誰にでもできる!人間関係の工夫



誰にでもできる!人間関係の工夫


~ちょっとしたコミュニケーションのスキル・アップが「平凡人」から「一目人」への第一歩~

【コミュニケーション・スキル1】聞き上手になると世界が変わる

①「話し上手」になるのは難しいが、「聞き上手」には誰でもなれる

②相手の得意分野と人生経験に学ぶ

③「ハ行変格活用」と「すごいですね!」は万能兵器


【コミュニケーション・スキル2】疑問・質問がコミュニケーションを発展させる

①何でもうのみにするとそこでおしまいになる

②素朴な疑問を大切にする

③問題意識や興味を持つと、会話が深化する


【コミュニケーション・スキル3】相手のプラス反応に敏感になろう

①「何を話すか」ではなく、「相手がどう反応するか」が大事

②「笑ってくれた」「おもろしろがってくれた」体験の積み重ねが自信につながる

③自分の全てを出してはいけない


【コミュニケーション・スキル4】一撃必殺のコトバ術

①ハッとさせる一言で相手の心をつかむ練習をしよう

②「つかみ」は最初(アタマ)で決まる

③チラリチラリの気になる存在になる


【コミュニケーション・スキル5】親友の作り方

①「友達の所に遊びに行く人」と「友達が遊びに来る人」

②「ベスト・フレンド」は「一番の仲良し」、「親友」は「ソウル・ブラザー」

③「ある一言」が出た瞬間、「友達」は「特別な関係」に変わる


【コミュニケーション・スキル6】恋人の落とし穴

①意外に知らない「恋愛の心理」

②「さみしいから」が動機だとお互いをダメにするのは時間の問題

③まずはお兄ちゃん、お姉ちゃん、弟、妹的存在をいっぱい作ろう


【コミュニケーション・スキル7】メンターは何人いてもいい

①分野ごと、テーマごとにメンターを持つ人は強い

②人から助けてもらわないで成功した人はいない

③メンターに恵まれた人はメンターになる使命がある


【コミュニケーション・スキル8】「人間」とは結局「人間」である

①喜びも悲しみも、幸福も不幸も「人間関係」から生じる

②「情の流れ」は「水の流れ」と一緒

③「家庭」的基本関係から「社会」的人脈へ




【コミュニケーション・スキル1】聞き上手になると世界が変わる

「話し上手」になるのは難しいが、「聞き上手」には誰でもなれる

 ちょっと想像すればすぐに分かるように、「話し上手」になることは簡単なことではありません。相手の興味、関心、教養などに応じて話題を提供し、ユーモアやウィットも利かせてとなれば、誰もが尻込みしてしまうことでしょう。友達同士の何気ない会話ならまだしも(それでも友達に「ウケ」たければ努力が必要になります)、目上の人や社会的地位のある人、異文化圏に属する人を相手にするとなると、これは大変です。アメリカの女子高の中には、わざわざ「テーブル・トーク」(食卓での会話)を学ばせる所すらあると言いますが、それぐらい場を盛り上げること、相手を喜ばせ、心をつかむことは訓練・練習が要ることだと言えるでしょう。

 実際、桂三枝さん(現在は6代目桂文枝さん)や黒柳徹子さんといった座談の名手には、明らかに常人と違う何かがあるのです。昔は大きなイベントの司会をする人などは、三枝さんのビデオを見ながら研究していたものですし、なぜか「徹子の部屋」ではつい本音を話してしまうという芸能人は少なくありません。明石家さんまさんも女性に楽しくおしゃべりさせることにかけては天才的ですが、オフレコ中でも出演者を笑わせるサービス精神旺盛な人でもあります。そう言えば、毒舌家のビートたけしさんも映画「戦場のメリークリスマス」に出演した時、休憩時間にはいつも俳優さん達が集まってきていて、彼が冗談を言うたびに皆で大笑いしていたと言います。外国人俳優もいっぱいいて、特に英語が出来るわけでもないのに、と見ていた人は不思議がっていたそうです。こうしたトークの天才達に対して、誰でも出来る、凡人でも出来る、今からでもすぐに出来る方法は何かというと、それは「聞き上手」になることです。

 例えば、インタビューの達人として知られるCNNの名キャスター、ラリー・キングさんはほとんどしゃべらないのに、どんなゲストからも本音を引き出し、相手をヒーローにしてしまうと言いますし、あるいは全米70業界のトップ・セールスパーソン312人に同行して、数年がかりでセールス・パフォーマンスを観察・分析して「高確率セールス」を確立し、全米に衝撃を与えたジャック・ワースさんも「成約するためには、商談において25%以上、セールス・パーソンがしゃべってはならない」と結論づけています。営業や接客など、対人的な仕事をしている人は是非、ワースさんの『売りこまなくても売れる!説得いらずの高確率セールス』(フォレスト出版)を見てみましょう。ビックリしますよ。

 さらに名カウンセラーと呼ばれる人でも、決して能弁ではなく、むしろ訥々として、話している途中にもゲーゲーしたりして、「この人、ホントに名カウンセラーなの?」と思っているうちに、クライアントの方からいつの間にかぺらぺらしゃべり始め、しまいには「こうなんですよね、ああなんですよね、でもこうしなくちゃいけないんですよね、分かっちゃいるんですよ、そうですよね。じゃ、こういう風にしていきます」と自分で答までしゃべってしまうことすらあると言います。まさに「聞き上手、恐るべし」ですね。早速、今日から試してみましょう。



相手の得意分野と人生経験に学ぶ

 では、何を相手に聞けばいいのでしょうか?これは簡単です。相手の「得意分野」「人生経験」を聞けばいいのです。自分にそれほど「得意分野」が無くとも、大した「人生経験」が無くとも、一切関係ありません。大体、自分の得意な分野、専門分野というものは、機会さえあればその知識や経験、実績を語りたいもので、ただ往々にして関心を持つ人が限られてしまうため、しゃべる機会があまり無いというものなのです。したがって、その分野は歴史でも法律でも哲学でも何でもいいわけで、業界人なら出版でも金融でも教育でも何でもありです。必要なものは「教えを請う」という基本姿勢と旺盛な好奇心だと言えるでしょう。どんな人間、テーマからでも学ぶ内容はあり、聞いてソンするということはありません。「こういう世界もあるのか」と思えばいいのです。18歳にして「株」の「か」の字も知らず証券会社に入社し、若干26歳にして「スーパー・トレーダー」と呼ばれるようになった若林史江さんも、証券業界の先輩達に何時間でも喰らいついて多くを学んでいったと、『株が好き♪』(アスペクト)に書いています。この本を読めば、同時に多くの先輩達がこの若林さんを可愛がり、教え育てていったことが分かります。

 もう一つ、聞いてトクするのが「人生経験」です。大体、自分一人で経験できることなど限られていますが、聞く耳さえ持っていれば、一人で経験し得る何倍、何十倍もの人生経験を吸収することが出来るのです!人によっては30年もの濃密な人生経験のエッセンスをわずか3時間で語ってくれたりするので、これを聞かないわけにはいかないでしょう。この人は普通の人の2倍、3倍の人生を生きているんじゃないか、というような人がいるものです。こういう話をいっぱい聞いていると、誰かが困っている時に「ああ、あの時聞いたあの話が参考になるかな」と、「実は知り合いにこういう人がいるんだけどね」といくらでも話をしてあげることが出来るのです。自分は何も経験したわけでもないのに、「知り合いの話」ということで無限に「経験の蓄積」が拡大していくわけです。

ちなみに実践マーケッターとして著名な神田昌典さんは、外国人のビジネス・パートナーと短時間で信頼関係を築く方法として、「相手の子供時代の家庭の話」を聞けば、たった15分で人間関係は異なるレベルにシフトすると述べています。大体、幼少期のことを聞いてくれる人は滅多にいませんよね。もちろん、いきなり切り出すとヘンですから、過去に少しずつ遡っていき、子供時代の話、「生い立ち」に至っていくわけです。「生い立ち」の話をすれば、人は急速に親しくなると言うのです。過去の傷口を開いてしまう危険性がある場合には、「子供の頃、一番楽しかったことは何?」という質問をして、楽しい話題に切り替えるそうです。神田さんの『お金と英語の非常識な関係(上)(下)』(フォレスト出版)にはこうした人間関係構築法に限らず、目からウロコの情報がつまっていますから、是非、読んでみましょう。



「ハ行変格活用」と「すごいですね!」は万能兵器

 実は、具体的に相手から話を聞く上で、万能兵器とも言うべき効力を発揮するフレーズがあります。それは「はぁ~」「へぇ~」「ふ~ん」「ほぉ~」といったいずれもハ行のコトバで、これをまとめて「ハ行変格活用」と呼びます。日本語人なら中学校時代に国語で文法を習い、「カ行変格活用」や「サ行変格活用」を学んだことと思いますが、実際に社会生活で役に立つのはむしろこの「ハ行変格活用」です。「国語文法」ならぬ、「社会文法」と言ってもいいかもしれません。

 「政界きっての人間通」「人間関係の達人」と言われた竹下登元首相も、口グセは「ほーっ」「なるほど」「さすが」「なんと」「まさか」だったと言います。新人議員であれ、中堅議員であれ、はたまた野党議員であれ、竹下さんと話していると、ついつい気分が良くなってしまったようです。少なくとも悪い気はしませんよね。あまり下手な相槌は会話をシラけさせてしまいますが、会話の流れに沿った反応は、相手を喜ばせ、「もっとこの人のためにしゃべってあげよう」「大事なことを伝えてあげなきゃ」という気にさせるので、身に付けていきたいものです。これについては、近藤勝重さんの『人のこころを虜にする〝つかみ〟の人間学』(新潮文庫)にいっぱい具体例が出ていますので、是非、目を通しておきましょう。これが自然な反応になるためには、相手の話すことに関心や意識を持つことから始めなければなりませんが、実際に自分からしゃべらなければならないことはそんなにないのです。素直に感動し、驚き、「すごいですね!」とそのまま褒めてあげれば、「聞き上手」に磨きがかかるというものです。




