、教授料などに金を惜しまず、しかも試行錯誤する時間をたっぷり取って、反復回数をとにかく増やすことが欠かせないとされます。また、教育効果という点でも、「タダで学べる」ものより、「お金を払って学ぶ」ものの方がはるかに熱心に学ぼうとするため(当然、元を取ろうとします)、吸収度が俄然変わってくるということが指摘されています。やはり、使うべきところにお金を惜しんではいけないのであって、これは決して「ムダ金」ではなく、むしろ「活き金」にしなければならない自己投資のお金なのです。

ポイント4 向上心を持つ ~ポジティブ・シンキングが潜在意識を活性化させる~

「少年よ、大志を抱け」
 札幌バンドの原点となり、札幌農学校で近代日本の方向性を左右するような多くの人材を育てたクラーク博士は、その別れ際にこの言葉を青年達に叫びました。英語ではBoys, be ambitious!です(ちなみに彼の作った農学校の校則は、Be gentleman.「紳士たれ」のみでした)。実はこうした志、夢、理想、目標を持つことは潜在意識を活用する第一歩であり、あらゆる成功のカギは「潜在意識を如何に有効に活用するか」ということに尽きるとさえ言われるほどです。しかも、志、夢、理想、目標を持つことには何の元手もいらず、お金は一切かからない「究極の先行投資」と言えるでしょう(「潜在意識」はよく「銀行」にたとえられ、コツコツと納め続けていくと、巨大な複利がついて返って来ると言います)。
 さらに言えば、「運」などという摩訶不思議なもの(「天運」という言葉があるように、やはり人智を超えたものと見るべきでしょう)が、生きて感情を持ち、言動と行動を通じて日常生活を営んでいる生身の人間の実人生とどこでどう接点を持ってくるかというと、これは潜在意識・深層意識を通じて表面化・顕在化してくると考えられています。例えば、いろいろな成功術の本の中で、「思いは実現する」「思考は現実化する」「人生は思った通りになる」(実際に電話、車、飛行機などあらゆる製品・商品は、最初は単なる「アイデア」から始まっています。ナポレオンなども「想像力が世界を支配する」と豪語しています)などといったことが繰り返し強調されているのは、「与えられる暗示は何でも受け入れてしまう」という潜在意識の特徴があるからです。したがって、「意識と関心を持っていないことは実現しない」「できると思って取りかかることが重要」(禅の革命児・六祖慧能は「全ての幸福の生じる畑は心の中にある」と喝破しています。シェイクスピアも「全ての用意はできている。もしも心に用意があるなら」と言っています)となってくるわけですが、こうした基本理解・基本姿勢を「積極思考(ポジティブ・シンキング)」と言い、「運」を呼び込む必須条件とされています。

「門を叩け、さらば開かれん」
 これは『新約聖書』の「マタイによる福音書」に出て来る有名な言葉で、同類のものとして「求めよ、さらば与えられん」などがあります。他にも「登れない道はない、渡れない谷はない」「どのような障害も必ず打ち砕かれる」(いずれもインドネシアのことわざ)、「精神一到何事か成らざらん」(朱子)などが浮んできます。英語ではWhere there is a will, there is a way.「意志ある所に道あり」と言うところです。では、なぜ求めれば願いはかなうのでしょうか?よく「願いは具体的であるほど、イメージがありありと浮べば浮ぶほど、実現する」と言いますが、これは「よく肥えた畑」にたとえられる潜在意識の特徴に秘密があります。そこに「良い種(建設的な考え)」がまかれれば「良い収穫物(目標の達成)」が得られ、「悪い種(否定的な考え)」がまかれれば「悪い収穫物(目標の挫折)」が育ってしまうというのです。どちらも自分がまいた種を刈り取るわけですから、誰を責めるわけにもいかず、きわめて公平な結果であると言えます(仏教ではこれを「自業自得」と言います)。
 したがって、ここから導き出される結論は、「何事もまず『できる』と思ってとりかかれ」ということです(これを「全肯定からの出発」と言います)。なぜなら、自分のことをいつも「ダメな人間だ」「ロクなことは起きない」「目標など立てても出来っこない」と思い続けている人は、その如く思った通りの人生がやって来るからです(否定的観念に凝り固まった人は確実に否定的人生を送らざるを得ないということになります)。「自分に出来るはずがない」「自分はこれが苦手なんだ」とわざわざ言い聞かせて、「ひょっとしたら出来るかもしれない」「頑張れば道があるかも」「これが出来たらどんなに楽しいことか」といった小さな可能性の芽生えを、ご丁寧にいちいち摘み取ってしまっているわけです。