【コミュニケーション・スキル2】疑問・質問がコミュニケーションを発展させる

何でもうのみにするとそこでおしまいになる

 その道の「第一人者」とか「専門家」とか、いわゆる「権威」のある人の話を聞くと、そのまま「そうか」と思ってしまう人がいますが、それだと聞く方も話す方もそれ以上の発展がありません。「本当にそうなのか?」「これはどういうことだろう?」「これは間違っているんじゃないか?」などと感じつつ、考えつつ、「質問」をすることが大切になってきます。実は「コミュニケーションの達人」「会話の達人」と言われる人は「質問の名人」でもあるのです。単なる「聞き役」なら一方的に話を聞くだけですが、「聞き上手」はいくらでも話が発展していく術(すべ)を知っている人であり、そのカギは「質問上手」にあると言ってもよいでしょう。

 例えば、高校中退した人が16歳でアメリカの大学に入学したとします(実際にいます)。この話を聞いた時にすぐに浮かぶのは、「えー、何で高校中退してそのままアメリカの大学に行けるの?」「16歳っていったら、アメリカ人だって飛び入学じゃん!その人、そんなに優秀なの?」といった疑問でしょう。早速、質問するわけです。すると、「あー、大検(現高卒認定)受けたのか」「コンディショナル・スチューデント(条件付学生)という制度があるのか」といったことが分かります。すると、次の疑問が「大検(高卒認定)って海外でも通用するの?」「誰でもコンディショナル・スチューデントになれるの?」という風に出てくるので、どんどん質問です。「おー、文部科学省に言えば、英文証明書を発行してくれるのか」「アメリカでも東部・中部・西部と違いがあって、特にカリフォルニア州とかはいろいろと実験的な試みをしているのか」といったことが分かってきます。すると、「アメリカに限らず、イギリスでもカナダでもオーストラリアでも条件は同じなのか?」とか「大学受験の手続きは一体どういう流れになるんだ?」とか疑問が疑問を呼び、次から次へと質問が生れてきます。「それで?それで?」と興味津々、目を輝かせながら、質問を重ねていけば、答える方も自分の経験や見聞、知識の全てを総動員して喜んで答えてくれるでしょう。これはお金では買えない貴重なプレゼントをいただいていると言ってもいいかもしれません。



素朴な疑問を大切にする

 ところで、質問するにしても、「こんなこと聞いたらバカにされるんじゃないか?」とか「自分が何も分かっていないことがバレちゃう」などといった不安が起きたりするものですが、ここは「素人」に徹しましょう。「何も知らない立場」「その場で始めて聞いたこと」として、1から10まで質問する」つもりでいるのです。アメリカの新聞なども「全く知らない人」を想定して、1から10まで説明することを基本としています。しかも、1回2回聞いたぐらいでは理解できないことの方が多いのですから、何度も質問しましょう。「ごめん、これ、前も聞いたんだけど、やっぱりよく分かんない。結局、どういうこと?」と聞けば、「しょうがないなあ~」などと思っても、それでもまた説明してくれるでしょう。

  問題なのは「分かったような気になる」「分かったフリをする」ことの方です。相手は当然理解してくれたものと思いますから、それを前提として話を進めていってしまいます。大体、「素人」ならいきなり新しい話を聞いてすぐに本質を理解できるわけないじゃないですか。むしろ素人ならではの「素朴な疑問」を大切にして、相手に率直に質問した方が、答える側としても「ああ、これは当然だと思っていたけどそうじゃないんだ」「こういう風に説明しても分かりづらいんだ」ということが分かるので、図に描いてくれたり、例え話を交えてくれたり、あれこれ工夫する余地が見えてくるのです。相手にとっても勉強になるので、教えてもらう立場でありながら、相手にプラスを与えることも出来るわけです。

 大体、偉大な発明・発見というものも、稀代の叡智を結集して、というよりは、素人の素朴な疑問から始まっていることが多いものなのです。

ところで、「素朴な質問」「鋭い質問」ともなり得ます。例えば、数学の質問で「どうして、三角比の単位円ではx軸とy軸にそれぞれ1を取るんですか?」と言ったとすれば、「おー!いい質問だ」といった反応が返ってくるかもしれません。なぜなら、この質問をした人は「単位円」というスーパー・アイデアの1つを理解する入口に立っていることが分かるからです。「教える心」に火をつける質問と言ってもいいかもしれません。

「そりゃあねえ、こうして角度θを置くと、三角比の定義からcosθはこうなってx座標になるでしょう。それでsinθはy座標になるじゃん!」

「???」

「だからさあ、分母が1になるでしょ、それでさ、こうなるじゃん!」

「何でそんなに突然、テンション高くなるんですか?」

 実に「いい質問」は「答そのもの」と表裏一体なので、「いい質問」は相手の心に響いてしまうのです。アインシュタインは「もし私が1時間後に殺されるとしたら、最初の55分間は、適切な質問を考えることに費やすだろう」と言ったそうです。聞く人が聞けば、「質問」の内容だけで、今どこまで分かっているかはもちろん、これから伸びるかどうかまで、手に取るように分かってしまうものなのです。



問題意識や興味を持つと、会話が深化する

 「スピーチや講演をして聴衆を眠らせる名人」という人がいます。要するに話がつまんないので、みんな寝ちゃうということですね。逆に「どんな話を聞いても絶対寝ない」ことを自慢にしている人もいます。何だか、「矛と盾」の話みたいですが、後者の人に言わせれば、コツは「話の内容に興味・関心を持つこと」だそうです。授業中とか大事な会議の場だとか、応用が利きそうですね。同様に会話でも問題意識興味・関心を持つと、「ただの話」が「自分にとって意味のある話、関係のある話」となるので、疑問・質問が生れるようになるのです。幕末の教育家吉田松陰も「本は自分に引き付けて読め」と指導していましたが、実は会話もそうなのです。

 実践マーケッターの神田昌典さんは、フォトリーディングという驚異的な速読法の公認インストラクターでもありますが、「私に言わせれば、読書というのは、本の情報を正しく理解して、それを活用するために行なうのではない。むしろ、本の情報を刺激として、既存知識を結び合わせて、自分自身の思考体系の中で活用するためだ」と喝破しており、これは会話でも同様のことが言えるのです。ちなみに神田さんの『お金と英語の非常識な関係(下)』には、初めて読む432ページもの洋書をわずか3時間で読了し、しかも概略をつかんで必要な情報を的確に引き出すという驚くべき実例が紹介されています。

 単に相手の知識・経験・考えを吸収するというだけでなく、むしろそれを媒介として自分の知識・経験・考えを再編成・再活性化するのです。会話のキャッチボールの中では、聞く側の知識・経験・考えの再編成・再活性化が往々にして、今度は話す側の知識・経験・考えの再編成・再活性化につながっていくものです。こうなったら、双方がこのコミュニケーションから実に多大なものを得ることとなります。

 同じように相手から聞いているように見えて、ただの「聞き役」に終始している人と、時々ほんのわずかな質問を交えて、どこまでも会話が発展し、話している側、教えている側も「君と話せてよかった!」「今日はいい時間をありがとう」とつい言ってしまう人の差は何かというと、心の中、頭の中にあるのです。

 では、どういう問題意識、興味・関心を持てはいいかというと、これはそれほど難しい話ではありません。要は「人間そのものに関心を持てばいい」のです。「人間を好きになる」といってもいいかもしれません。例えば、歴史に関心があるとしても、歴史は結局「人の営みの集積」と言ってもよく、科学などでも科学上の様々な発明・発見をしたのは「人間」に他ならず、あるいは「金もうけ」を目指している人なら、やはり「貧乏人から出発して金持ちになった人の体験談」に学ぼうと思うことでしょう。要するにあらゆる学問・分野・仕事は全て「人間のなせる業」なのです。




【コミュニケーション・スキル3】相手のプラス反応に敏感になろう

「何を話すか」ではなく、「相手がどう反応するか」が大事

 自分が好きなことになると、突然、話に力が入って、相手がどこまで理解しているかもお構いなく喋っている人がたまにいますが、相手の「寒さ加減」「ドン引き度」が分からないと、コミュニケーションが次第に薄くなっていくことは容易に想像されます。「オタク」であることは個人の自由なので全然構いませんが、それを表現する時には、相手の「反応」を見極めなければなりません。大体、コレクターとか趣味に熱中している人とかは何がしかオタク的です。

 ただ、ここで重要なことは「マイナス反応」に敏感になることも大事ですが、それ以上に「プラス反応」に敏感になる必要があるということです。話題が豊富で人を喜ばせることが得意な人でも、決して100発100中なのではなく、日常的に「ネタだめし」を行なっているのです。家族や友達との会話の中で、「これ、おもしろいよな~」と思いつつ話してみて、「あれ、思ったほどウケないな~」とか「やっぱ、笑うじゃん!」とか、相手の反応を見ているわけです。

 さらに人前でしゃべることが最初から得意な人はいませんが、こうした「ネタだめし」を頻繁にしている人は予行演習をしているようなものですから、「これとこれで仕掛けてみよう」と考えます。いわゆる「聴衆の心をつかむスピーチ」というものも自然にそうなるのではなく、「そうしよう」と思っているからそうなるのです。もちろん、「想定の範囲外」でウケることも外すこともあるわけですが、それもまた1つの「ネタだめし」となって、「次こそは」と場数を踏んでいくのです。

 実は「話す自分」「しゃべる自分」と共に「それを客観的に見る自分」が必要なのであり、いわゆる「ボケキャラ」の人も最初からそうなのではなく、「ボケた時に皆が笑ってくれた」というプラス体験が何度かあったから、「自分はボケキャラ路線で行こう!」と決めたのです。まれに正真正銘の生まれつきと思われる人もいますが。客観的にボケている自分を見て、「自分から見てもおもしろいじゃん」という見方がちゃんと出来ているからこそ、安心してボケていられるのです。さらに相手の反応をフィードバックさせて、ボケを洗練させていくのが本物でしょう。