「禍を転じて福となす」
 これは中国・戦国時代の有名な弁舌家、蘇秦(そしん)の言葉です。舌先三寸で天下を動かした人物にふさわしく、物事の見方を変えることの重要性を説いています。同様に「人間万事塞翁(さいおう)が馬」(『淮南子』、「人間」は「にんげん」ではなくて「じんかん」、「この世」という意味です)という言葉もあります。「塞」というのは外敵に備えた砦のことで、その近くに住む老人の飼っている馬が逃げてしまったところ、人々は気の毒がりましたが、老人は平気でした。やがて、逃げた馬が立派な馬を連れて戻って来たのですが、老人はこれを喜びませんでした。やがて、息子がこの馬に乗っていて落馬し、足を折りますが、老人は悲しみませんでした。しばらくして、外敵を防ぐために徴兵が始まりますが、息子は足を折っているため、免除されるのです。まさに「何が幸いするか分からない」といったところですが、「禍福はあざなえる縄のごとし」と言われるごとく、物事には必ず両面があることを教えてくれます。「四書五経」の中枢たる『易経』でも「亢竜(こうりょう)悔いあり」と言い、登りつめると後は下るしかなく、「吉の極みは凶の始まり」と教えています(当然、逆もあるわけです)。
 よくびん半分になったワイン(別にお酒でもジュースでも何でもかまいませんが)を見て、「まだ半分もある」と言って喜ぶか、「もう半分しかない」と言って悲しむかで、楽観主義と悲観主義、ポジティブかネガティブかが分かれると言われますが、「現象」そのものは全く同じなのに、それを捉える「心の動き」が全く正反対であることに注意しなければなりません。例えば、人が亡くなることは不幸のきわみですが、葬儀屋はまさにそのことによって生きています。また、人の死が与える衝撃が精神的成長をもたらした人もいるでしょう。どんな不幸の状況の中にも必ずプラス面があるのであり、「不幸中の幸い」とは本来座して待つものではなく、積極的に見つけ出していくものだということです。ここで気をつけなければならないことは、物事のプラス面を見つけることは自然に出来ることではなく、意識的訓練が必要だということです。大体、多くの人はいろいろなつらい経験、体験、局面に遭遇していく中で、「まだ半分もある」人間から「もう半分しかない」人間へと変わっていくのものです(そもそも子供は楽観的で、悲観主義にこりかたまった子供はいません。実は悲観主義は経験のなさるわざなのです)。したがって、楽観主義的積極思考は向かい風に向かってヨットを進ませる技術のようなもので、身につけないとただ風下に流されていくだけですが、身につけるとどういう状況でもどうにでもなると思えるようになっていくのです。

「笑う門に福来る」
 これは日本のことわざです。よく「眉間のたてじわは運を失う」と言いますが、どんな美人でも眉間にたてじわがくっきり出ていれば、キツイ感じがして近寄りがたくなるでしょう。こんな時は「額のよこじわは運の元」と心がけましょう。東洋で長らく受け継がれてきた人相学では、きれいな3本じわ(天地人を表わします)が福運を呼ぶとされます。眉をひそめる(たてじわ)のではなく、上にあげる(よこじわ)と、誰でも愛嬌のあるおもしろい顔になりますから、不思議です。そのため、疲れて笑えない時などは、わざと眉を上げて「驚いた顔」(一番笑った顔に近いとされます)をするといいと言われるぐらいです。接客業など、人に接する仕事をしている人はこういった工夫も必要でしょう。
 また、自然に笑顔を生み出す工夫として、「自己肯定体験のイメージをふくらませる」といったやり方もあります。これは、どんなに小さなことであっても、自分のことをほめてくれたり、認めてくれたりするとうれしいものですが、その時のイメージを何度も思い描いて、情的追体験をするというものです(悲観的な人は逆に自己否定体験のイメージをふくらませて、「やっぱり自分はダメだ」と考えてしまいがちです)。1人でニヤニヤしている人は何がしか思い出し笑いをしているものですが、実は心の中でこういったイメージを反芻(はんすう)しているわけです(こういうタイプの人は「自己修復力」があるので、意外に傷つきにくいものです)。周りからヘンな人と思われるのも困りものですが、根底に「自己肯定」があるか「自己否定」(これが行き過ぎると「自己憎悪」になります。嗜好品や薬物におぼれたり、自傷行為に走るのは、「快楽動機」というよりも「自己憎悪=自分を大切にしようと思えず、自分を許せない、そのまま受け入れられないという気持ち」が動機にあると言ってよいでしょう)があるかは、表情に表われるどころか、心身全体に大きな影響を及ぼすのです(ついでに言うと、「自己肯定」の土台に「自己否定」が来るのが理想的で、これは「自己練磨」からひいては「自己超越」に到る原動力となります)。

ポイント5 感謝の気持ち ~いいこともあれば、悪いこともある~

「諸行無常」
 これは仏教の悟りの中心で、他の一切皆苦、諸法無我、涅槃寂静と合わせて「四法印」(4つの重要な悟り)と呼ばれます。日本では他の3つに比べて、この「諸行無常」が特に親しまれています(これに対して、欧米メディアは「涅槃寂静〔ニルヴァーナ〕」を好んで使います)。『平家物語』の書き出し「祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅雙樹(しゃらそうじゅ)の花の色、盛者必衰(じょうしゃひっすい)の理(ことわり)をあらわす…」や、「国破れて、山河あり」の杜甫の詩「春望」なども、日本人の心に深くしみわたっているところでしょう。これはどんなに栄耀栄華を重ねても、それははかなく虚しいものだという、ちょっとニヒルな虚無感みたいなもので、『旧約聖書』でも知恵者ソロモンが「空の空、空の空、一切は空である」と何やら仏教的なことをうたっています。
 ところが、こうした「形あるものはいつかは崩れる」「永遠に続くものは何もない」といったようなはかなさ、虚しさといったものは実は「消極的無常観」と呼ばれるものです(日本の「三大随筆」の第二に来る『方丈記』の無常観はこれであり、『平家物語』などと同じ精神に立っています)。これに対して、「万物は流転する」(ヘラクレイトス)のだから、今はどんなに逆境のどん底にあるとしても、これがいつまでも続くはずがない、必ず好転する道があるはずだ、という「積極的無常観」もあるのです(日本の「三大随筆」の第三に当たる『徒然草』の無常観はこれです)。これは「因縁果報」(仏教における発展原理・生成原理)の理論で言えば、まさしく「縁」の思想となります。人は縁によって幸にも不幸にもなり、順境から逆境へ、また逆も起こり得るというわけです。したがって、順調に物事が進んでいる人でも「勝って兜の緒を締めよ」、不遇をかこっている人でも「待てば海路の日和あり」というのは、暗黙のうちにこの「縁」による「変化」を感じ取っているからに他なりません。