 ちなみに相手の「プラス反応」に注目することは、営業でも重要です。営業はビジネスの基本なので、誰もが経験すべきですが、そうかといってすぐに売上が作れるわけもなく、実績の前にはその何十倍もの否定を覚悟しなければなりません。ひどい言葉を投げかけられたり、成約まであと一歩のところまで迫りながら、「やっぱり今回はいいです」となることもしばしばです。そこでお客の「マイナス反応」をいつまでも引きずって、「ああ、何で売れなかったんだろう?」「どこが悪かったんだろう?」と落ち込むわけですが、これが何十件も続くので、メンタルがやられます。実は売上をコンスタントに出している人は、お客の「マイナス反応」には目もくれず、「プラス反応」にのみ注目して、「どうして売れたんだろう?」「ここが響いたのかな?」などと考えていたりするのです。

 例えば、ある車のセールスマンが駆け出しの頃、何か月も全然車を売ることができず、絶望の余り、自殺まで考えたほどですが、やっとこさ売れた時のことを振り返ってみると、大体「150回に1回」の割合で車が売れることに気づきました。それで、それまではお客の「マイナス反応」を食らうたびに「どうして売れないんだろう、あ、また売れなかった、また今度もだ」とばかり思っていたのが、149回のノーを通じて、1回のイエスが現れる」(これをプロダクション・ラインと言います)ことに気づいてからは、逆に「早く149回断られないかな」と「ノー」を待ち遠しく思うようになったというのです。プラス反応に注目していくと、マイナス反応も肯定的に受け入れられるようになり、ベスト・セールスマン、スーパー・セールスマンとして知られるようになったのです。

 あるいは、65歳にして無一文状態から再出発したカーネル・サンダースも、1009回断られて1010回目に契約にこぎつけ、ケンタッキー・フライドチキンを創始しました。現在では世界中で約2万店舗に拡大しているのですが、彼もそれまで自分のフライドチキンを「おいしい!」と言って食べてくれた人達の「プラス反応」が絶対的自信の根拠となっていたのでしょう。



「笑ってくれた」「面白がってくれた」体験の積み重ねが自信につながる

 友達同士の会話でも、人前でのスピーチでも、偉い人との座談でも、「失敗」は付き物ですが(失敗にめげないことも大切ですね)、心の支えや自信になるのは「笑ってくれた」「面白がってくれた」体験に尽きるといっても過言ではありません。やはり、人間の本心に「人を喜ばせよう」とか「人の役に立ちたい」という気持ちがあるもので、自分がしゃべったことがウケて、相手が涙を流して腹をよじりながら笑っている姿を見たりすれば、やっぱりうれしくて仕方がないものです。逆を考えれば分かりますね。「人を悲しませてやろう」「人のお世話になろう」とか普通の状態ではなかなか思えないものです。これにはまってしまえばお笑い芸人の道となりますが、そこまで行かなくても、この体験を積み重ねることは自分の人格・性格に対する自信になっていくのです。逆にこうした体験が乏しいと、「自分は楽しい人間じゃない」「友達もそんなにいないし・・・」「暗い人間だから何やってもダメだ」とか思うようになり、心も人間関係もマイナス・ベクトルになってしまうのです。

 さらに「自己肯定体験のイメージをふくらませる」といったやり方もあります。これは、どんなに小さなことであっても、自分のことをほめてくれたり、認めてくれたりするとうれしいものですが、その時のイメージを何度も思い描いて、情的追体験をするというものです。悲観的な人は逆に自己否定体験のイメージをふくらませて、「やっぱり自分はダメだ」と考えてしまいがちです。1人でニヤニヤしている人は何がしか思い出し笑いをしているものですが、実は心の中でこういったイメージを反芻(はんすう)しているわけです。こういうタイプの人は「自己修復力」があるので、意外に傷つきにくいものです。周りからヘンな人と思われるのも困りものですが、根底に「自己肯定」があるか「自己否定」があるかは、表情に表われるどころか、心身全体に大きな影響を及ぼすのです。

 ちなみに「自己否定」が行き過ぎると「自己憎悪」になります。この点で鋭い洞察を示したのが心理学者のエーリッヒ・フロムです。彼はナチスを受け入れていったドイツ民族の集団心理の分析でも卓抜したものを示しましたが、その一方で酒や麻薬、異性関係に溺れる人の心理構造に関して、彼らには「自分がかわいい」「自分の欲望のままに好きなように生きている」といった「自己愛の心理」どころか、その根底に「自己憎悪の心理」があることを見抜いて、世の人々をアッと言わせました。実際、こういう人々は、「分かっちゃいるけど止められない」状況にありますが、これこそ顕在意識・表層意識・理性では理解していても、潜在意識・情念の欲望に勝てないという状態です。その根底には「こんな自分なんかどうなっていいんだ」という「自己憎悪」があるというのです。もしも自分を本当に大切にする気持ちがあれば、欲望に流されてダメになっていく自分をそのまま放っておけないはずですが、そこで投げやりになってしまっているわけです。



自分の全てを出してはいけない

 ここで注意しないといけないことは、「自分の全てを出してはいけない」ということです。「あれ、何でも腹蔵なく話せるっていうのがむしろいいんじゃないの?」と思うところですが、「自分の持っているもの」を全て出してしまうと、文字通り「カラッポ」になってしまうのです。大体、何から何まで全部しゃべってしまうのは、「自分の全てを分かってほしい」という思いがあるからで、そうではなくて、「自分の全てを分かってもらう必要はない」と割り切ることです。これは「諦める」悟りの一種と考えましょう。

 例えば10枚のカード(内容)を持っているとして、一度に10枚全部を出してしまえば、自分の底を最初からさらけ出してしまうのと一緒ですが、1枚ずつ要所要所、節目節目で切っていけば、「あれ、こんなことも出来るの?」「えっ、こんなことまで知ってんの!」となり、「一体、何枚カードを持っているわけ?まだあるの、もっと続くの?」と自然に思ってしまうのです。

 大体、「自分はすごいんだぞ!」とか思っているような人の話を聞きたいと思います?聞きたくないですよね。「勝手に一人でやってれば」と思うのが自然です。ところが、普通の人だと思って何気なく聞いただけなのに、「え、ウソ、何この人?この知識、何?」というような答が返ってくると、思わず「じゃ、これは?これはどうなの?」と思わず聞いてしまいます。「期待」がいい意味で裏切られる時、そして、その差が激しければ激しいほど、人の心は惹き付けられてしまうのです。逆に期待度がすごく高いと、実際にその期待を大きく上回るものが感じられないと、落胆が大きくなってしまいます。

 いわゆるスーパー・モデルや売れっ子歌手が映画やドラマに出た時、「声がそんなにかわいくない」とか「演技がヘタ」とかボロくそに言われやすいのはこのためです。実際に実力やレベルがひどいのではなく、期待が元々高すぎるために失望感が生まれてしまうのです。「低い期待」に対して、「それをはるかに上回る結果」を出して「意外感」を与えるのが人間関係のコツでもあります。

 ところで、中には「間」が耐えられないという人もいます。こういう人は沈黙を恐れるあまり、「何かしゃべらなきゃ!」という強迫観念にかられて、頭に浮かんでくること、知識として持っていることなどをべらべらと1から10までしゃべってしまいます。自分の話していることに意識が行き過ぎて、相手が言っていることに意識が行かないことすらあります。ところが、お笑いの大御所達が強調するのがまさにこの「間」なのです。「間」があるからこそ、相手がイマジネーションを働かせる時間が取れ、期待感が高まってくるので、それをわざとズラしたりして、笑いに変えることができるわけです。

 何から何までしゃべりすぎると、相手の想像の余地が無くなってしまい、さらには相手の話している最中にも割り込んで、「話の腰を折る」といったこともしばしば起こってきます。ここは一般的にはよく、「一拍待て」「0.8倍速でと言われるところです。




【コミュニケーション・スキル4】一撃必殺のコトバ術

ハッとさせる一言で相手の心をつかむ練習をしよう

 ある日のことです。ある男性が同僚の女性とその友達を車に乗せて駅まで運んであげました。男性が運転しながら自己紹介をすると、同僚の女性の友達さんは「キクチと言います。今日は本当にありがとうございます」とお礼を言いました。男性は「へー、キクチさんは水ですか、土ですか」と言うと、キクチさんは「土です」、男性は「ああ、そうですか。実はボクの身内もそうなんですよ~。奇遇ですねー」と答え、初対面なのに妙に盛り上がっています。ところが、同僚の女性さんはチンプンカンプン、一体何の会話がなされているのかサッパリ分かりませんでした。皆さんには分かりますか?

「水」とか「土」っていうから、西洋占星術のエレメントかなとか、気学の一白水星とか二黒土星とか、ああいう占いかな?とか思うかもしれませんが、それは考えすぎです。男性はキクチさんに「菊地」ですか、それとも「菊池」ですかと聞いたのです。キクチさんは今までに何度も「地」なのか「池」なのかという質問に出会ってきていますから、男性の話を聞いた瞬間、意味が分かったので、「菊地の方です」と答えたのです。すると、男性は自分の身内もそうだと言うわけですから、「同じ一族じゃん!」みたいな親しみが出たわけですね。

「土」だの「水」だの言っているだけですから、別にこれ自体、何ということのない会話ですが、このキクチさんは初対面であるにもかかわらず、この男性に対して好印象を持つでしょう。「この人は何か違うな」と一目置くわけです。この男性は特別、「自分はこういう仕事をしていて、こういう人間で・・・」とか一切言っていないのにです。実は「人の心をつかむ人」というのは決して「話し上手」な人ではなく、「ハッとさせる一言を放つ人」なのです。

 ちなみに人の心を「つかむ」上で欠かせない「言葉」ともなり得るのが「名前」です。「名前」その人を端的に表わすものであり、一番簡単な「アイデンティティ」と言ってもよく、「自分の名前を覚えてもらった」ということは、「相手の心・意識・記憶の中に自分が入った」「自分を受け入れてもらった」ことを意味するので、実に大きな意味を持つのです。

 例えば、教育実習に行った先生の卵達は、受け持ったクラスの名前を覚えるのに躍起になりますが、大体「顔」と「名前」が一致するのに2週間ぐらいかかるのが普通です(昔はこれで実習期間が終わっていました)。しかし、賢明な人は「最初が肝心」だと分かっていますから、前日までに写真と名簿を使って全ての生徒の名前をフルネームで覚えるのです。そして、第一日目の出席簿を読み上げる時に、1人1人フルネームで呼んで顔と名前を必死で一致させます。そして、一巡した後に、もう一度1人1人の顔を見ながら、ゆっくりフルネームを呼んでいくのです。すると、クラス全員を呼び終えた時、生徒はびっくりして「今、名前を呼んでいるうちに全部覚えたのか!」とその教育実習生に一目置くようになるのです。「この先生は何か違う」と。少なくともこの人が実習期間中にナメられるなどといったことは一切起きなくなるでしょう。