「積善の家に余慶有り」
 では、逆境の時、不遇の時、どのように身を処すればよいかというと、「積善」の道を行けばよいということになります。これは『易経』の言葉ですが、まさに「まかぬ種ははえない」の如く、「積善」が種となって、見えない所で蓄積され(陰徳・功労)、思わぬ形で自分に返って来て報いられる(余慶・善因善果)というわけです。
 大体、世界三大美女の1人と称された小野小町(後の2人はクレオパトラと楊貴妃ですが、一体誰がこれを決めたんでしょうね?)も老いては惨めな境遇だったと言われています。才知をうたわれ、紫式部のライバルとされた清少納言の晩年も哀れです。紫式部だって、『源氏物語』を著わして世人を惑わしたために、ひとたびは地獄に落ちたと言われていたようで、江戸時代の上田秋成が『雨月物語』に盛んに書いています(本当かどうかは知りませんが)。逆に中国最高の軍師と称される太公望呂尚(たいこうぼうりょしょう、周建国における最大功労者)も、奥さんに見捨てられ、釣針をつけずに釣をしていて見出されたのは何と八十歳(「二倍暦」なら四十歳になりますが、いずれにしても「遅咲きの花」であることは間違いないでしょう)の時だと言います(ここからのんびりと釣をしている人を「太公望」と呼ぶようになり、大出世を遂げた呂尚の所に復縁を求めてやってきた元妻に対して、盆から水をこぼして、「覆水盆に返らず」と言ったことは有名です。これは英語でもThere’s no use crying over spilt milk.と言います)。まさに「全ては時の神次第」(アラブのことわざ。イスラームでは「インシャラー」という決まり文句があり、全ては「アッラーの思し召しのままに」という意味ですが、最後の最後は人間の力ではどうしようもない、神のみぞ知る世界だという一種のあきらめ・受け入れがあります。これは運命に対して悲劇的な戦いを挑むことを好んだ古代ギリシア人と対照的でしょう)といった感じですが、運に順境・逆境の波があるならば、逆境の時こそ、「自己投資」をし、自分をより高めてくれる「縁」を求め、「積善」を地道に重ねて、じっと「時」の到来を待つべきだということです。この時にジタバタしたり、何もしないで無為に過ごすというのは、来たるべき「時」の到来(「いつか」は神のみぞ知るとしても、「来ること」自体は必ずあることを知っておくべきでしょう)を知らないからなのです。

「渡る世間に鬼はない」
 これは「冷たいように見えても、人の情けというものはあるものだ」という意味ですが、ここで重要なことは「感謝」の気持ちを忘れないことでしょう。ボーイスカウトの訓練でも、食事の前に「一粒の米にもお百姓さんの汗と涙が込められています、一滴の水にも大自然の恵みが込められています。感謝していただきます」と言ったようなお祈りをしますが、こうした「感謝」の気持ちが無いと、途端に「渡る世間は鬼ばかり」となるのです(ちなみに「感謝」の気持ちの裏返しが「申し訳ない」という気持ちであって、この2つは両方共必要です)。なぜなら、そうした自分の心が「因」となり、さらに「縁」が生じて、同類のものが引き寄せられてくるからです(「類は友を呼ぶ」)。大体、恨み、嫉妬、憎悪といった情念は、人間の感情の中でも最も心の成長を損なうとされ、「人を呪わば、穴二つ」(人の不幸を望めば、自分も同じ運命となる)と言われる所以になっています。
 「どんな名馬でもつまずかぬものはいない」(フランスのことわざ)、「波のない海があろうか」(マレーシアのことわざ)、「人間は努力する限り迷うものだ」(ゲーテ『ファウスト』)と言われるように、物事がうまくいかないで失敗すること、欠点があること、迷い・ためらいがあること自体は世の常、人生の常であって、何人もこれを免れることはできませんが、そこで「感謝」の気持ち(究極のポジティブ思考)を持つのか、「恨み」の気持ち(究極のネガティブ思考)を持つのかで、周囲の環境や人間関係が味方にも敵にも変わってくるということです。
 ところで、こうした「感謝」の気持ちを持つことは何も大それたことではなく、小さな心がけから始まるのですが、その見極めでよく使われるのが食事の場(家庭教育では「情操が育つ場」として重視されています)です。ご飯を食べ終わった時に、お茶碗にご飯粒がまだ残っているでしょうか、それとも一粒残さず食べているでしょうか?実はこのさりげない所に「気持ち」が表われているのです。1万人以上の非行少年・少女の矯正教育に携わってきたある専門家は、講演会やシンポジウム、カウンセリングなどで引っ張りだこですが、問題児を抱えて日夜悩み苦しんでいる親に対して、まず「今日配られた弁当のフタについているご飯粒をきれいに食べましたか?」と聞くそうです。何でそんな小さいことを、と思われそうですが、そんな小さいことに「物を大切にする心」「作ってくれた人に感謝する気持ち」が表われており、そこに心が行き届かない人が、もっと微妙で繊細な人間の心の動きの機微を感じ取れるはずがないというわけです。「大事を成すのに小事にこだわるな」というのも一理ありますが、「小事をおろそかにして大事は成せない」というのもまた真理なのです。