あるいは大学の合同サークル合宿などで、初めてのメンバーが30人も40人も集まる場合の進行役の人が使う方法で、「自己紹介ゲーム」といったものもあります。これは一番最初に行うもので、皆に輪になって座ってもらい、1人1人名前をフルネームで言った上で自己紹介をしてもらうのですが、2人目の人は「織田信長さんの隣の豊臣秀吉です」といった風に紹介をするのがポイントです。3人目の人は「織田君の隣の豊臣君の隣の徳川家康です」という風に続きます(いずれも本名でやるんですよ、ここでは例で出しているだけです)。こうして10人くらいになると、皆、覚えきれなくなって、指で何度も手になぞったり、いろいろな努力をしてきますが、ここで進行さんが「ハイ、徳川家康君だよー!みんな、覚えたー?」とか「織田君の隣の、豊臣君の隣の、徳川君の隣のォ…」とか大きな声でサポートしてあげます。そして、30人なら30人、40人なら40人(これくらいが限度でしょう)、全員が一巡してやっと最後まで終わったら、最後の1人である進行さんが、「では自分の番ですね」と言って、「織田信長君の隣の、豊臣秀吉君の隣の、徳川家康君の隣の、・・・・○○です!」と全員の名前をフルネームで呼び上げて、最後に自己紹介をするのです。この瞬間、全員が「この自己紹介の間に全員の名前をフルネームで覚えたのか!」とビックリします。もう、この合宿期間中、進行さんの言うことを聞かない人は1人もいないでしょう。「この人は何か違う」と最初に思うからです。何のことはない、進行さんのやったことは前の日に名簿を手に入れて、必死に覚えただけなんですね。「名前を覚えただけ」で、何の特殊な技術も使っていません。簡単なことですが、まとめ役をする人にとってはありがたい、そして効果絶大の方法なのです。



「つかみ」は最初(アタマ)で決まる

 これはセールス・パーソンなど対人・接客の仕事をしている人にとっては「鉄則」と言ってもいいものです。よく3分以内につかめ」とか「出会って3秒が勝負だ」とか言われるわけですが、その所要時間はともかく、「最初」が肝心であることは間違いありません。そう言えば「巨人の星」の星飛雄馬も、「しょっぱなからドバーンと出ばなをくじくに限る」と言っていましたね。なぜなら出会いがしらの「第一印象」はその会話の80%を決めるほどの比重を持つからです。

 しかもこれは必ずしも「コトバ」「会話」とは限りません。人によっては握手1つ、お辞儀1つで「おっ、こいつは」と思わせてしまいます。若きアントニオ猪木さんなどもこういう人でした。あるいは同僚や友人でも、用事があって会った時に、満面に笑みを浮かべて、「おー、待ってたよ~。いやー会いたかった。さ、さ、こっち、こっち。ほらほら」とか言われると、「あれ、何かな?」とか思いつつも、何だかうれしくなってしまいます。何か自分が大事にされているような、期待されているような感じを受けるからです。もちろん、それが単なる社交儀礼なら、むしろイヤな気分になりますが、本当にそう思っていることを素直にストレートに表現されると、うれしいような恥ずかしいような気持ちになるものです。知らないうちに心がつかまれちゃっているわけですね。

最初に大声&ビッグ・スマイルで「よろしくお願いしまーす」「おはようございまーす」と言ったりしてつかみをかけ、これだけで面接試験で合格が決まった人も実に多いのです。あるいは、お笑いコンビのアンタッチャブルはテレビ局内でも好印象を持つ人が多くいるとされますが、彼らは売れてからも売れる前と変わらず、誰と会っても「あざーっす!」(ありがとうございまーす)と大声で挨拶を欠かさないことも関係しているのでしょう。ガイダンスやセミナー講師が「今日、私のお話には3つのポイントがあります」「結論から先に話しますとこういうことです」とズバリ言ったりするのも、最初(アタマ)を取るために必要だからやっていることなのです。

 ちなみに全米ナンバーワンのセールスマンに対して、インタビューした有名なテレビ司会者が疑り深そうに聞いたことがあります。

「本当に何でも売ることが出来るんですか?」

「売れますよ。」

「じゃあ、私にこの灰皿を売ってみて下さい。」

「いいですよ、いくらだったら買います?」

「そうだな、1ドルぐらいかな。」

「ダン!(契約成立)」

 一瞬でつかんじゃってますね。



チラリチラリの気になる存在になる

 例えば、「会議」の場ならどこに座りますか?司会者・議長のすぐ側に座りますか?それとも一番遠い側に座りますか?ちょっと考えてみましょう。別に「会議」でなくても「ミーティング」でも「飲み会」でも何でもいいのですが、ポジショニングというものは意外に知恵がいるということを知って欲しいのです。

 大体、「会議」というのは楽しい場というよりは、深刻な内容が多くなりやすい場なので、座る場所には気をつけなければいけません。司会者・議長のすぐ側だとしょっちゅう意見を求められたり、あるいは何かの「言い出しっぺ」になってしまって面倒くさい責任を持たざるを得ない状況にもなりかねません。反対側でも真正面なら会議の間中、司会者・議長の視野の真ん中に入っていることになり、息が抜けません。これに対して一番いいとされるのは隅っこで、司会者・議長の視野から隠れる所、でも顔を出せば目に入る所が理想的です。もちろん、人によっていろんな意見があるでしょうが。厳しい内容が続く時は引っ込んでいましょう。笑いや冗談が出ている時は顔を出しましょう。そうすると、どうなるか。司会者・議長からすれば、時々チラリチラリと見えて、何となく気になる存在になるのです。ある意味ではリーダー的な「儒教」的生き方よりも、真ん中に埋もれていく「老荘」的生き方がいいと言っているみたいですが、これは思った以上に効果的なので、試してみる価値があります。ただ全く発言しないと完全に埋没してしまいますので、ボソッと一言、「おっ」と思わせる発言をすることだけに集中しましょう。それが出来たら、後はヒマなものです。

 通常の人間関係でもやたら出しゃばる人や「オレが、オレが」といったアクの強い人は敬遠されがちで、いくら実力があってもいい人間関係が築けるとは限りません。それよりも場を乱さず、しかし何かチラチラして気になるな~という存在を目指せばいいのです。これならそれほど肩肘を張る必要もなく、誰でも取れるスタンスと言えるでしょう。




【コミュニケーション・スキル5】親友の作り方

「友達の所に遊びに行く人」と「友達が遊びに来る人」

 不思議なもので、人間は「友達の所に遊びに行く」のが好きなタイプと、「友達が遊びに来る」ことが多いタイプとに分かれるようです。もちろん、「一人でいるのが好き」とか「群集の中の孤独がオレには似合うのさ」なんて人もいるでしょうが、一般的な友人関係としてはどちらかでしょう。これはどちらがいい悪いということではありませんが、「営業の達人」「人脈の達人」は一見前者的と見られるものの、実は後者的要素を強く持っていることに注目しましょう。

 前者的要素とは「マメに連絡を取る、出かける、訪ねる」ということになりますが、後者的要素とは自分は全然動かないのに、人の方が集まってくるという現象を指します。コミュニケーション・ビジネスなどでも、売上・収入が多い人は必ずしも必死になって走り回っている人とは限らず、逆に人の方から声をかけてくる「台風の目」「扇の中心」にいる人だとされます。経験者・成功者に言わせれば、ここに気づくとビジネスが劇的に転換するということです。

 あるいは、一般的な予備校や大学の学生寮などでも不思議と各階に何部屋か「たまり場」が出来てきます。何となく、そこに皆が集まっておしゃべりしたり、お菓子を食べたり、ああだこうだとやっているわけですが、人間の本心は「自分にとってプラスになるもの」をかぎつける、見分ける働きがありますので、その「たまり場」にはそうした「何か」があるということでしょう。何でも言いやすいとか、勉強出来るとか、居心地がいいとかいうことでしょうか。

あるいは「話題に事欠かない人」という人がいますが、実はこういう人は「人が絶えず話題を持ち寄ってくれる人」なのです。あちこち駆けずり回って情報を集めているのではなく、自分は全然動いていないのに、電話やら来客やらで人の方から情報を持ってきてくれるのです。

「金儲けの神様」と呼ばれていた邱永漢さんも、1時間1万円でビジネス相談を続けていたそうです。これほど忙しい人がこの値段で貴重な時間を割くわけですから、単に金儲けのためではないわけですね。大体、一昔前の「目指すぞ!大金持ち!」人間達はみんな邱永漢さんの本を読みふけったものです。その次の世代はナポレオン・ヒルさんやジョゼフ・マーフィーさん、今なら本田健さんや神田昌典さんといったところでしょう。邱永漢自身もたくさんのビジネスを手がけ、成功も失敗もたくさん経験してきた人ですが、それでもたくさんの相談を聞いて、実に勉強になったそうです。

 つまり、人間関係とはものすごく「能動的」な行為、すなわち努力して、エネルギーを注がないといい関係は作れないと思われがちですが、そうではなくて、充実するかどうかはきわめて「受動的」な行為がカギを握ると言えそうです。柔道でいろいろな技を覚える前に、まず「受け身」をひたすらやることや、強い人ほど相手の力をうまく受けて、流したり、自分の技に生かすのに長けていて、強引に真正面からの力勝負を挑んだりしないことと共通するでしょうか。



「ベスト・フレンド」は「一番の仲良し」、「親友」は「ソウル・ブラザー」

 「自分は誰からも理解されていない」という言葉はよく聞きますが、シビアに言えば、こういう人は「誰も本当に理解したことがない」人だとも言えます。「追いかけると逃げていくが、どうでもいいやと思うと寄ってくる」(まるで恋愛みたいですね)という逆説のごとく、「理解されたい、理解されたい」と思い続けていると全然理解してもらえないものですが、「自分のことはもうどうでもいいや。それより他の人を理解できるような自分になろう」と開き直って努力していると、不思議なことに自分を実によく理解してくれる存在にめぐりあったりするものです。これも「人間関係の妙」といったものなのでしょう。