ポイント6 あらゆる手を尽す ~中途半端にしない~

「どんな道でも進んでいかなければ山にたどり着かない」
 これは北欧のことわざです。「思い立ったら、始めてみないと意味がない」ということです。日本なら「千里の道も一歩から」(元々は老子に由来します)と言うところでしょう。よく現状からの逃避のために未来の自分を過信することがありますが(「今年はもう時間がないから、大学受験は来年に回そう」「2年かけたら出来ると思う」)、「未来の自分の可能性の根拠は今の自分にしかない」という厳然たる事実を心に留めておくべきです。今、確実な一歩を踏み出していない人は、1年後だろうか、2年後だろうが、千里先のゴールには間違いなく到達していないのです。今現在の状況をきちんと分析し、限られた時間を有効に使うべく、優先順位をつけ、最大限努力するという「今の自分にできる限りのこと」をできない人が、時間が経てば自然にできるようになることなどあり得ません(このことは「時間のマジック」によって実に簡単に誤解してしまうところです。これはちょうど、「原始地球のスープにおいて、電気火花による反応で、長い年月のうちに生命が自然発生した」という仮説が、「時間のマジック」によってスンナリ受け入れられたことに似ています。実際には、この仮説は確率論的に困難があると指摘されています)。「今の自分にできる限りのこと」をしている人であるならば、力及ばず、目標達成ができなかったとしても、それ以上のことはできないので、止むを得ないこととして納得することができます。少なくとも「やれるだけのことはやった」わけですから、「後悔だけはしない」ことになります。そして、こういう人ならさらに時間をかければ、より少ない時間の中ではできなかったことも、達成する可能性があると言えるのです。
 「座して死を待つより、いさぎよく打って出るべし」と兵法学でも言いますが、「やるべきことをやり切ってダメなのか」、それとも「ただ何となく今までの延長でやっぱりダメなのか」は、同じ「ダメ」でも次につながる可能性の有無が違うのです。やるだけやってダメな人なら、別な勉強・仕事・目標なら成功することがいくらでもあるでしょう。やるべきことをやってもみないでダメな人なら、何をやってもダメでしょう。それはやるまでもないことです。また、ここで問題なのは、歩み出していない人も一歩だけ歩み出した人も、傍から見れば大差ないように見えてしまうことです。1年後、2年後、3年後には千里の差が生じる違いでも、最初の差はたった一歩に過ぎないのです(カオス理論では「初期条件のわずかな違いが決定的な違いを生む」として、これを「初期値鋭敏性」と呼んでいます)。

「天は自ら助くる者を助く」
 英語では、God (あるいはHeaven) helps those who help themselves.と言います。これはself-help(自助・自立)の論理でもあります。発達心理学・教育心理学でも「自立」を促すことを重視しており、人間の成長の上で欠かせない要素となっていることが分かります。明治時代の日本において、サミュエル・スマイルズの『自助論』がベストセラーになり、さらに福沢諭吉の「独立自尊」の精神がその著書を通じて幅広く啓蒙されていったことが近代化の促進剤となっていった、ということを誰も否定できないように、「自助努力」「自立」は「個の確立・成長」において欠かせない要素であることが分かるでしょう。
 ただ、「自立」には精神的自立、経済的自立、社会的自立の3段階があるので、順を追って達成していくことが必要です。基本的に「自立」以前には親の「運」の下にあるので、「親が悪い」「環境が悪い」などと文句を言っているうちは親の「運」にケチをつけている段階にとどまり、自分で「運」を呼び込む段階には入っていません。

「人事を尽して、天命を待つ」
 これは「自力」と「他力」のバランスのようなものです。鎌倉新仏教でも、「自力」の禅宗系(臨済宗・曹洞宗)と「他力」の浄土系(浄土宗・浄土真宗)、「共力」の法華系(日蓮宗)があり、キリスト教神学でも「恩寵論」で「神の恩寵か人間の自由意志か」という長い論争がありました。よく「できるかどうか分からない」「失敗するんじゃないかと不安でしょうがない」という悩みを持ちますが、未来の結果を完全にコントロールすることはできません。これはいくら心配しても始まらないことで、結局、神ならぬ人間にできることは精一杯の努力をすること、すなわち「人事を尽すことのみ」であることを知るべきです。やるだけやったら自分の責任はそこまでで、後は「天命の領域」、自らのあずかり知らぬ所と思い定めて、結果に一喜一憂しないことです。一流プレイヤーと呼ばれるスポーツ選手ほど切り替えが早く、失敗直後の立て直しがうまいのは、この辺のコツを経験則で体得しているからなのです(実際、そうしないといちいち心理的打撃を受けてしまいます)。

「天才とは1%のインスピレーション(直観)と99%のパースピレーション(汗)である」
 エジソンは実際には真逆の意味の言葉を言ったようですが、こちらの方がエジソンらしい言葉として広まっています。彼は耳が不自由というハンディを背負っていましたが(これはベートーヴェンも同じです)、驚異的な発明の数々を残し、その精神と遺産はGE(ジェネラル・エレクトリック)という世界最強の企業となって、今日まで受け継がれています。エジソンは典型的な「努力の人」であり、「あらゆる可能性を試す」ことを常に行なっていた人でした。以前、IBMのコンピュータ「デイープ・ブルー」がチェスの世界名人を打ち負かしたことがありますが、デイープ・ブルーの取った戦略はきわめて単純で、「考えられる全ての手をしらみつぶしに検討する」というものでした。そこには「天才」も「独創性」も何もありませんが、それをやられると「時間さえかければ勝機が開かれる」ということになります(もちろん、プログラムを作成するのは人間なので、まだパーフェクトではありません。大体、急速に発達したゲーム理論の成果を駆使しても、チェスのような複雑なゲームの一手ごとの勝率計算など、現在では不可能でしょう)。
 「誰でも自分の中に小さな天才がいる」と言いますが、これは程度の差こそあれ、アイデア(インスピレーション)を持っていない人はいないからで、ただ眠れる天才が目覚めるか、それとも埋もれたままで終わってしまうかは、ひとえに現実化するまで努力するかどうか(パースピレーション)の差によると言えそうです(「勝利の秘訣は勝つまでやること」「成功の秘訣は成功するまでやること」とも言います)。つまり、エジソンのような「天才」は、こうした「運を味方にする方法」を知っていたのであり、あるいは無意識のうちにそれを実行していたというわけです。