 ところで、よく「親友は何人いますか?」と聞かれて困ってしまう人がいますが、その理由はこうです。「親友と言っても、どこまでが親友で、どこからが普通の友達かがよく分からない」。結論から言えば、こういう人は「親友」がまだいない人です。もちろん、「仲のいい友達」はいるのでしょう。そもそも漢字で「親友」と書くから「親しい友」に過ぎないのであって、英語で言うなら「ソウル・ブラザー」(この言葉には他にも意味がありますが)というところです。通常は「ベスト・フレンド」とよく訳しますが、これなら「一番の仲良し」という意味です。「親友」はむしろ、意味的には「心友」とか「真友」とか書きたいところですね。

  「特別な絆」「魂の結びつき」を持った「魂の兄弟(ソウル・ブラザー)」というのはなかなか言い得て妙です。「ブラザー」と言いますが、内容的にはシスターも含みます。「マン」と言って「人間」を意味するのと一緒です。よく「男と女の間に友情は成立するのか」という議論があったりしますが、男同士だろうが、女同士だろうが、男女間だろうが、この「絆」は成立します。いわゆる「恋愛感情」「魂の絆」とは別なものなのです。

 ではどうしたら、こういう意味での「親友」が出来るのでしょうか?誰でも親しい友達なら2~3人から5~10人くらいはいることでしょう。もちろん、「友達と呼べる人は1人もいない」という人もいるかもしれませんし、「友達なら30人は下らないな」と豪語する人もいるでしょう。実はこれは誰にでも出来ることなのですが、その「作り方」はほとんど知られていないのが現状です。単に親しさが増していけば自然に「親友」になるというものではありません。



「ある一言」が出た瞬間、「友達」は「特別な関係」に変わる

 友人同士で、「お前とオレとは親友だよな」「そうだな」とか「私達親友よね」「そうよ」とか言えば、親友になるのでしょうか。こういうセリフは小学生でも普通に言っていますが、そうではありません。2人の関係がある段階に達した時、客観的に明らかに別な段階に入った時、それと分かる「印」があるのです。これは相手の口から出る「言葉」で、「これは今まで誰にも言ったことがないんだけど」という一言です。この前段階としてまず相手の全てを理解する必要があります。具体的にはずーっと相手のことを聞いていくことですね。大体、いろいろ悩みを抱えていたり、秀でた能力があったり、希望があったり、挫折があったり、こういう性格だったりという今の「自分」という存在は、いきなりこうなっているのではなくて、「結果」としてこうなっているのであって、その「原因」「構成要素」として「人生経験」「家庭環境」「遺伝要因」の3つがあるのです。そこで、遡っていける限り遡って、この3つを尋ねていくわけです。

まず「人生経験」においては、特に今の自分を形作る上で決定的とも言う「原体験」がありますが、それはそんなに数が多いものでもなく、たいてい1~2個、多い人でもせいぜい3~4個といったところです。病気や怪我、失恋、受験の失敗といったマイナス体験もあれば、スポーツでの勝利や恋愛の成就、試験合格といったプラス体験もあるでしょう。また、「家庭環境」でも親が離婚・再婚していたり、兄弟姉妹間の比較が苦痛で傷になっていたり、貧乏だったとか、逆にお金はなくとも楽しかったとかいろいろあるでしょう。さらに「遺伝要因」まで遡れば、「ガンの家系」だとか、「ご先祖さまは平家だった」とか出てくるかもしれません。

 一見、膨大なようですが、実はそれほどでもありません。自分でこれをやれば「自己分析」となり、普通はノートに書き留めますから「自分ノートづくり」になるわけですが、何ヶ月も何百ページも費やすような作業ではありません。そもそも徹底的に試みたことのある人はそういません。これはちょっと悲しいことですが、1~2週間でも10数ページでも出来てしまいます。そして、こういう「自分史」の中には「言うに言えない部分」(自分でも触れたくない、見たくない部分)というものが誰にでもあるものです。それが、ずーっと自分の話を黙って聞いてくれている人に対して、「自分のことをここまで理解してくれた。でも・・・」とか思いつつ、信頼関係がある段階にまで達した時、ふとこの一言「これは今まで誰にも言ったことがないんだけど」が出てくるのです。

 これは強制して出てくる言葉ではなく、相手を信じて自分を委ねた時に初めて生れる言葉なのです。この時に「親しい友人」「特別な関係」となります。それは「手に入れようと目指すもの」というよりは、「相手を理解しようと一生懸命になり、その痛み、悲しみを共感、共有した時、結果として生れてくる関係」と言ったらいいかもしれません。

 大体、「人間は喜びの極致と悲しみの極致において友人を欲する」と言いますが、誰でも「喜びを共有する」友人にはなりたいものの、「悲しみを共有する」友人にはなかなかなれないものです。だから、これは人種も国境も宗教も超える関係となり得るのです。

「世界は一家、人類は兄弟姉妹」という言葉がありますが、これは単なるスローガンといったものではなく、実在する「絆」「人間関係」なのです。そして、この絆のあることを実感した時、「人間不信」というものはなくなります。




【コミュニケーション・スキル6】恋人の落とし穴

意外に知らない「恋愛の心理」

 人生前半期最大のテーマが「恋愛」あるいは「結婚」であるとすれば、誰しもこれを相当研究し、人生経験を重ね、人間関係の訓練をしているかと思いきや、意外にも無知・無理解のまま、いきなり大舞台に上がってしまう人が数多くいます。人間の成長に伴う「生理的なメカニズム」については学校でも学びますが、「心理的なメカニズム」「人間関係の意味・意義」については家庭でも学校でも系統的に教えてくれるわけでもありませんから、仕方が無いといえば仕方が無いことかもしれません。そもそも教えることが出来る人がいない!

 実際、男女間の愛と性に対する意識の違いはよく知られていますが、「恋に恋する」幼いレベルから「相手を通して自分を愛する」自己愛の心理、若い女性に意外に多く見られる「プリンス・チャーミング」(白馬に乗った王子様)観、さらには本人でも自覚するのが難しい「代償」など、知っておくべきことはけっこうあるものです。「代償」では、女性が「男性」「夫」を求めているようで実は「父親」を求めていたというケースのように、親との関係が影響する場合が多いので、「家庭環境」を知らないと判断が出来ません

 最近では結婚紹介業も盛んになり、会員数万人という企業も珍しくなくなりましたが、ある「ハイレベル層」(高学歴・高収入など)限定の結婚紹介会社によれば、ここに会員登録している女性達の要求するものは100%「高収入」で、「例外無し」だそうです。これに対して、男性会員は間違いなく「かわいい女性」を求めており、しかも「モデルのような美人」を要求するというのです。ここの就業面接を受け、「あなたはウチの会社に向いている!」とスタッフから絶賛されたある女性はこの現実を知って、思わず友人に「これってどこにも『愛』がないわよね」と言ったそうです。そりゃそうですよね。女性は「要は金よ、私はラクがしたいのよ」と言っているようなものであり、男性の方は金はあるので、それでモデルのような美人を買っているようなものですから。そして、これを聞いた友人も「こうして結婚した夫婦からどんな子供が生れるんだろうね」と顔を見合わせたと言います。

 あるいは芸能人の中でも、初めて会った時に「ビビッと来た!」と言って結婚することが一時期多く見られましたが、「ビビッ」と来たにも関わらず、離婚してしまうカップルが多いのは一体どうしたことでしょう?実はこの「ビビッ」がくせ者なのです。そもそもなぜ「特定の人」を好きになるのか、正確に言うと「好きになってしまうのか」、考えたことがありますか?

 日本ではあまり知られていませんが、「運命心理学」「運命分析学」を創始したリポット・ソンディによれば、「恋愛」「友情」「職業」「疾病」「死因」といった「選択」には「無意識の作用」が働いており、それはフロイトの言う「個人的無意識」とユングの言う(人類レベルの)「集合的無意識」の間にある「家庭的無意識」(先祖から引き継いだ無意識)が関係しているとしています。

 これにはソンディ自身の「原体験」があり、23歳の頃、軍医中尉だった彼がわずかな休暇を利用してウィーン大学で熱心に心理学の聴講していた時、初恋の女性と巡り会い、彼女と是非結婚したいと思って、何とか休暇をもう少し延ばそうとしていたそうです。彼女は語学教師をしており、ブロンド髪のアーリアン系美人で、ザクセン出身でしたが、ある夜、彼の両親が彼の異母兄の悲惨な運命について、悲しげに語り合っているという夢を見て、ソンディは衝撃を受けることとなります。ちなみにソンディは異母兄の死の3年後に生まれています。実は以前に彼の異母兄は彼と同じようにウィーン大学で医学を勉強しており、これまた同じようにブロンド髪のアーリアン系美人で、ザクセン出身の語学教師の女性を愛してしまったのです。彼の異母兄はその女性と結婚しましたが、結局、医師国家試験の受験を断念しなければならなくなり、結婚は完全に失敗で、悲惨と言ってもよかったと言います。この時、ソンディは「これは偶然の暗号ではない!自分は無意識のうちにこの異母兄の運命を反復しようとしているのだ!」と直感し、強い意志と理性を働かせて断ち難い愛着を断ち切り、直ちにウィーンを去ったのでした。

 このように「ある特定の人を好きになる」「縁が生じる」というのはたまたま偶然にというわけではなくて、家系を遡っていくと「必然的な原因」が見えてくる場合があるのです。これが「無意識」の中に引き継がれている可能性があるため、「遺伝要因」まで知る必要があるのです。



「さみしいから」が動機だとお互いをダメにするのは時間の問題

  「恋愛」「結婚」「人間関係」である以上、その「結果」によってその「関係」が2人にとってプラスであったか、マイナスであったか、知ることが出来ます。特に「結婚」の場合、「結果」とは「家庭」であり、また「子供」であると言えるでしょう。さらに「子々孫々の繁栄」という点で見るならば、幕末の洋学者箕作阮甫(みつくりげんぽ)と福沢諭吉が対照的なケースと言えましょう。