ポイント7 続けた者が勝つ ~凡人が天才に勝つ唯一の方法~

「石の上にも三年」
 井原西鶴の『西鶴織留(さいかくおりどめ)』に出て来る言葉ですが、俗語として伝えられているとありますので、当時の庶民達の経験則として広く理解されていたのでしょう。実際、逆境・逆運にある時ほど、あたかも「この状況が未来永劫にわたってずっと続く」かのような錯覚に陥り、絶望にかられてしまいがち(これはまさに人間の弱さであり、簡単にはまってしまう心理上の落とし穴です。これが昂じると「自殺の心理」になりますが、それは「自分を必要としてくれていると自分が思っている人達との心理的絆が切れていって、最後の1本が切れた時」に生じます)ですが、自分を高めてくれる「縁」を求め、「積善」の道を行き、「最善を尽くす(do one’s best)」ことを心がけていると、間違いなく3年以内に道が開かれるから不思議です。これはいくらそういうもんだと口をすっぱくして説明しても、自分で1度体験してみる以外に無いでしょう。まさに「百聞は一見にしかず(Seeing is believing.)」ということです。そして、1度そうした体験を持つと、次からは試練・逆境を乗り越えやすくなるのです。

「愚公移山」
 これは『列子』に出て来る話です。太行山と王屋(おうおく)山は昔、冀(き)州の南、河陽の北にありましたが、この山の麓に住んでいた愚公という九十歳近い老人が、「どこへ行くにもこの山が邪魔になるので、山を削って平らにしよう」と思い立ちました。早速、家族を集めて取りかかりましたが、これを見た智叟(ちそう)という人物が「そんなことをしたって、一生涯やっても知れたもの。とても山など動かせるものか」と笑いました。ところが、愚公は「わしが死んでも子がいるし、子は孫を生み、孫はまた子を生む。こうして子々孫々、倦まずにやれば絶えることなく、山は増えるわけではないから、平らにすることができないはずがない」と言ったのです。まさに百年単位で物事を考える中国人らしいスケール(李白の詩にちなんで「白髪三千丈」とも言います)ですが、これを聞いた天帝はその至誠に感じ、山の1つを朔東に、もう1つを雍南に移させたと言います。  日本なら「継続は力なり」や「ちりも積もれば山となる」(これは『古今和歌集』序文に出来ますが、元々は中国の白楽天の詩にあり、さらにそれはインドの『大智度論』の経文をふまえています)と言うところでしょう。また、菊池寛の小説『恩讐の彼方』に出て来る、九州耶馬渓の青洞門(あおのどうもん)を30年近くにわたって掘り抜いた了海(彼がかつて殺した男の息子・実之助が父の敵討ちにやって来ますが、敵討ちを洞門開通まで待つことにして一緒に掘り始め、とうとう開通した時には敵討ちの心は消えて、手を取り合って喜びます)が思い出されるかもしれません。いずれにしても、愚直な努力は「至誠、天を動かす」ことすらあると言うのです。
 よく成功の三要素は「運、鈍、根」だと言いますが、「鈍」が愚直な努力、「根」が根気、継続性を表わします。ウサギとカメの競争で、ウサギは「鋭敏な才知」、カメは「愚直な努力」を象徴しますが、単に愚直なだけなら「ドンくさい」で終わるかもしれません。カメの偉い所はウサギが要領よく休んでいる時にも、倦まず、たゆまず、歩き続けたことです。「鈍」は「根」によって大きく結果するのです。もっと言えば、無数・無限にある「運」を自分の「器」に応じて受けとめるのが「鈍」(秀吉が、家康と共に最も恐れていたとされる稀代の軍師・黒田官兵衛は、「小事をなすのは力量、大事をなすのは天運である」として、自らが「天下人」を目指すのは諦めました)、それを「種」として練り上げ、仕上げていくのが「根」と言うことができるかもしれません。

「大器晩成」
 『老子』の言葉です。英語では、Great talents mature late (あるいはare slow in maturing).と言います。きんさん、ぎんさんの双子のおばあさんがデビューしたのは何と百歳、それからはあちこちで引っ張りだこの日々となりました。ずいぶんお金ももうかったようなので、ある人が「そのお金をどうするんですか?」と聞くと、「老後のためにとっておく」と答えたそうです。もうお亡くなりになられましたが、百歳を過ぎて、一体いつからが老後と考えていたんでしょうねえ?
 いずれにせよ、自分なりの方法論が確立したら、3年後、5年後、10年後を見据えて行けということです。




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