 箕作阮甫は弟子の中から最も優秀な者達を養子にして、3人の娘達と結婚させ、3代目・4代目に箕作麟祥・菊池大麓・箕作佳吉・呉秀三・呉茂一ら阮甫をはるかにしのぐ人材を輩出し、大学者になった者、大学者に嫁いだ者、数十人に及びました。まさに「学者の家系」の面目躍如たるものがあります。これに対して、福沢諭吉は実力や名声は当代随一でありましたが、惜しむらくは彼は「一代の傑物」と言うべきで、その子孫から彼をしのぐ人物が出たかと言うと、そうは言えないところが悲しいところです。「結婚」の「結果」というものは、長いスパンで見る必要もありそうですね。

さて、ここで決定的なのは「動機」です。「動機」が時間と共に結果するわけですから、当たり前と言えば当たり前ですが、「さみしいから」が動機で彼女・彼氏が欲しいなら、お互いの成長どころか、無意識的には「自分のために相手を犠牲にする」という心理構造になります。この関係が時間と共にどうなっていくか、難しく考えなくても簡単に分かるところです。

ところで、「彼女いない歴3年、もうイヤダー」とか「彼氏、欲しーよー。彼氏がいる友達がうらやましい」とかいう声は巷でよく聞かれますが、いわゆる「目的達成の法則」に従って、「彼女、彼女・・・」「彼氏、彼氏・・・」と潜在意識に命令を下し、四六時中そのことばかり考えていればいいのでしょうか?もしもそうなら、男性は接する女性に対して「彼女になる可能性があるかないか」という尺度でしか見えなくなってしまいますし、女性も「彼氏になる可能性があるかないか」と真先にチェックをすることになりかねません。これだと人間関係のハバが広がらなくなってしまうのです。

 ここでシミュレーションですが、あなたが女性であるとして、目の前に「イケメンでかっこいい、女性にはもてるけど男同士の友達はあまりいないみたい」という男性と、「顔はじゃがいも、でも友達は多くて、男性からも女性から好かれているし、お年寄りや子供からもよく声をかけられる」男性がいたとしたら、どちらがいいですか?「人間関係論」から言えば文句なく後者がいいとなります(じゃがいもでも!)。後者の男性には人間関係のハバがあり、いろいろな情的訓練を受けているようなものなので、少々のことがあっても吸収してしまうことでしょう。前者の男性には情のハバがあまりなく、ヘタをするとストーカーになる可能性だってあります。

 あるいはあなたが男性であるとして、「かわいい女の子で、友達はそこそこいるけれど、男性との交流はほとんどない人」と「明るいキャラで、それほど美人とも言えないけど、みんなの人気者」がいるとしたら、どちらがいいですか?これも前者なら男性との情的関係を築く訓練が乏しいので、パートナーとの間で初めて本格的にそれに取り組むことになります。「いきなり実戦」に突っ込むのもどうでしょうか。まず基本練習やミニゲームを重ねてから試合に臨むのが、スポーツの基本ですよね。うまくいけばいいのですが、うまく間合いがつかめなければ「依存」感情が強まる可能性もあるでしょう。

ただ、いずれにしても「関係性」というものは「絶対的」ではなく、「相対的」なものですから、「補完関係」としてうまく機能させることが一番重要です。そして、この「補完関係」をうまく見抜いていくのが「人間関係におけるコーディネーション」であり、「究極のコーディネーション」とも言えます。ユング心理家として著名な河合隼雄さんも『家族関係を考える』(講談社現代新書、この本は読むといいですよ)の中で、「夫婦はその共通部分を関係の維持のために必要とし、対立する部分をその発展のために必要としているのである」と述べていますが、けだし名言です。

 ところで、「結婚」後、夫婦関係が最も大きく変わるのは「出産」後です。子供が生れて、「夫婦」「父母」の位置・役割共にシフトするわけですから、劇的変化と言ってもいいでしょう。したがって、「離婚」する場合も子育てをめぐって亀裂が拡大したケースが実に多く見られます。生活は自分の自由にならず、子供を中心に犠牲を強いられるわけですから、決して甘いものではありません。未体験ゾーンに突入し、状況の激変を迎えたわけですから、準備不足や意識変革の失敗で「適応」が出来なかったとしても、ある意味では一定の割合で起こる、避けられない現象と言ってもいいかもしれません。これに対して、「成田離婚」などはあまりにも「見る目」がなかったというケースと言えそうです。

そもそも、「結婚」はたいてい「相手が好きだから」という理由で踏み切りますから、それまで付き合ってきた過去数年がその「決断の根拠」となります。ところが、実際には、「家庭」を共に営むということになれば、これはほとんど「共同経営者」に近い感覚になってきます。企業経営と同じように、家庭でも「収入」と「支出」のバランスを「家計」という枠組みの中でやりくりし、「子供」という新たなメンバーが加わればこれを育て、教育していくわけで、経営者が無能であれば「家庭経営」は破綻します。企業を立ち上げる時に共同経営者として「仲のいい友達」「好きなヤツ」を選ぶ人がどこにいるでしょうか?

それなのに、「家庭」の出発点たる「結婚」においては、「未来」「決断の根拠」とせず、「愛があれば何とかなるの」と簡単に言い切ってしまう人が実に多いのです。実際には「愛」も「能力」も必要なのが「家庭」というものなのです。



まずはお兄ちゃん、お姉ちゃん、弟、妹的存在をいっぱい作ろう

 「さみしいから」というのもダメ、「彼女」「彼氏」を目をギラギラさせて探すのもダメだとしたら、一体何からどうしたらいいのでしょうか?これは簡単です。まずはお兄ちゃん、お姉ちゃん、弟、妹的存在をいっぱい作ることが先決です。「えっ、自分の兄弟にちゃんといるよ!」という人もいるでしょうが、この四者を完備している人はそういません。

 例えば、長男長女の人はしっかりしている人もボーッとしている人もいずれもいますが、末っ子の人と比較すれば、「甘え下手」な人が多いのは厳然たる事実でしょう。こういう人には、逆に自分を弟妹の立場で面倒を見てくれるお兄ちゃん、お姉ちゃん的存在が、「情の成長」という観点からどうしても必要になるのです。

 これは「情は情でしか買えない」ためで、「実際に経験しない限り、情は育たない」からなのです。自分の家では長男長女でも、外で(社会的に)お兄ちゃん、お姉ちゃんをいっぱい持っている人は間違いなく、情が豊かに幅広くなっていきます。これに対して、末っ子の人などは逆に自分が面倒を見てあげるべき、弟や妹が必要になります。話を聞いてあげたり、助けてあげたり、面倒をみて育ててあげるような存在がどうしても必要なのです。

 こうしたお兄ちゃん、お姉ちゃん、弟、妹的存在は多ければ多いほどいいもので、それだけ人間関係のハバが広がり、情が豊かになっていくわけです。逆に恋人は本来1人であるべきもので、少なければ少ないほどいい存在です。ビジネスの現場でも、長男長女的な責任を持つ側面も、末っ子のように可愛がってもらい、面倒を見てもらう側面も、はたまた真ん中の子のように両者をつなぐ側面も全て必要になってきます。

 人によってはさらにお父さん的存在、お母さん的存在が必要になる場合もあります。これは兄・弟・姉妹の場合もそうですが、肉親として実際にいても関係としては良好でなかったり、傷を負っていたりするケースがあるからで、この場合は、本来の関係を取り戻すために必要となるのです。歪んだ情、傷ついた情は時間と共に癒されるとは限らず、沈潜して別な形で表面化することが往々にしてあるものです。これはフロイトの言う「個人的無意識」に他なりません。

  基本的に父・母・兄・弟・姉・妹の6者が「人間関係論」「情の成長」から見て決定的に重要な存在であり、ここで人間関係・情が豊かに育まれることが1人の成熟した男性と1人の成熟した女性として関係を築く上での「土台」となるのです。こういう土台をきっちり作らずして、いきなり高いビルや立派な豪邸を作ろう、それは私の長年の夢だ、理想だと言っても、それは無理があるというものです。




【コミュニケーション・スキル7】メンターは何人いてもいい

分野ごと、テーマごとにメンターを持つ人は強い

  「メンター」(導き手、師)なる言葉は本田健さんの『ユダヤ人大富豪の教え』(大和書房)で一気に社会化したところがありますが、武道の世界でも3年かけても良師を探せ」という言葉があり、「誰に学ぶべきか」ということは分野を問わず、大切なことであると認識されています。これは必ずしも実際に会わなくてはいけないということではなく、最初は本を通してでもいいのです。目的意識に沿って多くの本を読んでいけば、「この分野に関してはこの人の著書がいいな」とか「このテーマに関してはやはりこの人のこの本だな」といったことが次第に分かってくることでしょう。ただ、自分の持つ問題意識にドンぴしゃりの内容が本に必ず載っているとは限らないので、「生きた人間」「聞けば何でも答えてくれる人」を如何に自分の「人脈」の中に確保するかが次のテーマとなってきます。

 例えば、「法律関係ならこの人に連絡しよう」「経済学ならこの人に聞けば大丈夫」「最新の流行についてはやっぱりこの人」といった「知り合い」がどれだけいるかということは、「アクセス・ルートの確保」がどれだけ出来ているかということを意味します。大体、今の社会においては必要な「情報」が「無い」ということよりも、「どこかに有るのは分かっているけれども、どこに有るかが分からない」「どの情報とどの情報をどう組み合わせれば自分にとって意味があるかが分からない」ということが問題になるのであり、こうした「アクセス・ルートの確保」「個別目的に応じた加工」が可能になれば、それに基づく「情報コンサルティング」が出来るようになるのです。「何を聞いても答が返ってくる」「的確な情報提供をしてくれる」という人がいますが、こうした「情報」を駆使する「情報コンサルタント」は何でも知っている、何でも経験しているというわけではなくて、この2つに長けていると言ったらよいでしょう。

ところで、人によっては「メンター」「ブレーン」ともなるでしょう。楽天的な政治家(えてして「大ボラ吹き」と言われることになります)には、その人の能力をはるかに超えるブレーンがいたりするものですが、中でも筆頭格は池田勇人元首相でしょう。彼が「所得倍増論」を打ち上げた時、誰も信じる者がいなかったと言います。それはそうでしょう、敗戦国家で焼け野原から出発した日本がいくら戦後復興の波に乗っているとはいえ、そこまでハイレベルな「高度経済成長」を実現できるとは誰も考えられなかったのです。ところが、池田の経済ブレーン「木曜会」に集まるメンバーはそうそうたるもので、在野の経済評論家として名高い高橋亀吉、「下村理論」で有名な下村治ら「七人の侍」がおり、その叡智を結集した政策を実行に移したのが池田だったのです。

ところで、実はこの池田の人生はとても順風満帆とは言えたものではなく、一高受験で2度落ち、やっと五高に入って京大法学部から大蔵省に入るも、これは決して主流派とは言えないコースでした。さらに彼はここで天然痘に似た奇病である皮膚病にかかり、医者から絶望を宣告されます。この看病疲れで、最初の妻は病死するほどで、見かねた母親が誘って四国八十八カ所の巡礼に出かけています。皮膚がボロボロのために草履がはけず、板を足に紐で結んで歩く状態で、大の男が母親に手を引かれてという有様でしたが、この難行による運動が効いたのか、発病して5年後に初めて風呂に入ることができるまでになります。やがて、完治し、2番目の妻と駆け落ち同然で上京し、税務署の用務員にでも雇ってもらえればいいと思っていたところ、大蔵省の課長の口利きで復職を果たしています。彼はその後もせいぜい国税課長を目指していたぐらいですが、戦後のレッド・パージで省内の地位が上がり、ついに事務次官から政界に打って出て、首相にまでなっていくのです。

政界に出てからも池田の失言癖は有名で、「中小企業の1つや2つつぶれても」「貧乏人は麦を食え」といった失言を繰り返していますが、これらは激昂して口走ったのではなく、彼自身の実感の中から生まれた言葉であったと言います。実際、資本主義市場経済の第一原則は「失業と破産による淘汰」にあり、「自己責任」の原則も当然重視されますから、池田の言葉には一理あります。池田は知性的でも教養あふれるわけでもなく、都会人らしい繊細さもなかったようですが、素直に「オレは頭が悪いから助けてくれ」と言うので、周りの者は「それなら助けてやろうか」と思ったようです。そして、皆が知恵をふりしぼって案を練り上げると、池田は大真面目にそれを実行し、うまくいけば「どうだ、オレだってうまくできるだろう」と胸を張っているので、誰も彼を憎めなかったのです。そうでなければ、「知性の塊」のようなあの宮沢喜一元首相が池田のために粉骨砕身するなどということはなかったでしょう。

実に「楽天主義」はその人の能力をはるかに超えて、「人の和」による大きな結果を生み出す秘訣なのです。



人から助けてもらわないで成功した人はいない

 ベンチャー・ビジネスの成功者などは典型ですが、大きな成功をした人、あるいは大失敗から大逆転した人などは必ずといっていいほど人から助けてもらっています。ネット・ビジネスをやっている人なら億単位で金を持っている人はごろごろいますし、横のつながりもあるので、紹介の紹介でビジネスを立ち上げることも多く、何から何まで自分の力で切り開く人は皆無と言ってもいいかもしれません。

 ある23歳の女性は大学受験の真っ最中の1月にビジネス・パートナーとネット・ビジネスを立ち上げ、最初の1カ月で粗利300万円を稼いでいます。彼女によれば、これぐらいでは全然ダメで、パートナーとの目標はそれぞれが1億円プレーヤーになることだそうです。実際、どんなビジネスでも何だかんだと教えてもらえる人、助けててもらえる人は、独立独歩の人よりもはるかに恵まれます。難関大学受験や難関資格試験でも、独学する人より、専門予備校でいろいろと教えてもらう人の方が最短距離を行くことが出来るのは当然のこととも言えます。

 実に「大学受験までは実力だが、そこから先は運である」とされ、大学受験も「人事を尽くして天命を待つ」という言葉があるように、最後は「運」です。社会においても、実力があるからといって必ずしも成功するわけではないのです。では、その「運」はどこから来るかというと、それは「縁」(人間関係)からで、それも横でも下でもなく、上からなのです。すなわち、要は「いかに上の人からかわいがられるか」ということであり、「しょうがないな、オレが尻ぬぐいしてやるから、またやってみろ!」なんて言いいながら、引き立ててくれる人物がいるかどうかなのです。

 実際、高校を中退しながら、20代前半で表参道などで4つの店舗の店長として店を切り盛りし、早稲田・慶應の学生をバイトとしてこき使いながら、年収700万円を稼ぐ人がいましたが、彼がその立場に立てたのは早稲田大学政経学部を出て、50社を立ち上げた人に引き立ててもらったからでした。

 ちなみに、ヨーロッパ統合にも匹敵する古代における中国統一を実現した秦が滅んだ後、項羽劉邦の2人が天下の覇権を争ったことは有名ですが、項羽は西方の大国だった秦に対抗し得る南方の大国楚の名門出身で、誰もかなわないほど能力に秀でた将軍だったのに対して、劉邦は飲み屋のおばあさんにツケで飲ませてもらっているような飲んだくれのオヤジでした。ところが、天下を取ったのは劉邦であり、漢の高祖として、歴代皇帝がモデルとして仰ぐ人物となるのです。

 実は劉邦の下には、「漢の三傑」と呼ばれる張良韓信蕭何をはじめ、劉邦をはるかにしのぐ人材が多数いました。軍師張良は中国最大の軍師太公望呂尚の流れを汲む者で、後の諸葛亮孔明も憧れた人物です。将軍韓信は項羽に匹敵する軍事力を持ち、主君である劉邦はせいぜい10万人の兵の将にすぎないが、自分は「多々ますます弁ず」(多ければ多いほどよい。数十万人だろうが、100万人だろうが動かして見せる)と豪語した人物です。ちなみに日本でも最も軍事動員した人物は小田原攻めで20万人を動かした豊臣秀吉でした。これに対して、ムッとした劉邦は「じゃあ、なぜお前はわしの下にいるんじゃ?」と聞くと、韓信は「私は兵の将たる器ですが、陛下は将の将たる器なのです」と答えたと言います。後に宰相となる蕭何は劉邦を見出したことでも知られていますが、劉邦が秦の都咸陽を占領した時には他の者が宝物殿などに殺到する中、ただ一人、秦の歴史書や法律、各国の人口記録などが保管されている文書殿に走り、項羽による破壊の前に全て持ち帰ることに成功し、これが漢王朝の基礎作りに役立ったと言われています。

 この項羽と劉邦のエピソードはビジネスの現場ではよく知られており、実績を出す上司はたいてい自分以上の能力を持った部下を集めることに腐心し、彼らが働きやすい環境づくりに心を砕き、自分のちっぽけな自慢などどうでもいいと思っているものです。



メンターに恵まれた人はメンターになる使命がある

 では、逆にメンター側の心がけとは何でしょうか?それは自分の持てるものは全て惜しみなく与えて、「自分以上の存在」にすることです。中には自分のすごさを見せつけたいというような動機の人もいますが、その下でメンター以上の存在が育つことはまずありません。実は「一子相伝」のように手塩にかけて育て、自分の全てを注いでも自分以上の存在にすることは出来ないのです。弟子はそのままでは師を超えることは出来ません。したがって、優れたメンターは足りない所は他から借りてきてでも与えようとします。すなわち、多くの人の手を借りて、よってたかって育てるようにするのです。

 ちょっと古いですが、山本鈴美香さんの『エースをねらえ!』を見ればよく分かりますね。宗方コーチが如何に優れた人でも、彼1人の力だけでは岡ひろみを超一級の人材に育てることは出来なかったでしょう。一体、どれほどの「本物」達が彼女のために愛情と技術と経験を注ぎ込んだことでしょう。ここまで投入されれば、「本物の中の本物」が生れないはずがありません。

 そして、もしもこのようなメンターに恵まれたとしたら、その人こそメンターにならなければなりません。受けた恩をメンター自身に返すことは到底不可能なので、今度は自分がメンターとなって次の人を育てるのです。その時、自分の経験をふまえてプラスαを必ず加え、さらには多くの人の手も借りて、「自分以上の存在」にすべく投入しなければならないのです。

 中には、人生の節目でこうした貴重な出会いを持っているにもかかわらず、それを十分生かすこともしないまま、今の周囲の人間関係に対する不満に満ちている人がいます。このような人はなぜ自分にとって決定的とも言える出会いをその時にしたのか、という意味を考えなければいけないでしょう。「その人に出会っていなければ今の自分はない」という出会いをしているならば、それはたまたま偶然に出会ったのではなく、出会わなければならなかったから、出会うべくして出会ったのです。「人事」というより「天事」「天の配剤」とでも言うべきものでしょう。今度は自分を必要としている人がどこかにいるのに、自分の経験によってしか道が開かれないような人が必ずいるのに、自分のことしか考えていないとは、何ともお寒い限りです。

 ところで、実際に人間関係でひどい目に会い、傷つき、挫折した人は多くいますが、どんな大変な立場を通過した人でも、必ずといっていいほど人間関係を劇的に変えていく方法が「してもらってうれしかったことは+αして人にもしてあげる」+「されて悲しかったこと、してもらえなくて悲しかったことは絶対に人にしないという2大原則です。

 傷ついた経験がある人ほど、人の優しさに敏感ですが、「あの時、自分の話をうんうんと聞いてくれてすごくうれしかった」とか、「この人だけが自分の良さを認めてくれた」といった体験を少なからず持っているものです。これは宝物と言ってもいいものですが、これをそのままにしていてはいけません。そうしてもらったうれしさ、ありがたさを分かっているわけですから、自分も他の人に対して同じようにしてあげるのです。しかも、自分なりの工夫として「+αを加えていった上です。

 そして、逆に「あの時、こんなことをされて自分は本当に傷ついた」「こうして欲しかったのに誰もそうしてくれなかった」といった体験もたくさんあることでしょうが、これを絶対に人に向けてはいけません。「自分もこんな目にあったんだから、人にも」という発想は「復讐の心理」であり、復讐が復讐を呼んで繁殖していくことになります。ここで重要なことは「私が味わったような思いは私の所で終わらせる」「自分の所で悪い流れは断ち切る」という強い決意なのです。家族関係で悲惨な思いを味わった人も、友人関係で裏切られた人も、恋人関係で傷ついた人も、「この私(他の誰かではありません)を人間関係の転換点とする」と思い切れた時から、人間関係は変わり始めるのです。

 具体的にこの2原則を実行していくと、時間はかかりますが、人間関係は劇的に変わっていきます。誰かが自分を頼りにするようになり、誰かのために「必要とされる自分」に喜びを感じるようになった時、「うらみつらみ」や「くよくよ」からなかなか脱却できなかった段階を一つ超えたことを感じるでしょう。




【コミュニケーション・スキル8】「人間」(にんげん)とは結局「人間」(じんかん)である

喜びも悲しみも、幸福も不幸も「人間関係」から生じる

 高校など学校を中退するケースは、たいてい「勉強」「健康」「人間関係」のいずれかが原因になっているとされ、会社で仕事に行き詰るケースは「業務不適応」「人間関係」「実績追及」「給与・評価問題」のいずれかが大きな比重を占めているとされます。いずれにせよ、家庭であれ、学校であれ、会社であれ、地域であれ、人との関わり合いの中で様々な営みがなされているわけですから、「人間関係」は人の喜びや悲しみ、さらには幸福や不幸といったものを大きく作用する要素、もっと言えばその源泉と言ってもいいかもしれません。ところが、この避けて通れない「人間関係」というテーマについて、系統的に組織だって学ぶ場はどこにもなく、「いきなり実践」「現場主義」的になってしまっているのが現状です。本当に困ったものです。

 ちなみに「コンプレックス(complex)」も人間関係の中で生まれるものです。これは「劣等感(インフィリアリティ・コンプレックス)」だけを指しているのではなく、「優越感(シュピリアリティ・コンプレックス)」「エディプス・コンプレックス(娘の父親に対する思慕・愛着)」「エレクトラ・コンプレックス(息子の母親に対する思慕・愛着)」なども全て「コンプレックス」であるように、元々「潜在的な複合観念」を指していますが、やはり問題となるのは「劣等感」でしょう。「自分は周りの人と比べて頭が悪い」「自分は中卒だから、高校中退だからダメなんだ」といった「学力コンプレックス」「学歴コンプレックス」はよく見られるところです。

 しかしながら、「いいな、鳥は空を飛べて」「岩がうらやましい」などとは普通の人はまず思わないように(詩人ならあるかもしれませんが)、コンプレックスは「対物関係」ではなく、あくまで「対人関係」の中で生じてくるものだということが分かります。つまり、「人間関係」の中で「比較」の結果、生じてくるものです。例えば、「学力評価」の無い幼稚園・保育園ではそういう「比較」はなく、「学力コンプレックス」は生じようがないでしょう。それが負けず嫌いに火をつけて「成功動機」となることもありますが、たいていはそのままにしておくと精神的成長の阻害要因となりかねないものなのです。

 したがって、「コンプレックスの悩み」というのは「人間関係の悩み」に他ならず、その克服は「人間関係上の工夫」にかかってきます。「人間」「人の間」と書くように、人間にとって人間関係は本質に関わるものですので、ここで喜び・幸福感も生ずれば、悲しみ・不幸もまた生じてくるのです。これはどうしても取り組まざるを得ないテーマであると言えるでしょう。

 有名な経営コンサルタントの神田昌典氏によれば、いわゆるお金持ち、成功者と呼ばれる人達は強いコンプレックスの持ち主であったことが多いそうです。例えば、「子供時代、貧乏だった」「成績がよくなかった」等々ですが、逆にこういう人ほど「絶対見返してやる!」「絶対お金持ちになるんだ、成功してやるんだ!」という強い動機がバネとなって、実際にお金持ち、成功者になっている人が多いというのです。神田氏はこうした例をかんがみて、最初はこういう「マイナスの情念」を使った方がいいとまで言っています。それが最後までそのままなら、人間的にいただけませんが、成功すると今度は「心の修養」にシフトしていくわけです。したがって成功者の語る「成功哲学」には「心の修養」を説くものが多いのですが、これは成功したあかつきに必要になるのであって、これから成功しようと思っている人にはむしろマイナスになることすらあるというのです。

 自らを「月見草」にたとえ、常に国民に愛され続けた長嶋茂雄氏にコンプレックスを抱き続けた野村克也氏は、「コンチクショウ、コンチクショウ」と言い続けて、とうとう王貞治氏に次ぐ日本で第二番目のホームラン王となって、この分野では長嶋氏を抜きさっています。ある意味ではコンプレックスの強い人ほど、成功のために必要なエネルギーを豊かに持っているとすら言えそうです。



「情の流れ」は「水の流れ」と一緒

 あるカウンセラーの原体験を見てみましょう。その人は老若男女の誰からも好かれる人ですが、元々は引っ込み思案だったそうで、それが変わる「きっかけ」となったのは、高校時代に母親に頼まれて、親戚の自閉症ぎみの子供の面倒をみたことだそうです。

 彼はその子にあれこれと思いつく限りのことを話しかけますが、一向に反応がありません。野球の話とか関心・興味がありそうなことをふってみるのですが、とうとうお手上げとなりました。すると、その子はたまたま耳がかゆくなったみたいで、右耳に手をやりました。それを見ていた彼はすかさず同じように右耳に手をやったのです。それをじっと見ていたその子は、今度は左耳をポリポリやり始めたので、彼も間髪を入れずに左耳をポリポリしました。再びじっと見ていたその子は、今度は右手をゆっくり左肩に、さらに左手をゆっくり右肩にやって交差させました。そして、サッサッサッとすごい速さで右手・左手を引いたり置いたりしたのです。もちろん彼は間髪を入れず、同じようにサッサッサッとすごい速さで右手・左手を動かし、全くその子と同じことをしたのです。それをじっと見ていたその子は、初めてニヤっと笑いました。そこからポツポツと自分のことを話し始めたというのです。

 この間、何の言葉も交わされていません。しかし、これは最高の「カウンセリングと言えるでしょう。人の「情の流れ」は「水の流れ」と一緒なので、同じ高さになった時、自然に流れていくのです。この時、その子供の心の「水門」が開いたわけですね。

 あるいは、ある小学4年生の不登校の男の子が先生に呼び出されて、宿題のプリントを受け取った時のことです。その男の子はその場でプリントを紙飛行機にしてしまい、教室の中で飛ばしてしまいました。もしもあなたがこの担任の先生だったら、どうしますか?「こらー、何やってんだ!」とか「先生はお前のこと、ずっと心配してたんだぞ!」とか思わず言ってしまいますか?実際にはこの先生は何と、自分も他の紙を持ってきて紙飛行機を作り、一緒になって飛ばしたそうです。すると、男の子は「先生、オレの話聞いてくれるか?」とボソッと言ったのです。そして、男の子は自分がなぜ学校に来なくなったか、今まで誰にも言えなかったその理由を話し始めました。

 それによると、彼のお父さんがノイローゼで、お母さんは毎日悲しんでいて、自分は遊んでいても、いつもお母さんの悲しんでいる姿が浮かんでしまうというのです。それで友達と仲良くなっても、「いつかは家に連れて行かないといけない時が来るんじゃないか。でも、あのお父さんの姿を見せたくない」と思うと、仲良くなるのが恐くなり、学校でも友達が出来れば、「いつかは家に連れて行かないといけなくなるんじゃないか」と悩んだそうです。結局、彼が出した結論は「学校に行かないこと」だったのです。



「家庭」的基本関係から「社会」的人脈へ

  「家庭」は全ての人間関係の基本であり、基本的人間関係としては「父と私(息子・娘)」「母と私(息子・娘)」「兄と私(弟・妹)」「姉と私(弟・妹)」「(兄・姉)と弟」「(兄・姉)と妹」の6種類があります。そして、この「家庭的人間関係」を成熟させつつ、「社会的人間関係」へと発展していくわけですが、家庭的人間関係の欠落・ゆがみは社会的人間関係の中で補償・修復するしかありません。

 ただありがたいことにはユングが元型論」で明らかにしたように、人間の心の奥底には例えば、息子娘・兄弟姉妹→男女→夫婦→父母の理想像を支える「父なるもの」「母なるもの」などの諸元型が存在し、これが悲惨な現実の中にあっても人を導くものとなるというのです。すなわち、「内なる神」「良心」として働くわけです。ユング自体は雑多な分析にとどまり、体系的分析が必ずしも出来ていたわけではありませんが、環境や状況が悲惨だと必ず悲惨な結果をもたらすかというと、必ずしもそうでもないのはこういうメカニズムがあるからなんですね。

 性格形成上、決定的に重要な根源的人間関係は実は「家庭」にあり、政治思想家バークも「社会の中で我々が属している最小単位、すなわち家族を愛することが社会全体を愛するための第一歩である」と指摘しています。こうした基本的人間関係は人間として「社会的生活」を送る上で不可欠な要素となりますが、さらに「社会的成功」を求める場合は「人脈」がこれに加わる必要があります。

 そして、ここでもう1つ知らなければならない心理的・人間関係論的メカニズムが「成功者の陥る人間関係のダークサイド」です。例えば、ジェネラル・エレクトリックを率いた名CEOのジャック・ウェルチさんなどは、今でも世界中の人から目標にされ、学ぶ対象となっている「ビジネスの成功者」ですが、私生活では結婚・離婚を繰り返し、必ずしも幸福であるとは言い難い面があります。実はあらゆる成功法則の本に書かれていないのはこの「ダークサイド」の部分であり、「ビジネスの成功者ほど人生で失敗している」という現実の問題でした。これに本格的にスポットを当てたのはジョン・オニールさんの『成功して不幸になる人びと』(ダイヤモンド社)であり、日本にこれを本格的に紹介したのが神田昌典さんの『成功者の告白』(講談社)です。少なくともこれからビジネスを立ち上げたい、会社を興したい、成功を収めたいという人であるならば、これらの本を一読すべきでしょう。「夫婦をつなげるために子どもが犠牲になることすら起きる」など、経験者なら真っ青になるような内容です。






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